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博士論文要旨

論文題目:摩擦と合作 新四軍1937~1941
著者:三好 章 (MIYOSHI, Akira)
博士号取得年月日:2004年3月10日

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要 旨
 博士論文申請の『摩擦と合作 新四軍1937~1941』は、日中戦争期に華中を中心に活動した中国共産党(以下「中共」)系の軍隊であり、対日抗戦を主要な課題として成立した抗日民族統一戦線の軍隊であった新四軍について、その成立から事実上の崩壊である皖南事変までの時期を時系列的に整理し、考察したものである。
 
 本論文で扱った時間的範囲は、中華ソヴィエト共和国臨時政府が崩壊した1934年10月から、主要には新四軍が成立してから壊滅的打撃を受ける皖南事変まで、1937年下半期から1941年1月までである。その理由は、国共合作によって成立した新四軍が国共合作の実態が消滅することによってそれ以前とは性格を異にし、八路軍と一体化した後は統一戦線の軍隊ではなく、全面的に中共の軍隊となっていったからであり、当然、在地の人々に対する政策も、依拠する階層も異にしていったからである。
 新四軍はまた、日中戦争期の華中および中国全体を理解する上で、もう一つ大きな鍵を握っている。それは、新四軍が国民党との摩擦の中で根拠地を建設する時に協力した韓国鈞など、明清以来の中国農村にあった郷紳層が歴史において見せた最後の姿である。陳毅が長江を北渡して蘇北に拠点を構築しようとした時、当地の士紳たちとの間で持たれた交友に象徴される、地主を含めた統一戦線の春も、中共が前面に出て根拠地を拡大する路線に転ずるようになると、終りを告げることになった。だが、彼らの協力なくして、新四軍の蘇北における勢力確保、そして拡大はあり得なかったのである。
 ところで、日中戦争期、第二次国共合作成立の結果、国民政府の正規軍である国民革命軍の建制に編入された中共の軍隊、すなわち旧中国労農紅軍としては、一般には華北での八路軍が著名であるが、その原因としていくつかのことが考えられる。まず、八路軍は長征を経た紅軍主力部隊がその母体となっていること、そして中共中央の所在地が陝西省延安であり、日中戦争期に反対派を一掃することに成功する毛沢東が、その中心にあったことである。要するに、八路軍には中共の指導が貫徹し、ヤヌスの頭を持った軍隊としての新四軍とは異なり、顔は一つだったのである。1945年の中国共産党第7回全国代表大会で採択された「党の若干の歴史問題に関する決議」以降の公認の中共党史は路線闘争史として描かれ、そこでは路線闘争の最終的勝者としての毛沢東の権威と権力がいかに確立したのかが主要な課題となった。その結果、毛沢東との間に矛盾を生じた経歴を持つ項英を実質的な責任者とした華中の新四軍は、結果的に八路軍とは光の当たり方に差が出てしまった。また、毛沢東は延安から全国の中共軍を指揮したが、そのすぐ近くにあったのは毛沢東と共に長征を経た旧紅軍主力部隊、すなわち八路軍であった。加えて、新四軍設立の経緯に関わる国民党との合作のあり方は、毛沢東による一元的な中共党史叙述から見ると、中共の独立性に関わるものとして、当然否定ないし排除さるべきものとなった。これもまた、中国近現代史を中共党史と重ね合わせて理解して来た日本の研究状況とも相俟つて、我々にとって新四軍の陰をより薄くして来た一因なのではないだろうか。

 本論文各章の概要を以下に示す。
 「プロローグ 瑞金」では、長征開始後、旧ソヴィエト地区に残った人々の苦難を述べた。混乱する江西ソヴィエト区に残留した紅軍部隊は、紅軍本隊との連絡も途絶え、次第に孤立していった。中共の公式党史では、その後「南方三年遊撃戦争」と呼ばれる困難な環境下にあっても、人民の支援の下に革命の火種を保持したとされている。ところが、実際には山岳地帯での遊撃戦に終始して勢力も分散し、さらに内部粛清も継続されて、ほぼ壊滅状態に陥った後、何とか生き延びたという状態であった。その彼らが、新四軍を構成する主要部分となる。

