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博士論文要旨

論文題目:戦後日本財界と政治
著者:菊池 信輝 (KIKUCHI, Nobuteru)
博士号取得年月日:2004年3月26日

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1 本研究の課題と対象
 本研究の課題は、戦後日本政治においてその政策の形成と執行に強い影響力を行使し続けてきた「財界」に焦点を当て、財界が戦後日本政治の独特の構造の形成と維持に与えた影響を歴史的に明らかにすることである。
 日本に極めて特殊な組織である「財界」の定義をあらかじめ明らかにしておくと、財界とは、第一に、個別企業、個別業界間、個別業界と産業界全体の利害対立、さらに大企業と中小企業の利害関係の対立を大企業優位に調整して経済界全体の利益と意思を形成し、第二に、こうして統合・調整された利害・政策を政治に対して組織的、系統的に働きかけることによって実現するという機能をもった、企業ないし企業経営者諸団体からなる機構のことである 。この意味で財界はすぐれて政治的な性格を持っている。
 ところで、海外には経済・業界団体はあっても「財界」という括りがなされることはなく、このような経済界の統合的な意思形成と政治への伝達の機構としての「財界」は日本、それも戦後日本に独特なものであると思われる。「財界」という用語は戦前から使われていたが、戦前の「財界」はほぼ財閥と同視され、戦前は二大財閥から二大政党への資金供給を通じて政権をコントロールする体制がつくられていたため、財界という機構が固有の役割を果たしたとは考えがたかった。したがって本研究は財界が現に今あるように形成され機能するようになった戦後期に分析の対象を設定している。
 この「財界」は、2002年に経団連と日経連が合併するまでは、経済団体連合会(以下経団連)、日本経営者団体連合会(以下日経連)、経済同友会(以下同友会)、日本商工会議所(日商)という四大経済団体によって構成されてきたので、本研究が直接対象とするのは、この四大経済団体と政治との関係である。

2.研究史の整理と本研究の問題関心
 本研究が財界に焦点をあてた理由は、日本政治における財界の影響力の強さの割に、研究においては財界の役割が軽視されてきたからである。
 財界の大きな影響力、とりわけ政策決定に関する決定的ともいえる規定力にも関わらず、既存の政治学の研究においては、政治過程において個別業界が政治に対して強いインパクトを与えていることについては多くの業績があるものの、財界を正面から扱った研究は、二,三の例外を除いて全くといってよいほど行われてこなかった。
 その理由には、実は日本政治のあり方に関する独特の視角が影響しているように思われる。
 一つは、日本政治については、戦前の天皇制国家以来、国家とりわけ官僚機構の圧倒的優位という仮説が根強く存在してきた。この国家の優位とは、一般に後発の近代化を志向した国家が官僚機構の主導により経済発展を追求する特徴をもたざるをえないという歴史的な事実によるものであった。しかしながら、そうした仮説はしばしば官僚の政治への役割を過大にみつもる傾向をもったのである。こうした日本国家についての仮説が戦後の政治過程分析にも少なからぬ影響を与えていると思われる。本研究でも検討する、いくつかの戦後政治史の画期となる事件が、既存研究では政治家と官僚の調整のみで事態が打開されたとされることが多いのもこうした視角によるものであった。しかも、こうした官僚優位説的視角は、しばしば、戦前の国家体制と戦後のそれの決定的違いを過小評価する傾向をももった。
 第二に、上記の天皇制国家の優位仮説と関連して、広く流布している戦後日本政治の後進性という視角が、政治分析についての狭い視野を生んでいることも、財界分析の軽視に大きな影響を与えてきたように見える。
 日本政治の後進性視角とも関連して、従来の日本政治研究は、その象徴としての自民党内派閥や自民党とその支持基盤の利益誘導関係など、政治家の選挙過程における地位保持の誘因分析に焦点が絞られてきた。その結果、政策決定の主体としてどうしても官僚、政党が重視され、特定の政策がいかなる社会的諸力の合成の産物であるかの研究がともすると軽視されてきた。日本政治に関する多くの業績が、こうした自民党政治の基盤維持のための派閥、利益政治などの手法の解明に捧げられているのも、こうした視角の所産であるように見える。
 もちろん、戦後財界の展開に応じて、こうした官僚優位論的視角や後進性視角はさまざまな異論にさらされ、特に多元主義的方法に立つ研究者によって、戦後政治史に関するさまざまな仮説が打ち出された。そのうち有力な一つは、官僚に対する政治の優位を強調する研究である。また、官僚主導型国家の成立とその戦前・戦後の連続性について、その淵源を単に戦前にもとめるのではなしに、1940年代の戦時体制下にもとめる研究が力を持った。また政治に対する業界の役割を重視し、政-官-業の連携に日本政治の特徴を見る研究も数多く見られる。
 しかしこうした多元主義の業績も、主として政官関係に焦点を絞ってしまい、また経済諸団体と政治の関係を追求する場合には、個別業界と政治にもっぱら力点が置かれ、依然として、財界を正面から扱う研究が少ないのが現状である。
 以上のような研究史の現状をふまえ、本研究は、財界を政治意思形成への主たるアクターに据えて戦後史を見直そうと試みるものである。

