博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:戦前日本農業政策史の研究 1920-1945
著者:平賀 明彦 (HIRAGA, Akihiko)
博士号取得年月日:2004年3月10日

→審査要旨へ

要 旨
1 課題と方法
 本論は、戦前期日本資本主義の経済発展が、地主制を基本的枠組みとする農業との間に軋轢、矛盾を引き起こし、そこに基因する農業の停滞性、農村の秩序の動揺とその結果としての争議状況の顕在化が社会問題、政治問題化していくことに対して、政策的対応がどのようになされ、その解決が図られたかを明らかにすることを課題とする。日本の近代化過程=資本主義化は、その原資がひとえに農業・農村に求められたところに特徴があった。地租と地主資金が投下され、生成、発展を遂げる資本主義に対し、それらが還元されない農業・農村は相対的に停滞的であり、農工間の格差は一貫して開き続けることになった。低賃金と高率小作料の相互補完関係の中で、労働市場を媒介に両者は均衡的な結びつきをもちながらも、一方でまた、そのように停滞する農業ゆえの経営利益の薄利性は、第1次世界大戦期の資本主義の未曾有の経済発展との対比の中で際だつことになり、1910年代後半から20年代初頭にかけて、小作争議の発生という形でその矛盾は表面化することになった。本論もここを出発点として以下分析を進めていく。
 このように問題が発現した後、近代日本が、資本主義の高度化をひたすら目指して国家形成をとげる過程で、農業をその全体の枠組みの中に如何に適合的に、安定的に位置づけるかは一貫して重要な課題であり続けた。とくに、資本主義の生成・確立期に、その必要から体制的な確立を見た地主制のあり方をどのように整序して、発展する資本主義、とりわけ独占段階に入った資本主義との関係をつけていくかが問題となったのである。その際、発展する資本主義に対して不適応症状を起こしはじめた農業=地主制に対して、どのような姿勢で対処するかが重要な問題であり、その取り組みのあり方が、時々の農業政策のあり様を特徴づけていたとも言える。とりわけ、国家体制の中で、盤石の足場を固め―それはそのように国家自らが育成して来たのであるが―一大政治勢力をなしている地主制との折り合いをどのようにつけていくのかが常に大きな課題であり、対峙、あるいは摩擦を回避しながらの調整など、その方向は多様であり、また、農政官僚内部にもそれをめぐって異同があった。それは多くの場合、政策目的の設定の仕方と、その前提としての当面の農業問題に対する認識如何に関わっていたと言える。以下、時期ごとに異なる政策領域の位置関係に気を配りつつ分析を進めるのはそのような理由からである。
 政策展開の時間的推移は、政策の連動という観点で捉え直すと、出発点の矛盾の処理、解決の結果如何が、次の政策展開の出発点を規定するという関係として設定されることがわかる。もとより問題の全面的解決ということは、ドラスティックな体制変革でも起こらない限りまずあり得ないのであって、問題に対する政策的対応の結果は、必ず、解決・処理された部分があると同時に、次代に積み残された未解決領域を残す結果となる。その課題が次の政策的対応を特徴づけることになり、それに対して、前時期の政策的対応の継続・強化・締め直しの方向が採用されるか、新たな対応が案出されるかは、時期の変化にともなう政策を取り巻く環境によって規定される。時期の設定には、そのような政策の連動も意識される必要がある。
 これらは時期設定の問題にとどまらず、政策分析の方法の以下のような点にも係わっている。一つはそれぞれの時期の政策基調の問題で、資本主義と農業の矛盾として発現した問題に対して、基本的にどのような政策軸で対応がなされようとしたかに焦点を当て、そこに分析の軸を据える方法である。それは、時として、そのような直接的な政策軸の設定そのものが難しい場合があり、その不十分さを埋めるべく、あれやこれやの政策を動員するといった事態も想定した上でのことでもある。当面、出発点の小作争議対策の政策軸は、小作立法に求められるが、他に、自作農創設策、あるいは農村の動揺の抑止と安定化の課題をも視野に入れると農業団体政策などが政策の基軸的部分として想定される。それら相互の連関、ウエイトの置かれ方などの位置関係を確定しながら、政策的対応の特質に迫っていきたい。
