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博士論文要旨

論文題目:アメリカ社会運動史研究――産業別組織会議(CIO)の諸問題
著者:長沼 秀世 (NAGANUMA, Hideyo)
博士号取得年月日:2004年5月19日

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本論文は、アメリカ合衆国において1935年より20年間存続した、産業別組織会議(Congress of Industrial Organizations、CIO)の諸問題を研究したものである。いうまでもなく、それはアメリカの労働者の状態を改善、向上させる点で非常に貢献し、またアメリカにおける労使関係に多大な変化をもたらし、さらにアメリカ社会全般に相当程度の進展を招来したものである。しかしそれにもかかわらず、CIOを本格的な研究対象として論考した著述は、比較的少数にとどまっている。もちろん、CIOに関する個々の問題、局面についての研究はある程度存在するが、その意義を考えれば、より多くの研究がなされてもおかしくはないと思われる。特に、筆者がここで目的とするようなその歴史的研究はごくわずかなままであり、学術的な研究としてCIOの20年間を全体として検討したものは、アメリカにおいて1点あるのみであり、わが国では皆無である。ただし、その存在がわずか半世紀前のことであり、かつ、資料的な制約があったことも考慮しなければならない。いずれにせよ、筆者がこのような研究をしたことは、アメリカの労働者の問題、さらにはアメリカ一般、あるいはアメリカの歴史を理解する上で、一定の寄与を果たすであろうことを確信する次第である。

