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博士論文要旨

論文題目:牧畜民サンブル社会における学校教育と「サンブルの教育」間の葛藤を越える模索
著者:藤田 明香 (FUJITA, Asuka)
博士号取得年月日:2004年7月23日

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1、論文の課題設定
 タイのジョムティエン、セネガルのダカールで開かれた2つの国際会議を通して、「万人のための教育(Education for All)」、「初等教育の万人化(Universal Primary Education)」は国際社会が目指す大きな課題となった。ケニア共和国においても、2002年、「子ども法」("Children's Act")に基づき、無償義務基礎教育を推進する法律的根拠を提示し、2003年からは、キバキ新政権の下で、本格的に政府が無償初等教育を達成する為の政策に乗り出した。このような世界的な「万人のための教育」、「初等教育の万人化」奨励の流れは、ケニア北部に居住する牧畜民サンブル社会にも例外なく影響を与えており、サンブルは、ケニア政府や国内国外の開発機関から学校教育を与えるべき対象者として注目を浴びてきている。なぜなら、サンブルを含め牧畜民は、これまで教育機会を十分に恵まれなかったグループであると同時に、学校教育に関心を持たず自己の文化に固執するグループとして認識されているからである。特に、最近では、親による強制的な結婚から逃れる牧畜民の女子小学生の様子が、新聞で取り上げられている。牧畜民地域の教育をめぐっては、しばしば学校教育と民族ごとの教育・文化との葛藤が議論になってきた。
 これらの議論では、政府行政官や教育研究者は、牧畜民社会の「文化的・伝統的価値観」は学校教育の普及を妨げると指摘し、牧畜民社会の親達が学校教育に対して無関心であることを批判の対象とし、親に学校教育の価値を認識させることを重要視した。しかし、これらの議論においては、なぜ、サンブルが学校教育に関心をもたないのか、なぜ文化を大切にしているのかについての分析は行われてこなかった。これまでの教育政策は、サンブルを始め牧畜民があまり参加しない政治の場で行われてきたが、今、初等教育の義務化を進めるに当たっては、もう一度、サンブルの側から、彼らがどのような葛藤をなぜ抱いているのかについて検討する必要があるのではないだろうか。したがって、本研究では、サンブル社会において、学校教育と「サンブルの教育」を巡って、どのような葛藤が生じているのか、なぜ生じているのか、そしてサンブルの人々自身がその葛藤を乗り越えようとしているのかについて明らかにすることを研究課題とした。
 具体的に、本論では2つの分析の枠組みに基づいて議論した。第1に、教育を、学校教育に限定せず、学校教育、「サンブルの教育」、ノンフォーマル教育というより総合的な場において、それぞれの教育が果たしうる役割について考察した。第2に、本論では、葛藤の要因を、国家の中でのサンブル社会の自律性とサンブル社会内でのサンブル個々人の自律性に注目して検討した。特に、マイノリティとしてのサンブル社会との関係性において、サンブルの文化的固有性の維持とサンブル個々人の自律性の尊重、サンブルが主流社会に参加した際の主流社会での低い地位など、国家とマイノリティ社会との関係性の中で生じてくる課題に注目した。また、第1の枠組みで示したような教育を通して得る資源によって、サンブルが置かれている第2の枠組みの中で、サンブルがどのような集団的アイデンティティと個人的アイデンティティを形成しようとしているのかを明らかにした。 2、論点の検討
[1]国家におけるサンブル社会の自律性とサンブル社会内のサンブル個々人の自律性