 そして、それら基軸的政策の特質把握では、とくに、その政策意図の性格規定のために、政策構想レベルにまで立ち入って検討を加える。それは、ともすれば構想のみで実態を充分にともなわない政策の場合も同様である。政策として具体化され、何等かの形で効果を発揮することによって政策の意味は問われなければならないが、当面する課題に対する現状認識から発し、政策が構想・立案されても、その具体化が、その時の政治状況や国家産業政策の変化の中で、充分に行われない場合はしばしばある。しかし、その際でも、農政官僚の問題のとらえ方、それに基づく政策意図の組立は、問題解決の方向性を指し示している点で重要であり、明確に位置づけておく必要があろう。 そしてさらに、農業政策全体の文字通りの主軸として大々的に実施された政策についてはもとより、政策構想が、諸情勢の中で充分に具体化されなかった政策でも、問題解決の方向の妥当性を検討し、政策としての特質を明瞭にするために、その実施結果の検証は必要である。政策の展開が狭められ、結果的に点的な存在でしかその成果が得られなかった場合でも、その成果は政策効果の実証であり、それは問題状況に対する政策構想の適否を見極める重要な素材であると考えるからである。そして、その判断を行った上で、その政策が現実に狭められた展開しか許されなかったことの意味が問われる必要があると考える。

2 論文の構成
序章 課題と方法
第1章 第1次世界大戦期・大戦後の農業問題と農政
 はじめに
 第1節 資本主義の経済発展と農工間格差の拡大
  1 農業労働力の都市への流出
  2 都市の発展と脱農流出の実情-名古屋市周辺を事例として
  3 土地返還争議の発生-鳴海争議の事例
  4 府県営自創事業の展開
 第2節 農政官僚の現状認識
  1 食糧自給問題と生産力視点
  2 小作法構想の背景(1)-資本主義と農業の矛盾
  3 小作法構想の背景(2)-争議拡大の予測
 第3節 小作法の立法化と挫折
  1 小作組合法とILO問題
  2 「小作法幹事私案」の政策構想
  3 小作法から小作調停法へ
 まとめ
第2章 1920年代後半の農業政策
 はじめに
 第1節 小作調停法の運用と地方小作官
  1 地方小作官制度の整備
  2 発足当初の地方小作官
  3 地方小作官の配置と政策意図の浸透
 第2節 小作法草案の政策構想
  1 小作法草案の作成
  2 小作法草案の公表とその反響(1)-地方小作官
  3 小作法草案の公表とその反響(2)-地方庁・司法官
 第3節 争議状況の変化と取締り方針
  1 争議状況の変化
  2 争議取締り方針強化への反対姿勢
  3 争議状況の変化と調停法運用
  4 農業委員会制度の構想
 第4節 農業団体育成と迂回的争議対策
  1 産業組合の発展と産業組合主任官会議
  2 争議と産業組合の役割
  3 産業組合の争議対策
 第5節 迂回的争議対策の展開-岐阜県産業組合の活動
  1 1920年代の産業組合活動
  2 県の産業組合育成策
  3 農会と農業基礎団体
 まとめ
第3章 農業政策の転換と経済更生計画
 はじめに
 第1節 昭和恐慌対策の展開
  1 農政基調の転換と経済更生計画
  2 経済更生計画の政策的特徴
  3 農家経営改善の指針と成果
 第2節 経済更生計画の実施過程-新潟県の事例
  1 官主導の計画実施
  2 更生計画指導の特質
  3 更生計画の成果
 第3節 特別助成事業の構想とその挫折
  1 「更生の熱意」の弛緩と特別助成事業の構想
  2 特別助成事業構想の挫折
  3 特別助成事業の成果
 第4節 更生計画批判と農地政策構想
  1 「更生の熱意」の弛緩と農家簿記記帳運動
  2 安定農家の析出
  3 「黒字主義」適正規模論から分村移民へ
  4 水面下の農地政策構想
 まとめ
第4章 日中戦争の全面化と農業政策
 はじめに
 第1節 日中戦争全面化直後の即応策
  1 食糧自給への楽観
  2 戦時即応策の特質
  3 事変対策としての農地政策の意義
 第2節 戦争の長期化と農業労働力対策
  1 農業労働力減少の実態-全国的状況
  2 農業労働力減少の実態-新潟県の状況
  3 集団的移動労働
 第3節 労働生産性の視点と共同化・機械化
  1 労働生産性視点の形成
  2 農業経営の共同化
  3 農業経営の機械化
 まとめ
第5章 戦時農業統制の本格化
 はじめに
 第1節 食糧危機の深化と増産要請
  1 1939年凶作と食糧問題
  2 農産物増産計画の策定
  3 生産諸条件の整備に関する統制策
 第2節 農業労働力対策と農業経営適正規模構想
  1 食糧増産と農業人口の「定有」
  2 農業経営適正規模の政策構想
  3 標準農村設定計画
 第3節 戦時農地立法の歴史的意義
  1 戦時農地立法の成立
  2 農業団体統制策
 まとめ
終章 総括と展望

3 各章の概要
