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博士論文要旨

論文題目:日ソ関係とモンゴル:満洲事変から日ソ中立条約締結までの時期を中心に
著者:マンダフ・アリウンサイハン (ARIUNSAIHAN, Mandah)
博士号取得年月日:2004年3月26日

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要 旨
1.研究の意義と問題意識
 本論文は、1930-40年代初頭にかけてモンゴル(当時のモンゴル人民共和国)が東アジア国際関係史、日ソ関係史の中で果たした役割を、ソ連と日本の対モンゴル政策、ノモンハン戦、日ソ中立条約におけるモンゴル問題などとの関連で分析することを目的としたものである。本論文が研究対象として取り扱うこの時期の極東をめぐる日ソ関係の展開において、モンゴルをめぐる問題が重要な位置を占めていたものと思われる。この時期は、満洲国の樹立からモンゴル東部国境での日ソの軍事衝突(いわゆるノモンハン事件)、第二次大戦の勃発、そして日ソ中立条約の締結へと続く激動の時代であった。
 当時モンゴルは、日本とソ連の関係において、地理的にも政治的にも重要な位置を占めていた。すでに満州国を樹立していた日本にとって、モンゴルをも手中にすれば、ソ連に対する攻撃の重要な戦略上の拠点となりえた。また、それまでモンゴルを「社会主義の兄弟国」と位置づけ、モンゴルに対して柔軟な政策をとってきたソ連も、日本軍の国内への脅威を防ぐ緩衝地帯としてそれを位置づけるようになるにつれ、政治・経済面での内政干渉を強めていった。
 しかし、冷戦終結以前の欧米や日本の研究において、モンゴルは、「ソ連の衛星国第一号」と決め付けられ、その外交史はソ連外交史研究の範囲の中で付随的に触れられるにとどまり、東アジア国際関係史の研究において独立した研究対象として捉えられることは殆どなかった。その背景には、モンゴルの独立は独立戦争の帰結でなく、ソ連のモンゴルに対する植民地政策の結果に過ぎない、言い換えれば、モンゴルの独立革命はソ連の南下膨張主義の産物に他ならないという見方が根強かったことがある。そこには、欧米、日本、中国の研究者の、小国モンゴルに関する偏見、および冷戦時代の東西の対立意識などが強く働いていたと考えられる。
 けれども、こうした理解は、当時モンゴルがおかれていた東アジアの国際状況に対する視点を欠いた単純な見方であると考えられる。
 モンゴルとソ連の民主化後、両国のアルヒーフ文書が公開されたことにより、モンゴルが東アジア国際関係史のなかでどのような位置にあったのか、その国際政治上の位置がどのようにして形成されてきたのか、日ソ関係史の中で果たした役割は何であったのかなどを、新たな視点から解釈することが可能になった。そのことによって、東アジア国際関係史をさまざまな角度から再検討することが求められている。
 ソ連とモンゴルは、1934年11月に、日満側からの脅威に対処するため、相互援助に関する紳士協定を結び、さらに1936年3月には、これに代わる期限10ヵ年のソ連・モンゴル相互援助条約を締結した。モンゴルはこれらの協定・条約に基づいてソ連軍の進駐を受け入れたが、これを通じてモンゴル国内でソ連の影響力が増大した結果、1937-38年にかけて、モンゴル政府の指導者・軍上層部を主な標的にした大量粛清が行なわれ、対日防衛問題、モンゴル国内の反革命勢力打倒問題などをめぐってソ連と対立関係にあった多数の有力者が粛清された。
