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博士論文要旨

論文題目:戦間期日本における定住朝鮮人の形成過程
著者:金 廣烈 (KIM, Gwang Yol)
博士号取得年月日:1997年11月26日

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本論文は、現在日本に定住外国人として存在する在日朝鮮人の原型が如何なる過程を経て形成されたのかを改めて考察し、その形成史の実像にせまろうとするものである。

 本論文の主題と関連する諸先行研究の成果と問題点を検討した結果、対象時期および対象主体、課題および方法を次のように設定した。

 対象時期は両大戦間期にあたる1920,30年代とするが、30年代は総動員体制のもとで朝鮮人強制労務動員が始まる39年以前までとする。それは次の三つの理由に基づく。・1910年代の朝鮮人の渡日は、日本企業による労働者募集が多かった第一次大戦期に集中していたが、ほとんど出稼ぎ形態であり、同年代末の日本在住朝鮮人人口は3万人にも満たなかった。・植民地農政が本格的に展開されるにつれ、朝鮮全人口の8割が集中していた農村部で激しい階層分化が起こり、膨大な数の離村が発生するとともに、渡日者数が最も激増した時期であった。・1939年以降の第2次大戦期における朝鮮人の渡日は、軍需産業へ集団的に強制労務動員する形態以外は制限されたが、この強制動員された朝鮮人労働者らは、ほとんど日本の敗戦直後に自力であるいは占領軍司令部の指示による厚生省の「計画輸送」で帰国した。したがって、在日朝鮮人の原型は、主に1920,30年代の日本で生活の根拠を持って定住化した層であると考えられる。

 対象主体は、朝鮮での生活難を解決しようと職を求めて渡日した朝鮮人、および日本在住朝鮮人の大部分を占めた労働者とする。

 (1)従来の研究は多くの朝鮮人が労働者として異郷の地・日本へ渡航せざるを得なかった背景として、日本資本主義側のプル要因に注目していたが、基本的には当時朝鮮で増幅されていた植民地特殊的な社会経済状況がプッシュ要因として強く働いたためであると考えられるので、この点を可能な限り明らかにする。まず、職探し渡日は離村の延長形態であるから、植民地期朝鮮における朝鮮内及び海外への人口移動の概要を把握する。また、この時期の離村の第一原因として、朝鮮の人口の大半を抱えていた農村部の経済的疲弊状況に注目し、土地所有の不均衡、営農収支の悪化という悪循環によって農村中間層がどれほど没落していたのかを検討する。さらに、頻繁に発生した旱害も離村を促した要因であったことを指摘するとともに、自然災害そのものはやむを得ないことではあったが、朝鮮総督府側の曖昧な災民救済対策が緊迫状況におかれていた農民をして離村へ踏み切る二次的原因となったことについて検討する。次に、離村者が朝鮮内に留まらず、海外に特に日本へ労働者として渡る背景として、朝鮮内の劣悪な転職環境を職業別構成の年次別変化、失業状況、職業紹介所の役割、さらに中国人労働者の朝鮮労働市場進出など側面に分けて検討する。

 (2)一歩踏み込んだプッシュ要因の具体的な事例として、1920,30年代に朝鮮総督府が被災民および窮民の救済名目で実施した土木事業に焦点を合わせ、その性格と実態、またそれは窮民たちにとってどのような意味のものであったのかを明らかにする。それは、このときの土木事業への就労が、離村寸前の窮民たちにとって数少ない現金収入機会の一つであったからである。さらに、補論として、1932年に摘発された朝鮮土木業界の談合事件を通して、植民地期朝鮮の公共土木事業における本質的問題点を指摘する。

 (3)内務省警保局の主導による朝鮮人渡日規制政策の変遷を検討し、それが渡日環境及び日本在住朝鮮人の滞在形態にどのような影響をおよぼしていたのかを明らかにする。治安当局による渡日規制政策の変遷を細かく分析し、それと日本在住朝鮮人の形成との関係を考察した先行研究は皆無である。これは、当時の朝鮮との関係がどのようなものであったのかを理解するのに欠かせない課題である。

 (4)従来、職を求めて渡日した朝鮮人は朝鮮社会の中でも最下層であり、裸一貫の状態であったという固定観念で認識されていたが、彼らの特質を検討して必ずしもそうでなかったことを明らかにする。渡日者が如何なる手がかりと目的で日本に渡っていたのか、また彼らの渡日時の経済状態と郷里での職業などについて検討する。次に、渡日した朝鮮人と朝鮮内における朝鮮人一般の教育程度を比較し、前者の教育程度を明らかにすることによって彼らの特質を考えてみる。教育程度とは本人あるいはその家庭の経済力によって左右されるからである。