 第1章では、1920年代小作争議発生の原因にかかわるこれまでの研究史を整理した上で、農民的小商品生産者的発展を契機として重視する西田説の指摘の重要性を認めつつも、それは基礎的要件の提示であって、この時期の争議発生は資本主義発展に対する農業の不利性に基因しており、その点を強調した暉峻説及びその批判的継承を行った田崎説の有効性に着目すべきあると考えた。その上で、争議状況という問題発生のプロセスを以下のように整理した。
(1)1920年前後の時期の農業問題は、第1次世界大戦期の日本主義の飛躍的な経済発展と、相対的に停滞的であった農業との格差に基因していた。とくに、農業にあっては、農民的小商品生産の一定の発展の一方で、高額現物小作料による地主制の重圧は小農経営の経済的発展の大きな阻害要因となっていたために、都市との格差は短期的により顕著な形で表面化した。
(2)農工間の矛盾の農業部門での具体的な現れは、まず、都市労働力市場の急拡大とその高賃金水準に誘引されて小農層が大量に脱農化することから始まった。それは耕地の他用途への転換とともに、耕作の粗放化を招き農業生産の減退に結びつく事態を生み出した。また、小農層の脱農流出は、地主小作関係において小作側有利の条件を作り出し、土地返還を武器として小作料減免の要求を果たそうとする争議戦術を生み出した。
(3)このような中、それ以前からの小商品生産者的発展を基礎にしつつ、農村の中小農に自己の農業経営を相対化し、都市労働と農業労働を比較考量する意識が形成された。そして、(1)のような経緯でこの時期に際だって明瞭となった格差をより強く認識することにより、争議の形態も都市並の労賃水準を農業経営においても確保することを目指す方向へ移っていった。
 大都市近郊及び地方の中小都市周辺地域を中心に、農業労働者が都市に向けて脱農流出するというこのような事態は、数々の調査報告によれば、鉱工業あるいは商業発展の顕著であった全国の都市周辺で等しく起こっていた現象であった。ここでは、その具体的な経過を名古屋市周辺農村の実態で確認し、脱農流出と土地返還戦術に対する府県レベルでの対応策として、小農者の小土地所有者化をはかる目的で自作農創設事業が始められたことを明らかにした。
 国家中央での政策的対応は、根本策として石黒農政と呼ばれた小作法を中心に据えた耕作者保護の政策が構想された。石黒農政の特徴は、耕作者保護の立場に立って、小作法を制定し、民法の規定する地主的土地所有の絶対性に対抗し得る耕作権を保障し、小作料額の適否についても関与できるシステムを作ろうとした点にあった。
 この小作立法の政策立案過程で重要な点は、第1に、その課題意識の問題で、石黒ら農政官僚が、起こっている事態とその農業への波及を、実際に小作争議の頻発とその拡大傾向を目前にしながら、資本主義と農業の間の収益をめぐる格差の問題に基因する事態として正確に把握していたことであった。そして、そのように争議発生を分析的にとらえていたからこそ、第2には、争議の全国的拡大が、農村の動揺、小農経営の不安定を招き、引いては農業生産の減退と国民食糧の不安に結びついていくことを的確に予測し、それを回避するためには、発生原因にまで立ち至って根本的解決策を案出する以外にないと考えていたことであった。そして、第3に、それらの結果として、農政官僚が、直接耕作者保護を基本とした、ドラスティックな内容をもった小作法案を構想したことであった。彼らは、その問題解決を求めて農民運動のエネルギーが高揚することも、また、それに対して暴力的弾圧で臨み、運動のエネルギーをより反体制の側に結集させることも回避しなければならないと考えていた。そのために、国家主導で、地主制の根幹により踏み込んだ形で、資本主義と農業の折り合いをつけるやり方で問題解決に踏み切ろうとしたのである。

 第2章では、一大政治勢力としての結集力をほこる地主側の抵抗により、小作法の立法化が阻止され、手続き法である小作調停法の運用によらざるを得ない状況に対し、どのような手だてが講じられたかを検討した。また、1920年代後半に入って地主反攻が強まり、争議が一様に悪化する中、取締り方針の強化に対抗しつつ、その状況に対応する側面的な政策として農業団体育成策が強められた点を明らかにした。
 小作調停法の運用によって小作法趣旨の徹底と、そういった調停事例を蓄積することにより実定法の成立を準備しようと考えた農政官僚は、そのために地方小作官制度を重視し、その人事権を農林省が掌握することに並々ならぬ努力を注いだ。地方小作官の執務環境についても、細々した点にまで立ち入ってその整備に腐心していた。地方庁の中で一定の「独立性」を確保することなどについては、必ずしも思惑通りに事が運ばないこともあったが、農政あるいは農業経済の学を修め、地域の農事行政に精通したベテランが配されていく中で、石黒らの意図は果たされていったと言える。この地方小作官を通して、実際の調停法の運用過程で小作法趣旨を普及、徹底することが期待されたが、その政策意図の浸透のために毎年の地方小作官会議が重視された。また、新任小作官への講習会も怠りなく実施され、さらには控訴院管内や地方裁判所管区などの単位で、司法と小作官の連絡調整のための会議がもたれ、調停実務や調停事例についての問題点の洗い出し、経験交流が積み重ねられていた。それらを通じて、例えば相当小作料の考え方や事実上調停を極力排する方針などがきめ細かく伝達されていったのである。