 従来、この粛清の性格については、以下のような二つの異なる理解が示されてきた。一つは、粛清の実行者であるチョイバルサン元帥が権力の座を欲した結果としておこったもの、すなわちモンゴル国内の権力闘争として捉えるものであり、もう一つは、モスクワでおこなったソ連大粛清の延長線上に、モンゴルの粛清を位置づけるものである。けれども、どちらの見解も、粛清へのスターリンの関与を強調しすぎるきらいがあった。
 これらに対して、本研究では、この粛清をモンゴル指導者の日本への対応に対する、ソ連側からの牽制として捉える新たな解釈を提出する。当時のゲンドゥンをはじめとするモンゴルの指導者たちは、日ソ間の紛争にモンゴルが巻き込まれる危険をなるべく回避しようとしていた。実際、1936年にソ連から示された相互援助条約の締結に対して、彼らは表面上好意的な態度を見せながらも、積極的に受け入れることはしなかった。その一方で、1935-37年にかけて彼らは、日本・満州と、国境紛争の平和的解決を目的とした会議を継続的に行っていた。
 これまでの研究において、ノモンハン事件は、日本とモンゴルの間の単なる小規模な国境紛争として片づけられたり、逆に日本とソ連との対立ばかりが語られ、そこでモンゴルが果たしていた役割が軽視されたりしてきた。しかし、上記の大粛清問題についての新たな歴史的解釈からすれば、ノモンハン事件も、1930年代における日・ソ・モンゴル間の複雑な国際情勢を映し出す、極めて意義深い歴史的出来事として捉えることができる。
 満州国樹立以来、当時のソ連・モンゴルと日本・満州の4国はモンゴルの東部国境問題をめぐって、激しく対立していた。筆者の考えでは、日ソにとって、モンゴルと当時の満州国との間の領土問題は、日ソ両国の国交調整を進める上で、大きな障害の一つであった。この国境問題はノモンハン戦、ついでモロトフ・東郷による停戦協定、国境確定会議を経てようやく解決され、そのことは日ソ中立条約の成立に少なからず影響を与えたと考えられる。
 同様に、1941年の日ソ中立条約についても、新たな視角からの分析が可能である。日ソ中立条約の締結は、もともと日ソ国交調整を目的としたものだが、締約国である日ソにとってはもちろんのこと、日ソの緩衝国モンゴルにとっても重要な内容を含むものであった。というのも、この条約の締結と同時に発表された日ソ両国政府の声明書において、モンゴル領土の保全、不可侵の尊重が表明されていたからである。
 この日ソ中立条約におけるモンゴル承認問題を、1935年から1937年にかけてモンゴルと満州国の間に行われた、国境紛争の平和的解決を目的とした満州里会議、ノモンハン停戦協定にもとづくモンゴル・満州の国境確定会議、ノモンハン戦、ソ連・モンゴル相互援助条約などといった日・ソ・モ間の一連の政治的諸事件との関連で分析していくことが本研究の最大の特徴といえる。つまり、モンゴル・満州間の国境は、これら一連の軍事・政治過程を通じて確定され、その結果、極東における日ソの勢力圏争いが一応の決着を見たと思われる。