 「第一章 誕生」では葉挺の動きに焦点をあて、新四軍の成立過程について、葉挺の活動と国共両党の交渉とを軸に検討した。そこから、葉挺は単なる飾り物ではなく、一見、国共両党の妥協人事風に見えながら、彼の粘り強い中共寄りの活動があってこそ、初めて新四軍が組織され得たことを指摘した。それによって、鄧子恢のような中共の公式見解に沿った旧来の通説がいう、新四軍が終始中共の軍隊として組織された、あるいは中共の主張を国民党が受け入れることで成立したとの主張は、事実と異なることがあきらかになった。新四軍は、その提案者が蒋介石・国民党であったこともあり、初めは中共の軍隊ではなかったのである。さらに、新四軍の成立過程の中に新四軍そのものを解体に追い込む要素が内在し、それが葉挺と項英という最高指導者2人に集約されていたことを理解するため、葉挺の2度にわたる軍長辞任事件を、第一章の時系列的範囲を越えて検討した。これによって、副軍長項英が新四軍の事実上の政治委員であったことから、軍事指揮官であり最高責任者であるはずの軍長葉挺の権威をないがしろにすることで、中共の軍隊になっていったことが理解される。さらに、中共中央も一度離党した経歴を持つ葉挺を容易には信頼せず、「南方三年遊撃戦争」を戦った項英を副軍長に据えたのであるが、かえって葉挺の不信感を増幅させることになった。このことは、新四軍の構造的な問題であった。それはまた、新四軍成立の日取りが、通説のように、国民党によって新四軍の成立と葉挺の軍長就任が一方的に公表された1937年10月12日ではなかったこと、10月12日段階では新四軍に何ら実体はなく、同年12月25日になって漸く軍部が始動したこと、従って、新四軍が実質的に活動を開始するのが、1938年に入ってからであることにも示されている。華中において紅軍残存勢力や遊撃隊への国民党による掃蕩が停止されるのは、1937年8月13日の第2次上海事変以降のことであり、12月の南京陥落後、新四軍の編制などについて国共両党の合意が漸く成立する。新四軍は、外的条件に左右されながら成立したという一面を持つ。このことは、国共両党の間に充分な合意が形成されぬまま、見切り発車状態で新四軍が活動を開始したことを意味し、後々に禍根を残すことになる。
 日本側も、こうした国共両党の矛盾についてはかなりの程度把握していた。当時、上海にあった興亜院華中聯絡部は、中共が新四軍を組織した理由について、「中支が政治的經濟的に重要」、「國民黨が、中途で妥協する危険性があつたので、これを牽制するため」、「英仏が戰線の南方への擴大を恐れ、西北の共産黨根據地へ攻撃の目を向けさせようとする策動があつたので、これを牽制するため」という3点をあげ、また、「國民黨としては新四軍の成立を餘り歡迎しなかった、か併し南京陥落し(一九三七年十二月十三日)中支か?領區域となるや中共中央からの要求もあり漸く許可され一九三八年一月から正式に國民革命軍陸軍新編第四軍に改編された」と述べている(興亜院華中聯絡部『)新四軍ノ現状』興亜院華中資料第104号、中調聯政資料第4号、昭和14年12月、3~4頁)。新四軍成立の時期に関しても、日本側は形式的な1937年10月説は採らない。新四軍も、それを含む抗日民族統一戦線に関しても、表面上の結束とは裏腹に、国共両党にとって全く異なった動機が根柢にあること、同床異夢であったことを、日本は見抜いていたのである。 