 また、農政官僚は、1927年には、先の小作法幹事私案に比べるとかなり後退した内容ではあったが、一応の形を整えた小作法草案の公表に踏みきり、地方小作官や地方庁の担当者が、調停法運用の指針として活用し得る環境を整備した。
 これらの取り組みがなされた背景には、1920年代後半に入ってからの争議状況の変化があった。量的、地域的拡大とともに、地主攻勢の強化により争議が一様に激化し、とくに土地引上げ争議が目に見えて増加してくる傾向があった。農民運動の政治運動化も一挙に進み、農政官僚が危惧する事態は日増しに昂進していった。
 このような状況に対し、農業団体の育成強化が農家利益の増進、争議状況の緩和に重要な役割を果たすものとして政策的に取り組まれた。とくに産業組合の発展には力が注がれ、実際に岐阜県の事例で明らかにしたように、この時期組合そのものも活発な活動展開をとげた。産業組合の本務である農村への資金供給と流通過程の合理化による農家利益の増進を達成することで農業経営の不利性をわずかでも解消し、争議状況の緩和に結びつけようという政策目的であり、組合側も、組合役員の地主的、有産者的構成を改め、村内全階層の代表をもって運営を図るなど、中小産者協同の組織としての機能を高めていった。
 これは争議解決の手だてとしての小作法制定、あるいはそれが実現しない中での調停法運用によるその代位という、この時期の基本線から見れば、あくまで迂回的な対策ではあったが、一方で基本線が手詰まりのために実際の争議の激化に有効に対処できない状況の下では、自ずとそこに力点が置かれることとなったのである。そして、農家利益の向上による農民の組織化というこの農業団体政策は、その政策的効果ゆえに次代に引き継がれ、農業恐慌の襲来という新たな事態への対応策として全面開花するのである。

 第3章では、昭和恐慌で幕をあけた1930年代前半の農業政策についてその特徴を検討した。米、繭をはじめとする農産物価格の惨落による農業恐慌は、中小地主をも含めた農村のほとんどの階層に大きな打撃を与えた。中小地主は、1920年代からの争議状況の中で小作料収取が悪化していたところに、恐慌の打撃を受け、公租公課の支払いすらままならない窮状を呈するものも少なくなかった。このため、農業政策の基調は前時期とは大きく変化せざるを得ず、地主利害に一定の譲歩を迫る小作法の制定を押し進めることが難しくなり、代わって、速やかに恐慌の打撃克服策の樹立、実行が図らなければならなかった。そして、そのような状況を反映して、対策は、当初より生産力主義的内容に収斂していくこととなった。
 財政的裏付けを欠いていたために農村民の下からの更生の熱意に期待し運動化が図られ進められた経済更生計画がその中心的な政策であったが、これは、村内の農業団体の組織化を軸に、農家利益の向上につながる生産、流通の改善、合理化計画を樹立・実行することを目指していた。常に官民一致の形が強調されたが、官主導の基本的性格はこれまでの農村指導のあり方と変わりなく、ただ、個々の指定村が樹立した計画を尊重する「柔軟」な姿勢がとられ、その上でこれまで以上に総合的な指導が加えられた。そしてその指導に当たっては、新潟県の事例で明らかにしたように、専任係官を県-郡の行政ルートに配置する特別措置が講じられ、実行可能性を基礎にしたきめ細かいチェックが施されていった。具体的な指導の重点は、 (1)経営の改善、とりわけ自給作物の導入と有畜多角化、そしてそれらの有機的結合、(2)産業組合への全戸加入と健全な組合運営、共同購買・共同販売を軸とした流通の合理化、(3)部落団体への全戸加入と団体の農事実行組合化、産業組合への団体加入、の3点に置かれていた。これらの結果、新潟県の場合、9年凶作の影響もあって、目標額を上回る華々しい成果とは言えなかったが、重点指導が行われた項目は、更生計画樹立時を基準としたとき、指導の効果を思わせる伸びを示していた。