 このように、本論文は、満州事変から日ソ中立条約までの時期の極東アジア国際関係史における日・ソ・モンゴル関係史の実態を実証的に明らかにすることを試みたものである。その際、特に満州事変勃発後の極東をめぐる日ソの対立の激化、それに伴う日ソの対モンゴル政策の変化に着目する。これらの分析を通じて、モンゴル問題が当時の日ソ国交調整にとってきわめて重要な意味を持っていたことを明らかにし、そのことを通じて、当時モンゴルが単にソ連の一方的な従属下にあったわけでなく、国際関係の変化に応じて、ある時は独自の外交を展開し、ある時はソ連の圧倒的影響を受けたことを示したい。
 以上のように、本研究により、戦間期のソ連・モンゴル・日本の関係史の研究に、新たな光をあてることができる。また、太平洋戦争前史の研究に対しても重要な意味をもつと思われる。さらに、本研究は、旧ソ連の崩壊とモンゴルの民主化によって、両国で新たに閲覧可能になった極秘資料にもとづくものであり、歴史研究におけるその資料的価値も高いと考える。

2.構成と概要
本論文は4章からなる。以下では、各章の内容について、順次示す。

 まず、第1章では、満州事変後の極東をめぐる日ソの対立、それに関連したソ連の対モンゴル政策の変化について論じ、これと同時に日本の大陸政策遂行にとってモンゴルとモンゴル民族問題がもっていた意味について考察を加えた。満州国成立によって、モンゴルとモンゴル民族問題が、極東アジア国際関係史において新たな意義をもって登場し、それが極東をめぐる日ソ外交関係の展開にとって極めて重大な意義をもつようになったのである。満州事変の勃発とそれに伴うソ連の対日宥和政策の挫折は、モンゴルとソ連との間に防衛に関する緊密な協調関係を強化させる要因をもたらした。1921年のモンゴルの人民革命以来、コミンテルンの指示はモンゴル人民革命党の政策決定に大きな影響を与えていたが、満州事変を境に、モンゴルに関するあらゆる政策決定が、スターリンの直接の指示で行われることになった。1932年にスターリンは、モンゴルに対する政治指導についてこれまでコミンテルンが担っていた役割をソ連共産党に移譲することを決定したのである。
 1934年頃から日満軍が満・モ国境にさかんに軍隊を派遣するようになった結果、モンゴル軍との間に国境衝突事件が頻発するようになった。この満洲における日本軍の動向をソ連侵攻の準備と捉えたソ連は、満州とソ連の国境線の防衛を強化すると同時に、満州に接するモンゴルの軍事力の強化につとめ、モンゴルに対する政治・軍事面での影響力を強めていった。こうして、1934年11月にソ連とモンゴルの間に、締約国の一方に対して武力攻撃が加えられた場合、軍事的援助を含む一切の援助を相互に与えることを約束する紳士協定が締結された。これは、事実上、モンゴルへのソ連軍駐留を認める根拠となった。
 一方、日本側は、こうしたモンゴルに対するソ連の影響力拡大が、日本の満洲・内モンゴルへの勢力拡大に重大な影響を与えるものとみなし、ソ連への警戒心を増大させた。ソ連に向けられた軍隊といわれた関東軍にとって、モンゴルはソ連への直接的軍事行動を妨げる戦略上重要な緩衝地帯になっていたので、対ソ軍事戦略の観点からみて、モンゴル問題を重要視せざるを得なかった。つまり、当時の関東軍は、ソ連の東進政策に対抗する拠点としての戦略地理的重要性に、モンゴルの利用価値を見出していたのである。このため、モンゴルからソ連の影響力を排除し、日本の勢力範囲に取り入れることを目的として、多くの方針、要綱、計画が、日本政府・軍などによって作成された。実際、関東軍の対ソ作戦計画では、モンゴルは対ソ攻撃の有利な作戦基地の一つとみなされていた。この基地の攻略は、南方からのソ連ザバイカルへの最短通路を関東軍に開き、ソ連の全極東を脅かすものであった。
 また関東軍はモンゴル人民共和国と直接国境を接する内モンゴル地区を「防共特殊地区」と捉え、モンゴル共和国から南下する共産勢力の「赤化工作」を阻止するという戦略的観点から、対モンゴル政策の一環として、内モンゴルの自治運動を支持する政策をとっていた。さらに関東軍は、内モンゴルの独立運動を進めていた徳王に接近し、親日自治政権の樹立を試みた。
 関東軍は内モンゴルの自治運動に協力することによって、内モンゴル地区の共産主義化防止とモンゴル共和国との連絡分断に一応成功するとともに、内モンゴルにモンゴル共和国からの「赤化」を防止するための戦略的拠点を確保した。これにより、関東軍が対ソ戦に専念できるよう背面が固められたのである。その反面、関東軍にとって、モンゴルの独立運動が満州に波及することは脅威であった。このため、関東軍は、満州については、一貫してその民族主義を抑止する政策をとっていた。このように、満州国成立によって、モンゴル問題は日本の大陸政策遂行にとってにわかに極めて重大な意義をもつようになった、といえる。

