博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:戦後日本における「地域と教育」論の史的展開
著者:朱 浩東 (ZHU, Hao Dong)
博士号取得年月日:1998年2月18日

→審査要旨へ

 本論文は、戦後日本の「地域と教育」論を、戦後初期から1980年代初期までの史的展開を「教育学説の社会的形成過程」として分析することを主題としている。構成は、概略以下の通りである。
 第一章 「地域と教育」論研究へのアプローチ
 第二章 戦後改革期の「地域と教育」論
 第三章 高度経済成長期の「地域と教育」論
 第四章 ポスト高度経済成長期の「地域と教育」論
 結章
 補論

 本論の課題・枠組・研究対象を明らかにするために、第一章においては「地域と教育」論研究へのアプローチをまとめた。

 その第一節「問題の所在」においては、先行研究を分析した。数少ない戦後日本教育通史を扱う著書において「地域と教育」に関する研究の整理・分析、とくに位置づけの弱さは顕著であり、時には不在とさえいうことができる。そのために筆者は、まず戦後日本教育史研究の代表的な文献である五十嵐顕他編『戦後教育の歴史』(1970年)、大田尭編『戦後日本教育史』(1978年)、山住正己『日本教育小史―近現代―』(1987年)の3点を検討し、それらには戦後改革期の「地域教育計画」等に関する記述はみえるものの、1950年代以降の「地域」にかかわる一連の理論的・実践的模索についてはほとんどまとまった考察がなされていないことをみた。つづいて筆者は、鐘ヶ江晴彦「『地域と教育』の課題と展望」(1982年)と海老原治善『戦後日本教育理論小史』(1988年)を本論文に対する先行研究として批判的に検討した。海老原治善の研究は政治的教育運動論としての「地域と教育」に関する考察にとどまり、鐘ケ江晴彦の研究は、1950年代、60年代、70年代前半における「地域と教育」に関する研究の展開を看過し、薄弱なものとなっている。一方、教育社会学、教育行政学、社会科教育学などの各領域における研究動向を検討し、そこから「地域と教育」という問題意識の多角性を引き出すとともに、戦後日本の「地域と教育」論の史的展開を総体として論じるためには、それらの全体をおおいうるような研究の枠組が必要であることも確認した。最後に中国における日本教育研究の現状を検討し、多くの研究において日本の教育政策の一環として実施された教育計画の展開と結果を中心に研究が行われ、民間教育運動に関与した教育学者などによる教育研究と実践にはほとんど目が向けられていないことをおさえることによって、戦後日本の「地域と教育」論の史的展開の研究が、中国における日本教育史研究において新たな研究視角を開拓する意味を有するものであることを提起した。

 第二節「本論の研究対象・枠組と意義」においては、本論文の研究対象である「地域と教育」論の定義を行い、またその史的展開過程を明らかにするための方法について論じた。

 「地域と教育」論を定義すれば、それは近現代日本の教育の支配的なあり方に対して、公教育制度の組織単位としての地域、学校づくりの土台としての地域、教育内容としての地域のいずれか、あるいはそれらのいくつかの視点に立脚して提出されたアンチテーゼであり、さらにそこから「公教育制度と地域」、「学校と地域」、「教育内容と地域」の関係を問うために展開された教育の学説であるということができるであろう。それは、日本の教育学研究の諸分野のなかで個々に深められたものであったが、同時にこうした諸分野の研究のアプローチの差違を越えて、戦後のそれぞれの時期ごとに共通の課題意識がみられ、また同時にそれらの時期を貫いて戦後一貫した問題意識がみられた。

 本論文は、戦後改革期、高度経済成長期、ポスト高度経済成長期というそれぞれの時期の地域社会の変動過程の中にあって、戦後日本の教育学が、公教育制度の組織形態、学校と地域との関係、教育実践の再組織からなる人間形成の社会的過程の地域的再編成とどのようにかかわり、どのようにそれらを理解し、どのような理論的表現を与えたのか、を考察することを目的としている。換言すれば、本論文の主題は、日本の教育学による人間形成の社会的過程の地域的再編成の読み解きの所産としての「地域と教育」論の個性の分析であり、戦後改革と高度経済成長という2つの大きな変動過程を通して模索を続けてきた日本の教育諸学説の、あるマージナルな、それゆえきわめて論争的な分野をめぐる反省的考察、ということができるだろう。それは「地域と教育」論を素材として、教育学説の社会的形成過程研究を志すものにほかならない。そのために本稿では、戦後「地域と教育」論の時期区分を試み、そこからそれぞれの時代の教育および地域社会の現実との緊張関係のなかで、どのような個性を有する「地域と教育」論が展開されていったのかを跡づけることとした。その際、とくにそれぞれの理論の個性を明確にするため、以下の二つの点に注目したい。

