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博士論文要旨

論文題目:中国近代江南の地主制研究:租桟関係簿冊の分析
著者:夏井 春喜 (NATSUI, Haruki)
博士号取得年月日:2003年5月14日

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 博士論文申請の『中国近代江南の地主制研究-租桟関係簿冊の分析-』は、日本の各大学・研究機関に収蔵されている租桟関係簿冊及び魚鱗冊等の第一次資料を主な資料として用いて、蘇州を中心とする江南地方の太平天国時期から1930年代半ばまでの地主-佃戸関係の実態と変化を考察したものである。
 中国革命の成果として外国の支配からの自立という「解放」と封建の桎梏から解き放す「民主化」が言われ、「民主化」の代表的なものとして婚姻法とともに土地改革が挙げられる。土地改革は、「農村から都市を包囲する」中国革命の一つの帰結であるとともに、また今なお人口の7割を農民が占める中国社会の現状の出発点でもある。土地改革に帰結する1949年以前の中国農村の実態について、1920年代からの農村実態調査を含めて様々な視点から考察が加えられてきた。しかし、「政治的」思惑や調査者の主観、外部からの表面的調査などによって、必ずしも地域別、時代別の具体的な基礎的データが明らかにされてこなかったように思われる。地主-佃戸関係で言うと、単位当たりの田租額はどの程度で、どのように決められるのか、契約書や簿冊上の額面の田租額と実際に納入される田租額との関係はどうなっているのか、納租期限や災害の有無で田租額が変化するのか、賦税の減免と田租の減免とは相関するのか、田租を滞納した場合どのような処置が行われるのか、等々である。これらの基礎的データを共有した上で、議論は進められなければならない。本論文の大きな目的は、近代の蘇州を中心とする江南地方の地主-佃戸関係の実態に関する基礎的データを提供し、中国農村研究の深化に寄与することにある。
 本論文では、地主-佃戸関係の実態を解明するために、次の二つの方法を採った。第一は、日本の各大学・研究機関に収蔵されている第一次史料の分析を通して実態と変化を解明しようとしたことである。日本の各大学・研究機関には戦前に収集されたと思われる中国各地の文書・簿冊、証書等の第一次史料が相当量収蔵されている。そのうち江南地方の租桟関係簿冊は6大学・研究機関の315冊、魚鱗冊は同じく6大学・研究機関の198冊に上る。これに日本で購入されたと思われるアメリカハーバード大学燕京図書館分(租桟関係簿冊33冊、魚鱗冊3冊)を合わせると、租桟関係簿冊が348冊、魚鱗冊が201冊となる。その他契約文書も多数収蔵されている。これら資料の個別実証研究は故村松祐次先生をはじめとして、先学によって行われ大きな成果を挙げているが、本論文では網羅的に資料を収集し、個別資料を越えた横断的分析を行い、統計的処理して数値データとして提供した。それは第一に、同一租桟の簿冊が、複数の大学・研究機関に分散して収蔵されているものもあり、網羅的な調査が必要であること。第二に、太平天国鎮圧後の蘇州の地主-佃戸関係は第二章以降に叙述するように、租佃条件均一化や官権力の介入の増大によって個別地主・租桟の私的枠を越えたものになっており、個別資料の分析から導かれた数値データが、他の簿冊資料及び文献資料との対照を行うことによって、一定一般化できると思われるからである。本論文の研究方法の特徴の第二は、地域的には江南地方、特に蘇州という狭く限定し、時代的には太平天国時期から1930年代半ばの約80年間と比較的長くとり、地域の詳細な実態と時代的変化を解明しようとしたことである。中国の経済・文化の最先進地帯である江南のあり方が中国全体を代表するものでないことは確かであるが、現在の研究状況から狭い地域で、比較的時期を長く取った地方史研究が必要と思われる。現在上海・天津等の近代都市の詳細な地方史研究が行われ始めているが、日本における第一次史料の収蔵状況と新聞・雑誌、地方志、文集等の文献資料との比較が可能な蘇州を中心とする江南地方は、農村における地方史研究が可能な地域の一つであると思われる。