 (5)従来の研究では、戦前日本に在住した朝鮮人の生活状態がどれほど貧窮なものであったかという側面だけが強調されてきたが、彼らはそういう恵まれていない生活状況の中でも概ね定住化したことを明らかにする。日本在住朝鮮人の在住様態をマクロ的視点で検討し、集住地域の変化、有業者層と無業者層の比率変化、主要職業の変化などを分析する。また他の角度で、世帯構成人口、男女別・年齢別人口の変化も検討する。

 次に、日本在住朝鮮人の生活環境を、居住状況、就職経路、労働生活状況、失業救済土木事業における就労実態、生活に対する認識などの側面にわたって検討する。また、定住せず朝鮮に帰る者すなわち非定住帰郷者の状況も考察し、定住化の過程を検討する。

 以下では、このような課題設定のうえにたてられた本論文の構成と、各章ごとに得られた結論を記しておく。

序論
  はじめに
   1 先行研究の検討
   2 課題と方法
  註

第1章 1920,30年代朝鮮における離村と渡日の背景
  第1節 離村の概容
 第2節 農村経済の疲弊化と農村中間層の衰退
  第1項 農村階層の下向分解
   第2項 農村中間層衰退の背景
 第3節 旱害と離村
  第1項 1924年の事例
  第2項 1928年の事例
   第3項 1932年の事例
   第4項 1935年の事例
  第4節 劣悪な就職環境
   第1項 職業構成の変化から見た就職環境
   第2項 失業状況
   第3項 職業紹介所の役割
  第5節 中国人の朝鮮労働市場進出
   第1項 在朝中国人の人口と職業
   第2項 中国人労働者進出に対する朝鮮総督府の対応と朝鮮労働界の認識
 小括
  註

 第2章 朝鮮総督府による「窮民救済土木事業」の実態
  第1節 1920年代における「被災民救済土木事業」
   第1項 1924年の事例
   第2項 1928年の事例
  第2節 1930年代前半における「窮民救済土木事業」
  第1項 事業の実施経緯と構図
  第2項 実施実態 ― 慶尚南道を中心に ―
  補論:1932年の朝鮮土木業界談合事件
   小括
  註

第3章 内務省主導による渡日規制政策と日本在住朝鮮人
 第1節 1920年代における渡日規制
  第1項 旅行証明書制度の撤廃
  第2項 渡日規制の実施
  第3項 二重の渡日取締
  第4項 「一時帰鮮証明書」制度の実施
 第2節 1930年代における渡日規制
   第1項 「一時帰鮮証明書」制度の部分改正とその実態
  第2項 日本内の朝鮮人取締強化
  第3項 総力的な渡日抑止体制の確立
   第4項 部分的な渡日規制緩和
  小括
  註

 第4章 渡日朝鮮人の特質と日本在住朝鮮人の定住化様相
  第1節 渡日朝鮮人の渡航形態、目的、経済状態、郷里での職業
   第1項 1927年下関港、慶尚南道の事例
  第2項 1932年大阪在住者の事例
  第3項 1935年東京在住者の事例
  第2節 教育程度から見た渡日朝鮮人の特質
  第1項 朝鮮における朝鮮人の教育程度
  第2項 渡日した朝鮮人の教育程度
  第3節 マクロ的にみた日本在住朝鮮人の定住化様相
  第1項 地域別・職業別人口の変化
  第2項 世帯構成および男女別・年齢別人口の変化
 小括
  註

 第5章 日本在住朝鮮人の生活状況と非定住帰郷者
  第1節 居住状況
   第1項 住居難
   第2項 居住形態
   第3項 数字でみる朝鮮人居住形態の変化
  第2節 労働環境および生活状況
   第1項 就職経路
   第2項 労働生活状況
   第3項 失業救済土木事業における朝鮮人の就労実態
  第3節 生活に対する認識と非定住帰郷者
   第1項 定住に関する認識
   第2項 非定住帰郷者
  小括
  註

結論 ― 総括と展望 ―


<第1章>

 まず、植民地期朝鮮における離村の数量的規模を推算してみた。離村者は朝鮮内のみならず、日本や「満州」にも移動していたが、それぞれの地域における移住増加分から推計した1920年から38年までにおける離村の規模は、朝鮮内の府部及び郡部へ約183万人、日本及び「満州」へ約131万人であった。その内日本に渡った人員は約74万人であった。

