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博士論文要旨

論文題目:自立論・模索するアイデンティティ:成熟世代の異文化体験による変革的主体形成
著者:佐藤 昭治 (SATO, Shoji)
博士号取得年月日:2004年3月26日

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序に代えて
 「異文化」に‘生きよう’とするのは、不安定で不確定そして不満足に「抗って」(尹健次)生きることである。その根本的理由の一つが、例えば日本における移民史を彩る人々、すなわち「他者性」(J.クリステヴァ)に求められることは言うまでもない。その意味では、近世日本社会に見られた身分制度の、現代の所産(現代版)ともいえる「海外在住者」のうちの一部の人々は、不可避的に「不遇の意識」(尹健次)を生きることを運命付けられていたことになる。中世史家・網野義彦はこうした周縁者(「他者性」を帯びた人々)の歴史に反転した見事な生き方を「無縁であるが自由な人々」とみなし、彼らの自由闊達な生き様を賞賛して止まない。私はそれを、歴史性を帯びてはいるが、揺るがぬ自在な生き方から「自立した個人」と見なす立場を採る。
人が、外からの影響(ここでは便宜的に‘外部刺激’と称する)であるにせよ、自らの内側からの声(通常、‘内発動機’と称されているもの)に耳を傾けた結果にせよ、あるいは内外の相互作用によるものであるにせよ、生きていく過程で「変容」していくときに、その結実として内部に生成する‘中核’を、ここで採り上げる際の「自立」の一応の概念規定としての表象としたい。それ(中核)は、誰でも、いつでも可能である‘人間経験’であり、人生のどこにでも生成可能であるという意味で、「他者」はいない。それが構造であるかどうかは定かでない。仮に構造であるとすれば、そこに包含される内実は、端的に人間の‘尊厳’と通約し得る諸概念の束と考えられる。人間の尊厳とは自尊心、名誉心、矜持など、自分自身を肯定し尊ぶ精神的向性の根拠となる人間精神の特性であり、生の意味を産み、育み、励まし、かつ承認し、その一切を受容する、人に存する唯一無二の基点である。もう一方の精神の特性である「屈辱感」も並存することは見逃せない。それは、自尊感情が毀損され、自尊心に抵触する言動や行為を受けた時に髣髴と沸く心的動向であり、自分自身が何かから偏見や差別、または人として侮辱されたとき、それに抗おうとして対峙する際に生じるエネルギーとされる悔恨、怨嗟を生じせしめる根拠となるものである。
 このように本稿で、自立を名誉心や矜持の準拠精神とする「人間の尊厳」と、悔恨・怨嗟などの礎とする「屈辱感」に二別する理由は、前者が普通に考えられる「自立」の中核で説明される内実であるのに対して、後者は、自らの選択した行為が明白に不利益な状況に追いやる場合でも、それを再帰的にさえ肯定し、その方法に確信犯的に固執する情念の根拠を明示し得るからである。
本研究は、50~60歳代の(シニアJTAと呼ばれる)異文化体験を有する中高年齢層の一部に焦点を当てた自立論である。その骨子には「個人性」が前提され、その個人性には、二つの鍵概念(移動と内省)が含意されている。題目に関して述べると、先ず「成熟世代」とは、公式(政府による政治施策上)の高齢者定義が65歳以上(65歳から74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者とさらに下位細分される)であり、研究対象の年齢層が「50歳~60歳代」であるため、一般的に高齢者と想定される年齢層の「次に控える世代」を「成熟世代」と規定して考察を進めたからである。次に、「変革的主体形成」とは、それまでの自らの生き方を「見直し」、先人の知恵や経験知などの「学び」を通して、自らの創意工夫を凝らしながら、新たなる「生き直し」を試みる、そういう姿勢・態度の総合的な「志向性」や「取り組み」そのものを指す「ひとつの生き方」として捉えたい。本研究は、人生後半期にある人が自分の力だけでなく、他者(異文化体験など)との関わりの中で、自らが再生していく物語(自立化過程)を、「変革的主体形成」として編み上げたものである。
 本稿の構成は、序、第一章、第二章、第三章、そして結章に分かれる。序は、本研究の問題の所在を、筆者の関心の在り処に沿って概略し、それがいかなる方法で研究が進められ、提出される稿の構成がどのように配置されているかに及び、最後は、本稿の目的で締める。
 第一章は、先行研究である。「異文化体験論」、「老い」論、そして「自立論」という三つの分析概念を統合して、二つの軸を立て論を展開した。一つは、異文化体験の契機性に着目した「自立」論であり、もう一つは「老い」研究における「自立」である。米国人の高齢者が「自立」しているのはよく知られているが、その実態はどうか。それを解析したB.フリーダンによる「ジェンダー研究」に触れ、我国の豊富といえない自立研究(特に、生涯発達研究)の一部を加えて検討したのは第一節の「自立」観概観である。日本における自立論は、主として女性論であり、それを経由した男性論であるのは、日本社会の基礎に、男性に優位な社会構造があるからだ。続く第二節は、自立の契機性としての異文化体験論である。概ね、先行研究の多くは、「異国体験」がその基礎にあり、たいていは「旅」に纏わるテーマとなる。ただ、本研究の「自立論」における「異文化体験」のもつ意味は、「体験」そのものだけにあるのではない。「異文化体験」には両義性があるからだ。第三節では、なぜ「老年期」と「異文化体験」かに検討が及ぶ。それは、シニアJTAに代表されるボランティアや異文化体験活動そのものである。65歳以上を「高齢者」とする制度化された社会システムは、ある社会通念が固定化されたものである。固定化とは、社会的存在としての「老人」が、社会関係における老年の観点でいうと、社会の「客体」もしくは、社会の「主体」の二通りのあり方で考えられることを指す。前者は、社会から働きかけられる対象であり、後者は、社会に働きかける立場にあるもの、ということである。「老い」が現代性をもつ二側面に注視が向けられる。
 自立は、近代西欧の幕開けと共に生まれた「個人」に深く連動する。本研究は、筆者の修士論文が基礎にあり、その延長線上に位置づけられる。従って、本論の「自立論」と近代における個人とは、その発意において合致していることはあらかじめ断っておかなければならない。そうすると、「近代における個人」を、その理念においても、日常の実際面においても世界の現状において先導する地域といえば、米国であろう。その米国の個人のあり方を見れば、米国に暮らす人々の「自立」観の概要が自ずと知られることから、米国人の高齢者の自立を報告した文献をまず見ることから、一章の検討が始まる。
 米国人の高齢者が「自立」しているのはよく知られているが、その実態はどうか。著述家で米国在住の加藤恭子は、米国人・臨床心理家のJ.ハーヴェイ(Harvey, Joan 1943~)との共著で、米国人の高齢者の生活実態を調べた。1996年のことである。調査目的は、「高齢化する個人に目を向け、そのメンタリティや生き方の方向について論ずる」ことであった。その結果分かったことは、国の建国以来の独立心が、高齢者にも息づいているということである。むろん、米国はそのほとんどを移民によって作られた多民族、多文化国家であり、出身地の伝統・慣習及び文化や価値観などを運び込んできた事情から、一様には論じることは困難ではある。ただ、建国の過程で人々の間に培われた、相互扶助の精神は、各人の出自を超えて米国人に共有された、価値観なのだという。それは、世界で最も豊かな経済生活を送る米国で、高齢者の社会福祉がナーシング・ホームの充実や年金給付などの基礎を形成していることをみても明らかである。そして、そのことが、米国人高齢者の「自立」を担保しているのだと思われるのである。そこに1980年代から楔を打ち込む人がいた。それが、米国のフェミニズム運動の創設に関わったB.フリーダン(Friedan, Betty 1921~)である。高齢者の「負のイメージ」こそ、社会が作り上げたもので、実態とは大きく異なることを、その著書によって、米国で最初に唱えた人である。彼女は、米国社会の女性自立化運動の先頭に立った人であるため、高齢者神話を克服する種々の事例や手法は、「女性」の観点を導入している点に、その特色がある。B.フリーダンの主張は、「老い」に新しい視座を提供した点において現在でも極めて有効であるが、80年代初頭の調査という時代や米国という地域特性により、少しばかり課題を残してもいるがこれらを含めて、批判的に踏み込んだ検討を試みた。