 以上のように本論文は、主として日本の各大学・研究機関に収蔵されている租桟関係簿冊、魚鱗冊という手書きの文書資料を、各資料の個別的実証をふまえた分析を行い、そこで得たデータを統計的に処理し、新聞・雑誌、地方志、文集、実態調査資料という文献資料と対照して、江南地方、特に呉県・長洲・元和の蘇州三首県の、1860年代前から1930年代半ばまでの地主-佃戸関係の実態と変化を明らかにしようとするものである。租桟関係簿冊と魚鱗冊という資料の性格から、そこで明らかにされるのは、租桟田地の分布状況、地主-佃戸の租佃状況、田租額、折価額、納租及び欠租状況、租桟の経営状況等であり、佃戸の耕作状況、生活状況等を含めたトータルな地主-佃戸関係を明らかにするものではない。
 序章では以上の本論文の方法を述べたが、第一章以下の各章の内容は次のようである。
 第一章において、日本の各大学・研究機関に収蔵されている租桟関係簿冊と魚鱗冊について、収蔵機関別にその目録と簡単な解題を記している。これらの文書資料は既に先学が個別実証研究において使用しているものも多いが、同一租桟の簿冊が複数の機関に分散して収蔵されていることもあり、収蔵の全体を示す必要があると考えて作成した。ハーバード大学燕京図書館収蔵の租桟簿冊・魚鱗冊は1960年に日本において購入されたもので、日本で収蔵されている同種の資料と重なるものも多く、補章をたてて紹介した。租桟においてどのような帳簿が作成され、それらの資料がいかなる機関に収蔵されているかを一定示すことができ、今後こうした文書資料の研究の進展が期待できる。
 第二章は、太平天国が蘇州の租佃関係に与えた影響を考察したものである。「兵燹より以来」の常套句が示すように太平天国は清末社会に極めて大きな影響を与えた。蘇州の地主-佃戸関係においても同様である。太平天国前蘇州の地主-佃戸関係は、既に地主の城居化が進行し、地主-佃戸の租佃状況も地主が複数の佃戸と租佃関係を結び、佃戸も複数の地主と租佃関係を結ぶという相互複線的となり、地主の収租は官の助力なしに困難な状況に陥っていた。これをよく示したのが咸豊三年太平天国の天京奠都を契機に起こった抗租運動と田租の引き下げである。咸豊十年の太平天国の江南進出は、佃戸の抗租を活発化させ、地主の収租を困難にさせた。太平天国は多くの郷紳が逃亡し、残った地主も佃戸の抗租によって収租がままならない中、田賦を確保するために「設局収租」を行い、地方の基層権力である郷官局が佃戸から直接収租する方法を採用した。この過程で田租もかなり低下し、所によって額面の半額から2/3程度になった。李鴻章の淮軍とともに蘇州を収復した蘇州の郷紳は、同治二、三年の両年は、太平天国の「設局収租」を換骨奪胎して官の収租への介入を特徴とする租捐方式で太平天国時期に混乱した租佃関係を安定化させようとした。同治四年の減賦を受けて、翌五年に減租が行われたが、これは太平天国時期に低田租を実現した佃戸への譲歩であり、郷紳の主導の下で一部の地主の反対を押し切って行われた。この減租額について文献資料では三種あり、陶煦が『租覈』で「欺瞞性」を批判したこともあり、あまり注目されず実施状況も不明であったが、簿冊資料から実施の実態を解明することができた。郷紳にとってこの減租はとりうる最大限の譲歩であったが、佃戸にとっては数%の減免に過ぎず、収租状況はこれによって大きく好転することがなかった。この減租と同時に、佃戸の抗租の口実を防ぐために、桝の官斛への統一、折価の公議等の地主の利害を一体化する措置がとられた。
