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博士論文要旨

論文題目:アダム・スミスの制度主義経済学
著者:田島 慶吾 (TAJIMA, Keigo)
博士号取得年月日:2004年5月19日

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はじめに―本論の主題―
 本論文はアダム・スミスの道徳哲学体系を制度(institution)を中心にして考察することにより、制度主義経済学として把握する試みである。本論文の主題は以下のことにある。

 第一に、スミス道徳哲学における制度の意味の考察である。スミスは、利己心の自由な追求がそのまま社会全体の利益となると主張したことはなかった。スミスは利己心の追求が社会全体の利益となるような諸制度を研究したのであり、これらの諸制度が利己心の追求を社会全体の利益となるように導くと主張したのである。これらの諸制度とは、第一に、私的所有権(譲渡を含む)であり、第二に、私的所有権を保証する正義の法、第三に、正義の法の執行機関である為政者=国家、第四に、倫理=「徳」である。
 しかしながら、スミスはこれらの諸制度を所与としたのではなかった。スミスは利己心と同感という二つの原理からこれらの諸制度の発生を問いたのである。同感理論は倫理(徳)を根拠づける。スミスにおいては徳とは人間に生来的に備わるものではなくて、個人と個人の社会的関係から生じる一つの制度であった。スミスは同感理論によって道徳の一般的諸規則を導きだしたが、これは行為の一般的諸規則として制度なのである。この制度としての徳の意味は二重である。つまりそれは、一方で利己心に対してインセンティヴを与え、同時にこれを抑制するという二重の機能を持つものである。
 更に、スミスは制度の進化論ともいうべきものを考察した。習慣、慣習、法、倫理など制度に律せられた行為の総体は必ずしも、安定した、定常的な状態ばかりでなく、それ自体の中に不均衡、変化、進化の契機を有することをスミスは認識した。制度は個人の行為を完全には律しえない。制度から外れた行為の存在を認めることにより、スミスは制度の変化、制度の進化の可能性を考えたのである。この制度の変化の中で、個人の行為が倫理を逸脱する事態をスミスは「道徳感情の腐敗」と呼んだ。
 本論の第二の主題は、『諸国民の冨』の真の主題とは何かに関わる。スミスは、上記の諸制度を備えた社会を「文明社会」と把握し、スミス経済学はこの文明社会の富裕化の論理として展開されたが、それは通常理解されるような市場均衡論ではない。スミス経済学は特定の型をもつ資本蓄積論、つまり、国内農業、製造業に基盤を持ち、余剰が輸出されるという国民経済の特定の型を示している。スミスは『諸国民の冨』第二編で資本は農業、製造業、商業、外国貿易の順で投下されねばならない、何故ならば、この順序での資本投下が国内の冨(消費財で定義された冨)を最大化するからであると主張したが、この論理(「資本投下の自然的順序」論)は、後の経済学者によって、スミス経済学におけるもっとも「弱い」部分とされて批判された。この批判によってスミス経済学の本旨は失われ、スミス経済学は「一般均衡論の萌芽」とされたのである。しかしながら、スミス経済学は、特定の資本蓄積の型を示している。国内農業、製造業に基盤を持ち、余剰が輸出される時、一国の冨が最大になるのだというスミス経済学の本旨は、資本蓄積の制度論と呼ぶことができる。この資本蓄積論は全ての国に普遍に妥当するものではない。スミスは多様な資本蓄積の型の存在の中で、一つの特定の資本蓄積の型を『諸国民の冨』で示したのである。
 更に、この特定の型の資本蓄積の主体的要因をスミスは「マナーズ」と呼んだ。ここでマナーズ(manners)とは具体的には資本家に関しては「利己心と倹約」(利潤動機によって支えられた資本蓄積)、労働者に関しては「利己心と勤勉」(高賃金によって支えられた勤勉)である。本論はここに『諸国民の冨』と『道徳感情論』との内容的な連携を見ることができる。
 つまり『道徳感情論』において展開された徳論とは『諸国民の冨』における資本蓄積を支えるマナーズなのである。
 本論の第三の主題は、スミスは何故、『道徳感情論』を改訂したか(特にその第六版で)、その理由である。制度としての倫理という把握は、そこに、制度に従わない行為の可能性を含んでいる。つまりこれがスミスの言う「道徳感情の腐敗」である。スミスは道徳感情の腐敗がいかに生じるかも同感理論によって説明する。これが『道徳感情論』で展開された「歓喜への同感」、貪欲と野心への同感であった。『道徳感情論』第六版の改訂目的はこの道徳感情の腐敗に対して、人類の正義についての自然的諸感情という同感論的次元から批判を試みることであった。
 以上により、このことにより、スミスの道徳哲学の体系は完結する。それは同感理論に始まり、正義の法とその執行機関である為政者=国家論を経て、マナーズを主体的要因とする資本蓄積論としての経済学に終わる体系である。