これほど大規模の離村が起こっていた構造的要因は農村経済の全般的疲弊化にあった。植民地農政が展開されるにつれ、農村中間層の下向分解が進行し、零細農層が増大していった。その原因は日本の土地会社や大地主を中心に行われた土地兼併の拡大、また営農収支の悪化にあった。朝鮮農民たちは営農資金を確保するために、借金を重ねざるを得なかったが、米価の下落傾向も続き、赤字収支の桎梏から抜け出ることはできなかった。さらに、それに重なって毎年のように旱害が発生し、経済的弾力性が一段と弱まった多くの農民たちは余儀なく離村した。

 朝鮮総督府の旱害救済対策は、災害地に土木工事を実施して間接的な救済を図ろうとしたものであったが、いつも実施時期が災害発生の翌年春期になったため、その間の離村を引き留めることはできなかった。なお、このような疲弊状況が続いた結果、毎年の春には営農形態を問わず多くの農家が絶糧状態すなわち春窮に苦しんでいた。辛うじて在村していた農民もこの春窮期に離村する場合が少なくなかったのである。もうひとつ、農村経済の疲弊化は農村青少年層の就学機会を狭め、学業を続けられず中途退学する生徒も多かった。これらの農村青少年たちが家計を助けるため、他地域に出稼ぎに出る余地があったことは言うまでもない。

では、離村の時期と形態を整理してみよう。まず、離村の時期としては、旱害の直後、秋の取り入れの前後、春窮期などに分けられる。特に旱害があった翌年の春窮期はいっそう悲惨な状況に陥り、離村あるいは乞食流離する者が続出した。次に、離村の形態には大きく二つに分けられる。その一つは、家財道具や所有していた不動産を売り払ったりして、程度の差はあるにせよ、旅費あるいは転業資金を工面できる層に限るが、職探し未了であっても大体の行き先は決まった離村である。これは家族一部の出稼ぎ形態の離村であっても、村に生活の根拠を残さない挙家離村であっても同じである。二つ目は、旱害などの自然災害によって全く生活の目処がつかなくなったため、乞食流離としての離村である。この流離者たちはほとんど近隣都市の貧民層に組み込まれていった。

 次に、離村者の中には朝鮮以外の日本や「満州」へ移動する者も多かったが、中でも主に賃労働者としての転業を目指して日本に渡る蓋然的背景について、いくつかの側面に分けて検討してみた。まず、職業別戸数の年次別変化からみた2・3次産業における朝鮮人の就職環境は、全体人口の増加とともに、30年代後半に「鉱工業」部門の比率も増加してはいたが、特に不安定な職業といえる雑業層が急増して非農水林職業の中で最大の職業となっていた。それに、「無職」と分類された層も10万戸という驚くべき程度に増加していた。すなわち、全般的に不安定な就職環境にあったのである。

そして、1930年代に入って朝鮮総督府が行った一連の調査から同時期における朝鮮人の失業状況を概観してみたが、それによると30年代における朝鮮人の失業率は漸次減少する傾向であった。しかし、この朝鮮総督府による失業調査はその実施方法に甚だ問題があったため、それが当時朝鮮人の実際の失業状況を反映したものとは考えられない。30年代おける朝鮮人の失業率はそれよりいっそう上回っていたものとしてみるべきであろう。しかも、戦時期である38年からは朝鮮にも「国家総動員法」が適用され、軍需産業以外のいわゆる「平和産業」部門は統制・整理されたため、工業及びその他産業に失業者が続出していたのである。

 さらに、職業紹介所を通した就業状態を検討してみた。朝鮮における職業紹介所が本格的に増設されるのは1928年からであったが、その背景には日本へ労働者として渡る朝鮮人が増加する傾向を朝鮮側で抑制するため、朝鮮内の労働需給施設を拡充せねばならなかったことがあった。しかし朝鮮の職業紹介所は、この時期の全般的に増加していた失業労働力をごく部分的に消化するに過ぎないものであった。

 もうひとつ、植民地期朝鮮における外国人労働者であった中国人労働者は、労働市場において朝鮮人労働者と競合することになり、もともと劣悪な朝鮮人の労働機会をいっそう狭める存在であった。当時、経済的窮乏状態による離村が増大し、ほとんどの離村者は非熟練労働部門の職探しにでることになるが、その過程で中国人労働者と葛藤が生じていた。朝鮮総督府当局による中国人労働者の雇用及び入国に対する制限措置が取られてはいたが、それは朝鮮人の渡日制限はしながらも中国人の朝鮮進出を放置するという矛盾に対して、朝鮮人側から強い反発が出たためであって、在朝中国人人口の増加を本格的に防ぐものにはならなかった。この問題に対する朝鮮人労働者一般の認識は、中国人に自分たちの就労機会が奪われるというものであり、彼らの就職への不安は増幅されていた。

