博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:イルクーツク商人とキャフタ国境貿易―1792-1830年
著者:森永 貴子 (MORINAGA, Takako)
博士号取得年月日:2004年7月23日

→審査要旨へ

序論 研究史と課題の設定
  拙論では東シベリアの毛皮交易において重要な役割を果たしたイルクーツク商人と、彼らの商業活動に大きな影響を与えたキャフタ貿易の関係史について、1792年から1830年の期間を研究対象として取り上げる。この時期を取り上げた理由は第1にキャフタ条約が締結されて以来、露清貿易が外交上・経済上の問題で何度も中断され、毛皮交易にとって非常に重要であったにもかかわらずその運営が非常に不安定であったこと、そしてこのような中断が終了してキャフタ貿易の安定化につながるのが1792年であること、第2に、キャフタ貿易が成長していく過程で1820年代にかけて輸出入品目に変化が生じ、1830年ごろまでにイルクーツク商人の商業環境に変化が生じたと考えられるからである。
 この研究を行うにあたって、対象時期にイルクーツク商人がキャフタ貿易に関わることよって生じた変化について次の3点について考察する。(1)キャフタ貿易が本格的に拡大し、イルクーツク・ギルドの質的な成長が始まったのが度重なる貿易中断の終了する1792年以降であると考えられる。したがってキャフタ貿易の再開前後ではそのあり方が質的にどのように変化したのか考察する。(2)キャフタ貿易の安定化は東シベリア、ザバイカリエ地域、ヨーロッパ・ロシアの3方向に流通を拡大し、イルクーツクは商業的に極めて開かれた流通拠点となった。イルクーツク商人は他都市商人の取引を規制しながらも、両者つながりが中継交易ネットワークにおいて主体的な役割を果たしたと考え、イルクーツク商人の構造について検証していく(2)貿易再開以後中国からの輸入品目に占める茶の割合が飛躍的に増加し、それまで東シベリアの限定された市場にとってのみ必要と考えられていた中国貿易が極めて広範な市場を獲得しはじめたこと、ロシアからの輸出品目に占める毛皮の割合が減少し、ラシャ、綿織物製品などの工業製品の輸出が増加することによってイルクーツクにおける取引構造に影響を及ぼしてくるのが1820年代にかけての時期である。他方、その前の時期はイルクーツク市団と行政の対立によって有力商人の流刑・没落が起こった時期にもあたる。したがって、キャフタ貿易の品目の変化と行政からの圧迫という2つの外的な要因のうち、イルクーツク商人の構造に決定的な影響を与えたのはどの要素だったのか考察する。

第一章  毛皮産業とキャフタ貿易の成立
第1節 イルクーツクの商業的位置と初期の中国貿易
 18世紀のイルクーツクは毛皮産業によってヨーロッパ・ロシアから多くの移住者を引き付け、そのためイルクーツクは人口比に閉める商人の比重が極めて高かった。さらにキャフタ貿易の開始はこうした毛皮資源を中国商品に交換する手段となり、イルクーツク商人を短期間に富裕化させた。富裕化した代表的イルクーツク商人にはニキフォール・トラペズニコフ、イヴァン・ビチェヴィン、ニコライ・ムィリニコフといった人々がおり、彼らは太平洋地域において積極的に狩猟業を行い、イルクーツクは毛皮の集散地として機能した。毛皮産業にはイルクーツクに移住した商人のほかに、モスクワ商人、北ロシア諸都市の商人などの他都市商人が数多く参加し、彼らは豊富な資金によってカムチャツカで狩猟業に従事するイルクーツク商人と共同事業を行った。彼らの活動と会社の統廃合はやがてロシア・アメリカ会社の設立に至った。 第2節 貿易中断の波紋
1.国境紛争と通商問題
 毛皮産業とキャフタ貿易がイルクーツク商人に大きな利益をもたらしたとはいえ、実際には露清間の外交問題によってしばしば中断された。最も長い中断期間は1785-1792年で、このような事態となった背景にはロシアと清の国境確定問題、モンゴル系住民であるジュンガル部とハルハ部の帰属問題などがあった。取引に従事するロシア商人も中国商人も貿易の中断によって大きな損害を蒙ったが、清側は康熙帝時代の強硬的外交態度によって貿易の再開に熱心ではなく、一方ロシア政府はより慎重な態度を取って貿易再開に努力した。イルクーツク商人の中から対日通商計画の要望が出てきたのは、このような貿易中断による不利益によるものだった。