本論の批判対象
 本論の批判対象は第一に、スミス経済学の新古典派経済学的解釈(一般均衡論的解釈)である。ほとんど全ての経済学のテキストでスミスは「見えざる手」の比喩を持って、後にワルラスの一般均衡理論に通じる市場均衡論を展開したことにより、「近代」経済学の父と見なされている。このシュンペーター以来のスミス経済学の解釈(以下、一般均衡論的解釈)はしかしながら誤っている。この誤った解釈を生んだ原因は、『諸国民の冨』の第一編を同書の中心と見、その第一編で展開される「自然価格」論を一般均衡論の萌芽として理解する点に求められる。しかしながら、『諸国民の冨』の中心は第二編の資本蓄積論(「資本投下の自然的順序」論)であり、第一編は「冨」を支出された労働量あたりの必要消費財の量(この量の増大が「望ましさ」の意味である)によって定義するための理論的前段でしかなかった。
 本論の批判の対象は第二に、正義論中心のスミス解釈である。この解釈は、スミスは利己心の自由な追求が社会全体の富を増大させるといった粗雑な議論を展開したのではなく、正義の法の枠内における利己心の自由な追求が結果として社会全体の富を増大させるのであり、従って、利己心の追求の前提たる「正義の法」のという制度的枠組みを与えているのだとする点で、上述の一般均衡論的議論を超えた。正義の法は『感情論』における同感理論を前提し、更に道徳感情論的に基礎づけられた正義の法を展開する『法学講義』が『諸国民の富』における議論の前提であるとすることにより、スミス解釈の理解を深めたのである。しかしながら他方で、この議論は、我々はこれを「経済学の生誕」派と名付けるのだが、同感理論(倫理)→同感理論によって感情論的に基礎づけられた正義の法→正義の法の枠内での利己心の追求という一連の系列をスミスの道徳哲学の体系とすることにより、生誕したスミス経済学とはやはり均衡理論的経済学であるとされる。結局は、一般均衡理論的解釈に接合されるのである。「経済学の生誕」派は正義の法の存在という制度に注目し、スミス経済学の制度論的構造の一端を解明しつつも、最後においてスミス経済学の一般均衡論的解釈に立ち返るのである。
 本論の第三の批判対象はスミスの政治学を中心とする、シヴィック・ヒューマニズム論または「立法者の科学」論と呼ばれる一連の解釈である。この解釈の特徴は、スミスはその倫理学において政治体制(共和制)によって実現されるべき「徳性」を、その政治学(『法学講義』)、経済学(『諸国民の富』)においてそれらの徳を実現するはずの諸制度を研究したとする点にある。しかしながら、シヴィック・ヒューマニズム論はスミスの経済学に注意を払わない、或いは、払えないという大きな代償を要求するものである。何故ならば、シヴィック・ヒューマニズム論が想定する経済とはオイコス(家政)であり、これこそまさに、スミス経済学の立脚点である「商業社会」がその解体の上に成立する前近代的な経済原理なのである。従って、シヴィック・ヒューマニズム論においてはスミス経済学はその占めるべき位置がないというのは、シヴィック・ヒューマニズム論の立論の構成から必然であるが、その代償はあまりに大きい。
 以上で本論の主題および批判の対象を略述したので、以下、これを具体化する。

第一節 スミス道徳哲学体系の制度主義的把握

 スミス道徳哲学体系の中心概念は「制度」である。スミスの道徳哲学体系を制度論として読むことを可能であることを明瞭にしめすものが、『諸国民の冨』において三度に渡り繰り返される「文明社会」と「初期未開の社会」の対比である。

第一項 文明社会の制度論
 スミスは『諸国民の富』で、「初期未開の社会」に「文明社会」を対比することによって、「文明社会」がいかに制度的に「初期未開の社会」と異なっているかを明らかにした。スミスにおいて「野蛮な社会」に対する「文明社会」とは、第一に、「統治の行き届いた社会」(「統治が行き届いた社会では、普遍的な富裕が人民の最下層の階級にまで広がっている」(WN, I.i.10.p.22.78頁)。)、「秩序と善政とそれに伴って個人の自由と安全」とが保証されている社会(III.iv.4.p.412.625頁)である。『法学講義』においてスミスは、法的、統治論的観点から、「文明社会」を「自由の合理的体系(rational system of liberty)」(LJ(B), p.421.151頁)と見なした。この「体系」の原理は正義であり、正義(justice)とは『感情論』の帰結である「道徳の一般的諸規則」(TMS 1st,p.546.433頁)の中で「公共社会の力」によって強制可能なものとされた「正義の一般的諸規則」「自然的正義の諸規則」に基づくものであり、統治論的には「所有権の保証と身分秩序の維持(所有の不平等に基づく身分秩序の維持)」を意味していた。
 第二に、「文明社会」とは、「商業社会」であり、分業が普遍化している社会(「あらゆる文明社会では、農業者は一般に農業者以外のなにものでもなく、製造業者は製造業者以外の何ものでもない」(WN, I.i.4.pp.15-16.71頁)。)、従って、財の交換が普遍化している社会である。そして更に、この社会は階級社会、「資財の蓄積と土地の占有が行われている社会」(I.vi.1.p.651.31頁)を意味した。
 第三に、「文明社会」とは、その「マナーズ(manners)」において「初期未開の社会」とは異なっている。それは「貧者の厳格な倹約と注意が確立されている社会」(I.viii.42.p.98.182頁)、「勤労と節約」(II.iii.16.p.337.532頁)、「商業上の業務が自然に一個の商人というものを作り上げていく、秩序、節約、及び注意という習慣」(III.iv.3.p.412.625頁)が広まっている社会、「庶民が最も尊敬する道徳体系に従う」(V.i.g.38.p.810.1163頁)社会である。ここでマナーズ(manners)とは具体的には資本家に関しては「利己心と倹約」(利潤動機によって支えられた資本蓄積)、労働者に関しては「利己心と勤勉」(高賃金によって支えられた勤勉)である。
 以上、「文明社会」とは、第一に、統治構造(「自由の体系」)、第二に、経済構造、第三に、マナーズにおいて制度的に「初期未開の社会」とは異なっているものと把握された。スミスのこの文明社会の制度論的把握を可能にしたものが、『感情論』における同感理論による制度の生成論である。