 「第二章 江南」では、まず、新四軍成立直後の、江南への進出によって形成された茅山根拠地の建設過程に焦点を当てた。結論から言えば、新四軍は当初、茅山地区において民衆を立ち上がらせようとの努力を重ねたが、容易に結実するには至らなかった。新四軍自身が日本軍と戦い、勝利を重ねることのみがそれを可能にすることは明白であった。このことは、華北で活動した八路軍も同様ではあったが、新四軍の場合、対抗すべき相手は日本軍や汪兆銘政府軍だけではなく、中共が「頑軍」と呼ぶ国民党軍やその系列の忠義救国軍(以下「忠救」)、さらには土匪まがいの遊撃隊までが含まれていた。それら全てと敵対することは、当然ながら得策ではない。味方にできる者は味方にし、そうでない者は、少くとも直接の敵対関係から排除しておくことが肝要である。新四軍の茅山への進出にあたっては、茅山の大茶園主紀振興の支援があって初めて根拠地確保に成功したことを指摘した。この紀振興の新四軍支援の動きは、次章で述べる蘇北での根拠地建設で果たした「郷紳」たちの役割に比肩することができる。統一戦線を重視する新四軍は、地方名士・有力者の支援をまず求めたのであり、彼らの獲得に腐心したのである。
 ついで、本章では江南抗日義勇軍(以下「江抗」)について検討した。江抗は、新四軍の別働隊として、正規軍あるいは準正規軍の役割を担い、さらには地方武装を正規軍化する役割も担った。日本軍も江抗をそのように把握し、事実上新四軍の一部と見なしていた。江抗の形成過程を見てみると、東進した新四軍第六団を軸に、個別の自然発生的な抗日武装を組織化して発展したものであり、時には土匪を換骨奪胎したものまであったことがわかる。その意味で、江抗は一元的に整理できない多くの要素からなっていたのである。実際、江抗の名称そのものは、東進した新四軍第六団が常熟の中共党員であった何克希が元中共党員の梅光迪と共に組織していた地方武装の名を借用したものであった。同様の名称は、上海近郊の青浦県においても1937年12月に、中共党員倪鎮徳らが地方武装を組織した際にも用いた事例も挙げられる。作戦行動の地域名と主体、さらに内容を示す名称として、かなり一般的な言い方であったといえよう。また、統一戦線を尊重する立場からは、新四軍の名を表に出すことは得策ではなく、それをカムフラージュするには一般的な普通名詞に近い江南抗日義勇軍という名称は、最適の選択であったのである。地方武装を組織化する中で、新四軍が日中戦争全面化初期の江南において正規軍である国民党軍撤退後の無政府状態を解消する役割を担ったことに焦点をあてた。
 多くの自然発生的な地方武装は、たとえそれが中共や新四軍の支援を受けていたにしても、相互に連携することなしには、各個撃破されるしか道は残されていなかった。しかしながら、そうした諸勢力の内実もまさしく多種多様であり、できあがったばかりの新四軍にとって、江南は魅力的な地域であっても、多くの困難を背負い込む可能性の高い地域であった。しかも、江南は国民党にとっても日本軍にとっても要地であることに変わりはなく、それぞれがその地の確保に懸命であった。その限りでは、ここに拠点を置くことについての項英の危惧は間違いではなかった。現実は、そうした項英の危惧通りの事態を出来させ、陳毅は江南の主力を江北に移駐することで難局を回避することに成功したのである。しかしながら、それは新四軍の統一戦線の軍隊としての性格を著しく弱めることになるのである。
 江抗は忠救との摩擦を出来し、摩擦回避のために西方へ撤収したが、それは江抗そのものの消滅、言い換えれば、中共系地方武装の東路地域からの消滅を意味した。新四軍という正規軍の存在があって、初めて江抗という地方武装を準正規軍化できたのであり、新規兵力のリクルートの場として江抗を考えた場合、新四軍にとって一定以上の成果をあげたことは言うまでもない。しかし、撤収したままでは江南での抵抗を放棄することにつながりかねず、譚震林の派遣とそれによって組織された新江抗によって、その克服を図った。新江抗も、目的として新規兵力のリクルートがあり、現実には遊撃戦しか展開できなくとも、正規軍への転換を試み続けた。なお、新江抗が活動可能であったのは汪兆銘政権による本格的な清郷工作が始まる1941年7月頃までであり、日中戦争の帰趨が明確になる戦争末期まで、日本軍や汪兆銘政権軍に対抗できるほどに強力な軍事力に成長することは、江南においては存在しなかったのである。