 次に、第2章では、1938年頃までの時期について、日本および満州の兵力増大に伴って、ソ連のモンゴルへの圧力が強まり、モンゴル内で行われた一連の粛清を経て、チョイバルサンがソ連の影響下に独裁体制を固めていったことについて論じた。
 当時、日本軍との衝突は不可避とみていたソ連は、極東防衛上の必要性からモンゴルへの政治・軍事面での影響をさらに強化していた。つまり、この時期のソ連の対モンゴル政策の重点は、モンゴルに対日軍事戦略面で重要な拠点の一翼を担わすことに置かれていた。1935年1月のモ・満国境で発生したハルハ廟事件をきっかけとして、モンゴル人民共和国と満州国との国境付近で国境紛争が頻発するようになった。モンゴル側がハルハ河東方20キロの地点を国境線と主張していたのに対し、日満側はハルハ河をもって国境線と主張していた。ソ連政府は、1935年以来のモ・満国境におけるモンゴル軍と日満軍との間の度重なる国境紛争を日本軍による対ソ攻撃の脅威としてとらえ、モンゴルにおける基地保有の必要性を一層確信した。そして、極東での日本軍の行動を抑止するために、モンゴルとの協力関係を一段と固め、モンゴルの軍事力の増強に本格的に取り組むことを決定した。
 1936年3月12日、ソ連とモンゴルとの間で、締約国の一方に対して武力攻撃が加えられた場合、軍事的援助を含む一切の援助を相互に与えることを約定した「モンゴル・ソ連相互援助規定書」が締結された。この協定は、ソ連の対モンゴル軍事援助を正式に認め、ソ連とモンゴルの対日政策が共同防衛体制という新段階に入ったことを示すものであった。モンゴル政府としては、この議定書の締結によって、モンゴルに対する関東軍の軍事行動の抑制と、モンゴルの独立と安全の保障を期待していた。また、ソ連政府も、この議定書の締結によって、モンゴルに軍事基地を確保し、ソ連の極東地域での安全を一段と強化させることが出来た。実際、本議定書に基づき、1936年4月からソ連赤軍の部隊がモンゴルに進駐し、ノモンハン事件の際には約4万人ものソ連軍兵士が参戦している。
 他方で、この条約によってソ連がモンゴルへ自軍を進駐させるのに必要な法的根拠を得たことは、日本軍に大きな危機感を抱かせ、モンゴルを取り巻く国際情勢を複雑なものにしてしまった。そして、ソ連・モンゴルの間に共同防衛体制が確立され、ソ連の日満に対する無言の威圧が強まったことは、ソ連抑止のため日本がドイツとの同盟関係を強化しようとする一つの要因となり、1936年11月25日、日独防共協定が締結された。これをきっかけにして、日本の対モンゴル政策は一段と強硬になり、関東軍は、国境問題を実力で解決しようとする行動をとるようになった。
 日独防共協定の締結はソ連にも大きな衝撃を与え、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらした。ソ連は、日本との戦争に備えてモンゴル方面に対する兵備を強化するとともに、モンゴルにおける影響力の強化を図って、モンゴル政府内の「対日宥和派」追放に乗り出した。
 1937年7月に日中戦争が起こると、ソ連政府は、ソ連軍の大部隊をモンゴルに進出させた。このソ連軍部隊の兵力を背景に1937年9月にモンゴルで、4万人にのぼる犠牲者を出した大粛清が行われた。この粛清のモンゴル側の背景には、モンゴル政府内の、僧侶問題や対日政策の選択をめぐっての対立があった。当時のゲンドゥンなどのモンゴルの政治指導者は、日本の脅威に対処するためにソ連との友好関係を強化させていたが、他方では、なるべく日ソ間の戦争にモンゴルが巻き込まれる危険を回避するため、1935-37年にかけて日本・満洲と国境紛争の平和的解決を目的とした会議を継続的に行っていたからである。
 この大粛清によって、ソ連の外交政策を全面的に支持するチョイバルサン元帥が党・政府の権力を一手に握り、この時期を境に、日本に対して極めて強硬な態度をとるようになった。
 満州事変勃発以降の極東をめぐる日ソ対立の激化が、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらし、モンゴルの粛清を助長した。モンゴルの粛清の理由づけに、モンゴルの指導部と日本との関係が強調されていることからも、当時のモンゴルの政治動向に対して日本の満州進出が大きく影を落としていることが分かる。結局、この大粛清の結果、モンゴル政府が政治・経済や安全保障の面でソ連に依存する度合いが一層高まり、モンゴル自身の外交政策というものが、その独自性を失った。