 まず第1部第1章において、CIO結成の歴史的前提として、アメリカの労働運動の歴史を略述したが、そこでは、CIO以前に100年以上に及ぶ労働運動の歴史があったものの、そのほとんどは、技能労働者を中心とする職能別組合(craft union)であったことが示された。それらの連合体として、1886年にアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor、AFL)が設立されたが、AFLは、経済発展、技術変化に伴って求められ始めた産業別組合(industrial union)の組織形態を原則的に認めようとしなかった。その結果、1930年代半ばにもなお、基本的かつ主要な産業部門に組合が存在しないという事態になったのである。 
 このような中で、1929年より大恐慌が始まり、1933年よりその克服のための包括的なニューディール政策が展開されたが、その一つとして、労働者の団結権、団体交渉権の法的承認が全国産業復興法(National Industrial Recovery Act)に盛り込まれた。それは2年後の違憲判決を受けたが、時を同じくして、それ以上に労働者の基本権を寄り積極的に承認し、保護するワグナー法(全国労働関係法、National Labor Relations Act)が成立した。このように、労働運動の発展にとって非常な好機が訪れたことを示したのが、ニューディールを概観した第2章である。
 これらの歴史的、社会的背景をもとにして、1935年に産業別組織委員会(Committee for Industrial Organization、CIO)が結成され、さらに3年後に産業別組織会議として、AFLに対抗する全国的労働組合連合体となるが、その過程を検討したのが第3章である。すなわち、1934年、35年のAFL大会において、多数の産業別組合を求める決議案が提出され、34年には職能別組合派と産業別組合派がかろうじて妥協することに成功し、自動車その他の産業における労働者の組織活動を推進するという決議が成立した。しかし、1年後にも、それら主要産業における組織活動の成果は十分なものとはならなかった。こうして1935年のAFL大会においては、職能別組合派と産業別組合派が激しく対立し、決議案作成においてほとんど例を見ない多数意見・少数意見の両案が大会に提出され、採択の投票がおこなわれた。その結果、ほぼ6対4の割合で産業別組合派の主張は敗れた。大会終了直後、炭鉱組合(UMW)のジョン・L・ルイスの呼びかけによって、8組合の委員長が参加する産業別組織委員会が結成された。
 しかし、代表者による委員会のみでは、主要産業労働者の組織化は進められない。委員会のCIOから会議のCIOに発展するには、労働者自体の積極的な活動が不可欠であった。また、既存組合からの支援も必要であり、UMWを初めとするCIO委員会参加の諸組合の資金援助、活動家の参与が有効であった。こうして1936年から、概して未組織であった主要産業部門における組織活動が盛んになり、特に37年初めのジェネラル・モーターズ・ストライキの成功が、CIOの発展に大きく寄与した。また、同じころ、AFLに未加入であった電機組合などがCIOに参加することにより、いずれCIOがAFLに対抗する組合連合体となる方向が示された。さらに、U. S. スチールに後の鉄鋼組合(USW)を承認させたことも、CIOの確立に大きな意味を持つことになった。同年のAFL大会がCIO参加組合を除名する方針を示し、一方、CIOも全国協議会を開くなど、事実上、CIOが別個の組合連合体となることがほぼ既定の事実となった。双方の統一交渉も真剣におこなわれたとはいえず、1938年、CIOは会議として正式に成立したのである。
 このようにして成立したCIOにとって、ニューディールは自己の誕生を可能ならしめた重要なものであり、また労働者および多数の国民にとって大いに好ましいものであった。したがって、CIOがニューディール特にその代表者であるローズヴェルト大統領を積極的に支持することは、半ば必然であった。そのため、CIOは委員会段階から「労働者無党派連盟(Labor’s Non-Partisan League、LNPL)」を結成し、活発にローズヴェルト再選に努力した。それは、以前の労働運動に類を見ないものであり、その後、労働運動がアメリカの政治過程における重要なファクターとなる第一歩であった。これらの点を論じたのが第4章である。
 続く第5章は、第二次世界大戦期のCIOの動向を検討したものであるが、それは概してローズヴェルト支持を基本とするものであった。1940年段階において連合国へ傾斜するローズヴェルトに対して、孤立主義的立場から反対した会長ルイスが辞任することになり、その後CIOはローズヴェルト支持、すなわち戦争努力支持という態度を鮮明にした。戦争中は、賃金・物価統制などの問題に対して、若干の批判的立場を表明したとはいえ、基本的には、反ファシズム、民主主義擁護のための戦争として、それへの協力を惜しまなかった。そのため、下部組織による若干の抵抗があったとはいえ、労働争議を自粛する「ストライキ放棄の誓い」を堅持した。さらに、戦後の問題については、ニューディール的な労使公三者の協力による経済体制を望んでいた。また新しい世界情勢を踏まえて、国際的な労働者組織への参加を目指し、短期間ながら、CIOが事実上のアメリカ代表として世界労連の一員となった。
 次の第6章と第8章は、CIOの具体的な組織活動の問題を取り上げている。すなわち、CIOが第二次世界大戦直後から取り組んだ、アメリカ南部における組織活動である「オペレーション・ディクシー」である。これは、人種差別主義を温存し、それとも連動した反労働者的な態度の強烈な南部社会に敢えてCIOが挑戦した点で、その意義を高く評価すべきものである。その成果は多分に貧しいものであったが、暴力的な抵抗にも遭遇する困難な活動であった。また、公民権運動の開始のほぼ十年前に、白人労働者・黒人労働者をともに組織したことも注目すべき点であり、ある意味では、公民権運動を先取りしていたともいえるのである。
 しかしそれは、要する多大なエネルギーと資金と比較して成果が乏しいがゆえに、また、それが個別の組合を超えたCIO自体としての組織活動であるがゆえに、次第に参加各組合の協力を失っていった。そこで、しばらく「オペレーション・ディクシー」は継続されとはいえ、その規模は徐々に縮小され、会長職がマレーからルーサーに交代するに伴い、組織の合理化の一環として、その活動は停止された。それは、一面では、CIOの敗北という評価も成り立つが、その力量からして不可避的なことであったというべきであろう。
 第7章は、第二次世界大戦後のアメリカ社会全体に大きな影響を及ぼした、反ソ・反共主義、いわゆる「アカ狩り」の嵐の中で、CIOもその重要な一端を担ったことを扱った論考である。CIOには、その成立期に積極的に活動する共産主義者たちが参加したため、その中に相当数の共産党系活動家が存在した。冷戦開始とともに、アメリカではさまざまな分野で共産主義者追放の動きが始まり、いわゆるマッカーシズムが展開された。こうした中で、1947年からは政府による忠誠審査がおこなわれ、また同年成立のタフト・ハートレー法が、非共産主義者であるとの宣誓を労働組合指導者に求めることを定めた。こうしてCIOも「アカ狩り」をすることになり、1947年の大会においては、かろうじて左右両派の妥協が成立したものの、その方向は明らかになった。翌48年、ヘンリー・ウォーレスの進歩党活動とともに左右の対立は激化し、CIOは大きく分裂することになった。さらに1949年の大会において、共産主義者追放の規則が採択され、その直後から翌50年にかけて計11組合がCIOから追放された。それは、CIOの性格変化をもたらした重要な転換点になったといえよう。
 最後の第9章は、CIOが1955年にAFLと合同するに至った経過を明らかにしたものである。表面的には対等の合同として、その名称も両者を併記したAFL-CIOとなったものの、実質的には、CIOがAFLの一部門となったことが示されている。それは、それぞれの組合員数などからも半ば必然的であり、新しい執行部役員などの構成においても、AFL出身者が多数を占めたことなどにも現れている。したがって、この合同は同時にCIOの終焉を意味するものとなったのである。ここにCIOは20年の歴史を閉じたのである。
 