 1)「地域と教育」論を担った教育学研究者およびその他の教育関係者は、教育と地域社会の現実をどのように理解し、何を考え、どのような現実の動きに示唆を得ながら、何を課題と考えたか。
 2)また、1)のような関心から、彼らはどのような理論的課題を背負い、それをどのように解決しようとしたか。

 このような教育学説の社会的形成過程研究を行うために、本論文では通常の活字テクストや第二次文献のほかに、以下のような独自の資料を用いて分析を試みた。

  ・関係者へのインタビュー調査
  ・さまざまな実践にかかわる未公刊資料
  ・さまざまな実践にかかわるテープ資料

 以上の研究課題を設定したうえで、第一章、二章、三章において戦後「地域と教育」論の形成過程と内容を考察した。戦後日本の「地域と教育」論の歴史展開をふり返りながら、「地域と教育」論登場・展開の歴史的文脈を戦後民主主義社会の形成と、1950年代半ばに端を発する高度経済成長による社会の急激な変化と結びつけて整理することにより、本論は戦後の「地域と教育」論を次の三つの時期にわけて考えた。

 第1期 戦後改革期の「地域と教育」論(終戦直後~1950年代初頭)
 第2期 高度経済成長期の「地域と教育」論(1950年代後半~1960年代末)
 第3期 ポスト高度経済成長期の「地域と教育」論(1970年代初頭~1980年代初頭)

 戦後の「地域と教育」論は、各時期において異なる契機のもとに形成された。第1期においては、教育における中央集権的要素の払拭という課題が提起され、これが「地域と教育」論登場の契機となった。第2期においては、1960年の日米新安保条約調印によって成立した新安保体制下での日本のアメリカに対する従属関係の深刻化への危惧が、第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立運動に注目する上原專祿の国民教育を生む基盤となる。そこで展開された民族独立論は第2期の「地域と教育」論の形成の契機となった。これに対して、1960年代の高度経済成長の結果生じた多くの地域問題に着眼したことが第3期の「地域と教育」論形成の契機となる。それぞれの「地域と教育」論形成の契機はそれぞれの時代背景のもとに現れたものであり、その担い手たちは、社会の現実課題に常に目を向けていた。

 第1期のカリキュラム自主編成の流れのなかに現れた「地域と教育」論においては、「地域課題の理解」、「地域現実問題の解決」などが教育内容編成の視点として打ち出され、また「本郷プラン」にみる「教育懇話会」の構想と実施により地域住民による教育づくりの試みが行われた。

 コミュニティ・スクール理論の導入は、第1期の「地域と教育」論を生み出す土台であった。新しい教育に基づいて日本の再建をはかるという問題意識の下に、アメリカのコミュニティ・スクール論の著作『学校と地域社会』、『教育とコンミュニティ』が訳されたことは、コミュニティ・スクール論に教育再建の手がかりを探ろうとした当時の教育改革の動向を反映している。

 戦後改革期における、地域の生活に基づいて学校教育の内容を編成するという考え方はコミュニティ・スクール論の受容のみによるものではない。戦前の民間教育運動との関連も考えられる。この点についても触れておいた。

 コミュニティ・スクール論の受容により、地域社会改造の課題意識が成立し、地域社会発展の課題が教育づくりの射程に入った。一方、地域と教育の関係に関する捉え方は、おおむね地域課題の抽出による教育内容編成論にとどまり、しかもそれは主に新設社会科の内容に限定されていた。また、「本郷プラン」の下では「教育懇話会」構想にもとづく地域住民による教育づくりの実験がなされたが、戦後改革期の「地域教育計画」の挫折によりその広がりはみられなかった。

 戦後改革期の「地域と教育」論の抱えた問題点は、同時期の「地域と教育」に関する研究の限界を示すものである。こうした限界を有する背景には、にわかにコミュニティ・スクール論を代表とした進歩主義教育論を導入したことにより生じた、教育づくりの意欲的展開と日本社会の現実との乖離という問題があった。「地域教育計画」づくりの提唱者自身の反省を含めた戦後改革期の「地域と教育」論への批判にもみられているように戦後教育改革のなかに教育民主化論として形成された「地域と教育」論は「実際の適用に際して、下層大衆のもっと有効に組織することに失敗した」(大田尭)。