 第3章においては、満州里会議からノモンハン事件停戦協定成立までの日ソ関係の展開におけるモンゴル問題を論じながら、停戦協定およびモンゴル・満州国間国境画定をめぐって日ソ間で交渉がおこなわれた歴史的背景はどういうものであったのか、について考えた。
 満州里会議は、モンゴルと満州の国境で発生したモ・満国境紛争の平和的な解決を目指して、1935年から37年にかけてモンゴルと満州国との間に行われたが、第2章で述べたモンゴルの大粛清などの影響で、結局挫折に終わった。しかし、この会議は何の結果を出すことなく終わったわけではなかった。満州里会議は日ソ衝突の牽制に重要な役割を果たしていたからである。事実、交渉が行われていた3年間は、日ソ間に大きな衝突事件が起こらなかった。また満州里会議は、モ・満両国が日ソより一足先に国境紛争をめぐる会議の開催に成功し、3年間にわたって交渉を続けたという点で、国境紛争の平和的解決への道を開き、後の日ソ関係改善の交渉にも寄与したのである。この満州里会議の決裂によって、日ソ関係は対立化の度合いを一段と深めた結果、日ソ間の戦争の危機が現実のものとなり、やがて両国はノモンハン事件に突入していった。
 日本ではノモンハン事件の発端は、モンゴルと満州との間の国境線が不明確なことにあったと理解されているが、実際のところ、境界線画定の歴史的過程を詳しく検討してみれば、国境線はむしろ明確だったことがわかる。ノモンハン事件当時の国境線は、1794年にすでに清国のモンゴル分断統治政策によって画定されていた。清国によって画定された外モンゴルと内モンゴルのバルガ族地方との間の境界線は、国境線というよりも、清国統治下のモンゴルの2地域の境界線、つまり清国の国内的行政境界であったが、この境界線が後に、1911年のモンゴルの独立と満州国の樹立に伴って、自動的に当時のモンゴル人民共和国と満州国との国境線に変わっていたのである。
 日本の参謀本部や関東軍は、国境線に関する地図や歴史的記録の分析および現地調査などによって、ハルハ河の東方約20キロにこのような国境線があることを充分に確認していたにも拘らず、ハルハ河を国境線と主張する現地のバルガ人の主張を利用して、ハルハ河を国境線とみなすことを要求し、しばしば武力行使も辞さない態度を示して、国境問題を実力で日本に有利に解決しようとした。1939年4月に関東軍参謀部が作成した「満ソ国境紛争処理要綱」は、ソ連・モンゴル軍がハルハ河を越えたときは、これを不法行為として徹底的に排除し、必要あれば一時的にソ連領に侵入してもよいという、一歩間違えれば戦争を誘発しかねない重大な内容をもつもので、結局ノモンハン事件の発生および戦闘拡大の原因となった。
 1939年5月11日、満州西北部のノモンハン付近でハルハ河東部の国境警備にあたっていたモンゴル軍警備隊に対して、これを不法越境と見なした満軍警備隊が攻撃したことをきっかけに、ノモンハン事件が勃発した。日本政府は早期の戦闘終結をめざし、同年7月に、東郷駐ソ連大使宛てに停戦交渉に入るよう訓令を発したが、東郷が戦局を読み誤った結果、実際にソ連と停戦交渉を開始したのは、外務省の発令から2ヵ月後の9月9日であった。このように停戦交渉を引き延ばした現地の外交官の判断は、戦争を長びかせ、大きな命が失われる要因の一つであった。
 1939年の9月15日、ようやく日ソの停戦協定が成立し、双方から6万人の負傷者を出したノモンハン戦が終結した。停戦交渉成立後の東郷・モロトフ国境画定会議(1940年6月9日)において、モンゴルの国境は完全に回復されなかった。ヨーロッパ国際情勢の急激な変化によって、ヨーロッパと極東での2正面作戦を回避する必要性に直面したソ連が、モンゴルの国境問題で日本に妥協したからである。こうして、モンゴル固有の領土であるモンゴル南部のアルシャン地区は、満州側に残り、結局は中国に引継がれることになる。モンゴルは日ソの国交調整の代償として本来の領土の一部を失った。
 満州里会議、ノモンハン戦、国境画定会議といった一連の具体的な軍事・政治過程を通じて得られた、日ソ両国のモンゴルと満洲国との国境に関する原則的な意見の一致は、両国間の外交的接近に非常に都合のよい前提条件をもたらしたのである。