以上のように、1920、30年代の朝鮮では農村経済の疲弊化、自然災害の多発などによって、離村が激増するとともに、2・3次産業への余剰労働力が溢れ、全般的な就職難状態が続いていた。一般的に離村者は一国内の2・3次産業への転業を目指して移動するものであるが、当時の朝鮮は日本の植民地とされ、日本労働市場に組み込まれていたので、就職機会の劣悪な朝鮮よりは日本での職探しを選択する者が増えるのは当然な帰結でもあった。


<第2章>

1920年代は大規模旱水害があった24年と28年両時期における総督府の「被災民救済土木事業」の事例を検討してみたが、いずれの時期も総督府の貧弱な財政状況のため本格的な対策を早急にたてることができなかった。事業実施に必要な予算が確保できたのは災害があった年の年末か翌年の初め頃であり、実際各地で工事が実施されたのは翌年の春期になってからであった。そのため、すでに事業実施の前に多くの農民が離村していた。

 それに、そもそもこの被災民救済名目の土木工事は各地のインフラストラクチュア整備を兼ねたものであったため、工事の運営は請負土木業者に任されていた。このような構造のもとで非熟練労働力であった被災窮民の就労機会は狭くなっており、彼らは一日約40銭という低賃金で12時間の長時間労働に酷使された。そして、その日の生活費にもならないとして、同事業への就労を忌避する窮民も少なくなかった。

次に、1931年から33年まで朝鮮で行われた「窮民救済土木事業」の実態も検討してみたが、それは規模こそ拡大されたものの、基本的に1920年代に局地的に実施された「被災民救済土木事業」の構図と変わりがなかった。特に、30年代前半の「窮民救済土木事業」が実施されのは、当時日本内の失業問題を増幅させる要因として見なされていた朝鮮人の大量渡日を極力防ぐためにも、朝鮮内で窮民の移動を引き留める手だてが必要となった背景がある。しかし、各道への事業費配分は、大蔵省からの融資条件に規定され、地方費財政力を基準して行われたし、施工される工事種別も窮民の就労機会がせまくならざるを得ないインフラストラクチュアの整備に重点が置かれたものであった。工事を主管する地方行政機関は融資を受けた事業費の償還を優先し、工事の確実な進捗を図って、土木請負業者に運営をまかせていた。そのような構造下で、依然として土木請負業者の中間搾取が行われ、相変わらず窮民就労者は一日の生活費にもならない低賃金(約45銭)と長時間労働に強いられた。しかもこの時期には就労者の日給から3~5銭を天引きする非現実的な強制貯金制も行われたため、窮民たちの就労環境は一段と悪化していた。

 一方、土木談合事件は朝鮮における土木業者の中間搾取を象徴する出来事であった。植民地朝鮮での公共土木事業から甘汁を吸う日本人土木業者たちが談合によって利潤を確保したため、何重もの下請が行われる中で工事費用は矮小化され、結局その分、労働者賃金の水準低下へと影響を及ぼしたと容易に推測しうる。生計に困った窮民就労者が最低賃金で搾取されたのはこういった構造から生まれたものである。

 すなわち、1930年代前半の「窮民救済土木事業」は、1920年代に局地的に行われていた「災民救済土木事業」の構図が何の改善も行われないまま踏襲されたものであった。総督府当局は救済名目の土木事業を実施するに当たり、本来の趣旨に沿うためにもなるべく窮民労働者が多く使用されるような運営規定をもうけるべきであったが、そういう工夫はみられなかった。結局、窮民救済を建前に行われた土木事業は朝鮮統治に必要なインフラストラクチュアの整備に充当され、莫大な事業費は工事を下請ける土木資本に吸い取られるだけのものとなってしまい、就労する窮民の再生産に役立つことはなかったのである。当時日本内で行われていた失業救済土木事業が失業者の就労機会を極力保障しようとした仕組みのもとで展開されたことに比べると、大きな差があったと言わざるを得ない。

 したがって、多くの窮民にして「窮民救済土木事業」を敬遠して、農村に留まることなく、より就労条件が増しな就労先を求めて移動する結果を招いた。当時の朝鮮から職を求めて渡日する朝鮮人が増加した背景には、以上で見たような朝鮮内における「窮民救済土木事業」の歪んだ展開様相も、排出要因となっていたことが指摘できる。