2.毛皮ルートの変更―中国からヨーロッパ輸出へ
 キャフタ貿易中断がもたらした影響は、キャフタ貿易そのものが持つローカルな性格を浮き彫りにした。ラディーシチェフは貿易の中断によってヨーロッパ・ロシアの商人たちが毛皮を直接ロシア、ヨーロッパ諸国へ運ぶようになったことを指摘し、南京木綿が輸入されなくなったことによってシベリア地域の亜麻生産とロシアの綿工業の成長に良好な影響を与えたと考えた。ラディーシチェフの視点ではキャフタ貿易はイルクーツク商人にとってのみ必要な貿易という位置付けであり、実際にイルクーツク商人は年間貿易額に匹敵する在庫を抱えて損失を蒙ることになった。このようにキャフタ貿易の必要性については否定的な意見も存在したが、ロシア政府は粘り強い交渉の結果キャフタ貿易を再開にこぎつけた。 第3節 1792年の再開と貿易の諸問題
1.ロシア商人と中国商人の商組織
 キャフタ貿易の再開は1775年の都市条例によって減少していたイルクーツク・ギルドを徐々に増加させた。貿易再開直後に茶の需要が急激に高まったこと、ロシア・中国商人の商業組織の違いはロシア側の混乱をもたらした。中国商人はロシア商人よりも結束が強く、バーター貿易を行う上であらかじめ規定された料金を守ろうとはしなかった。特に遠隔地からやってくるロシア商人は地元であるイルクーツク商人よりも商品の買い叩きに甘んじる傾向があったため、キャフタ税関はロシア商人の取引に統制を与えようと苦慮した。こうした混乱にはロシア商人が中国語に通じていないこと、商売下手も影響しており、北京在住経験のあったイルクーツク商人フョードル・シチェゴーリンは知識と経験を生かして独自に清の制度に関する研究を行ったが、このような声はほとんど反映されなかった。

2.1800年規則とカンパニオンの選出
 キャフタ貿易におけるロシア商人の混乱により、ロシア政府はカンパニオン(組合員)制度を設けて料金価格の遵守を行わせることを決定した。これにより混乱は収束したものの、カンパニオンによる統制は他のキャフタ商人の取引を抑圧する結果も招いた。キャフタ貿易に参加していたイルクーツク商人の代表ムィリニコフはカンパニオンの抑圧に苦言を呈し、役人も商人の主体的な会社組織の設立を提言したが、具体的な対策はとられなかった。茶の需要の増加はキャフタ貿易における混乱を招いたと同時にイルクーツク商人を激しい競争にさらした。しかしこのようなロシア商人たちの競争と混乱に対する有効な対策はとられなかった。

第二章  イルクーツク商人の中継交易網
第1節 交易所通貨記録
1.イルクーツクを通過した商品
 キャフタ貿易の再開によってイルクーツクの流通にも商品が戻ってきた。18世紀末から19世紀初頭における重要な商品取引場所であった交易所記録によれば、イルクーツクを通過した商品はキャフタ貿易における取引品目と大きく重なっていた。その内容は毛皮や中国商品だけでなくヨーロッパ、中近東、ヨーロッパ・ロシア商品と多種多様であった。