 第二章は、本研究の中核部分をなす「インタビュー分析」である。10名のシニアJTAの異文化体験者による「聞き取り」の全記録である。インタビューは、対象者による「語り」という、社会科学の方法論上いまだ蓄積不足にある「ライフストーリー・アプローチ」に準拠する。それを実験的に挑戦するという「試み」自体が評価相半ばする中、筆者自身が「聞き手」となり、「語り」の分析を担うことで、学位論文の目的そのものに沿う最適な方法論である。「語り手」は、すべて筆者にとっては身近に見知るシニアたちばかりであり、同一の異文化体験を共有する者たちでありながら、仔細に観察すると、「類型化」で括るときに犯す誤謬には何か重大な「予断」が調査者に備わっていることに気付かされる。一人一人の「語り」に込められた意味と生きた足跡を辿り、分析を加えたのが本章である。
「老い」を見据えるか、もしくはその自覚を強いられる世代の異文化体験の中に、豪州シニア・ボランティア・プログラムが数えられる。略して、シニアJTA(本研究の中では「成熟世代」という呼称でも同一の概念で用いる)と称するが、本研究は、その体験者の生の声の集積が基になっている。
高齢化社会(平均寿命に伸長)の結果、「老年期」が肯定的に受けとめられる機運になってきており、それを「裏付ける知」を掘り起こすいくつかの試みの一つ、それがシニアJTAであり、その体験者の「語り」(ライフ・ヒストリー・アプローチ及びライフ・ストーリー手法)から、桜井厚によるインタビュー分析による「ライフ・ストーリー研究法」を分析手法の中心機軸とする。ただ、桜井による「手法」の弱点や、インタビュー対象によっては他のライフ・ストーリー手法とを、適宜採り入れながら、本インタビューによる独自の「成熟世代の自己意識と自己生成物語」の世界を抽出した。