<第3章>
 朝鮮人の労働者としての渡日を規制する制度は1925年からはじまったが、1930年代の末まで実に多くの規制がつくられていた。渡日規制は、主に朝鮮側において朝鮮総督府警務局の指揮下で実施されていたが、常に日本帝国主義警察の中枢機関である内務省警保局が背後で主導していた。内務省警保局は、日本在住朝鮮人人口の増加をあくまでも日本内における失業問題と治安問題を増幅させる要因として認識し、可能な限りの朝鮮人の渡日を制限・統制しようと、朝鮮総督府警務局に働きかけていた。

 渡日規制の流れを概観すると次のようであった。3・1独立万歳運動後の1919年4月に設けられた旅行証明書制度は、朝鮮人の海外渡航を全般的に制限するものであったが、朝鮮人側から強い反発をかい、1922年12月に撤廃となった。その後、朝鮮人の職探し渡日は増えたが、日本内の失業問題が深刻化したことが優先され、1925年から具体的な規制項目が設けられる。それは日本での就職確否、旅費以外所持金の余裕、精神的健康、不許可労働募集か否か、日本語能力などの条件を満たす者だけに出発港で渡航証明を発行するというものであったが、時期を下るにつれ、出発港と居住地での二重取締、渡航証明の発行手続き強化などが次々と付け加えられた。このような規制に対して、朝鮮での生活難を解決しようと職を求めて渡日するのは当然ではないかという、朝鮮人側からの不満も表出していたが、無視された。
 渡日規制が行われていたにも拘わらず、1933年までの年間渡日者数は増加の傾向をたどっていた。それは朝鮮内における劣悪な就職環境や農村経済の疲弊による人口排出の勢いが一層強力であったからである。逆に言えば、渡日規制が段々と強化されたのは、年毎に増えていた朝鮮人渡日者を防ごうとしたためであった。

一方、日本内の工場及び鉱山で働く朝鮮人を対象に、1929年8月から「一時帰鮮証明書」制度が実施された。これは、1930年7月に少数の官公署・会社の使用人を入れ、わずかに枠を拡げたこともあったが、基本的にその他大多数(7割)の日本在住朝鮮人有業者を対象に含まないまま、38年まで持続された。警保局がこの制度を実施した背景には、日本在住朝鮮人有業者の多くが、帰郷をするとしても一時的で、再渡日していたこと、つまり定住化が進んでいた状況があった。そして警保局は、日本産業界にある程度必要な工場・鉱山の朝鮮人労働者だけに「一時帰鮮証明書」を発行しておけば、その対象に含まれないその他職業の朝鮮人が一時帰郷した場合、すでに朝鮮側で厳しい渡日規制が行われていたので、なかなか日本の生業に戻れなくと目論んだのである。すなわち、間接的な渡日防止制度であった。しかしこの制度は、逆に彼らにして帰郷をあきらめ、やむをえず定住せざるを得ない状況をつくってしまった側面もある。

1932年にあった朝鮮独立闘士による一連の爆弾テロ以後、内務省警保局は日本内における対朝鮮人監視体制を強化した。そしてその後、日本在住朝鮮人人口が急増したことに対して、日本政府と朝鮮総督府の関係当局は、朝鮮人の渡日抑制及び日本在住朝鮮人の同化を総力的に取り組むことに合意した。1934年10月末に閣議で決定された「朝鮮人移住対策ノ件」は、その当局間の協議を具現した政府方針であった。朝鮮総督府警務局がそれまでの渡日規制を網羅して例規を作ったのも、この政府方針に基づく措置であった。この時期から、渡日許可は行先地所轄警察への就職確否の照会が前提とされたし、日本在住有業者の被扶養家族の渡日に対しても、扶養義務者の経済能力を確認した。その後にみられた渡日朝鮮人数の減少は、34年に政府次元の総力的渡日抑止政策が出たことに起因する。しかし、それでも毎年の年間渡日者数は10万を超えていた。渡日規制が強まるにつれ、渡日可能な人もだんだんと限られていったとみて差し支えないが、やはり規制をパスできる条件を揃えていた人たちが日本行きの連絡船に乗ったと考えられる。

本格的な戦時体制に突入していた1938年3月、朝鮮総督自らが、拓務省を経由して、内務省に渡日規制の撤廃あるいは緩和を要請したことがあったが、それは、植民地朝鮮における戦争協力体制をスムースに遂行するためであった。つまり、物的および人的資源の動員、また精神的同化までも朝鮮民衆に強要していた朝鮮総督府が、それと相矛盾する朝鮮人渡日制限を傍観しているような態度をとれなくなったからであった。しかし、内務省警保局は、渡日規制の撤廃は治安上できないが、「一時帰鮮証明書」制度と被扶養家族の渡日規制を緩和する形で対処した。このときに朝鮮人の渡日が部分的ながらも緩和されたことは注目に値する。それは、日中戦争勃発後に生じていた日本の炭坑及び中小工場の労働力不足を補うための措置であったと考えられるからである。まさに戦時期に入ったからこその規制緩和であったといえよう。