 第一に、本稿の研究課題である葛藤の要因と乗り越えへの模索について述べていきたい。主に、これらの葛藤は、国家の中におけるサンブルの自律性と、サンブル社会内のサンブル個々人の自律性が確保されていない場合に生じてきていた。サンブル社会は、政治的・経済的には、部分的に国家の一部として組み入れられ、部分的には自律性を維持している。サンブル社会において、学校教育と「サンブルの教育」を巡って生じている葛藤は、主にサンブルの文化的な側面に関する事柄と結びつけられて批判される場合が多い。例えば、政府は、子どもの放牧、女子の早期結婚や割礼、戦士階梯などをサンブルの文化的価値観として捉え、学校教育への障害となっていることで批判している。しかし、これら「文化的な価値観」として切り離される事柄は、サンブルの経済・社会面での自律性の中で培われてきたものでもあり、サンブルの生活そのものに関係していることである。また、サンブルの人々にとっては、自分達のこれまでの生活スタイルが全否定されることで、これらへの批判を全面的に受け入れることは難しい。また、子ども達も、学校で教えられることと、地域や世帯で教えられることが異なることで、親を蔑視するようになったり、逆に学校に居づらくなって中退する子も現れている。
 また、サンブル社会内部においても、学校教育と「サンブルの教育」を巡っては葛藤が生じている。学校教育を受けている、受けた生徒達は、子ども期の認識、知のあり方、自然観、裕福観、結婚観、子どもと大人の関係、男女関係、平等性などに関して、従来のサンブル社会内での社会化の過程で教えられる内容とは異なるものを学校で教えられ、特に、性別や世代間によるグループごとに葛藤が生じてきていた。生徒の側からは、子どもとして親から束縛されない自由な時間があること、家畜よりお金を得ることを裕福と考えること、結婚相手を自分で選ぶこと、女性の相続権や仕事の軽減などが要求されるようになり、これらの要求を制限したり、反対する両親や地域の人々との間で葛藤が生じている。また、両親は、しばしば、学校に行っている子どもたちが両親への尊敬を忘れ、教養がないという理由で両親を見下すことなどを批判している。このように、サンブル社会内部における葛藤は、両親が子ども達の自律性を制限するということに加え、子ども達も両親や地域の学校に行っていなかった年長者を蔑視、軽視し、お互いがお互いの価値観で判断することにより生じていることが分かる。
 本論では、これらの葛藤をサンブルの人々が意識上において、また実践においてどのように乗り越えようとしているのかについても取り上げた。まず、意識上においては、これまで、学校教育と「サンブルの教育」を巡っては、上記で述べたような性別や世代間によるグループごとの対立が強調されてきた。しかし、グループごとに全面的に対立しているわけではなく、まず、親個人の中でも葛藤が生じていること、長老の権威が形式上の規則と実態とは異なること、長老と母親の反応が雇用経験、所属宗派などにより多様であること、自文化を再考、再評価し始めていること、サンブルの子ども達が、高校生、大学生になるにつれて、「サンブルの教育」に対して寛容な姿勢が生じてきていることなど、グループ間の葛藤を、グループ間で、またはグループごとに乗り越える可能性が見えてきた。また、サンブルが、「サンブルの教育」の否定的な側面を認めつつ、「サンブルであること」を重要視するのはアイデンティティの形成と深く関わっていた。
 実践においては、まず、放牧労働形態に変化が生じていた。サンブルの人々にとっては、学校に子どもを送ることによる放牧の労働力不足が大きな課題であったが、サンブルは、以下のような様々な方法で対応していた。例えば、学童と牧童のローテーションを組むこと、親族、姻族、クランから子どもを「借りる」こと、親族など同じ集落内で共同経営を行うこと、近隣の子どもを雇用すること、世代間の就学格差、通学年齢格差を利用すること、年少の長老や母親が放牧することなどである。サンブルは、これらの方法を組み合わせることで、牧畜民としての生活の基盤を維持しつつ、学校教育の様式にも適応できるように、自分達の生活スタイルを一部変化させてもいるのである。
また、牧童に対して、チェクティプログラムを通して学習機会が与えられるようになったことも大きな変化である。チェクティプログラムは、牧畜民としての生活を尊重しつつ、しかし、社会や生活の変化に伴って読み書きなどの知識を補填していくことで、学校教育と「サンブルの教育」の両方の長所を取り入れることが可能になっていた。また、バラゴイ郡で行われているナイトゥブル保育園プログラムは、「伝統的」な子育てと栄養指導と医療が導入されていた。このプログラムも「伝統的な」子育てと新たなものが混在して取り入れられており、葛藤を越えようとする一つの試みであると言える。しかし、これら2つのノンフォーマルプログラムは、政府、NGO、教員により学校教育への導入機関、継続機関としてのみ評価されていることも事実であり、牧畜を基盤とした生活を送る若者に対しても学習機会を提供するといったように、多様なニーズに柔軟な姿勢で臨むことが重要であると考える。