3.本研究が解明した主な諸点
 本研究が既存研究に加えて新たに解明した点は、以下の三つである。
 まず第一に、「財界」が日本政治に決定的ともいえる強い規制力を持ちうるに至った根拠を解明したことである。こうした財界の力の根拠として本研究がもっとも重視したのは、「財界」を構成している単位企業が、労働者に対して特殊に強力な統合を実現していることである。日本企業の強い労働者統合によって自民党政治はその安定の社会的な基礎を獲得しえたのであり、企業のこの力が保守政治に対する強い発言力の基礎をなしたのである。
 本研究が重視した二つめの根拠は、「財界」が経済界の諸利害の対立を調整し、それを一つの意思にまとめあげる、多元的かつ柔軟な機構を作り上げることができた点である。経団連をはじめとする財界諸団体の連携により個別業界や中小企業の諸利害の対立が調整されたことが、政治に対する財界の発言力の基礎にあったことが明らかにされた。
 三つ目は、政治特に保守政治に対する経団連による政治献金斡旋という、個別企業の名を消した特殊な形態での献金という形で金銭面でも強力かつ統一した規制力をもっていたことがあったからである。
 本研究が明らかにした第二の点は、「財界」の意思調整と形成のプロセスが四団体相互の役割分担と対抗を通じて行われてきたことを、歴史的に明らかにしたことである。財界団体が、経団連、日経連、同友会、日商といった四大経済団体に分立してきた理由は、それぞれ異なる経済的基盤を有した企業によって組織され、かつ役割分担がなされてきたからであった。経団連は重化学産業の大企業を網羅することによって大企業の意思を調整する機関であり、日商は中小企業を交えた地域別組織をもって中小企業の利害を大企業のそれに妥協・従属させる役割を果たし、同友会は中堅経営者の個人加盟の形態をとっていたが故に常に「先進的な」改革構想を打ち出す役割を果たした。これらの経済的基盤の差異は、それぞれの団体が発した利害や政策の違いとなって現れ、その調整の上に政治や経済が動いていったのであった。
 役割分担の側面では、経団連と同友会は経済問題に、日経連は労働問題と社会保障問題に特化するという特徴があるが、これも歴史的対抗の所産であった。戦後初期の同友会は、日経連と同じく労働問題に強い関心を持ち、両者の構想は、相互に対立しつつ当時の労働に対する国の政策を左右するほどの影響力を持ったのである。2002年に経団連と日経連が統合された理由は、このうち社会保障問題が大企業の問題としてもちあがってきたことに対応していたと考えられる。
 本研究が明らかにしえた第三点は、以上のように、財界を主軸にして戦後政治史を叙述することにより、経済成長と開発に偏った戦後政治がなぜ成立し発展したかという点についての既存の像を大きく修正しえたことである。例えば、本研究では、50年代における通産省の産業政策も、けっして官僚主導のものではなく、財界の干渉を受けた末にできたものであることを論じた。「国民所得倍増計画」が財界の意向を尊重する余り、民間に対しては誘導にとどめるとしたことを明らかにしたのも、こうした視角から分析したために初めて可能となったことであった。