 この部分的に緩和される渡日規制は、朝鮮と日本の関係当局間の意見調整を経て、1938年12月、朝鮮総督府警務局の新しい例規としてまとまる。以降の朝鮮人の渡日規制がこの新例規に基づいて実施されたことは言うまでもない。

以上のように、戦間期日本の内務省当局による朝鮮人渡日規制は、植民地支配の矛盾として現れた膨大な朝鮮人の職探し渡日に対して、日本内の失業及び治安問題を優先してとられた政策的措置であった。総じていえば、それは常に「内地優先主義」に徹したものであった。日中戦争の前までには総力的な渡日規制体制が確立されていたが、戦争勃発による全面的戦時体制に入ってからは、日本内の一部産業に生じていた労働力不足を補うため、部分的な緩和へと向かったのである。そして常に、職を求めて渡日した朝鮮人は、「一視同仁」という植民地統治の建前のもとで日本国籍に見なされていたにもかかわらず、外国人に対するパスポート統制と変わらない、条件付きの渡航規制と、身元を示す渡航証明書の発給を受けなければならなかった。

<第4章>
 第1節と第2節では、渡日朝鮮人労働者の特質について、渡日の形態と目的、出身地、郷里での職業、渡日時の経済状態などを検討するとともに、朝鮮内の朝鮮人一般の教育程度と渡日朝鮮人の教育程度を比較検討してみた。慶尚南北道・全羅南北道など4道を中心とした南部朝鮮の農村から、生活難に逢着した農民たちが転職を目指して、既に日本に渡って在住していた家族・親戚及び知己などを縁故に日本に渡っていたが、なかには自作農出身も多く見られた。彼らの渡日時の経済状態を旅費以外に所持した金額の程度からみると、全く無い者もかなりいたけれど、余分の金額を所持していた者が無視し得ないほど多かったし、さらに日本で商業を営むつもりで驚くほどの大金を持って渡航した者もみられた。教育程度の面においては、朝鮮内の朝鮮人一般に比べると、渡日を選択した人たちの教育程度が全般的に高かった。渡日した朝鮮人には、朝鮮ではインテリ層に属する中等教育あるいはそれ以上を経験した者も少なくなかったのである。

 以上のことから、渡日朝鮮人は朝鮮内最下層の出身であり、裸一貫の一文無しの状態で渡航したという従来のイメージは、実態とはかなり異なるものであったといえる。また、形成期における在日朝鮮人を単に教育程度が低い「低劣」な労働力であったとする従来の見解も修正する必要があろう。やはり、渡日時の経済状態や教育程度から判断すると、渡日を選択した人たちは少なくとも農村の最下層ではなかったと考えられる。すなわち、当時没落しつつあった農村中間層も、就職環境の劣悪な朝鮮内であてもなく職を求めるより、いっそう就職機会がありそうで親戚や知己もいる日本での転職をめざして、渡日規制をパスし、渡航していたと見るべきであろう。本来ならば、彼らは朝鮮の地域社会の発展に中心的役割を担うべき人たちであったが、植民地朝鮮の社会経済状況下では彼らに生活への希望を持たせる余地がなかったといえよう。

 第3節では、1920・30年代における日本在住朝鮮人の定住化様相を把握するため、地域別・職業別人口の変化、世帯構成比率の変化、男女別・年齢別人口の変化などをマクロ的に検討してみた。この20年間における日本在住朝鮮人の人口は、1920年に3万1,720人であったのが40年には119万445人へと約40倍も増加した。また、常に人口上位10地域に全体人口の8割前後が集中していた。1920年代初期までは地理的に朝鮮から近い関西以西の九州、中国などの地域に全体の半数が集住していたが、時期が下るにつれ、関西、関東、中部地方の都市部とその周辺に拡散していった。