2.参加商人の分布と流通ルート
 交易所を通過した商品の量は1802-1822年にかけて増加したのち減少し、最高時には馬車18669台に達した。交易所を通過した商品はイルクーツクを通過した全商品の3分の1ほどであったと推測されるが、膨大な商品群はヤクーツク、ロシア、キャフタへと向かった。これらの商品を扱っていたのはモスクワをはじめとする中央ロシア諸県、北ロシア諸都市、カザン・タタール、西シベリア商人、東シベリア商人、イルクーツク県の地元商人など多様な地域の商人だった。イルクーツク商人は地元商人として一定の比重を占めたが、イルクーツクの取引においてモスクワ商人、北ロシア商人たちが取引量において常に優位を占めていた。これはモスクワ商人たちが資金面において有利な立場にあったためであった。イルクーツク商人の側も初期には町人を含む小商人の取引高が比較的多かったが、次第に第1ギルド商人の取引が中心となり大商人の取引が中心となっていった。さらに1820年代にかけて交易所は直接取引の場所ではなく集積所として機能するようになっていった。
第2節 アンガラ川・バイカル湖輸送とレナ水系
 キャフタ貿易が再開されたことによってイルクーツクは中継交易拠点としての機能を高めていった。特にステパン・ドゥドロフスキーなどの大商人はアンガラ川・バイカル湖輸送に従事して、河川交通を中心として交易網を強化した。ドゥドロフスキーが独占的に支配したアンガラ川輸送は早瀬の存在によって困難だった半面、早く輸送するためには便利な交通手段であり、中国商品をヨーロッパ・ロシアに輸送する上で茶は馬車輸送、他の商品は河川輸送という手段の分化を行い、より機能的な輸送へと転換していった。一方キャフタとイルクーツクを結ぶバイカル湖輸送はシビリャコフ家とドゥドロフスキーが、後にシガーエフ家が活躍し、膨大な商品輸送を支えた。イルクーツク商人はやがてレナ流域の河川交通を押さえてヤクーツクの定期市をコントロールするようになっていった。 第3節 他都市商人の拒絶と受容
1.他都市商人への規制と毛皮取引
 毛皮取引の利益は他都市からの商人参入を招き、イルクーツク商人はキャフタ貿易において彼らを競争者と見なした。このためイルクーツク商人は他とし商人の取引を制限しようと様々な規制を行い、規制手段の一つとして定期市が機能した。初期の頃イルクーツク商人は定期市の開始に反対したが、定期市そのものは他都市商人とヤサク民、農民との間の毛皮自由取引を規制する上で有効に作用した。しかしイルクーツクで活動する他都市商人の数は膨大であり、イルクーツク商人が交易所で彼らの取引を監視しても完全に規制することはできなかった。毛皮利益の確保においてイルクーツク商人は極めて閉鎖的であったといえる。

2.イルクーツク・ギルドへの流入-地縁ネットワークの形成
 他都市商人の取引を規制し、自分の利益を確保するという意味でイルクーツク商人は極めて閉鎖的であったが、しかし彼らの出自を構成した家系を見るとその関係は極めて開かれたものでもあった。イルクーツクのギルド構成は流動的で、18世紀末から1830年ごろにかけて約6割の家系が入れ替わった。特に他都市商人からの流入は多く、彼らはイルクーツク商人へ移動した後もその手代・代理人・血縁を通じて広範な地縁ネットワークを持っていた。とくに18世紀末には北ロシア諸都市だけでなく中央ロシア諸県の商人、西シベリア商人、タタール商人、ザバイカリエ農民などからも新たなギルドを迎え入れ、イルクーツク商人の核となった地元の古い商人家系との血縁関係も結びながら中継交易によるネットワークを支えていた。

第三章  商業環境の変化
第1節 ペステリ・トレスキン時代の商人追放
1.イルクーツク市団と行政の関係
 イルクーツクでは18世紀から商人の力が強く、その中でもシビリャコフ、ムィリニコフなどの有力商人はしばしば行政官と対立し、彼らの更迭にまで関与した。特に1806-1819年シベリア行政を支配した総督ペステリとイルクーツク知事トレスキンとの対立は激しく、これによってシビリャコフ、ムィリニコフ、ドゥドロフスキーはザバイカリエへ流刑された。イルクーツク商人が行政に対して自分たちの利益を守る保護者と見なしていた有力商人の流刑は、18世紀以来の血縁・地縁関係によって蓄積された市団の構造をおびやかすものだった。