第二項 制度とは何か。
 『感情論』は一般に同感理論による徳の本質(行為の適宜性)と三つの徳(正義、仁愛、慎慮の各徳)の導出を主題としたものとして見なされている。本論はこの『感情論』における議論を行為を導く制度の導出として理解する。「制度」とは諸個人によって承認された思考と行為の習慣的、集団的な様式、または、複数の行為者による思考と行為の類型的な様式と定義される。制度の中には、慣習、習慣、伝統、法、規範・倫理、規則、政治体制等が含まれるが、これらの諸制度によって諸個人の行為が一定の蓋然性をもって規定されるとする点で、合理的主体の自由な選択行為を原理とする新古典派経済学の人間学的想定(ホモ・エコノミクス)とは異なる(習慣、規範、法などの制度的要因が蓋然性の下で個人の行為を誘導するという考え方を制度主義的把握と呼ぶ)。スミスは『感情論』で『諸国民の冨』における経済人の行為は一定の制度的枠組みの中で行為するものであることを明らかにした。
 制度の概念の中には変化、進化の契機が含まれる。つまり、習慣、伝統、法などの制度に律せられた行為の総体は必ずしも安定した、定常的な状態(均衡)ばかりでなく、それ自体の内に「不均衡」「変化」「進化」のモメントを有するということの認識である。つまり、制度は、個人の行為を完全には制御できない。制度から外れた行為の可能性を認識することにより、スミスは制度の変化、或いは、制度の進化の概念に達したのである。制度の進化論、或いは、18世紀的言語を用いれば、「市民社会の自然史」がスミス経済学の最も基本的な枠組みであると考える。
 『感情論』は制度の生成(徳)、制度に誘導される行為(行為の一般的諸規則)、制度の変化(行為の制度からの逸脱)を同感理論によって展開した。『感情論』において、行為の一般的諸規則は同時に「道徳性の一般的諸規則」として把握されている。すなわち、スミスにおいては「行為の一般的諸規」=制度は「道徳性の一般的諸規則」であり、従って、「道徳性の一般的諸規則」とは制度なのである。具体的にはスミスは「慣行・習慣」、「道徳性の一般的諸規則」、「法」と「国家」、「支配」を制度として考察した。

1. 「慣行・習慣」と「慣行的同感」
 先ず、慣行と習慣について、スミスは『感情論』第五部第二編「道徳諸感情に対する慣習と流行の影響について」で「慣行(custom)」について次のように述べている。「様々な職業と生活状態にある人々が親しんでいる諸対象は非常に様々であり、彼らを非常に様々な情念に慣れさせるので、自然に彼らの中に非常に様々な性格と態度とを形成する」(TMS1st,p.389.309頁)。従って、「それぞれ違った情念が彼らにとって慣行的になるのに違いない」(ibid.310頁)。スミスはこうした慣行、習慣の顧慮へのチャンスを「慣行的同感(habitual sympathy)」(TMS 6th,p.220.453頁)と呼んだ。また、慣習(habit)についてはスミスは次にように述べている。「行為についての一般的諸規則は慣習的な省察(habitual reflection)によって、それらが我々の心の中に定着させられた時には…慈愛心の間違った表現を矯正するのに大いに有益である」(ibid.,p.269.191頁)。

2. 「道徳性の一般的諸規則」と「義務の感覚」
次に、慣行・習慣がいわば無自覚的な行為であるのに対し、スミスは「公平な観察者」概念を用いて、「道徳性の一般的諸規則(general rules of morality)」(TMS 1st,p.266.189頁)、「行為の一般的諸規則(general rules of conduct)」(ibid.,p.273.208頁)を導きだし、これらの諸規則の顧慮のチャンスを「義務の感覚(sense of duty)」(Cf.ibid.,p.273.208頁)と呼んだ。スミスは倫理学を「道徳性の一般的諸規則を扱うことによって倫理学と普通呼ばれるのが適切な科学」(ibid.,p.525.420頁)として定義付け、「道徳性の一般的諸規則(general rules of morality)」の顧慮のチャンス、つまり「義務の感覚」を準則とする行為の「質」をスミスは「徳性ある」行為としたが、具体的には、仁愛、正義、慎慮の各徳性である。

3. 「法」と「国家」
 更に、スミスは、「道徳性の一般的諸規則(general rules of morality)」の顧慮から生まれる「有徳な」行為の中で、正義の徳はそれが、「最大の正確さをもって、それが要求する全ての外面的行為を決定する」(ibid.,p.309.220頁)が故に、「正義の一般的諸規則への顧慮」(ibid.,p.527.421頁)は「最も神聖」であるとし、特権化した。スミスは道徳性の一般的諸規則の中で、特に、「公共社会の力」(ibid.,p.546.433頁)によって強制可能な「正義の一般的諸規則」(ibid.,p.527.421頁)、「自然的正義の諸規則」(ibid.,p.547.433頁)を「法(law)」とした。
スミスの挙げた諸徳(仁愛、正義、慎慮)の中では「正義の徳」のみが、国家により強制可能のもの、つまり、「法」と規定される。正義の法が特権的地位を占めるのは、それが、国家によって強制可能な「秩序」をなしているからである。スミスは正義の徳から由来する、強制可能な法を「正義の諸法」と呼ぶ。正義の諸法とは、「隣人の生命身体を守る諸法」 「隣人の所有権と所有物を守る諸法」 「他の人々との約束によって、 隣人に帰属するものを守る諸法」 (ibid.,p.84. 132頁)であるが、「法」への「顧慮」(「正義の一般的諸規則への顧慮」(ibid.,p.527.421頁))は、同時に、私的所有権、及び、所有の不平等から生じる「身分秩序」「支配秩序」を意味している。

4. 「支配」と「歓喜への同感」
 スミスは身分秩序、或いは、支配秩序の顧慮へのチャンスを「歓喜への同感(sympathy with joy)」と呼んだ(Cf.ibid.,p.93.93頁)。スミスは「歓喜への同感」を「諸身分の区別と社会の秩序」(ibid.,p.114.76頁)への「慣習的な顧慮」(ibid.,p.117.78頁)とすることによって、「行為についての一般的諸規則は慣習的な省察によって、それらが我々の心の中に定着させられた時には…慈愛心の間違った表現を矯正するのに大いに有益である」との前言に結びつけた。
 