 しかし、農村民の下からの更生の熱意に依存した計画の弱点は30年代半ば頃から明らかとなり、政策的な見直し、締め直しが必要となった。更生計画を主導した農林省経済更生部が締め直しとして採用した方法は、迫りつつあった戦時増産体制を睨みながら、財政資金の導入によって、これまでの更生計画の成果を、農業生産力基盤の整備・拡充という方向で積み重ねようとするものであった。特別助成事業がそれである。しかし、政策担当者の意に反して、軍事費の増大に圧倒されて事業の眼目であった大型予算は大幅に削減された。その結果、経済更生指定村の優良村から選定された指定村で達成された土地水面の整備は、後に生産力の上昇につながっていったのであるが、その数はあまりに少なく、各地に突出したモデル農村を作り上げたに過ぎなかった。
 一方、更生計画の行き詰まりを、個々の農家経営の改善の徹底を果たし、その農家の集合である農村の更生に結びつけていくことで果たそうとする構想が、農家簿記記帳運動という形で取り組まれた。生産力主義的経営改善を経営簿記の徹底によって成し遂げようとするこの運動は、後に「黒字主義」適正規模論と呼ばれるように、土地生産力の向上にひたすら重点を置き、その上で、安定的な経営を維持するために必要な土地面積がどれほどかを割り出していく。そしてその最良の経営に適合的な農家とそこに到達できない農家とを簿記記帳の結果から導きだし、後者を満州分村移民に組織化するという構想であった。これは、地主的土地所有に全く手をつけず、そこから生じる矛盾に対して、土地生産力のみから割り出した適正規模論により一方的な解決を与え、侵略主義の国策に沿ってその実現を図ろうとするものだった。経済更生計画を主導した石黒忠篤が、この運動の推進者としても立ち現れ、両者の関連を物語っていた。
 他方、このような石黒に代わって、1920年代の石黒農政を引き継いだのは、農務局農政課であった。当時経済更生部が華やかな存在として脚光を浴びていたのに対し、沈滞ムードが漂う中、しかし、農地政策による恐慌の打撃克服、農村の安定確保を目指す構想が練られていた。その中心であった和田博雄は、土地所有関係に手をつけず、専ら生産力主義的に問題解決を図ろうとする更生計画がいずれ限界面を露わにし、破綻に瀕することを予見し、小作立法の系譜を農地政策的に継承し、水面下ではあったが、後の農地調整法に結びつく政策構想の具体化を図っていた。

 第4章では、農業・農村を取り巻く状況を大きく変えた日中戦争全面化以降の時期を対象とした。
準戦時体制期から明瞭になりつつあった軍需重化学工業最優先の産業編成は、戦争の全面化を機に一挙に進み、農業関係者を含め食糧供給への楽観が定着していたこともあって、農業政策は低位におかれることとなった。このため事変即応の戦時農業政策は、戦時にともなって表面化する問題を、さし当たって彌縫することに終始した。それをもっとも典型的に示したのはこの間の農業労働力対策であった。日中戦争の全面化以後、農業労働力の減少は急速に進み,1938年に入ると早くも,都市近郊,工場地域周辺農村を中心に、雇傭労働力の減少による労働賃金の高騰や労働力の調達そのものが困難化し、経営の粗放化が心配されるような事態が起こっていた。この農業労働力の減少は、応召という直接的な戦争への動員を除けば,都市の殷賑時局産業の急伸張にともなう労働市場の拡大により引き起こされ,例えば,新潟県内の都市周辺部、山本村の事例によく示されていたように時局産業の高調な労賃に引き寄せられて,下層農家を中心に,経営の軸となる戸主や長男が通勤労働者化するような,あるいは東京などに離村型の形態をとって流出するようなものとして立ち現れていたのである。この事態に対し、農業労働力対策は、もともと事変直後の応召遺家族の援護のために始められた勤労奉仕によく示されているように,農業内部での自助的努力による過不足の調整に終始していた。1938年ころから具体的に取り組まれた、集団的移動労働の対策も、その調整の範囲を村レベルよりさらに広域に設定し,その結果生じる地域的な農作業の繁閑のズレを利用した点ではより進んだ施策であったが,しかしやはり農業内部での調整に過ぎず,その限界は量的にも質的にも明らかであった。
 このような中で、政策担当者の中には,この実情をふまえた上で,長期戦の過程ではさらに労働力不足の状況が進行するとの見通しから,労働力過剰状態を前提にしたこれまでの政策体系を見直し,とくに従来問題にされることの少なかった農業労働の生産性の問題に目を向け,その向上を図ることで,戦時体制が農業に要請する食糧をはじめとする農業生産の維持・拡充を果たしていこうとする構想が生みされた。農業労働技術の合理化,向上策としての農業機械化とそれを基軸とした農作業の共同化の構想は,このような背景の中で政策的な取り組みのきっかけを得たといえる。しかし、軍需重化学工業の拡充を最優先する戦時産業政策の下では,新規の機械製造のための原材料やその効率的運用のための燃料さえ確保することができず,既存施設の利用の効率化を図ることのみに終始する対策しか講じられなかった。