職業別人口における有業者層と無業者層の比率の変化は、有業者層がますますと減少した反面、無業者層は増加していた。総人口における有業者層の比率は、1920年に93%であったのが、時期を下るにつれ、25年82%、30年79%、35年56%、40年52%へと漸次減少した。その反面、無業者層が増加し、40年時点には5割近くの状態になったのである。有業者層における代表的職業にも変化がみられた。1920年には「土建人夫」(37%)、「職工」(27%)、「鉱坑夫」(22%)などであったが、40年には「土木建築業」(24%)、「工業」(26%)、「鉱業」(13%)、「商業」(11%)、「其他労働者」(9%)と変わっていた。時期を問わず、日本在住朝鮮人の主な職業は下層労働者であったのである。ただ、新規の渡日者が増加し、日本在住朝鮮人の総人口が急増するにつれ、新たに「商業」や「其他労働者」、また「其他有業者」などを職業とする人口もかなり増加するようになったのである。

 中でも、「商業」に従事する人口が増加していたことは注目すべき変化である。「商業」といっても細分類をみると「露店商及び行商」がほとんどであったが、分類項目に登場したのは1930年からであった。その有業者全体における比率は、全体人口の増加にもかかわらず、30年5%、35年10%、40年11%と着実に増加していた。これは、新規渡日者の中には、下層の賃労働業に就職するよりも、零細的規模にせよ個人的に商売を営む道を選択する傾向が強くなったことを意味する。

 一方、無業者層が急増していたが、それは「小学児童」、「無職」と分類された人口が急増したためであった。1930年時点に「小学児童」4,030人(1%)、「無職」5万2,153人(18%)であったのが、40年時点には「小学児童」12万9,513人(11%)、「無職」42万5,437人(36%)へと、膨大な増加を見せていたのである。「無職」と分類されたのは、ほとんど「世帯主従属者」であったが、これに「小学児童」の増加を含めて考えると、1930年代に入ってから日本在住朝鮮人の定住化が進行していたことにほかならない。

 もうひとつ、世帯構成人口の比率と男女別・年齢別人口の比率が如何なる変化を見せていたのか検討してみた。1920年代には全体人口の半分も満たなかった世帯構成者が、1930年代に入ってから急増し、35年には8割も超えていたことを確認した。また、男対女の人口比をみると、20年に9:1で男性が圧倒的に多かったが、30年には7:3、40年には6:4となり、段々と男女の比率の差が少なくなってきた。全体的な人口増加のなかでも女性人口の増加幅が大きいからであった。年齢別人口の比率変化からみられた特徴は、幼少年層と老年層の増加したことであった。10歳未満の幼少年層の比率は1920年に4%だったのが40年には30%に急増していたし、また60歳以上の老年層の比率も1920年に0.2%だったのが40年には1.7%に増加していたのである。このような側面からも日本在住朝鮮人の定住化が進展していたことを確認できる。以上のことから、朝鮮人の渡日形態は、1920年代から30年代に移行するにつれ、出稼ぎ型の渡日から郷里に生活の根拠を残さない家族ぐるみの渡日に移行したと考えられる。


<第5章>
 職を求めて渡日した朝鮮人にとって最も先決すべき課題は住まいと職を確保することであった。しかし彼らを待っていたのは住居難と就職難であった。朝鮮人住居難は、自ずと朝鮮人にして、各都市部周辺の人口過疎地区およびスラム地区に集住地を形成させるようになった。彼らの主な居住形態は、人夫部屋、飯場、職場住み込み、寮、借家・借間、労働者宿泊所などであった。中でも人夫部屋および飯場は、労働紹介を兼ねていたが、朝鮮人の住宅難と就職難を背景に登場した職業であった。その経営者とは、渡日朝鮮人の中でも日本語に長じてかつ転業資金を用意しえた者であり、借家に成功したケースにあたる。また労働宿泊所とは、各地方行政が朝鮮人親日融和団体に援助をして開設したものがほとんどであった。1920,30年代における日本在住朝鮮人の居住および住居形態をいくつかの統計でみると、世帯持ちは狭いスペースながらも借家をしていたに対し、独身者の場合は人夫部屋と労働宿泊所で居住することが最も多かった。ただ、独身者の場合、1920年代に比して30年代には、借家・借間の割合が増加していた。独身者も世帯を構えて定住化しつつあったことをうかがえる現象であった。

 就職経路についてみると、時期を問わず、知己による紹介と自力で解決する場合が最も多かった。知己による紹介とは、知人によるもの、友人によるもの、親戚によるもの、などを含むが、このような経路で就職した者が多いのは、彼らの渡日形態や日本での生活形態が地縁や血縁を中心とするものであったことに起因する。そして就いていた職業は総じて単純肉体労働の割合が最も多かった。世帯主と独身者によって若干異なっていたが、前者のほうには比較的安定した職といえる工場労働者や人夫部屋・飯場の経営者も若干数みられた。中でも、人夫部屋・飯場の場合はほとんど自力による開業であった。開業に必要な資金と借家できる能力を具備しうる人たちに限られた業種といえよう。また、1930年代になると各種商業に従事する者が全体の9~11%を占めるほど増えていた。この商業の場合もある程度の自己資金を必要とする業種であるといえよう。