5. マナーズ
 以上、「慣行・慣習」を「行為の事実上の規則性」、「道徳性の一般的諸規則」を「行為に対する規則」、「法」を「行為を強制する規則」とすれば、行為者の遵守する蓋然性、すなわち、根拠が存在しているために、一定の確実性をもって存在している客観的な行為の可能性が与えられる。そしてこのような諸々の蓋然性の上に、個人の利己心の追求の蓋然性が与えられる。そしてこの蓋然性の内実は、「正義と慎慮」(Cf.ibid.,p.303.227頁)である。スミスが主要な徳性として挙げた、仁愛、正義、慎慮の中で「規則」を持つとされるのは、正義と慎慮のみである(更にしかし、この利己心追求のチャンスは同時に「効用(utility)」によって「歓喜への同感」とも結びついている。「歓喜への同感」は上述のとおり、「諸身分の区別と社会の秩序」への「慣習的な顧慮」と結びついており、「歓喜への同感」を行動の基準とするチャンスは大きくなる)。
 かくして、スミスにおいて、諸個人は制度、つまり、慣行・習慣、道徳性の一般的諸規則、正義の諸法(法制度)、支配秩序によって、行為の規則性を与えられている。スミスは「制度」を行為の準則とする、行為がこの制度を志向する程度を「慣行的同感」「義務の感覚」「正義の諸法の遵守」「歓喜への同感」とした。このような諸個人における行為の規則性の総体をマナーズと呼んだ。

第三項 スミスの道徳哲学体系における政治経済学の占める位置について
 周知のように、スミス道徳哲学体系は、倫理、自然法学、政治経済学の三部門からなる。通説的には、スミス倫理学は、市民社会倫理の同感理論による道徳感情論的根拠付けを意図したものであり、『感情論』では同感理論による徳の本性(行為の適宜性と行為の値打ち)と徳(正義、仁愛、慎慮の各徳)とが導かれ、中でも正義の徳が主題化された。自然法学では正義の自然的諸規則=「法と統治の一般的諸原理」と、「この諸規則が様々な時代と社会の変遷の中で経験した変革」を考察の対象とすることが予告され、これは具体的には『法学講義』において『感情論』の議論を前提にして、「正義」論と「治世」論が扱われた。そして、『諸国民の富』は、直接には、自然法学の第二の分野である「治世」論、つまり、国家と人民の富裕化論を対象としたもの(第一編~第四編)でありながら、その第五編「主権者の義務」論として、『法学講義』における「正義」論、「国家収入」、「軍備」に関する考察を含み、従って、『法学講義』における「治世」論の枠組みを超え、自然法学全体を包括するものとなっている。
 このスミスの体系の概観により、倫理学→自然法学・「正義」論→自然法学・「治世」論→政治経済学という構図が浮かび上がってくる。倫理学→「正義」論→「治世」論の展開は、人間諸性向の分析から、これを規定する社会的環境要因の分析として把握されるが、我々がここで注目するのは、『法学講義』「治世」論の組立である。
  『法学講義』の構想によれば、「治政」論の最後は「商業の良き、または、悪しき影響と、悪しき影響に対する自然の治癒法」(LJ(A), p.353)を取り扱うとなっており、これはLJ(B)における治世論の叙述プランの最後に対応し(「最後に商業精神(commercial spirit)が一国民の政府、気質、マナーズに与える良き、または悪しき影響とその適切な矯正策を扱う」(LJ(B),p.494.339頁))、実際に「治世」論の末尾における「治世論の最後の分野、つまり、商業の国民のマナーズに与える影響(influence of commerce on manners of a people)を考察しよう」(LJ(B),p.538.452頁)として周知の分業批判論として具体化される。 
 つまり、スミスの『法学講義』における「治世」論の「最後の分野」とは「商業の国民のマナーズに与える影響」なのである。そして、これは『諸国民の富』第五編における「主権者の義務」論で展開された、主権者の第三の義務としての「公教育」論、「教化」論に直結している。この第五編第一章でスミスは、分業の進展に伴う労働貧民の「知的、社会的、及び、軍事的徳性の犠牲」(WN,V.i.f.50.p.782.1126頁)の是正策として、教育と宗教政策による「教化」の必要性を挙げた。
 ここで注目したいのは、「マナーズ」である。我々はこれを「生活態度」と解す。ここで、もし、『感情論』における徳論が我々が「生活態度(manners)」と把握するものと同じならば、スミスの体系は完結する。つまり、『感情論』の議論は、同感と正義とを中心としつつも、マナーズ論として読むことが可能であり、これが更に、法と統治の人間学的前提となり、「治世」論の最後において、「商業の国民のマナーズに対する影響」が考察されるとすれば、ここでは、マナーズに関して前提―被前提の関係が成立し、体系が閉じることになる。

第二節 『諸国民の富』の理論的核心とは何か。

第一項 資本投下の自然的順序論
 上記で、スミスの言う「徳」を「生活態度(manners)」と把握する意義はどこにあるか。もっとも重要な点は、それがスミス政治経済学の理解と関わる点にある。スミス経済学の核心という場合、誰でもスミスの以下の言葉を思い浮かべることであろう。『諸国民の富』第四編第九章「農業の体系について」の末尾にある言葉である。

 「それ故、優先させたり、或いは、制限したりする一切の体系が以上のように完全に撤廃されれば、自然的自由の体系という自明で単純な体系が自ずから確立される。あらゆる人は正義の法を犯さぬ限り、各人各様の方法で自分の利益を追求し、自分の勤労と資本との双方を他のどの人または他のどの階級の人々のそれらと競争させようとも完全に自由に放任される。」(WN, IV.ix.51.p.687.1008頁)(以下、「自然的自由の体系」論と呼ぶ。)