 第2期の「地域と教育」論の中心となる担い手は上原專祿である。上原は、新安保条約と国民所得倍増計画を背景とする長期総合教育計画のなかに「近代的合理主義の仮面をかぶった」要素が存在することを見抜き、それに対して「日本の政治現実、社会現実の中で教育はどう行われなければならないか」というアクチュアルな問題理解をもとにしてあるべき教育の姿の探求が行われなければならないと考えた。1950年代半ば以降、一方で新教育の抽象性を批判しつつ、他方戦後教育改革への反改革の動きにも抗して新たな教育のあり方を展望する議論は「国民教育論」と呼ばれたが、上原の探求もまた「国民教育」の探求として行われたものであった(『国民形成の教育』、1962年)。

 上原理論の特徴は、民族独立という課題意識に基づく「日本人の創造」という教育目的の自覚の明確さにあった。上原は、一方で日米安保条約改訂に危機意識を深めつつ、他方バンドン会議に象徴される旧植民地諸国の独立に励まされることによって、民族独立の問題を当時の日本の最優先の社会的課題であると考えたが、氏によれば、その課題は単に政治経済的な制度の改革のみによるのではなく、「高次のポリティークとしての教育」による「日本人の創造」によっても解決されねばならないという。歴史学者であった上原が教育論に説き及んだ理由がまさにその点にあった。

 だが、自らをも含む日本の戦前以来の知識人のあり方に対してきわめて反省的な上原がそうした教育の出発点に求めたのは、「政治」でもなければ「科学」でもなく、民衆(あるいは大衆)一人一人の「生活現実」、あるいは「生活実際性」であった。ここに上原国民教育論のもう一つの特徴がある。上原は、民衆が自らの「生活現実」の中から、あるいはその「生活実際性」に即して問題をつかみとり、そこから学習をすすめることによって「明日の日本社会の創造という全国民的課題の積極的担い手」が形成されると考えた。上原がいわゆる「地域の地方化」を批判したのは、それによって「生活実際性」が抽象化されることをおそれたからであり、逆に「個性をもっている生活集団の有機的な複合体」である地域を「価値概念として」捉え直すことによって「地域の主体性」の確立を介した日本国民の自己形成の課題を明確化しうると考えたからであった。その意味で上原の「地域と教育」論は、「日本人の創造」をめぐる氏の思念の到達点であったのであり、同時にそのことによって教科教育についての展開の不十分さなど、教育論としての弱さを含みこむことになったのであった。そのことは、国民教育研究所を中心とする六県調査と現実の教育改造のつながりの弱さ―それは第1期における「地域と教育」論と教育改造の実際との密接な関係との大きな違いである―などにも影響しているものと考えられる。

 第3期の「地域と教育」論は高度経済成長後の地域社会の急激な変貌の中で形成されたものである。この時期、人間形成の社会的過程に対する見直しは教育の内容・方法から学校組織のあり方、さらに公教育制度の組織形態にまで及んだ。そのような見直しにもとづくさまざまな実践はそれにふさわし言葉を求め、そこから「地域に根ざす教育」や「地域教育運動」といった新たな用語も生み出され、短期間に人口に膾炙する展開を歩んだ。教育学者たちは―ときにそれらの用語をつくり出し―そうした実践を読み解きながら、戦後直後の「地域教育計画」論の再評価などの作業も含みつつ、あらためて「地域と教育」論の構築をすすめていった。

 この時期に形成された「地域と教育」論の特徴を一言でいえば、「生活の質」への問い直しであり、そこから生まれた文化のあり方への新しい展望ということである。そのような問い直しに理論的な表現を与えるために、民俗学や地域社会学や社会史、さらに自治体問題研究や環境問題研究にかかわる諸科学が動員された。そしてそれによって「地域」という言葉もいっそう多義的なものとなり、それは「地域と教育」論にいっそうの多様性とある種の曖昧さとを付与することになったのである。

 第1期において「地域と教育」論の旗手となった大田尭は、第2期における生活綴方研究と「日本の農村と教育」研究への沈潜を経て、再びこの時期において「地域と教育」研究の重要性を強く主張した。大田は「人びとの内側からの自主的な連帯関係」の創造を核とする「子育てと教育のためのシヴィル・ミニマム」を保障していくことを課題として提起した。中津川教育市民会議や中野区教育委員準公選運動のような「地域からの教育改革」の担い手のあり方を「子育ての習俗」に関する民俗学的な研究をふまえて論じることが、第3期の大田の「地域と教育」論の特徴であった。