 戦争の全面化を契機に政策立案に一挙に踏み込んだのは農地政策であった。まさしく事変を好機としてとらえ、一挙に成立へ向けての動きを加速化していったのである。耕作権保護などの点で不十分であった農地調整法をともかくも成立に導いた農政官僚の政策意図は明瞭であり、事変即応の名分のもとに橋頭堡を築き、後の農地政策の展開に途を開こうとしたのである。1930年代前半の雌伏の時を経て、20年代農政の一端が、戦時という特殊環境を背景に、ここに具体化したと言える。戦時の要請する食糧をはじめとする農産物の安定供給にとって、直接耕作者の役割は必須であり、それゆえその保護に政策的に対応することの重要性は動かしがたいとする、これ以後の農地立法あるいは小作料統制のロジックは、この農地調整法の成立を出発点に、政策実施の根拠として用いられることになるのである。

 第5章では、1939年の西日本・植民地朝鮮の干魃により米の供給不安が一気に高まったことを背景に、食糧増産とそのための農村人口の「定有」が図られるようになったことが、農業政策にどのような影響をもたらしたかを中心に分析を行った。
 戦時産業政策の中での農業政策の位置が前時期に比べ相対的に引き上げられる中で、食糧増産を中心とした重要農産物増産計画も策定され、それを可能にするため、農地開発にも多額の財政支出が投じられた。農地開発営団が設立され、当時としては破格の資金投下により、開田・開畑、用排水整備、客土などの大規模な生産力基盤の整備が急がれた。特別助成事業の政策構想が、食糧不安をきっかけに、短期間に急ピッチで具体化された格好であり、長期的視野を欠いた戦時農業政策の本質が良く示されていた。それはまた、肥料や他の生産諸設備、あるいは農業労働力対策においても同様であった。
 農業労働力対策は、この時期には、内部努力による調整から、食糧生産確保のための「計画的」動員へとそのトーンを変化させるが、しかし、労働力不足の状態は改善されず、軍隊動員と軍需重化学工業労働力の農村依存は、さらに徹底したものになっていった。労働力供給と増産というまさに「相反的事実」を突きつけられた農業政策は、増産の要請に応え得る農業生産力の推持をなしつつ農村より出し得る農業人口を捻出するために、労働の生産性より見た適正規模を追及する方向を強めていった。全国から、地帯別に、約1,500近くの町村の典型的な農家1万戸以上を抽出し、詳細な調査を実施、そこで集積された膨大なデータをもとに、最も適正な経営規模を割り出す作業が行われた。地域的な相違をもちながらも、家族労作経営を基本とし、中規模経営で、景気変動や凶作への耐久力がある農家が適正規模のサンプルとして析出された。小作農の上層及び中農的部分と在村耕作地主を主たる対象に、自作農創設事業とリンクして、中核的農家を創出し、それを基軸とした農村建設を進める計画が立てられ、指定村が選定されていったのである。そして、このような自作農家たりえない小作農家は、満州移民と軍需工業動員に送出されることとなった。
 こういった適正規模論=標準農村建設計画として、増産体制建設が進められることになったのは、小作法の系譜を引き継いだ農地政策的なアプローチが充分な成果を生み出せなかったこことも関わっていた。米穀需給の悪化にともなって、食糧の国家管理が実施される中で、それとの関係で小作料統制が具体化され、米価政策により地主利害、とりわけ自家保有米を認められなかった不在・不耕作地主の利害が切り捨てられていったが、地主的土地所有の問題に関しては、農地の作付、転用あるいは農地価格の統制が実施されたのみで、最終的に根本的部分に手がつけられることはなかった。生産関係に手を加えず、少ない労働力量で増産の目的を果たすことが求められたために、労働生産性に立った適正規模論が、政策の主流として取り組まれねばならなかったのである。

4 結論
(1)石黒農政の基本的性格について
 独占段階に至った資本主義と農業の矛盾の顕在化に対して、基本的にはその発展する資本主義に適合的な農業の構造を如何に作り出すかという視点で、1920年代にそれ以前とは全く異なった方向性を持って滑り出した農業政策は、時期毎の農業を取り巻く環境変化と農業内部の構造変化に影響されながら、絶えず浮沈を繰り返しつつも、最終的には、戦時型国家独占資本主義の強圧の下で、極めて偏奇的な形ではあったが、資本の要求に応えつつ、農業生産を確保する農家経営のモデルを措定していった。1920年代石黒農政の担い手である、当の石黒をはじめとする農政官僚は、耕作権の確保と小作料の低減を目指しながらも、地主的土地所有制そのものに大きな改変を加えることは構想していなかった。発展する資本主義の下で、資本が農業に一貫して要求する低物価、低賃金の構造をいかに速やかに作り出すか、そして農業生産の安定化を図り、農民が動揺して、社会問題化するような異議申し立ての行動を起こさないような仕組みを農業・農村の中でいかに組み立てるか、そこに彼ら農政官僚の政策の主眼があったと考えられる。そのために必要な限りでは、地主利害への抵触はやむを得ないと考えており、その限りで地主抑制的な政策構想を打ち出すことになったと言える。