 スミスはこのように確認した上で、第五編「主権者または国家の収入について」へと論を進めるのであり、従って、上記の文章は、スミスの経済学と第五編で展開される政治、国家理論への媒介的な文章ともなっている。上記の文章をそれ自体で理解すれば、スミス経済学の核心は、経済的自由主義として理解されよう。つまり、資本投下、労働投下の自由であり、各人が利己心を、正義の法を犯さない限りで自由に追求すれば、結果として社会全体の富裕化が実現する、という解釈である。
 「経済学の生誕派」の基本的思惟は、自然法学の受容(消極的正義)の結果、スミスは、分業論、自然価格モデルを用いて、「市場機構」、「自由市場体制」の論理を主張したというものである。つまり、『諸国民の富』の主題を、正義論(交換的正義論)→分業論と自然価格論→配分的正義の実現に求めているということである。更に言えば、『諸国民の富』の主題を第一編第七章「自然価格と市場価格について」に見ているのである(85)。しかしながら、公平な観察者の同感に基づく正義(交換的正義)→自由競争市場→自然価格という一連の思考は、容易に、一般均衡論的・パレート最適論的理解に転化する。
 何故ならば、このような思惟は、私的所有権が保証され(正義)、自由競争市場で需要と供給が一致する点において均衡価格(自然価格)が成立し、所与の資源配分に変化がないものとするならば、同時に分配におけるパレート最適点が得られる、とする厚生経済学の基本命題と同一であるからである。これは、スミスの経済学とは、稀少資源の配分に関わる理論、もっと言えば、パレート最適を実現する市場メカニズム論であると言っているのであり、これは交換的正義論中心読解の必然的結果であると思われる。
 しかしながら、真の問題はこうである。『諸国民の富』から引用された「自然的自由の体系」は果たして、スミス経済学の理論的核心を表しているのか?ということである。このような問題が提起されるのは、『諸国民の富』にはこの資本、労働の自由投下の論理に対して、一見すると相反するような「資本投下の自然的順序」、或いは、資本投下の階層性の論理が存在するからである。スミスは第二編で資本蓄積と生産的労働を論じた後、第三編で「富裕の自然的進歩」について論じる。

 「それ故、事物の自然的運行によれば、あらゆる発展的な社会の資本の大部分はまず第一に、農業に振り向けられ、次に製造業に振り向けられ、そして最後に外国商業に振り向けられる。事物のこの順序は非常に自然であるから、かりにも領土をもつほどのものであれば、どのような社会でも程度の差こそあれ、つねに観察されてきたことだと私は信じている。」(WN, III.i.8.p.380.588頁)

 スミスはこのように述べた後、「しかしながら事物のこの順序は…ヨーロッパの近代諸国家の全てにおいて、多くの点においてまったく転倒されてきた」(ibid.589頁)と続け、第三編第二章「ローマ帝国没落後のヨーロッパの旧情における農業の阻害について」に論を進める。この論理展開は、第四編の末尾における「自然的自由の体系」→「主権者の義務」論に直結している。つまり、資本投下の階層性(第三編第一章)→この資本投下の自然的順序がヨーロッパ諸国で転倒されてきた次第とそれへの批判(第三編第二章以下)→このような転倒を生み出した諸理論の批判(第四編)、を前半部とすれば、第四編末尾での「自然的自由の体系」論→「主権者の義務」論(第五編)を後半部とすることができる。つまり、論理展開とすれば、資本投下の階層性→自然的自由の体系→「主権者の義務」論となっている。つまり、資本投下の自然的階層性と自然的自由の体系とは論理的に前提と非前提の関係をなしているのである。
 しかしながら、スミス経済学の継承はこのような論理を把握してこなかった。いやむしろこのような論理的関係を「批判」する形で行われてきたのである。スミスの「自然的自由の体系」を継承した経済学者が、スミスの最大の誤りとして批判したものとは、資本投下の階層性の概念なのである。何故ならば、この概念は、「各人各様の資本と労働との双方をいかなる産業部門へと投下しようとも自由に放任される」というスミスの有名な命題とは矛盾するように見えるからである。スミス以後の経済学者が継承したのは、資本投下の階層性の概念を無効化した一般均衡論的市場メカニズムの概念なのである。
 「資本投下の自然的順序」論の排除は、正義論中心のスミス経済学解釈の結果である。つまり、正義(消極的正義)→分業=交換論→自然価格→配分的正義の解釈の結果である。しかしながら、『諸国民の富』の主題は資本投下の階層性の論理にある(第四章第四節参照)。それゆえに、「自然的自由の体系」論は、第三編における「資本投下の自然的順序」を意味するものと理解されねばならない。つまり、正義論(交換的、消極的正義論)→分業論=交換論→自然価格論→「自然的自由の体系」→「主権者の義務」論という流れにおいてではなく、資本蓄積論(生産的労働論)→資本投下の自然的順序→自然的自由の体系→「主権者の義務」論でなくてはならない。
 否定的な徳として定義された正義の徳(または法)は、法学的には所有権の保証、経済学的には商品の等価交換をその内実とするものであり、これは、『諸国民の富』の主題である一国の富を増大させる第一の要因としての分業=交換論に対応している。しかしながら、正義が『諸国民の富』における唯一の徳であるとすることは、先述したようなパレート最適、一般均衡論的な理解に繋がる。『諸国民の富』における富増大の第二の要因は資本蓄積論、資本投下の自然的順序、資本投下の階層性論であり、後に第四章でしめすように、これこそが『諸国民の富』の真の主題である。重要なことは、正義の徳からはこのような資本投下の階層性の論理は生じてこないということである。農業、製造業、商業、外国貿易の各産業分野での資本投下、或いは、投資が利潤率の動向を唯一の投資要因とするのであれば、農業→製造業→外国貿易の順で資本は投下されるべし、というスミスの結論はでてこない。スミスの資本投下の自然的順序の論理を支える主体的要因は正義を前提しつつも、それには還元できない別の次元を持っている。
 つまり、『諸国民の富』の論理構造は二段階論であって、その第一段階は、分配論(分業=交換論、分配論、自然価格論)であり、第二は、資本蓄積論、或いは、資本投下の階層性に基づく有用労働の雇用論である。第二の資本投下の階層性論は第一の分業=交換論を前提としているが、これには還元できない論理を含んでいる。これをもし、第一の分業=交換論に還元するとすれば、その帰結は、利潤率の動向を唯一の投資要因とする、或いは、資本投下者の利己心を唯一の投資動機とする投資行動であり、農業、製造業、商業、外国貿易の各産業分野のうち、より高い利潤率を実現するものであれば、どの産業分野に資本投下しても良い、というのが論理的帰結である。そしてこのような思惟がマカロック以来の通説であり、現在では、スミス正義論と経済学との関係というより深まった考察の次元にまで内在しながら、結論としては、資本投下の自由という誤ったスミス理解を復活させている。
 我々はスミスの言う「資本投下の階層性」とは、特定の資本蓄積の型を持った国民経済形成の論理であると把握する。