3 本研究の構成と概要
 財界の形成と展開は大きく三つの時期に区分してとらえることができる。
 第一期は、1945~60年代半ばまでであり、この時期は、個別経営での経営権の確立を基礎にして、財界機構が形成、確立し、政治に対して組織的・系統的な影響を行使するに至った時期である。この形成期の財界は、個別企業における労働者統合の形成に力点が置かれたため、財界団体の中では労使関係の規制を担当した日経連が主動的な役割を果たした点で、日経連の時代ともいえる。
 第二期は1960年代半ば~80年代半ばでの時期である。この時代には、財界は、政治に対して系統的に影響力を行使する体制を確立し、経済の高度成長とオイルショック以降の不況をいち早く克服するとともに、保守政権の安定を支えた。この時代には、財界の中では大企業の連合体である経団連の指導性が確立したことから経団連の時代と呼ぶことができる。
 第三期は、1980年代半ば以降今日に至る時期である。この時代には、企業の多国籍展開を背景にして、財界のヘゲモニーで、既存政治体制の新自由主義的改革が強行された時代である。新自由主義改革を領導したのは、経済同友会である点に着目すれば、この時代は、経済同友会の時代と呼ぶことができよう。
以上の財界の時期区分に沿って、本研究の概要を述べる。
 第一期戦後財界、すなわち戦後財界の形成については第1章から第3章で明らかにした。第一期の財界は、その影響力という面では、まず経済政策について顕著に力を付けていくが、政治を決定するだけの力はまだ完全とは言えなかった。
 まず第1章では戦後改革から講和期に至る財界と政治の関係を扱った。ここでは第一に、戦後財界がGHQによる戦後改革に強制されながら、同時に戦前期財界の限界とその克服をめざした財界人の改革志向に規定されて、戦前と全く異なった組織的性格を持って設立された経緯を明らかにした。戦前期財界と戦後のそれの断絶性は特に二つの点で顕著に表れた。
 一つは、戦後財界が、GHQの労働改革によって強力化した労働組合との協調に大きな力を割くことを強いられるようになったことである。経済界パージによって新たに経営の陣頭に立った若手の経営者層の中では新たに台頭した労働組合に対処する方針をめぐって二つの潮流が生まれた。組織された労働者の力を前提にそれとの協調を重視する「修正主義派」と、経営のヘゲモニーの再建を重視する「実力主義派」である。前者は同友会が、後者は日経連が代表した。戦後財界は、こうした二つの潮流の対立を通じて、その路線を形成していったのである。
 二つ目は、戦後財界が、戦前の財閥や財界世話業に代えて経済界の諸利害対立の調整と統合的意思形成を図るための新たな組織を作ったことである。とくに個人に依存した組織を機関決定のできる組織に作り替えた過程を経団連に焦点をあてて解明した。
 第二に、個別企業における経営権確立のプロセスを、後に経団連会長に就任する石坂泰三が再建に携わった東芝を素材にして検討した。特にその中では、石坂が東芝労働組合をその生産主義的な志向に注目して企業の再建に動員しえたことを解明した。これは、戦後日本企業の再建と労働組合の企業主義へとつながる一個の典型をなしている。
 第三に、確立期の財界の政治的影響力について確認するために、戦後改革期の統制機関であった経済安定本部と財界の関係に焦点をあてて検討することにより、戦後初期の財界と政治との関係を明らかにした。
 第2章では、講和後に、財界の進路を巡り、戦前への復帰をめざす構想と戦後的な新たな組織を作ろうという勢力が対立し、後者が優位を占めて行く過程を明らかにした。
 第一に、独立の回復が戦後財界の形成にどのような影響を与えたのかを明らかにした。一つは追放解除された財界人の戦後への復帰、二つには戦後改革の一貫として設けられた独占禁止法が緩和された影響を検討した。この独占禁止法改正により強力な独占規制法制が緩和されたた結果、それを受け戦前の財閥が復活したと評価されるが、決してそうではなかったことを検証した。また、この二つの出来事を背景として、戦後財界は52年に組織改編を行っているので、その原因と結果について検討した。
 第二に、49年に成立した通商産業省がどのように産業政策を行おうとしたのか検討した。ここでは第一章で見る安定本部との関係、財界が同省をどのように位置づけていたのかに注目した。
 第三に、労使関係の安定による経営権の確立は、日本労働組合総評議会(総評)が企業横断的な組合運動の形成に力を入れたために、大きな困難を伴い、遅延したことを明らかにした。この総評が平和主義運動などを巻き込んで行った運動に対し、財界、特に日経連がどのように対応しようとしたのかを見た。
 第四に、この時期の財界の政治的影響力について見るために、まず55年に始まる五か年計画に財界がどのように影響を与えたのかを考察した。とくに、そうした総合計画作成に影響力を与えるに至ったと考えられた鉄鋼産業に焦点をあて、そこにおける経営権確立と政治への影響力確立のプロセスを分析した。
この第一期の戦後財界は、いまだ形成期であって政治を決定するだけの力を有していなかったが、政治資金の斡旋を背景に、保守合同や首相の辞任要求などが行われていたことに着目した。
 第3章では、高度成長期の財界が、個別企業における企業主義的統合の成功を基盤にし、かつ特殊な献金機構の確立を実現することを通じて、政治に対する組織的影響力を発揮する体制を整えた過程を明らかにした。
 まず第一に、貿易の自由化が通産省、財界に路線対立をもたらし、それがようやく体制を確立してきた財界の調整によって統合される過程を追った。
第二に、60年に起こった二つの大事件であった三井・三池争議と安保闘争について分析した。前者は貿易自由化ともかかわり、財界にとって大きな課題であった。それだけにここでは個別企業、財界、政治がどのように行動したのかを、詳細に検討した。後者は、戦後政治の転換点ともなる事態だっただけに、それを財界がどのように認識し、どう働きかけたのかを分析した。また、これら二つの事件によって荒廃した国民を安定化させるためにつくられたのが「国民所得倍増計画」であった。この計画にも池田勇人や経済審議会を通じて財界の強い関与があったので、その分析を行い、「国民所得倍増計画」が有した意味を再検討した。