次に、労働生活状況について賃金(日給)と月間労働日数、生活状況、失業状況などの側面から検討してみた。日本在住朝鮮人労働者の賃金は同業種の日本人労働者に比して1~5割ほど低かった。月間労働日数も日本人より少なかった。5割弱の人たちが月間就労日20日以下であった。したがって当然ながら月間収入も低い程度にあったので、大部分の朝鮮人労働者はかなりきりつめた生活をしていた。ただ、職業によって月間収入が異なっていて、工場職工、人夫部屋・飯場、商業などに従事していた者は比較的に少数ながらも全体の中で収入が高いほうであった。こういうことから、日本在住朝鮮人の中でも貧富の差が生じつつあったと考えられる。月間収入の低い層の中には生活費不足で困っていた人も少なくなく、3~5割を占めていた。彼ら生活費の不足する人たちは大小の借金をしていたが、それは主に親戚および知己からであったと考えられる。就中、極貧層に加わっていた人たちは親戚および近隣による扶助、あるいは地方行政による救護を受けて、やっと延命していた。

 一方、失業状態にある朝鮮人の中には、当時6大都市を中心に実施されていた失業救済土木事業に就労する者もかなり見られた。しかし、彼らの就労実態を検討すると、日本人就労者に比べて月間就労日数が少なかったゆえ、収入も低かった。

さらに、以上のような生活状況の下で1920、30年代日本在住朝鮮人が日本での生活についてどのように認識していたのかを検討してみた。全般的にみて、日本での生活が「楽」であると認識していた者は65%を占めていた。「楽」とは、朝鮮に比して日本では労働の機会が多く、賃金が高いという経済的意味であった。ところが、日本での「永住」に関する認識には変化が見られた。1920年代には17%程度にすぎなかった永住希望者が、1930年代になると6割弱から9割弱を占めるほど急増していた。時期が下るにつれ、全体的に定住化しつつあったのである。ただその反面、日本での生活が「苦」であり、永住する考えは無い人々も常に存在していたことを見落としてはならない。最後のところで検討した非定住帰郷者がそれに属する人たちである。

朝鮮への帰還状況について、一事例をみると、「一時帰還者」が52%、「永久的帰還者」が48%の割合であった。非定住帰郷者はその「永久的帰還者」に含まれていた再渡日を希望しない者のことである。彼らの帰郷理由は「疾病」、「失業」、「家事都合」などであったが、特に「疾病」や「失業」によって、極貧状態におちいったからであった。「疾病」は、貧しい食生活のため脚気にかかったり、就労中の安全事故のため労働ができなくなったことが原因であった。「失業」とは、就労途中の失業、職探し失敗、日本語不通などが原因であった。そして彼らは、親族および同郷の知己などから旅費の援助を受けるか、郷里から送金をしてもらって辛うじて帰郷していた。

以上、1920,30年代における日本在住朝鮮人の生活状況について検討してみた。日本在住朝鮮人の共同体は、彼らの渡日形態がそうであったように、日本での居住、職探し、生活扶助なども地縁および血縁を中心に成り立っていた。大多数の日本在住朝鮮人は困窮な生活状況であったが、それでも朝鮮よりは就労環境がましであるとして、日本に定住することを希望する者が急増していた。しかし中には、失業、職探し失敗、疾病などのため、極貧状態におちいり、日本での生活に見切りをつけて帰郷する者も少くなかった。日本在住朝鮮人の定住化は、このような過程を経ながら、広がったのである。


<結論 ― 総括と展望>

以上の各章で得られた結論を総括しながら、冒頭で設定した課題がほとんどクリアされたことを確認した。今後の展望としては、ここで得られた成果をふまえて、戦後の在日朝鮮人のあり方を射程に入れながら、戦時期における日本在住朝鮮人の存在形態と共同体のあり方について考察してみようと考えている。また、日本在住朝鮮人の共同体のあり方と彼らによる社会運動の特質との関連について考察することが課題として残されている。それは、ここで検討したような渡日朝鮮人の特質が、彼らが日本で生活するうえに重要なファクターとなるため、植民地出身者という差別的な立場から日本帝国主義に不満をぶつけるか、あるいは貧富の差から資本主義の矛盾に目覚め、社会運動に参加する下地になったと考えられるからである。

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