 それに対して、「地域教育計画」概念の「復権」を主張し、中内敏夫らとともにその再構築を意図したのが藤岡貞彦である。藤岡は、現代「教育計画」論の批判的研究によって地域教育計画論を基礎づけることをめざし、「地域にねざす教育実践」や「教育における住民自治」の取り組みに積極的な発言を試みていた。農村社会教育研究から出発した藤岡にとって、「地域の再建と教育の再建とを一つのものとしてつかむ」「教育計画の主体」の形成は焦眉の課題であった。

 一方、この時期、社会学者の松原治郎は、とりわけマッキーヴァーのコミュニティ研究の影響の下にコミュニティ形成の意義を重視し、「学習社会の水平的統合」を提唱するとともに、中野区の教育委員選任問題専門委員会の委員として準公選制度の立案に関わったのであった。また、「地域教育社会学」を構想した矢野峻は、家庭、学校、地域の三者間の協力関係の形成を通じて「新しい『教育システム』」を構築していくことを課題とした。これら第3期の「地域と教育」論の形成に携わった教育学者たちは、ポスト高度経済成長期の地域社会と教育の実態に即して「地域と教育」論を深める役割を果たしたが、学校に内在する固有の「学校文化」への認識の弱さや国家の支持する制度などの事実に即した考察に弱点がみられ、そのことが1980年代以降には批判的に捉えかえされることになるのである。

 人間形成の社会的過程としてたち現れている制度・慣習・実践とその再組織化の営為とからなる人間形成の社会的現実を読み解きつつ、人間形成にかかわる知のストックの継承・応用・批判・再評価等の選択プロセスを経たうえで形づくられる人間形成の理解と改善のための知的枠組みを本論文では教育学説と呼んできた。それが世界の諸地域でいついかなる形で誕生し、現代に至るまで展開してきたのかを明らかにすることは、まことに今日的な研究課題である。本論文が問題としたのは、「教育論や教育学ということになると、比較的その歴史の浅い地域」と中内敏夫が特徴づけた日本における戦後のその歩みであり、とりわけそこに一貫して流れている「地域と教育」という問題意識を全体として浮かび上がらせ、その個性を明らかにすることであった。

 本論文において明らかとなったのは、中内の指摘する1920年代以降日本の教育学者や実践家が試みてきた「普遍的概念としての教育概念を、特有の生活様式と要求にあわせて主体化し、その内在化に特有の形式を明らかにするしごと」が「地域」という言葉にこだわりつつ教育学説を展開してきた人びとに共通する課題意識であったということである。たとえば、「輸入された教育学を、否定も肯定も含んで、われわれのものとする」ことの重要性を指摘する大田が「地域」という言葉を重視してきたのは、教育の概念と教育学とを、戦後改革と高度経済成長とを背景とする人間発達にとっての地域の意味を問いかけながら相対化し、それらを「われわれのものとする」ための言語的媒介装置として「地域」を位置づけていたためであった。同じことは、「大衆」の「生活実際性」に注目した上原や地域における「生活の質」に着目した第3期の理論家たちの場合にもあてはまる。いわば、「地域と教育」という問題意識は、西欧化による近代化の枠の内にあることの多かった人間形成にかかわる知のストックと人間形成の社会的過程の地域的再編との齟齬を埋め合わせるための模索の形容に冠された総称であったといいうるだろう。その総称にリアリティを与えたのは、戦後改革期の教育民主化への関心の高揚であり、1960年前後の安保改訂前後の社会的緊張であり、また高度経済成長末期からポスト成長期にかけての社会生活の急激な変化、といったそれぞれの時代における契機であった。それ故に、「地域と教育」論はその展開の各時期において「地域と教育」の関係に焦点をしぼりながら人間発達の筋道を明らかにする蓄積を築いた。また、そこには地域との関連のなかで人間発達をめぐる課題が問われただけに、ひとたび社会的ダイナミズムが変貌を遂げ、「地域と教育」論が内包していた理論的脆弱性が新たな社会的、理論的コンテクストの下で批判にさらされるに至る時、「地域と教育」論は次の時代にむけて自己吟味と新たな理論的模索に入る。本論文において検討した第1期、第2期、第3期の「地域と教育」論においては、こうした論自身の展開過程が反映されている。教育学説としての「地域と教育」論は、戦後日本における人間形成の社会的過程の地域的動態の文脈とこのように密接にかかわっていたのである。本論文においてあえて「教育学説の社会的形成過程」に光をあてたのは、まさにそのかかわりの解明を手がかりとしながら「地域と教育」論の史的展開を明らかにするためであった。このような研究は、日本国内において地域と教育との関係についての関心が広がりつつあることを考えても、また現代中国の教育問題を考察する上でも、不可欠な作業であるものと考えている。

このページの一番上へ