[2]サンブルにおけるアイデンティティの形成過程と教育
 以上のように、サンブルの人々が学校教育と「サンブルの教育」間の葛藤を乗り越えようとしている背景には、人々が様々なアイデンティティの束によって、「わたし」というアイデンティティを構築しようとしている姿が見受けられる。サンブルにおいては、学校教育、「サンブルの教育」双方の与えるものを資源として、集団的アイデンティティと個人的アイデンティティの双方が得られていた。国家の中でマイノリティ社会として集団的権利を主張していく為には学校教育が必要であるのと同時に、マイノリティに対する軽視や蔑視を乗り超えて自尊心を持ち続ける為に、「サンブルの教育」を通した言語や歴史の共有により民族的な集団的アイデンティティを維持していることが大きな支えになっている。また、「サンブルの教育」を通して得た知識や技術や人間関係の構築は、政治的・経済的自律性を部分的に可能にし、この部分的自律性を基盤として、マジョリティの下位に回収されきれないサンブル固有のアイデンティティをも維持しうる。だからといって、サンブルは、国家の政策に全て抵抗しているわけではなく、国家の政策を部分的に受容し、同時に、サンブルとしての自律性をも部分的に維持するといったように、アイデンティティの穏やかな形成を行っている。更に、学校教育、「サンブルの教育」双方を通して、個人は帰属、達成の両方のアイデンティティを獲得しうる。学校教育を受けた人は、学校教育を通して、帰属、達成のアイデンティティを得、「サンブルの教育」を受けた人は、「サンブルの教育」を通して、帰属、達成のアイデンティティを得ることが見込まれる。しかし、両者の区別はそれほど明確に区切られているわけではなく、学校教育を受けた子ども達のなかでも、帰属のアイデンティティの方は、「サンブルの教育」の方に求める子ども達もいる。また、学校教育を受けて雇用を得られなかった子ども達は、サンブルにて家畜所有者になる道が選択可能な状態で準備されている。また、逆に「サンブルの教育」を受けてきた子ども達の中にも、サンブル外での仕事を求めに行く青年も多い。このように、サンブルの若者は、学校教育、「サンブルの教育」を通した自己のアイデンティティの確立が、確定的ではなく、常に縦断できるような状態に置かれている。

[3]サンブルにおける基礎的な学習ニーズと方法
 サンブルの子ども達の中でも、学童であるか牧童であるかによって、学習ニーズや望まれる学習の場は異なっている。また、学童か牧童かというだけではなく、教会への帰属、世帯内の他の少年少女の就学の有無などにより、子ども達が望む、または可能な学習のニーズや場は異なっている。しかし、その程度は学童、牧童によって、また個々人によって異なるものの、学童、牧童とも、学校教育、「サンブルの教育」双方から、またノンフォーマル教育も加えた場において学習をすることを希望している。つまり、サンブルの子ども達は、[2]で述べてきたような多様なアイデンティティ形成を行う学習、学習の場を、学校教育、「サンブルの教育」、ノンフォーマル教育から選択することや、それらを組み合わせることが可能なのである。学習の場の多様化は、マイノリティが、「独り立ちをめぐる既存の意味(マジョリティが抱く意味)に嵌り込めば、下位への位置づけを余儀なくされやすい」という状況を回避する可能性を有している。つまり、学校教育歴によって階層化される主流社会の下位に位置づけられることを避ける可能性が高まる。また、同時に、学習の場を多様化することによって、サンブル社会内で親達によって子ども達に与えられる教育的制約を、子ども達が葛藤を持ちながらも、克服する可能性を高めることにもなっている。以上のように、サンブルの子ども達が抱えている葛藤は、主流社会の下位への位置づけやサンブル社会内での親達による制約など多様であり、よって、学習のニーズも多様である。このような多様なニーズに対応する為の学習の内容も多様であり、子ども達が学習の場を選択することにより、属性ではくくられない多様なアイデンティティの形成にもつながっている。