 第4章では、ノモンハン停戦協定に続く、日ソ国交調整の過程で、モンゴル問題が日ソによってどのように処理され、それが日ソ関係の改善およびモンゴルにとってどんな意味をもっていたのかについて考察した。
 モンゴルの国境問題は、ノモンハン事件、日中戦争の長期化、ヨーロッパ情勢の激変、さらには日本における南進論の高まりなどの日ソを取り巻く国際情勢を背景に、日ソの諸懸案の中で、まず解決しなければならない最も重要な問題として現れた。第3章で述べたように、東郷・モロトフ会議で、ソ連側がモンゴルの国境問題で日本に譲歩することによって、日本との国交調整改善の道が開かれた。そして、1940年4月から6月にかけてのヨーロッパにおけるドイツ軍の勢力拡大によるヨーロッパ国際情勢の急激な変化は、日ソの外交的接近にさらに大きな影響を与えた。日本政府は、ヨーロッパ情勢の変化によって西洋列強がアジアに割く戦力が乏しくなったことに乗じて、東南アジアへの進出を早期に進めるために、ソ連に重慶政権への援助を中止させ、日中戦争を解決に導く必要があった。一方、ソ連側は、当時のヨーロッパにおけるソ連を取り巻く国際情勢の緊張度の高まりを背景に、ヨーロッパと極東での2正面作戦を回避する必要から、日本との関係改善に積極的に努力しはじめた。
 こうしたことを背景に、モンゴルと満洲国との間の国境問題の解決をうけて、日ソ両国関係の転換を明らかに記したのが、1941年4月13日の日ソ中立条約の成立であった。この条約は、日ソ間の直接的武力衝突の危険性が解消されたという、国際政治上大きな意味を持っている。この条約によって、日本にとっては、北方から受ける軍事的脅威が弱まり、南進政策を推進する上で心理的にも実際上も大きなプラス効果を持ったし、ソ連としても、二正面作戦を回避することが可能となった。
 この日ソ中立条約のモンゴルにとっての政治的意義は、これまでソ連・中国・満州との関係を鑑みてモンゴル不承認政策を堅持してきた日本が、共同声明において、初めてモンゴルの領土保全、不可侵の尊重を表明したことでモンゴルの独立性を事実上認めたという点であった。この結果、緊張関係は続いたものの、モンゴル・日本間の軍事・政治的対立が緩和され、日ソが中立条約を守り、中立関係が保持された4年間、モンゴルは直接的な戦争の脅威から解放されたのである。また、1921年のモンゴル人民革命によるモンゴルの独立以来、その独立をソ連以外に承認した国はなく、国際法上の見地からすれば、その地位は曖昧なものであったが、声明は日本が事実上モンゴルを承認するものであったから、モンゴルの国際関係上の地位の向上にも重要な役割を果たした。

3.結論
 以上の各章の分析から明らかになったのは、以下の3点である。

 まず本研究は、30年代の極東をめぐる日ソ関係史を、日ソ両国の関係の展開という枠組を超えて、極東アジア国際関係の他の構成員であった小国モンゴルなどとの関係を鑑みながら検討したものである。1930年代のモンゴルの対外政策は、ソ連の圧倒的影響を受けていたが、従来考えられていたよりも、はるかに積極的能動的な性格を有し、満州里会議、ソ連・モンゴル相互援助条約、満州国との国境確定などをふくむ、いくつかの具体的な成果を生み出している。モンゴルは、1921年のモンゴル人民革命以来、ソ連の唯一の同盟国であったが、両国の関係は、一般に言われているほど友好的ではなかった。実際、少なくとも戦前までのソ・モ関係は非常に複雑で、当時の国際関係の推移に大きく左右されるものであった。この意味で、満州事変勃発以降の極東をめぐる日ソ対立の激化が、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらし、モンゴルの大粛清を助長した、といえる。

 次に、満洲事変から日ソ中立条約締結にかけての日ソ関係の歴史的展開を概観すると、当時のモンゴル人民共和国と満洲国をふくむ地域で、両国の利害関係は、国境・領土問題や小国の動向ともからんで激しく衝突し、ついに戦争という帰結を生んでいる。この意味では、この極東アジアをめぐる日ソ両国の緊張・対立の激化の根本的要因の一つは、モンゴルの国境問題、あるいはモンゴルの国際関係上の地位をめぐる問題であった。従って、モンゴル・満州問題(モ・満地域における勢力圏画定問題)の解決は、日ソ国交調整が実現される過程で重要な役割を果たした。この観点からすれば、1939年9月のノモンハン事件停戦協定、次いで1940年6月の日ソ両国の協議によるモンゴルと満州国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間でようやく解消されたことこそが、日ソ両国の軍事的政治的緊張関係の改善・懸案解決への重要な転機をもたらし、その結果、1941年4月に、日ソ中立条約が締結された。この意味では、満州国建国以来の極東における日ソ両国の角逐は日ソ中立条約によって突如解決されたものではなく、満州里会議、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議などといった日・ソ・モ・満間の一連の政治的諸出来事の帰結であった。

 そして、3番目に、この満州事変以降の極東に対する日ソ対立の過程で、小国モンゴルは粛清、戦争、領土の損失といった被害を負った。すなわち、日ソの国交調整の代償は小国モンゴルが払わせられたのである。この意味では、当時の大国である日ソの極東政策の本質を考えるにあたって、モンゴル問題は再検討されねばならない。それは、30年代の極東国際政治をめぐる日本とソ連との角逐過程には小国モンゴルの悲劇と苦悩が内在しており、その悲劇と苦悩の歴史が、満州事変から日ソ中立条約成立に至る極東の2大国日ソの関係の全貌をはっきりとみせているからである。

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