2.ギルド商人の経営と行政の経済措置
 トレスキンの抑圧によってイルクーツク商人の核となる有力家系が没落し、このためキャフタ貿易を第1ギルドに制限する1807年法令の施行以来急増したイルクーツクの第1ギルド商人数を再び減少させた。しかし流刑されたにも関わらずシビリャコフ家は大家族経営によって機器を乗り切って事業を継続した。ムィリニコフ、ドゥドロフフスキーが没落したことによってバスニン、トラペズニコフなどの他の商人家系が新たな有力商人家系として上昇していった。トレスキンたちは行政に反抗的な有力商人に打撃を与えた一方、キレンスク郡においてイルクーツク第3ギルド商人が毛皮を買い付けることを例外的に許可するなど、イルクーツク商業の現状に合わせた経済措置も行った。こうした事實からペステリとトレスキンによる市団の抑圧はイルクーツク商人の経営構造そのものに本質的な打撃を与えたとはいえない。 第2節 茶貿易への転換
 1792年の貿易開始以来、キャフタ貿易における茶の需要は急増し、1806年には南京木綿の輸入を上回るようになった。キャフタにおける取引記録を見ると、茶の需要はモスクワ商人、ヴォログダ商人の方から増加していき、イルクーツク商人の茶貿易への転換は1819年ごろと比較的遅く、それまで南京木綿の取引により依存していた。一方、イルクーツク商人であったバスニンは1814年にキャフタ商人へ移動し、茶貿易事業に成功した。イルクーツク商人でありながらキャフタへ流出したバスニンの成功はイルクーツク商人の反発を招いたが、これはザバイカリエ商人の勃興という新たな競争者の出現とも関係していた。 第3節 毛皮輸出の低下-イルクーツク商人の構造変化
 イルクーツク商人はキャフタ貿易の独占に成功しなかった代わりに、毛皮の入手手段を制限することによって他都市商人の取引を制限し、自分の利益を確保してきた。しかし1820年代に毛皮輸出が減少し、ラシャ・綿製品などの工業製品輸出が増加したことは、それまで毛皮取引に依存してきたイルクーツクの第3ギルド商人を没落させることになった。さらに法律によって第1ギルド商人に小売取引が許されていたことは、第3ギルドとの競合をもたらし、両者の格差が広がった。第1ギルドは茶貿易への転換によってキャフタ貿易の利益を確保し、より富裕化していった一方で、第3ギルドは利益から排除されるという構造変化が生じた。