 序章で述べたように、これまでのアフリカの教育研究は、学校教育を中心に論じられてきた。また、民族固有の教育について論じられることはあっても、学校教育と民族の教育は別々に議論されてきた。しかし、本稿では、サンブルにおいて、学校教育と「サンブルの教育」双方から、またノンフォーマル教育からも学ぼうとしていることがわかり、学習の場が多様化されていた。特に、そのような教育のネットワーク化は、必ずしも学校教育を通してだけでは自己のアイデンティティの確立が困難な人々にとって、彼らの学習機会を補完する上でも重要であるのと同時に、たやすくマジョリティの下位に位置づけられることを避けることも出来る。本稿で示してきたサンブルにおける事例は、学校教育の制度主体にならない人たちの教育を考える際の示唆になりうる。

[4]葛藤後の相互変容の可能性
 序章の先行研究で紹介したように、湖中は、サンブルにもたらされた近代化の波を、サンブルの人々がそのまま受け入れるのではなく、牧畜民世界での意味づけに読み換えを行った上で受け入れていると述べている。それでは、なぜ、彼らがそのような読み換えを行ったのであろうか。筆者は、その理由は、マイノリティ社会であるサンブルが、近代化の果実をそのまま受け入れることによって、国家に完全に統合されてしまうのではなく、国家からの部分的な自律性を守り、[2]で示したような集団的な民族アイデンティティの形成を行うことを意図した為ではないかと考える。また、なぜそれが可能であったのかは、[3]で示してきたような多様な学習の場において、[2]で示したような多様なアイデンティティの形成が可能であるからである。特に、サンブル社会の中で、個人的な達成のアイデンティティを形成することが可能であることの持つ意味は大きい。序章の分析の枠組みで井上が危惧していたように、マイノリティ社会の青年が離脱してしまうことによるマイノリティ社会の危機は、サンブル社会内部において、個人的な達成のアイデンティティが形成されることによってかなり回避されているし、離脱を防ぐ為にサンブル社会内で必要となる社会成員に対する対内的制約を行う必要をも減じている。確かに、現在のサンブル社会において、サンブルの若者全てが家畜所有者としての達成のアイデンティティを獲得することは不可能になっている。よって、サンブルの中では、学校教育を通して達成のアイデンティティを獲得しようとする若者などもおり、達成のアイデンティティの獲得方法は多様化してきている。しかし、サンブルでの家畜飼育は、依然として大部分のサンブルの若者に生活の糧を与えているのである。
 また、サンブルの若者がサンブルでの生活を受け入れる基盤として、「サンブルの教育」が与えている、サンブルとしての帰属のアイデンティティが持つ意味も大きい。「サンブルの教育」が与えている、サンブルの集団としての結束は、学校に行った人であっても行っていない人であっても、サンブルであることの誇りを維持していくことに貢献している。
 一方、以上のように、サンブルが学校教育にも関心を持ちつつ、依然として「サンブルの教育」を重視している態度に対し、政府の側の変化も見受けられる。例えば、第5章で取り上げたように、サンブルの側から提案されたチェクティプログラムに対し、政府は大きな期待を抱いている。政府は、学校教育の場においても、それぞれの民族の生活様式や文化を重要視することが必要であることを認識してきている。しかし、そのような政府の方針は、それらの生活様式や文化そのものを重要視し、認めるものではない。チェクティプログラムやナイトゥブルプログラムの分析で取り上げた学校教育との関係性からも分かるように、政府は、「牧畜民の生活様式や文化を取り入れる」ことを明示することで、最終的にはそれらのプログラムの生徒達が学校教育に編入されて進学し、就学率が向上することを望んでいる。生徒や両親も、ノンフォーマル教育を入り口として学校教育への進学を希望している場合問題は生じないが、ノンフォーマル教育において、追加的な知識を得ることを目的としているならば、政府、NGO側とそのような学習者の間には再び葛藤が生じてこよう。本論で述べてきたような様々な葛藤は、学校教育と「サンブルの教育」双方の歩み寄りによって初めて乗り越えることが出来るのであり、それに対して、「サンブルの教育」を取り入れることを名目にし、生徒達を結果的には学校教育に引き入れるだけでは、葛藤を乗り越えることは難しい。よって、生じてきた葛藤の要因から、学校教育のあり方そのものを再検討することに加え、学校教育と「サンブルの教育」がお互いの役割を果たしつつ両者が補完的に子ども達の発達を助けていく道を探っていく必要がある。

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