 「第三章 摩擦」では、「蘇北摩擦」と呼ばれる、江北に渡った陳毅たちと江蘇省政府主席韓徳勤との対立を軸に、それまで統一戦線の軍隊としての性格を表面に出していた新四軍が、中共6期6中全会で提起された摩擦覚悟の拡大路線の中、国民党との積極的な抗争に乗り出し、一時的な成功を収めて、蘇北における根拠地の基礎を築き始めた1940年10月頃までを検討した。その中で、韓国鈞・朱履先など、清代までであれば郷紳と呼ばれた人々の支持の獲得が不可欠であったことを述べた。また、重慶を舞台とした中央レベルの国共交渉と並行して、「泰州談判」と呼ばれる在地で展開された国共交渉を検討した。
 中共6期6中全会は、日本軍による武漢作戦が完了しようとする時を挟んで開催された。そして、その軍事的展開をふまえて、毛沢東を中心とした中共中央は、統一戦線重視の立場から国民党との摩擦覚悟の根拠地拡大路線へと、大きく転換していった。すなわち、毛沢東の言う「独立自主」への転換であり、新四軍にとってはそれ以後は、これまでの統一戦線の軍隊としての性格を希釈されてゆく過程であった。しかも、6期6中全会の決定によって組織された中共中央中原局とその書記劉少奇こそが、皖南にあった新四軍軍部と華中計略の構想を異にし、矛盾を深めていったのである。
 泰州談判の経過と一連の「蘇北摩擦」の経過について、黄橋に根拠地を形成するまでの期間を、陳毅の動向を中心に検討すると、皖南事変後の新四軍の再建の方向性とその地盤が、すでに形成されていることが見出せる。劉少奇のかなり強引な蘇北根拠地形成の方針に陳毅が歩み寄り、その結果、皖南の新四軍軍部にあった項英との間に乖離が生じている。これは、「南方三年遊撃戦争」以来続いていた、陳毅と項英との良好な関係が崩壊する始まりでもあった。いっぽう、国民党から見れば、形成された蘇北根拠地に皖南の新四軍軍部が合流することは、何としても阻止したいことであったはずである。そこに、1941年1月に発生する皖南事変の根本的な原因がある。新四軍が、華中という、国民党にとって何よりも蒋介石にとって大切な地盤で勢力を拡大していたことは、南京近郊の茅山根拠地の形成や、上海方面への江抗の派遣であきらかであり、蒋介石はそれを黙認するつもりはなかったのである。
 泰州談判を通じての成果の一つはまた、地方実力者の李明揚と李長江の「両李」、特に李明揚を獲得できたことであった。このことは、新四軍にとって蘇北での最初の本格的な根拠地を黄橋を中心に形成する上で、貴重な役割を果たした。それはさらに、李明揚を通じて韓国鈞・朱履先ら蘇北の士紳たちの支持を得ることにもつながり、皖南事変以後の新四軍軍部再建とそれ以後の活動を支える在地上層部の確保も意味していた。韓国鈞らは、明清期に形成された郷紳の20世紀中葉における姿であり、抗日民族統一戦線が叫ばれていた日中戦争期であっても、中共が根拠地において下層農民にシフトした政策を取り、過度の「減租減息」のような戦後の内戦期、あるいは人民共和国初期の土地改革を先取りするような状況が生まれると、統一戦線の合作対象とされながらも、時に、謂われなき非難さえ浴びることにもなる。
 さらに、郭村戦役・第1次黄橋戦役は長江北岸近辺での戦役であり、陳毅が「中間派」を獲得することで勝利を得ることになるが、その意味では1940年5月段階ですでに劉少奇が構想していたような「蘇北摩擦」の一挙解決には、ほど遠い結果に止まっていた。延安の中共中央は黄克誠麾下の八路軍第二縦隊を南下させ、新四軍と協力させて「蘇北摩擦」の解決を図ろうとした。ところが、新四軍と八路軍との指揮系統の混乱、南下した黄克誠と中原局書記の劉少奇との状況認識の差異などから、八路軍の南下自体が順調には進まず、結果的に郭村戦役にも、第1次黄橋戦役にも増援部隊としての役割を果たさず、韓徳勤の北方、あるいは西方においてこれを牽制するに留まった。もちろん、軍事力の一部を割くことになるのであるから、牽制の意味は大きいが、本来の新四軍増援の目的は果たせずに終わるのである。