 第三章は、「老い」をその歴史的側面による通時的考察と、諸外国及び我国の政策に対する共時的考察を経て、「中年期」研究を試みる。第一節は、二つの事実に目を向ける。一つは「エイジング」という現象である。エイジングは、人類史上、初体験となる「長寿命化」という人口革命を指す。エイジングは、個人も社会もマクロの観点で大変革の兆しがあることを仮説提示する。もう一つは、「エイジズム」という現象である。エイジズムは、いわゆる高年齢層の人たちに対する偏見と、それに起因する差別を指す。これは、マクロの問題であると同時に、ミクロの問題として浮上する。この二つの事実は、実は「近代」が大きく関与することが明らかとなり、その論証に一章分を割く。
 第二章は、「シニアJTAのライフストーリー」を、再び、各人の語りという日常語で記述してきた。本章では、最終章の「むすび」で考究する多種多様なシニアの自立形成の足跡を念頭に置きながら、「近代に措定された老い」について社会科学的な言語を用いて考察していきたい。「老い」が近代特有の状況(負の側面の固定化)ならば、それを反転して(正の)側面に舵取りを切り替えてくれる契機として、何に向かうかをそこで問うことが出来るだろう。その契機性の一つとして「異文化体験」を第一章第二節において提示したが、ここでは<近代>に拘りたい。なぜなら近代は、「移動」をその表徴の有力な一つとしており、移動は、「異文化体験」の相貌を照らし出しているからだ。そして、本章で考察する<老い>は、その近代が「負の側面」を炙り出し強化したものである。同じ時代相と時代の局面で、同時に生み出した、といえるからである。本研究のテーマであるシニアJTAは、紛れもなく、その「近代」が作り出したものだ。シニアであるから「老い」の相貌と重なる。上述したように、その「老い」は、ある固定された「負のイメージ」に塗れている。このように、その特異な相貌を作り出す<装置>としての近代は、一方には<老いという負荷>を、もう一方にはその負荷を解毒してかつ、反転したエンパワーを産み出す「異文化体験」という契機性に同時平行して加担するとしたら、どうであろうか。
本章では、「老い」を巡る4つの位相に着目する。「老い」は時間の中にある、と喝破した哲学者の見立てに従うと、第一の位相は、「加齢現象(エイジング)」である。そして、エイジングが、人の偏見や固定的イメージを助長させると、「エイジズム」と呼ばれる、新種の差別に行き着くのである。エイジズムの中核を占めるのは「年齢」である。年齢は、本来、人が生まれてから「誰にでも」「平等に」数量化して、ある特定の人のライフサイクルの「数値的位置」を表徴するに過ぎないものである。その本来性が、いつ、いかにしてどんなふうに「個人に付着した特定の符牒」となりえたか、その考察が第二の位相である。その符牒が「意味」に変容した「年齢」は、特に、人生の特定の時期に集中限定して用いられ、それを私達は<老い>と称した。その「老い」の海外事情や歴史的推移を追ったのが第三の位相である。最後の「第四の位相」は、<老い>の準備期にある、いわゆる「向老世代」としての「中年期」について考察した。本研究の時空間に沿うと、いわゆる「団塊世代」研究に充当する。