 第二期の財界については、4章から6章にかけて分析した。この時期は、高度成長が完全に軌道に乗った時期であった。特に大企業は企業主義化した労働組合を背景に経営権を確固たるものとし、財界はさらにそれを背景にあらゆる政策を決定していくだけの影響力をもつようになった。
 第4章では、60年代半ばにおける不況期に焦点をあて、その克服過程において、さまざまな構想が噴出したにもかかわらず、経団連の主導する高度成長政策が採用されて行く過程を明らかにした。
 65年不況は高度成長路線の見直しの機運を生み、国家介入による経済の安定化が検討された機会でもあった。実際、通産省が統制手法の強化を試みたのはこの時期であった。しかしながら、この時期を境に、経団連主導でむしろ一層の高度成長路線が採られるに至った。特に、池田から政権を引き継き、池田の高度成長路線を批判していた佐藤栄作のもとでなぜこうしたことが起きたのか、という点に注目して分析を行った。
 第5章では、60年代半ば以降から、財界は保守政治の安定に乗って、一貫して高度成長路線の採用を強制してきたが、それが公害問題その他の発生で大きな困難に逢着し、一時的にその影響力が喪失したことを明らかにした。しかし、財界は73年オイルショックによる不況の克服、とりわけ75年春闘を通じて権威を回復し、一層政治に対する影響力を強めるに至ったことを明らかにした。
 第6章では、財界が、当時、アメリカやイギリスで展開されていた新自由主義改革に追随し、当時抱えた財政赤字の肥大による長期金利の上昇という独自の要因から、80年代型とも言うべき新自由主義改革を遂行した過程を明らかにした。
 第一に、高度成長を維持するために政治に強いた赤字国債による景気対策が、逆に企業経営を圧迫し始めたことを明らかにした。このことによって、財界は赤字国債削減のための新自由主義的改革を提起せざるを得なかったのである。
 第二に、財界が財政赤字問題に注目している中、中曽根康弘首相を中心に、日本の構造をそもそも変えようとするグループが生じてきたことを分析した。彼らは減量経営と輸出主導型経済の維持が、逆に貿易摩擦や米国の地位減退という問題を生むため、それを改革しようとしたのである。これは財界に対して政治が主導的な立場を採った珍しい事例であった。
 第三に、しかしながら中曽根は、こうした改革の舵取りを誤り、単に内需拡大をするための財政支出に打って出た。この結果日本はバブル経済を経験し、さらにそのバブル崩壊が本格的な改革を惹起した。ここではその転機となった為替の大改革であった、「プラザ合意」に関する財界や政治、官僚の対応を詳細に検討した。

 第三期の財界は、第二期の財界が謳歌した、輸出主導型経済とそれを可能にする国家、社会構造を改変しようとする本格的な新自由主義改革を行った。それは既存の政治構造のみならず、企業のあり方、社会構造の改変を含む大規模な改革であった。これを分析したのが、第7章である。
 まず、ここでは、80年代の半ば以降、財界内部に国際協調のために既存国家体制を解体しようとするグループが生まれてきたことを明らかにした。この90年代型新自由主義改革と呼ぶべき路線はとりわけ同友会によって先導されたので、ここでは同友会に注目して分析を行っている。さらに、バブル崩壊以降、他の財界団体も同友会の提唱した路線を踏襲しなければ日本経済が成り立たないと認識し、それを実現しようと意思統一する過程を分析した。
 第二に、本章では、そうした財界意思を実現した橋本龍太郎内閣の六大改革に焦点をあて、その改革が不況の深刻化により挫折を余儀なくされ、その過程で新自由主義改革派に漸進、急進の二潮流が形成されたことを明らかにした。しかもこの二潮流が、経団連、日経連、急進派が経済同友会という形で財界の諸団体によりになわれていることも、本章で明らかにした点である。2002年の経団連と日経連の合併もこうした新自由主義改革をめぐる路線対立の中で生まれたことを解明した。
 最後に、本研究のまとめとして、現小泉政権が、こうした財界内の意見対立を反映し、改革の加速と減速を繰り返さざるを得ないという現状を確認した。

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