第二項 資本投下の自然的順序論とマナーズ

 スミスが資本投下の自然的順序(国内農業→国内製造業→商業→海外貿易)を支える根拠としたものは、一つは利潤率の動向、雇用労働量(生産的労働者)の数(「等量の資本の中で農業の資本ほど多量の生産的労働を活動させるものはない」(WN, II.v.12.p.363.565頁)。)であるが、他の一つは、「人間の自然的性向」(III.i.3.p.377.585頁)(第三編「様々な国民における富裕の進歩の差異について」第一章「富裕の自然的進歩について」)であり、「利潤が等しいかまたはほぼ同じ場合、たいていの人は自分たちの資本を製造業または外国貿易に使用するよりも、むしろ土地の改良や耕作に使用する方を選ぶであろう。…自分の土地の改良に固定される資本は人事の性質上許される最大限度に安全であると思われる。…人間はその生活史のあらゆる段階において、この原始的な職業に対する偏愛の情を失わずにいるように思われる」(ibid.同上)。
このような商業、貿易よりも生産に傾斜した「人間の自然的性向」をスミスは「慎慮の徳」として把握した。資本投下の階層性の論理を支える主体的根拠である。具体的に言えば、「勤勉と節約」を中心とする「慎慮の徳」である。

 「勤労ではなく、節約が資本増加の直接の原因である。なるほど、勤労は、節約が蓄積する対象物を調達する。けれども勤労がたとえどのようなものを獲得しようとも、節約がそれを貯蓄し、貯蔵しないなら、資本は決して増大しないであろう。」(II.iii.16.p.337.532頁)

 しかしながら、我々は「慎慮の徳」をもって「国民精神」と同一視するのではない。国民精神とは秩序(慣行、習慣、道徳性の一般的諸規則、法秩序、支配秩序)を行為の準則とし、第一義的に正義の法の顧慮を行為のチャンスとする、国内への資本投下に傾斜した(慎慮を義務の感覚とした)、国民経済形成(資本投下の自然的順序)に適合的な生活態度(manners)を意味するのであり、それは言うならば、行為のシステムである。この国民精神論を、スミスは、『諸国民の富』の第五編で次のように総括しているように思われる。

 「あらゆる文明社会、即ち、身分上の区別が一端完全に確立されたあらゆる社会では、常に道徳の二つの異なる様式、即ち、体系が同時に行われてきたのであって、その一つは厳格な、または、厳粛な体系(strict or austere system)と呼んで差し支えないし、他の一つは自由な、または、もし諸君がそうしたければ、緩やかな体系(liberal or loose system)と呼んで差し支えない。前者は一般に庶民から賞賛尊敬され、後者はいわゆる上流の人々からふつう多く尊重採用されている。…身分や財産のある人(a man of rank and fortune)は、自らの地位によって、一大社会の傑出した成員であり、その社会は彼の一挙一動に注目するから、ひいては彼自身も自分の一挙一動に注意せざるを得なくなる。…しかしながら、身分の低い人は、どのような大社会の傑出した成員からもほど遠い。彼が田舎の村にとどまっている間なら、彼の行動は注目されるであろうし、また、彼も自分の行動に注意せざるをえないだろう。この境遇において、またこの境遇においてのみ、彼はいわゆる失うべき評判をもつことができる。ところが、彼が大都市にでてくるや否や、彼は名もなく、人にも知られなくなってしまう。誰一人彼の行動を観察したり、注目したりはしない。従って、また、彼は自分の行動をおろそかにし、あらゆる種類の下等な不品行や悪徳を身につける。」(V.i.g.10.p.794-95.1143-44頁)

 我々はこの引用文にみられる「厳格な、または、厳粛な体系」を資本投下の階層性を支える主体的根拠、「マナーズ」と見なす。このように見るとき、スミスが『諸国民の富』第五編「主権者の義務」論で、国防、正義の維持=「厳格な司法行政を確立する義務」、ある種の「公共土木事業」を建設し、維持する義務(社会資本の整備)と並んで、「公共施設を建設し解を生む。「経済学の生誕派」ではその思惟は、倫理学(徳論)→自然法学・「正義」論→自然法学・「治世」論と展開され、最後の「治世」論とは『諸国民の富』に結実する政治経済学である。その理解は、正義の法という制度的枠組みで、資本投下、労働移動が自由に行われれば、結果として社会全体の富裕化が実現され、配分的正義もまた「それなりに」実現するというものであった。これに対して、我々は、倫理学(生活態度論)→国民国家と法秩序→国民精神に支えられた資本投下の階層性→富裕化という理解を示した。
 そしてまた、『法学講義』「治世」論の最後はその初めの構想では、「治世の国民のマナーズに与える影響」(「商業精神」の国民のマナーズに与える影響)が取り扱われることになっていた。これは更にLJ(B)において「最後に論じるべき治世論の最後の部門(last division of police)は商業が人民のマナーズに与える影響(influence of commerce on the manners of a people)である」とされ、そしてこれは、『諸国民の富』において、「主権者の義務」論でまさに、労働貧民の徳性の腐敗とその防止策である「公教育」「宗教的教化」として論じられている。つまり、主権者の第三の義務である。
 つまり、倫理学(「マナーズ」論)→自然法学(「正義」論と「治世」論)→「治世」論と展開されるスミスの体系において、「治世論の最後の部門」は「商業の国民のマナーズに与える影響」が考察されることによって体系としては完結しているのである。