 第2部は、以上のCIO史の諸問題に関連する若干の問題を扱ったものであり、付論といっても良いものである。その第1章では、まず、AFLに代表されたアメリカ労働運動が政治活動に消極的であり、いわゆる「友に報い、敵に復讐する」という態度を取ったことへの説明が、パールマンに代表される研究者の見解を通じて示されている。そこでは、アメリカにおける連邦制、大統領制、白人男子に限るとはいえ早期の普通選挙権の実現、多様な民族構成、絶えざる移民の流入などが、このような労働運動と政治活動との関係を生み出したことが指摘されている。これに対し一方では、それら条件は変化しており、アメリカにおいても労働組合に基礎を置く労働党を結成すべきだとの主張も多くの論者から出された。これらについて、各論者がどのように議論を展開したかを概観したのが本章である。
 この問題は、多くの場合、そのまま、「アメリカに社会主義の不振」または「不在」という問題につながる。そこで、第2部第2章においては、その議論のほぼ最初の論者でありながらわが国では十分に論じられていないゾンバルトの論考を比較的詳しく検討した。そこでは、多くの論点が前章に示されたものとほぼ同様であり、労働運動と政治活動の関係は同時にアメリカにおける社会主義の問題と重なっていることが明らかにされた。一方、近年、この問題に新たに取り組み、それまでの多くの論者に乏しかった「比較」という視点の重要性を指摘し、そこから問題を詳しく検討したのがリプセットならびにマークスである。本章の第2節では、この著書を紹介する形で、さらにこの問題を検討している。
 続く第2部第3章では、以上に示されたような困難にもかかわらず、1930年代のアメリカで、労働党を結成しようとする相当な努力が払われた事実を明らかにした。当時の社会党・共産党の関係者や労働運動の活動家がさまざまに行動したにもかかわらず、結局それは、全国的な労働党の成立には至らなかった点で、挫折した運動であった。しかし、ニューヨークという一つの州の事象であり、また、そこには民主党関係者の何らかの関与が推測されるとはいえ、主としてCIOの活動家による「アメリカ労働党」が結成され、少なくとも10年以上存在したことは、無視できない歴史的事実である。それは、統一戦線あるいは人民戦線が、アメリカにおいてはローズヴェルト大統領支持という点でいささか異質でありながらも、部分的に実現したと考えることもできるのである。
 これら30年代の試みとも一定の関連を持ち、かつCIOにおける「共産系」組合追放の主たる要因となった1948年の進歩党の問題を扱ったのが、次の第2部第4章である。そこでは、主たる文献数点に依拠しながら、わが国ではほとんど紹介されていない事実が明らかになったはずである。同党の無残とも言える結果は、当時の激化する冷戦体制、それに対応するアメリカ国内の反ソ・反共主義によるものであったと同時に、以前からの社会主義不振の要因によるところも大きかったといえるであろう。
 最後の章は、以上のような論点とはやや異質であるが、第1部にみたCIOの「オペレーション・ディクシー」と一定のかかわりをもった「ハイランダー・フォーク・スクール」の問題を、その活動の中心であったマイルス・ホートンに主たる焦点を当てながら概観したものである。これも前章と同じく、主要文献数点を利用しつつわが国ではまったく知られていなかったといって良い事実を明らかにしている。「ハイランダー・フォーク・スクール」が、ある時期にはCIOの活動家養成を引き受け、その資金援助を受けていたこと、しかしCIOが次第にその進歩性に疑念を示し、同校との関係を絶つに至ったこと、それに対応して、また時代の要請の変化を感知して、同校が公民権運動家の養成に活動の中心を転換したことなどが明らかになったと思われる。その点、「ハイランダー・フォーク・スクール」の活動方針転換は、CIOの性格変化とともに、アメリカにおける社会運動の主たる焦点ないし課題が、労働運動から公民権運動に変化していったことを示すものでもあったといえよう。

 CIOの歴史的意義は何かといえば、すでに記したことでもあるが、アメリカ主要産業部門に労働組合を誕生させ、それまでの経営者・使用者の一方的な優位を打破し、労働者にさまざまな問題の改善その他の交渉権を与えたことである。それは、労使関係における一定の「民主化」をもたらし、「産業民主主義」をある程度ながら実現したとも言えよう。
 またその過程で、CIOは人種差別を否定し、基本的には黒人労働者を白人労働者と同等に組合に参加させた点で、公民権運動を多少とも先取りし、アメリカ社会の民主化進展に寄与した。もちろんこの課題は、黒人自身の犠牲を厭わない活動なしには実現しなかったが、CIOが南部に展開した活動も、相当程度の犠牲を払わされたのである。
 さらに、CIOによってはじめて労働者階級がアメリカの政治により積極的に参加し、相当程度の発言権を持つに至った点で、CIOは政治分野における民主化の進展をもたらした。CIOが積極的に選挙その他の政治活動に参加したこと、相対的にはリベラルな民主党の左派勢力を形成するに至ったことは、さまざまな問題点を含むとはいえ、政治における民主化の進展に寄与したのである。
 そのようなCIOも、その地位を相対的に安定的なものにすると同時に、それがある程度ながら持っていた社会変革の推進力となる側面を徐々に失っていった。さらに、原理的には労働組合組織の統一として認められるべきことではあるものの、CIOとAFLとの合同は、CIO の持っていた進歩的側面を弱めることになった。したがってCIOの歴史が示した経済、社会、政治の諸側面におけるアメリカの「民主化」への寄与は一定程度存続したものの、合同によって相当程度弱められたことは否めない事実である。言い換えれば、AFL-CIOの誕生は、アメリカ社会のさらなる「民主化」の進展には寄与しなかったのである。しかし、このように評価することは、20年に終わったCIOの歴史的意義を否定することにはならないことを強調しておきたい。

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