 最終章は「結章」として、5つの節で進める本研究の締め括りである。「老い」を統御しその虚構性(第一節)を創り出した「近代」は、今、世紀の繋ぎ目で新たな「時代の出現」を予言させるいくつかの徴を、社会の各所に抱えている。社会の構成たる諸個人の「動き(生き方や、諸国間の移動など)」にも、それが顕著だ。日常性に見られる具体例で言うと、年齢と社会的地位との間に明確な関連性がみえなくなった。就職、結婚、親になることなど、従来、年齢で枠付けられていたライフ・イヴェントが絶対的なものではなくなり、移行の順序も多様化した。また、年長世代の人生にはあった、長期的な安定性が消滅して、より個人化し、リスクの多い「選択的人生」へと転換した。社会の激動期である、そのような諸兆候が示唆するものは何か。実は、「老い」に印された「負のイメージ」は、近代により創出されたものの、それを「跳ね除ける装置」も同時に身の内に備わっていたことを近代自体が見逃していたことが発覚した。それを示唆したものが、リスクの多い「選択的人生」であり、個人化化する後期近代の露な特色であったというべきである。それは誰にも止められない「悪性新生物」に似た勢いで世界を席巻していくことであろう。「老い」は、マクロで言うと、そういう動きの、人口革命的激変の、一つの警笛なのであった。だが、ミクロの観点では、例えば、異文化体験という外部刺激の機会など、ある一定の条件さえ整えばそういう動きに抗う強力な支えとしての武器(自立)として機能する側面をも同時に胚胎することも、識ることになったのである。「老い」は「問題」である、と措定して固定化し続けた近代という装置は、それが生み出したと同じ局面で、「課題」として浮上させるパラドックスを同時に演じることが確認された。だが、「老い」は、そもそも「問題」だったのかを、それを再確認する手続きを踏みながら、数十年単位でその社会相を、大変貌させる「超高齢化」という相貌への正しい価値転換の方途が求められるに相違ない。そういう状況下、シニアJTAという個人的営為が一つの可能性として「老い」に向き合うエネルギー旺盛なモデル(理念)型としてのみならず、近代の中心を担った壮年(生産性優先の労働層)モデルから、サステイナブルな地球環境に最適な理想のモデル(理念)型として、サクセスフル・エイジングとしての積極的マイノリティの勇姿の生まれ変わりの姿に見えるのである。
 A.ギデンズは、「高齢化問題の社会的重大性は、(略)高齢であることがもたらす好機と、高齢であることが担う負担、それらの意味が劇的に変化していること」と、その大著(『社会学』)で明確に指摘したように、現代の「老い」には、「好機」と「負担」という顕現する両義性をまず直視することから始め、しかるのちそれらを冷静に解析しながら、その意味を問うていく姿勢が必要であろう。両犠牲とは、高齢のもつ二側面であり、ひとつは「高齢の好機」であり、今ひとつは、「高齢の神話」である。第一章では、社会科学及び隣接諸科学における先行研究が、この問題をどのように捉えていたかを、簡略に批判的検討を加え、第三章では、第一章を踏まえた本研究の独自の見解を述べた。それらは、上述のギデンズにいう「高齢=負担」が、近代化に付随して「創出された」ものという理解の下、実態とその神話性の間にある大きな乖離を明瞭にし、その正体を暴くことであった。すなわち、近代は、「年齢が人々をステレオタイプ化した固定的役割にはめ込むために利用する抑圧装置」だということを第三章では論証し、「多くの人々が、このような扱い方にたいして積極的に強く抗議し、自己実現のための新たな活動」(下線は筆者)という新たな模索のひとつとして第二章に詳述した「シニアJTA」という異文化体験の試みが、高齢者の新たな可能性として浮上してきたのである。

むすび
 輝けるシニア(成熟世代の人びと)は、着実に増え続けている。一人びとりは、事実として厳しく眼前に突きつけられた、俯瞰された社会の側面としての「高齢状況」には何らかかわることなく、そういう事実をもてあそぶかのように、自分の人生を、日々の具体的な生活行動の中に顕現させつづけている。本研究で対象とされたシニアJTA体験者は、すでに「過去の人」である。彼らに「続く」新たなシニアJTAは、毎年、数人から十数人と加速的に増している、まるで中高齢者の人口構成上に印す速度に呼応するかのように。そして、注目すべきは、そういうシニアJTA予備軍は、いまだ「異文化体験」に足を踏み入れる前であるにもかかわらず、「応募」「選考」「渡航準備」の段階ですでに、輝ける相貌をその内に湛えていることを十分予想される態度や発言に備わっていることである。実は、これは驚くべきことではなく、至極当然であるという、ある意味での発見が、第二章「インアビュー分析」を通して知らされた帰結でもあったからである。むろん、「異文化体験」のもつ契機性やその「転換期」として画すべき種々の要因として無視できないが、人間の転換や変貌を説明するのに、たった一つの「事例」だけで乗り切るということそのものにはそもそも無理があるというべきである。なぜなら、そういう見方は、象徴としての事例採取ならいざしらず、人間の複雑怪奇性や未知数の存在を捨象してしまい、あまりにも単純化しすぎた人間観に依拠していると思われるからである。(了)

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