第三節 道徳感情の腐敗

 前節までの制度を中心とした調和のとれた世界は、行為の制度からの逸脱の可能性という観点から必ずしも予定調和の世界とはならなかった。スミスは何故、『感情論』をその第六版で大きく改訂したか、その理由は「道徳感情の腐敗」にあった。 

第一項 「道徳の一般的諸規則」からの乖離
スミスの倫理学において同様に重要なことは、この道徳性の一般的諸規則を行為の準則とする諸個人の行為は、これらの規則に完全に規制されず、「差異」を生み出す可能性、或いは、一般的諸規則から「乖離」する可能性が存在することを明らかにした点にあると思われる。スミスはいかに「道徳性の一般的諸規則」から人間の行為が逸脱するかを『感情論』で繰り返し述べている。第一に、 第一部 「行為の適宜性」 に関しては、 その末尾(第一部第四編)、 「行為の適宜性に関する人類の判断に関して、 繁栄と逆境が与える影響について」 において、 「歓喜に対する同感」から生じる道徳感情の腐敗が論じられている。 第二に、 第二部 「行為の値打ちと欠陥」 に関しては、 やはりその末尾(第二部第三編)、 「諸行為の値打ち、 または、 欠陥に関して人類の諸感情に偶然性の与える影響について」 で、 「人類の諸感情の不規則性 (irregularity in the sentiments of all men)」 (ibid., p.228. 159頁) が論じられている。 第三に、 第三部での結論、 是認の感情に基づく義務の感覚を受けた第四部では、 その第二編で、 是認の感情に対して、 「効用の美しさの知覚」 が及ぼす影響が論じられている。最後に、 スミスは、 第五部 「道徳的是認、 及び、 否認の諸感情に対する慣習と流行の影響について」 で、 「行為の自然的適宜性からの最大の離反 (the widest departure from what is the natural propriety of action)」 (ibid.,p.409.320頁) を引き起こすものとして、 「特定の諸慣行」 (ibid.同上) について語っている。 こうしたものは全て、「道徳性の一般的諸規則」からいかに人間の行為が乖離するチャンスが大きいかを論じたものと我々は把握する。
我々が「蓋然性」の概念を用いるのは、スミス『感情論』の行為理論に関する従来の議論は、同感原理による道徳性の一般的諸規則の形成の論理としてのみ理解されてきたように見えるからである。しかしながら、同様に重要なことは、この道徳性の一般的諸規則を行為の準則とする諸個人の行為は、これらの規則に完全に規制されず、「差異」を生み出す可能性、或いは、一般的諸規則から「乖離」する可能性が存在することを明らかにした点にあると思われる。我々はスミスの言う「道徳性の一般的諸規則」への「顧慮」とは行為者にとっては、それを遵守する蓋然性を意味するものと考えた。これは「蓋然性」であるから、当然、行為の一般的諸規則を遵守しない可能性をも含まれる。

第二項 歓喜への同感
  スミスが道徳感情腐敗の最大の要因としたもの、 それは 「歓喜への同感 (sympathy with joy)」 (TMS 1st, p.93. 93頁)である。 この概念が初めて言及されるのは、『感情論』初版、 第一部 「行為の適宜性について」、 第四編 「行為の適宜性に関する人類の判断に対して、 繁栄と逆境が与える影響について」 においてである。 スミスによれば、 「歓喜への同感」 とは次のようなものである。 「そこに羨望がない場合には、 歓喜に同感する我々の性向 (our propensity to sympathize with joy) は、 悲哀に対する我々の性向よりもはるかに強いということ、 そして、 快適な情動 (agreeable emotions) に対する我々の同胞感情は、 苦痛な情動に対して我々が抱くものよりも、 主要当事者によって当然感じられる情動の生々しさにはるかに近づく、 ということである」(ibid.,p.96.64頁)。スミスがこの 「歓喜へ同感」論を導入したのは、 「野心」 という情念、 及び、 この情念に基づく身分の区別を論じるためである(第四編第二章 「野心の起源について、 及び、 諸身分の区別について」(ibid.,p.108.72頁))。 『感情論』第六版の改訂理由は道徳感情の腐敗の問題であった。スミスは「歓喜への同感」に基づく野心、貪欲の追求が道徳感情の腐敗を引き起こすと第六版で論じたのである。スミスには二種類の道徳感情の腐敗がある。一つは「分業の進展に伴う労働貧民」における徳性の腐敗である。これは分業の進展に伴う労働者の「疎外」の問題として多くの論者に取り上げられてきた。スミスは、この問題を、「彼が大都市にでてくるや否や、彼は名もなく、人にも知られなくなってしまう。誰一人彼の行動を観察したり、注目したりはしない。従って、また、彼は自分の行動をおろそかにし、あらゆる種類の下等な不品行や悪徳を身につける」という都市における観察者概念の不成立によって説明した。しかしながら、第二の道徳感情の腐敗、歓喜への同感による道徳感情の腐敗こそが『感情論』第六版の最大の関心事であった。これは『感情論』第六版第一章「行為の適宜性について」第三章の表題「富裕な人々、上流の人々の感嘆し、貧乏で卑しい状態にある人々を軽蔑するという性向によって引き起こされる道徳感情の腐敗について」に最もよく現れている。前述した付加部分における道徳感情の腐敗への言及がこれを示している。
更にスミスは同感原理そのものの不成立という事態をさえ歓喜への同感から導き出している。 『感情論』第四部第二編で、 是認の感情に対して 「効用の美しさの知覚」 が及ぼす影響が論じられているが、スミスはここで、「是認の感情がこの効用の美しさから生じる限り、それは他の人々の諸感情にいかなる依拠関係ももたない」(TMS 1st,p.369)と述べることにより、同感原理―他人の感情への依拠関係―の不成立という事態を語っているのである。スミスの道徳哲学の体系原理は言うまでもなく同感である。しかしながら歓喜への同感の言及は、同感原理のもつ自己破壊的な、或いは、自己変化的な要素を示している。