結論
 拙論ではイルクーツク商人をキャフタ貿易との関わりを中心に考察してきた。18世紀においては東シベリアの毛皮産業による利益がヨーロッパ・ロシアからの移住者を引き付け、イルクーツク商人の源流を形成した。彼らは東シベリア、太平洋地域で狩猟業を展開しながら入手した毛皮をキャフタにおいて中国商品に交換し、この中国商品をイルクーツクにやってきたヨーロッパ・ロシア商人に売却し、これによって得た金でさらに毛皮を手に入れるという一種の三角交易が形成されていた。
 しかしキャフタ貿易による利益は1792年の段階まで安定したものではなかった。キャフタ貿易の中断期間、ヨーロッパ・ロシア商人たちはシベリアで入手した毛皮を直接中央ロシア諸県とヨーロッパ諸国へと運び、それらがイルクーツクを通過しても中継交易による利益は生じなかったからである。このためキャフタ貿易は東シベリア地域の商人が毛皮の転売による利益を獲得するための極めてローカルな意味を持った貿易であり、それゆえに彼らは貿易の再開を熱心に政府に訴えた。1792年の貿易再開は、イルクーツク商人がこうした毛皮交易の利益を再び手に入れたという意味で重要であった。
 しかしキャフタ貿易の再開と安定化は別の問題をもたらした。18世紀に起こった茶の需要の急激な伸びはイルクーツク商人を含むロシア商人の取引に一時的な混乱をきたし、中国商人による毛皮の買い叩きを招いた。さらに茶貿易によってキャフタ貿易はローカルな性格のものからロシアの市場全体にとっても極めて重要な貿易へと変貌し、中央ロシア諸県、北ロシア諸都市、シベリアのアジア系商人をはじめとする多様な地域の商人が参入し、イルクーツク商人を激しい競争にさらすことになった。ヨーロッパ・ロシアへ取引に出かける必要性を持たなかったイルクーツク商人はこうした商業環境の変化によって地元商人としての利益を独占しにくくなったからである。このため彼らはキャフタ貿易をイルクーツク商人のみに許可するよう政府に要望したが、この試みは成功しなかった。
 キャフタ貿易の独占に失敗し、利益を失うことを恐れたイルクーツク商人は定期市などの措置によって他都市商人の取引を制限しようとした。当時のイルクーツク商人はヨーロッパ・ロシアの諸定期市へ出かけることが困難だったために、その活動範囲が限られており、利益を確保するために閉鎖的な措置をとった。しかし一見閉鎖的に見えるイルクーツク商人の家系を調べると、その構造は極めて流動的であり、開かれたものであったことが分かる。イルクーツク・ギルドには常にヨーロッパ・ロシア、西シベリアなどの地域から新しい商人が流入し、彼らを通じてイルクーツクは中継交易を活発化させた。したがって、イルクーツク商人はその構造自体において広範な地縁ネットワークを持ち、中継交易において積極的な役割を果たした。これはイルクーツクがキャフタ貿易によってレナ川流域、ヨーロッパ・ロシア、ザバイカリエの3つの地域を結ぶ開かれた流通構造を持ったためであり、イルクーツクの古い有力商人家系を核とする第1ギルド商人はこの機能を強化し、河川交通と定期市をコントロールしながら成長していった。
 このようにキャフタ貿易の再開と茶貿易の成長がイルクーツク商人の中継交易活動を活発化させた一方で、1807年キャフタ貿易の権利を第1ギルドに制限したことは第1ギルドの数を急増させ、第3ギルドの減少をもたらした。この時期のシベリア総督ペステリ、イルクーツク県知事トレスキンが行った市団への圧迫はイルクーツク商人の有力家系をいくつか没落させ、1813年に第1ギルド商人の激減を招いた。彼らが圧迫したのは主に行政に対して様々な要求を行っていた有力商人家系であり、このためにイルクーツク商人の核となっていたグループが排除される結果となった。しかしこうした圧迫はイルクーツク商人の事業の本質そのものに変化を与えたとはいえない。没落した第1ギルド商人のあとを別の商人家系が補充する一方で、シビリャコフ家のように流刑されながらも事業を継続して残った有力商人もいたからである。商業的な環境という意味でより重要であったのはキャフタ貿易の変化の方であった。1792年のキャフタ貿易再開はイルクーツク商人に相反する2つの結果をもたらした。第1に、茶貿易の繁栄と工業製品の輸出増加がキャフタ貿易をロシアと密接な関係を持つ重要な貿易に成長させ、これによってイルクーツクの有力な第1ギルド商人は中継機能をますます強化し、成長していったこと、第2に、キャフタ貿易がローカルな貿易ではなくなったことによって、第3ギルド商人がその利益から排除され没落していったことである。このように1792年再開後のキャフタ貿易はイルクーツク商人の構造に大きな変化をもたらしたのであり、19世紀前半に生じたキャフタ貿易とロシア市場との密接な関係強化というより広い視座から捉えることが可能であろう。

このページの一番上へ