(2)石黒ら農政官僚の性格規定について
 石黒ら農政官僚にとっては、資本主義の発展が、農業を桎梏化している以上、早晩資本の圧力の下に、農業生産の基本が脅かされる事態が生じ、農村の動揺が社会問題、政治問題化し、全体的な国家秩序の枠組みを揺るがしかねない状況として、20年代初めの農業・農村は捉えられていた。国民食糧の主地の動揺は米騒動を想起させる。全人口の半ば近くを占め、全生産額の多くの部分を未だに占めている農業・農村の動揺は体制変革を想定させるからである。資本の圧力から農業・農村を守るという側面のみを強調すれば、それは彼らのアグラーリアンとしての性格を説明することになるが、しかし、そこのみに一面的に照射するのはやはりバランスを失しているだろう。とりわけ、小作法、小作組合法の成立に精力を傾けた彼らの主要な動機の一つが、小作争議や農民組合の「暴走」をいかに食い止め、「善導」するかと言う点にあったことはその証左である。国家機関としての小作審判所の設置も、また地方小作官ネットワークの設定も、その点では同一であって、国家の直接的関与の中で、その政策意図に沿った形で事態の収拾が図られることが最も望ましかったのである。
 その点では、彼ら農政官僚の「革新性」についても、その評価は相当の留保をもって行う必要があるだろう。1930年代に、農林省の中核にあって経済更生計画を主導するとともに、更生協会を主催し、更生計画の成果を満州移民に転轍させるべく尽力していた石黒の姿は、軍部の強力の下で日本そのものがひた走っていた侵略主義に便乗して、当面する農業問題の解決を図ろうとしていた国家官僚の本質を象徴的に示していた。このことは、また厳密な意味での農本主義からも相当な隔たりがあったことを示していると思われる。
(3)小作調停法の運用過程について
 小作調停法の運用も、社会政策的な、あるいは社会法的秩序の観点から、行政の司法化という具体的な方法による新たな統合システムへの農村・農民の組み入れとして考えることができるだろう。しかし、重要な点は、それがまったく全的に展開せず、点的であったことであり、それはつまり、調停法の運用のみの分析では、この時期の農業・農村の動揺を、資本主義との適合関係の中で、どのように終息し得たかという問題の解答は得られないことを意味している。その点で、太く大きな小作法の基本線からは迂回的ではあったが、その基本線の不備を補強するために農業団体育成による農民の組織化策が重要であった。とくに産業組合を中心とするこの政策は、直接的な争議への対応ではなく、農家利益の増進を促すことで農民の組合への結集を図り、争議状況の緩和に結びつけることを目指して進められ、実際に一定の成果をあげていた。
(4)経済更生計画の性格規定について
 1920年代農政の基本線を追及できない1930年代初めの農業・農村の状態の中で、前面に押し出されたのは、前時期の農業団体政策であった。恐慌の打撃による農村・農民の動揺をおさえ、安定的な状態をつくりだすために、その打撃に対する危機意識をてこに、農村内の一元的まとまりを組織的に図ることが目指され、その中核に産業組合が据えられた。それは、前時期からの連続でもあった。経営改善、流通合理化による経営利益の向上―負債整理という図式は恐慌下特有のものではあったが、そこで用いられた手法は、これまでの農業団体政策を引き継ぎ全面展開したものであった。地主的利害に抵触しない限りでの生産力主義的な発展、それによる農家利益の増進、そしてそのための協同主義的組織体制づくりが経済更生計画の本質であり、小作法の基本線を採用できなかった石黒ら農政官僚の選択した途であった。
(5)戦時期農業政策の特質について
