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博士論文要旨

論文題目:近代「客家(Hakka)社会」の形成 -清代中期から民国初期における広東客家社会の発展過程-
著者:飯島 典子 (IIJIMA, Noriko)
博士号取得年月日:2004年7月23日

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序論
 省名でも地名でもない「客家」は定義もなく余りにも漠然とした概念でありながら、中国史上の人物や華僑の分類に屡々使われている。既に先行研究でも指摘されているように客家という明確なまとまりをもった実体が存在することが、全く疑念の余地のない大前提としてなされてきた従来の考え方に対する疑問が呈されている。そこで時間と空間を限定してこの問題を検討すべく、筆者は清代(1644-1911)広東を中心にいつ頃、どのような史料に「客家」が表れ、誰がどのように客家を認識していったかを探りってみた。そして広東において客家とは如何なる集団なのかを考察し、曖昧模糊とした客家を史実から出来る限り客観的に捉えようとする試みが本論のテーマである。

第一章
 管見の限りいち早く「客」の存在に注目したのは東南アジアと中国の間を行き来したギュツラフのような西洋人宣教師であり、これは中国官憲の報告に20年あまり先駆けている。その後ギュツラフがスイスのバーゼル教会に客家布教の協力を求め、バーゼル教会が客家を在華西洋人、ひいては西洋社会に紹介した役割は大きい。従来日本ではギュツラフは専ら最初に聖書を日本語訳した宣教師として知られていたし、バーゼルと客家の関係と言えば、バーゼル宣教師であったセオドリー・ハンバーグとその著書『洪秀全の幻想(1854)』が有名であるが、1830年代に客家紹介の先鞭を付け、本論でも何度か取り上げる客家と鉱山の関係にまで言及したギュツラフの役割は評価されねばならない。以後もバーゼルは客家を専門に布教し、広東の客家語圏に拠点を設けるなど、客家と同宗派は深い繋がりを有するようになった。
 ギュツラフの著書に代表されるように、西洋人のプロテスタント宣教師の間では東南アジアの中国人社会で布教が始まった1840年代、現代の我々が「客家」と考える人々の祖先は専らKea-jin(客人)、Kih、Ka(客)等の名称で呼ばれていた。管見の限り在華宣教師の書簡にHakkaの語が現れるのは1860年代以降で、1890年代になって漸くダイヤー・ボール(Dyer Ball)の著書、Things Chinese(1893)によって初めてこの名称が広く世に紹介されたのである。
 ギュツラフを始めとする19世紀の宣教師が「客」に関して残した記述には概ね2つの共通点がある。第一に出身が広東省でありながら広東語とは異なる方言を話す、という言語集団として把握していた点、第二に「客」の居住地として東南アジアの鉱山地域であるボルネオ、バンカを挙げている点である。1930年代、これらの地域の中国人労働者を分類した統計で「客家」の人口比率が非常に高いことは欧米や日本の統計にも現れているので、宣教師の言う「客」は20世紀になって欧米や日本が把握した客家とほぼ同じ集団であったと考えられる。
 既に1840年代、東南アジアでも有名な金鉱を有するボルネオで中国人鉱山労働者によって設立された蘭芳公司や、バンカ、ビリトンの両島のような中国からの移民が活動していた鉱山地帯で、本土では少数派であった客家語話者が寧ろ大勢派を占めて鉱山開発に従事した事実から東南アジアの鉱山で客家語話者が「広東人」以外のアイデンティティを醸成していった可能性が考えられる。