 「第四章 破局」では、前章での国共両党間の中央および地方での交渉の経過をふまえ、「蘇北摩擦」が激化、あるいは本格化し、韓徳勤を中心とする蘇北の国民党勢力と中共・新四軍との関係が抜き差しならぬ状況に陥り、皖南の新四軍軍部が蘇北への移動の最中に顧祝同などの攻撃を受け、包囲殲滅されて軍長葉挺は囚われ、副軍長項英など軍主要幹部が犠牲となった、対日抗戦時期最大の「国共摩擦」である皖南事変への動きを検討した。その際、蘇北にあった陳毅が、「南方三年遊撃戦争」で苦楽を共にした項英から次第にその路線を乖離させ延安寄りの姿勢を示すこと、そこには、時には延安よりも過激に国共間の摩擦を利用しようとする劉少奇の存在があったことに留意した。「欽差大臣」劉少奇の華中派遣こそ、中共6期6中全会における路線転換、すなわち摩擦覚悟の根拠地拡大路線への転換の実践であり、統一戦線を抗争の枠組みに転換する役割を果たしたのである。華中新四軍八路軍総司令部の成立は、実質的に八路軍と軍部再建後の新四軍とを統合する役割を果たし、名称こそ異なれ、中共軍と言うべき存在を華中において生み出すことになる。
 大惨敗であるがゆえに、中共の公式党史ではあまり触れたがらない歴史的事件の曹甸戦役も、その敗因を中心に重要な検討の対象とした。曹甸戦役では、第2次黄橋戦役での一定の勝利を全面的な勝利の入口であると誤った判断を下した劉少奇らが、その判断に基き、韓徳勤らは敗戦によって士気が低下しているとして絶対的な兵力差を無視し、少ない兵力をさらに分散して多方面からの全面攻勢をかけたことにあった。その結果、各所で戦線を維持不能に陥り、新四軍の全兵力2万のうち数千が死傷し、暫時、蘇北の新四軍は戦闘能力を喪失して作戦展開どころではなくなってしまった。この結果、皖南にあった新四軍軍部は北渡の唯一の機会を喪失したのである。皖南事変の直接かつ最大の原因は、新四軍と八路軍の結合による蘇中・蘇北の掌握が現実の問題となったことであり、そこへ皖南の新四軍軍部が合流することは、国民党としては何としても放置できなかったからであるが、短期的には、曹甸戦役を通して、国民党が新四軍を意外にも与しやすい相手と見た点が看過できないのである。
 いっぽう、皖南事変直後の中共中央の対応については、内部的には「項英と袁国平の誤りに関する中共中央の決定」を発して、事変の責任者として項英・袁国平を厳しく糾弾しつつ、外向きには両者を民族の英雄と讃えて国民党への非難に終始するダブルスタンダードぶりが指摘できる。中共中央は、すでに1939年8月、国民党との間の武力衝突が激化するであろうことを見越し、その際には奇襲されることは回避しなければならないが、政治的優位を確保するために、先に手を出してはならないこと、そして全国に宣伝するためにさまざまな証拠を集めるべし、と新四軍・八路軍の首脳に対して指示を発していたのである。
 
 「エピローグ 塩城」では、蘇北の塩城に再建された「新」新四軍軍部とその根拠地の状況の一端を紹介した。
 1941年1月20日、中共中央軍事革命委員会は命令を発し、陳毅を新四軍代理軍長、張雲逸を副軍長、劉少奇を政治委員、頼伝珠を参謀長、鄧子恢を政治部主任にそれぞれ任命した。23日には、「全国の友軍」、すなわち国民党軍を含む範囲に向けて、中央から任命された者たちが就任の通電を発し、さらに24日には『新華日報』に代理軍長陳毅の就任通電が掲載された。国民党によって、国民革命軍の編成から取り除かれてしまった新四軍が、中共の世界で再生したのである。その基盤となった軍事力は、元々は北上した陳毅の率いる新四軍第一・第二支隊と皖東の新四軍第四・第五支隊、そして黄克誠・彭雪楓が率いて南下して来た八路軍第四縦隊と第五縦隊、要するに、華中新四軍八路軍総指揮部の所属部隊そのものであった。編成に関しては、2月2日、延安より、劉少奇を始め華中新四軍八路軍総指揮部の関係者一同に指示が下され、それをふまえて、4日には劉少奇・陳毅から、新四軍を6個師とする提案がなされた。新新四軍軍部は、1941年いっぱいは、組織や幹部の人事の入れ替えが続き、その中で、汪精衛政権と日本軍とによる、特に蘇南・蘇中地区の「清郷工作」に対抗することになる。
 「新」新四軍軍部に、陳毅と共に南方三年遊撃戦争を戦った項英の姿はない。また、新たな最高指揮官に想定されていた葉挺も、囚われの身であった。新四軍発足当時の幹部のうちには、多難な逃避行を経て、後々皖南から帰着する者もあったが、彼らは、李一氓や葉超たちのように、審問を受けてから各種の工作に分配された。その際、「項英と袁国平の誤りに関する中共中央の決定」を知らされ、それを受け入れることが復帰の条件であったと考えられる。敗残の身であるから、それを受け入れざるを得なかった、という方が正しいであろうし、項英と袁国平が背水の陣の中から敵前逃亡した事実もすでに知られていたはずであり、2人に対する批判にはさほど抵抗がなかったと思われる。言い換えれば、事実上破綻した統一戦線にこれ以上こだわる必要がないからには、6期6中全会で提起された根拠地拡大路線を、今後も全面的に推進することは必然であった。ヤヌスの頭を持つ軍隊としての新四軍の性格は、ここに破綻したのである。
 蘇北は、塩城に抗日軍政大学分校が設置されるなど、「新」新四軍軍部設置後、華中における中共の重要な拠点となっていった。根拠地としても、中共の領導下、政権工作が進むが、統一戦線の重要な担い手として中共の蘇北政権樹立に力を貸した士紳たちと、中共の「基本大衆」との間では、次第に階級間の矛盾が高まっていったのである。

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