 1920年代、30年代は、いずれもその内容は異なっていたが、農業・農村問題は社会問題・政治問題として重要な位置にあり、必然的に農業政策も国家政策全体の中で枢要な位置を占め、その帰趨に注目が集まっていた。基本的には、資本主義発展に適合的な、少なくともその発展を阻害しない存在として農業が位置づくことが一貫して求められ、その点で政策が決定されていたことは変わらないが、30年代農業恐慌時のように、農業・農村の打撃とそれによる動揺が余りにも激しく大きい場合には、まずはその救済に多くの精力が割かれることになり、農業政策は重要政策として位置づけられ、それは問題が一段落するまでは、さし当たって継続されることとなった。救農土木事業への臨時的財政出動とその打ち切りの経過がそれを象徴的に示している。戦時体制への突入は、資本主義の側の軍需重化学工業最優先の経済政策とそれに基づく産業構造の編成替えを急ピッチで進めることを要請し、その点で農業および農業政策は、食糧供給に対するさし当たっての不安がなかったことにより、それまでの相対的高位の位置づけから一挙に低位に格下げされることとなった。当面の食糧生産の維持・安定と戦時に必要な特定農産物の増産のみが期待され、基本的には、戦争と軍需重化学工業への人的物的動員の重要な基盤としての位置が与えられた。経済更生計画の成果を基礎に、戦時増産体制を睨みながら、財政的裏付けをもって安定的生産力基盤の整備を図ろうとした特別助成事業が、そのような全体構造の中で承認を得られず、事実上破綻すると、農業政策も、その戦時要請に如何に内部努力で応えるかに終始し、戦時の深化とともに進行する生産諸条件の悪化に対する歯止めを失っていった。戦争の全面化以後、農業政策が状況に対して完全に後手に回り、生産の確保をなし得なかったのは、国家の政策全体の中での農業政策のそのような位置と、状況対応的な政策選択の結果であった。資本が要請する低物価、低賃金構造に規定され、決定的な不足労働力量の中で割り出された労働生産性を基礎とした適正経営規模農家の創出は、まさにそのような政策のあり方の必然的な帰結であった。
 そのような中で、しかし、唯一政策的な進捗を見せたのは、戦時という特殊状況を背景に、かなり歪んだ形ではあったが、米価政策に拠った小作料統制であった。最終的に地主的土地所有制そのものに手をつけることはなかったが、食糧管理の枠組みを使って、小作料収取における地主利害をほとんど壊滅的なところにまで追い込んだことは、それだけ戦時体制が深化し、その下での資本の要求が地主利害を桎梏とし、切り捨てるところまで抜き差しならなくなっていたことを示していた。こういった偏奇的形ではあったが、戦前の終焉の段階で、発展する資本主義に適合的な形が、地主利害の制約と適正な経営規模の問題の両面から措定されることとなり、それが、戦後の農地改革への結びつきをもっていくことになった。
(6)農地改革、戦後自作農体制への見通しについて
 農地改革とその後の自作農体制に結びつく諸々の動きは戦前から準備され、戦時の食糧増産の要請の中でそれらの一部は、不耕作地主の利害を明瞭に切り捨てる形で実施されたが、しかし、それはあくまで限定的であり、物価統制の一半としての小作料の統制と自作農創設の線を拡充した農地政策として取り組まれたのであり、政策の基軸的部分は、家族労作経営を基本とした労働生産性重視の適正規模論、すなわち農業経営策として展開されていた。言い換えれば、戦前最終段階の農業政策は、本来食糧増産の要請に応えるべく確立されなければならなかった直接耕作者保護の体制を、耕作権保障と小作料低額という1920年代的基本線及びその延長線上の農地政策によってはつくり出すことができず、戦時に照応した農民、農家の組織的団体的統合策の徹底化に支えられた形で、農家経営規模問題として課題に取り組まざるを得なかったところにその特徴があったと言える。この姿は、戦前日本資本主義と農業とのあり方の総括的帰結であって、資本主義の経済発展にとっての地主制の桎梏に対して、私的土地所有制の問題として解決を与えることができず、一貫して生産力主義的に、その意味で迂回的、対症療法的にしか対処し得なかった政策の特質を示したものであった。資本主義の経済発展にともなう諸課題の噴出とそれに対する対応策の模索と提起という点では、戦時は、ある意味で固有の高度化された資本主義のシステムを要請し、そのため、ともすれば戦後を先取りするような政策構想が必要とされ、一部実施される必然性があった。農業部門においても、減少する労働力量の下で増産確保の課題を達成するためには、地主的土地所有に手を触れることが構想されざるを得なかったし、また、その途が充分に展開できないとなると、徹底した協同化、機械化、そして経営規模の適正化による労働効率の高度化が追及されたのである。しかし、すでに明らかにしたように、戦時国策全般の中での農業の低位性―食糧需給の不安定が顕在化して以後も相対的には低位のまま―に規定され、それらの政策は充分に追及し切れず、実質的に不耕作地主利害の多くの部分にメスを入れたものの、土地所有制度改革という面では実際の効果をあげることなく敗戦を迎えることになった。そしてそのことが、戦後の農地改革を準備する結果となったと考えられる。

このページの一番上へ