第二章
 一方、中国官憲の側は僅か広東一省に限っても長らく客家語話者の全体像を捉えてはいなかった。その中でも比較的早期に官憲が「客」に関しての注目したのは清初より広東東北部から「客民」が移住してきて、断続的に本地人(客家語話者が移住する前から土地に居住していた広東語話者)と客民の間に緊張が存在していた西江デルタ地帯である。咸豐4(1854)年に同地で起こった天地会の叛乱鎮圧の際、官憲が客民の義勇軍である「客勇」を組織したこともあって、本地人の間に客勇が鎮圧を口実に本地人を攻撃するのではないかとの風評が広がり両者の衝突が激化していった。しかし広東一省の中だけでも天地会会員の構成自体一様ではなく、この西江デルタのように本地人が主な会員であった地域もあれば、広東東北部、とりわけ東江流域の博羅県のようにやや客家語話者が優勢である地域では客民が天地会会員の大多数であった。また博羅における天地会の活動については単に反政府の結社というだけでなく、硝鉱石の密売を行っていた「鉱賊」としての側面もあった点に注目したい。
 また西江デルタ地域を少し離れた地域に目を向けると、少し状況は変わってくる。例えば西江デルタを少し離れた四會県の縣志には「土客相安」と記されているし、四會から更に西北の廣寧県では「石工は皆惠州・潮州人」とあって、客家語圏出身者が一つの職業集団のように述べられる事はあっても、「客民」の名称は使われていない。従来は客民が少数派で、本地人と言語風俗が異なる故に常に本地人からの差別や迫害に遭ってきたという側面が強調されてきたが、清代広東だけに限ってみても、西江デルタには確かにあてはまるこの方式が、西江デルタ地区を少し離れると必ずしもそのまま通用しなくなることが明らかにされた。
 確かに広州一帯に関する限り本地人と客民の確執は深刻で、先行研究でも同治6(1867)年、官憲が両者の衝突を見かねて新寧県の一部を客家に割譲し、新に赤渓廳を設けた事例が屡々取り上げられているが、それ以後の事はなかなか触れられてこなかった。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、広東から中南米への移民には赤渓が重要な役割を果たしている。中南米への中国移民は西江デルタ諸県の出身者が多いのだが、キューバなど「赤渓」の名を冠する会館があるなど、移民の中でも赤渓出身者が大勢を占めていた事例がある。ただ、会館名で分かるように彼等の団結の媒体となったのはあくまで「赤渓」ないしは「中華」であり「客」ではなかった。また民国時代の赤渓に関する宣教師報告書を見ると赤渓へ交通の不便さ、客家語を話す中国人宣教師獲得の難しさ、赤渓住民の社会的な孤立など赤渓での布教の難しさが書かれており、民国時代になっても赤渓の住民と周囲の本地人との軋轢も完全に解消した訳ではなかった。

第三章
 それでは西江デルタの客民が元々住んでいた広東東北部、そして同じように客家語圏である福建西部、江西南部の三省が隣接する地域はどのような土地だったのであろうか。簡潔に述べると、殆どが山岳地帯であり、鉱物資源に恵まれてはいるが農業はほどんど振るわない環境である。こうした山岳地帯も明代(1368-1643)後期、新大陸から伝わった玉蜀黍と甘藷の栽培によって米以外の食糧生産が可能になり、徐々により多くの人々が住める土地となった。この山岳地帯に移り住んだ人々は主に藍栽培や炭焼きで生計を立てており、広東では「寮戸」と呼ばれており、官憲は彼等を賤民として扱っていた。広東に隣接する福建汀州でも同じような生業で暮らす人々もいたが、彼等は「?人」「?客」と呼ばれていたが、いずれにせよ「客」という表現は使われていない。
 鉱産資源に恵まれていた広東東北部は明代中期にまで遡って「鉱賊」や「煤匪」等鉱山業者の叛乱が起こっていた。これは単に同地に鉱山が多くなかなか官憲の目が届かなかったというだけでなく、当時の世界的な銀流通ルートの拡大が背景にあった。明代、新大陸アメリカの銀が東アジア全体に流通するようになり、広東にも盛んにフィリピンから銀が流入していたのである。銀が大量に流入したからといって中国での採掘が行われなくなったという直接の証明にはならないが、明代の広東だけでも17件の鉱徒蜂起があり、その内8件が広東の東部で起こっていることからして、鉱徒が如何に生活に窮していた事が分かる。 こうした鉱徒叛乱の背景には前述した銀の流入以外に明・清政府が鉱山の開発に慎重であったという事情がある。当時の金融制度上、政府も銀と銅の安定した供給が為政者にとって死活問題だとは認識しつつも、一方では鉱山開発に伴って起こる鉱物資源の不法採掘を憂慮していた。為政者はこうした地域を客家語圏というより、鉱徒の蜂起-所謂鉱案-の頻発する地域として捉えていたのである。
 管見の限り一番早く記録されている「鉱案」は明の嘉靖32(1553)年、嘉應州長楽(現在の五華)県で起こったものであり、以後数々の「鉱案」が起こっている。中でも頻出するのは引き続き長楽県を出身地とする鉱徒の活動であり、鉱賊の中でも更に具体的に「煤匪(石炭鉱賊)」という名称が見られるなど、この地に清代を通して「鉱案」が頻発していた事実が分かる。
 こうした「鉱案」以外に官憲が広東東北部に注目したのは1861年に滅亡した太平天国の残党が、その後数年間福建と広東の省境で活動を続けていた時期である。前述のようにこの地が山岳地帯で官憲の目を逃れて潜伏するのに好都合だったのは言うまでもないが、太平天国首脳の一人、楊秀清も原籍は嘉應州にあったなど、太平軍の残党が住民の支持を取り付けやすかったのかも知れない。太平軍はの活動地域は長楽、平遠、鎭平、福建の武平、広東の鎭平、大埔、福建の永定、?州などであり、この時広東・福建の民衆には太平軍支持者もかなりいたらしい。この後太平軍は清軍によって殲滅されるが、通算1年半ほど広東・福建の省境で活動を続けていた。
 このように官憲が嘉應州の社会・経済に注目するのは主に鉱業と叛乱の側面からであったためか、住民の言語に関しての記述は殆ど見あたらず「客家」の語が記載されるのは『嘉應州志』でも光緒24(1898)年版が最初である。前述のように西江デルタ地域で土客が大規模な械闘を繰り広げ始めたのは咸豐4(1854)年からなので、これに比べると光緒24(1898)年の『嘉應州志』で初めて住民を「客家」と呼んでおり、咸豐4年から更に40年以上経過している。今日でこそ嘉應州は客家語圏であることを標榜しているが、清末の時点で始めて同州は客家語圏であることを公に表明したのである。