第三項 自己制御論
スミスの真に対処すべき問題は、「歓喜への同感」に伴う 「生活上の中・下流の人々」 における 「道徳感情の腐敗」 なのである。スミスは、 この問題に対処するために、『感情論』第六版において大きな改訂を行った。 この新たな改訂のキイ概念は 「自己制御」論である。 スミスはこの 「自己制御」論の中で慎慮に代わる上級の慎慮、 仁愛に代わる普遍的仁愛論を展開し、 上級の慎慮、 正義、 普遍的仁愛に基づく自己制御の徳をその倫理学の根底とした。 この新たな倫理学に基づく法学の構想が 「新たな自然法学」の構想 であったが、 スミスはこれを完成させることはできなかったのである。 スミスは道徳感情の腐敗の問題に直面し、更に「新たな自然法学」を構想した。これは、一方で、「自己制御」 論を、 他方で、 「立法者」 論に基づくものであったろう。しかしながら、現実の事態はこの「立法者」概念を不必要とした。「事物の自然的成り行き」 はもはや「人類の自然的諸感情」に一致しない。
スミスは既に、『感情論』初版で 「事物の自然的成り行き」 と 「人類の自然的諸感情」 との 「矛盾」 「不一致」 という興味深い問題を取り上げている。 それは 「勤勉な悪漢」 と 「善良な怠け者」 の対比である 。 「この世において外面的な繁栄と逆境とが普通に配分される一般的諸規則…においては徳性は自然にそれに対する適切な報償にであう」 (TMS 1st, p.285. 215頁)が、 「しかしながら、 繁栄と逆境が普通に配分される諸規則が、 この冷静で哲学的な見方で考察された時には、 この世における人類の境遇に完全にふさわしいように見えるとしても、 それらは我々の自然的諸感情 (our natural sentiments) のうちのあるものには決してふさわしくないものである」(ibid.,p.288.217頁)。この文は次のように続く。 「勤勉な悪漢が土地を耕し、 善良な怠け者がそれを耕さぬままにしておく。 誰が収穫を刈り取るべきか。 誰が飢え、 誰が豊かに生きるべきか。 物事の自然的過程 (natural course of things) はそのことを悪漢に有利に決定するし、 人類の自然的諸感情 (natural sentiments of mankind) は徳性ある人に有利に決定する」(ibid.,p.289.同上)。スミスの以下のことを確認する。

「人間的諸感情の諸帰結である人間の諸法は、 勤勉で注意深い裏切り者の生命と財産とを没収し、 無思慮で善良な市民の誠実と公共精神を特別の償いによって報償する。 このようにして人間は自然 (NATURE) によって自然自身がそうでなければしてしまったであろうような物事の分配をある程度訂正するように方向付けられているのである。 自然は彼に対してこの目的のために従うように促す諸規則は、 自然自らが守る諸規則とは違うのである。」(ibid.,p.289.218頁)

 ここでは 「物事の自然的過程」 と 「人類の自然的諸感情」 とはもはや調和してはいない。 しかし、 この 「矛盾」 の解決は 「物事の自然的過程」 に委ねられるのではなく、 「人間的諸感情の諸帰結である人間の諸法」 が 「訂正」 するのである。 しかもこの 「訂正」 の根拠は 「人類の自然的諸感情 (natural sentiments of mankind) は徳性ある人に有利に決定する」 からであるとされる。 人間の 「自然的諸感情」 が 「事物の自然的過程」 の批判の根拠なのである。この文章が『感情論』初版の中に既にあることに注目するべきである。 これは第三部 「義務の感覚」 を論じたところにある。 スミスの終生に渡る意図は変化することはなかった。 この文章はスミスの最後の言葉である自然法学の構想と共鳴しているのである。
 想像力に起源を持つ情念の同感による制御は、 スミスの倫理学、 法学、 経済学の要である。 スミスは、『感情論』初版を情念制御論で初め、 その結論である 「義務論」 においても、 情念制御を論じた。『法学講義』の主題である正義は当然、 非社会的情念の制御されたものである。『諸国民の富』においても、 政府の機能の第一は、 情念制御である。 そして、 スミスの最後の言葉と言える『感情論』第六版の 「自己制御」 論においても、 その役割は情念制御なのである。 だが、 同時に、 同感理論の要である 「想像上の立場の交換」 は、 それが想像力の行使であるが故に、 情念を喚起せしめる。 情念の適宜性を超えた 「歓喜への同感」 「システム原理への同感」 は同感感情そのものを腐敗化、 或いは、 無効化せしめる。 ここにスミス体系の最大の悲劇がある。 スミスはこうした「道徳感情の腐敗」という事態に対して「自己制御」を持ち出し、この自己制御による新たな自然法学の構築を目指したのであるが、スミスはこれを果たす時間はなかったのである。

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