第四章
 このように清代末期になっても、広東一省だけに限っても客家語話者を結ぶ媒体は地域によって多様であり、広く省を超えての客家語話者という団結意識は生まれていなかった。嘉應州人も光緒元(1875)年に広州で嘉應州会館を設立しているが、これも他省出身の在広東出身者が皆会館を建てているのに嘉應州人だけは無い、と自ら団結の遅れを認めての設立であり、「嘉應州人」としての団結の歴史そのものが甚だ短いのである。
 1920年代になると漸く「客」を自称する人々が崇正総会という客家の親睦団体を設立し、東南アジア各地にその支部が広がっていった。羅香林がこの崇正会設立のいきさつを『客家研究導論』(1933)で詳しく取り上げたので、とかく客家の自己意識萌芽を象徴する出来事として紹介されがちであるが、この時代、香港における中国人団体の設立は客家に限った事ではなかった。寧ろ注目すべきは自ら「客」と認める人々がが元来彼等に対する偏見と誤謬に抗議して親睦団体を設立しながらも、香港でまだ「同化」が進んでいないことを理由に敢えて「客」の名を組織名に使用しない等慎重な配慮が窺える点である。
 客家は「潮州人」などのように出身地(祖籍)で定義出来ないので、これが客家と定義出来るか否かの「グレーゾーン」を生み出している。その一例が行政区画上は潮州語方言が優勢な潮州府に属しながら屡々「純客家語圏」に分類される大埔県の扱いであるが、崇正会は歴史上の客家人の逸材を取り上げたという『崇正同人系譜』の中で多くの「大埔人」を挙げており、その数は第一位の嘉應州人に次ぐなど、崇正会側が祖籍にとらわれずに客家語圏出身者を仲間と見なしていたことが分かる。更なる特徴として、少なくとも管見の限り1950年代まで専ら国外、とりわけ東南アジアに支部が増えているが中国本土では発展の様相を見せていないという点がある。
 このように中国本土よりも寧ろ東南アジアでの存在が大きかったためか、欧米と日本の研究による東南アジアの華僑分類では明確に広東人と客家が区別されることが多く、1930年オランダ統治下のインドネシアにおける華僑調査では明確に「客」と「客家」をはっきり同義語であるとしている。
 一方、広東の嘉應州では1930年代にようやく住民が自らを「客」と認識し始めたと思われる兆しが歴史の教科書に現れている。1930年代は晋末(紀元400年頃)に江西と福建の省境から広東入りしたという移住のいきさつだけが述べてられていたのに対し、1945年になると嘉應州出身で、18世紀にボルネオの鉱山で中国人社会の指導者となった羅芳伯や、19世紀にクアラルンプールで同じく中国人鉱山労働者の指導者となった葉亜来の2人を「土人(ママ)に慕われて王となった者」と表現するなど潤色が見られるようになる。ただ、『客家研究導論』の出版が1933年なので、こうした嘉應州の動きは羅香林の発言より早く、彼等の客家至上主義はこの本に影響された訳ではないことが分かる。
 海外の嘉應州人が会館を設立した形跡についてはマレーシアのペナンにおける梹城広東曁汀州会館の例がある。会館名の通り、福建西部に位置し、広東東北部と隣接する客家語圏の汀州と広東を合わせた地域を会員出身の対象地域としており、これは初期の渡来者が広東省大埔人と福建省汀州人で、彼等がペナンで共に漁業を営んでいたことに由来し、「客」の名称を使わなくとも客家語圏出身者が移住先で協力した事例と考えたい。他に管見の中だけでもマレーシアで客家語話者が中心となって設立した会館は少なくと6件あるが、その中のペラに関しては、会館側の史料も同地が錫の鉱区であり、中国からの移住もここで鉱業に従事する為であったと明記している。こうした事から、東南アジアの「客」を主に鉱夫であると把握したギュツラフの見解は大体において的を得ていた。
 移住先で同郷人の団結心が強化されるのは客家に限ったことではないが、客家の場合、その紐帯を祖籍だけに求めず、広く客家語圏出身者に門戸を開き「客」という概念を打ち出していった所にその特徴がある。

結論
 客家という集団の起源は一地域、一時代で括ることは出来ない。大まかに言えば、最初に西洋人宣教師の発見があり、次に中国官憲が注目し、その後になって嘉應州を中心とする客家語圏出身者が自らを「客」と認める、という三段階を経て、「客家」は世に知られるようになった。中国の内外を問わず、客家に言及する際、それに伴って問題になるのが鉱山開発、そして「鉱徒」の存在だったのである。
 こうして西洋人宣教師が華南と東南アジアで把握した「客Keh」、中国官憲の捉えた広州の「客民」、また全く「客」の名が付かず、官憲から「嘉應匪」「煤匪」などと呼ばれた人々、そして和平徐氏の族譜に見られるように、僅かながら「客人」を自認する人々、民国期の崇正会の会員、日本や欧米による東南アジアの華僑研究文献の中に出てくる客家語圏出身者の全てが総括、再編成されたもの、史実と潤色を含めた一切を後世の人間が「客家」と一括りに纏めたと考えると、包括的な説明が出来るのではないだろうか。
 今後残された問題点は3点ある。第一の問題点は民国期以後、広東から東南アジアの鉱山を目指して移民した人々の流れがまだ十分明らかになっていない事である。また「客」を名乗る人々の会館がいつ頃、どこに成立していったかに関してもまだ筆者が崇正会以関係以外の史料を十分閲覧していないので、今後研究の余地があろう。第二の問題点は華南の鉱山開発と華僑投資の関係である。第四章で取り上げた張杜鶻(1875-1945嘉應州興寧県出身者)なる人物は客家に対する差別的な記事に対しても反駁するなど、客家を世に知らせる活動の傍ら、辛亥革命以後は雲南の錫鉱山開発に対する華僑投資を募るなど鉱業の振興にも関わってきた。客家意識の高揚と鉱山開発の両方に携わった人物が確認出来たことは示唆的であり、華南の鉱山開発を俯瞰した場合、どのような華僑が投資をしていたのかについても更なる考察が必要であろう。第三は東南アジア以外で広東から鉱山を目指した移民の事例を探る事である。彼等が居住国で鉱山業に付随した産業(鉄道敷設、地下鉄建設、土木業)にも従事するようになったかについても管見の限りまだ十分な事例が挙げられていない。以上3点が今後の研究課題である。

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