 第三章は、長洲県東永昌を居住する郷居地主の徐氏に焦点を当て、太平天国前、太平天国時期、太平天国後それぞれの時期の郷居地主のあり方を考察しようとしたものである。永昌徐氏は徐佩■兄弟の祖父に当たる徐歩鰲の代に富裕となり、斉門外永昌徐氏で通用する存在であったが、科挙ではあまり成功をおさめず、科挙合格者が星のように煌めく蘇州においては田舎の富豪に過ぎなかった。この状況に変化を与えたのが太平天国の江南進出で、徐佩■が創立した団練はその強力な武力を基に、太平天国に対抗した。その後常熟が陥落すると太平天国の招撫に応じて官職を受けるが、清朝との関係は依然として続いており、永昌徐氏は太平天国・清朝双方に誼を通じ、それらを背景に団練の武力を強化していった。その過程で太平天国の「設局収租」を利用して、地主の田租を代収し自己の団練費用を調達するするなどの蘇州郷紳の利益を犯す行為も行った。太平天国と清朝の勝敗の帰趨が明白でない中、咸豊十一年末永昌徐氏は太平天国に対する第一次反乱を試みるが、これは衆目公然と行われ、果たして本気に反乱を行おうとしたか疑わしい。同治元年に第二次反乱を企てるが、これは清朝の優勢は明らかになる中、郷紳の批判をかわすためにも何らかの「手柄」を立てる必要に迫られたからである。しかしその結果、徐佩■は捕らえられ、団練武力も太平天国慕王譚紹光によって潰滅され永昌徐局は消滅した。徐佩■は残った団練武力を率いて上海に行き、巡湖営として再編して淮軍の程学啓部の下で蘇州収復戦に参加する。程学啓の戦死を機に巡湖営は解散され、永昌徐氏も故郷に帰還した。しかし蘇州の郷紳の太平天国占領時期の永昌徐局の所業への批判は強く、種々の嫌がらせを受け、また永昌徐局時代の借金の取り立てに苦しめられた。永昌徐氏と蘇州郷紳との対立は佃戸に対する措置にも見られた。同治五年の減租章程を巡る問題、収租における私制の「大斛」を使用した問題などである。蘇州の郷紳の批判は郷紳の「公議」に違反して独自の減租を行ったり、抗租の口実をなる「大斛」を使った強圧的収租に向けられた。蘇州の郷紳の永昌徐氏への批判の中から、彼らが太平天国後に蘇州の租佃関係を安定化するために行おうとした「改良的」方向を見ることができる。
 第四章は、大抵天国以後の蘇州における田租徴収方法の実態と変化を考察したものである。まず、日本の各大学・研究機関に収蔵されている租桟簿冊や契約文書等の資料から、蘇州、常熟、無錫、武進、呉江、嘉興の江南各地の額面の田租額とその特徴を考察した。その中で江南といっても地域によって田租額や収租条件が異なることが明らかになった。この額面の田租額に基づいて実際に納入される租米額が決定されるが、実際の租米額がどのように決定されるか、さらに太平天国後の小作料徴収システムがどのように変化したかを蘇州の租桟簿冊資料に基づいて実証しようとした。太平天国後蘇州の地主は太平天国占領時期の低田租を実現した佃戸への譲歩として同治減租を行わなければならず、田租額を上げることは不可能となっていた。太平天国後佃戸への新たな収奪となったのが折租であった。折租は太平天国前にも行われていたが、大平天国後には使用する貨幣が銅銭から洋元に変わり、しかもその洋元も本洋から英洋に変わり、佃戸は納租において米→洋元→銅銭の交換を迫られ、その二つの交換過程で折価の操作が行われ、額面以上の収奪を蒙ることになった。この折租の展開過程は中国が半植民地過程に組み込まれる過程をも反映していた。実際に納入される租米には納入時期に応じて割引される「限譲」と災害での被災状況に応じて割り引きされる「災譲」がある。「限譲」は、預収・開倉・頭限・二限・三限に応じてそれぞれ1斗から3升が割り引かれが、逆に言えば折価の段階付けもあり、納入時期が遅れれば遅れるほど納租額は重くなる仕組みになっており、三限を過ぎても納入しないかできない「頑疲」の佃戸から強制的に収租するために設けられたのが「追租局」、「収租局」という機関であり、それを通じて「送官追比」という官の公権力を使った収租体制が強化された。こうした措置は収益的には実効性は少なかったが、この強権的収租体制なしに、収租それ自体が崩壊しかねない状態にあったと思われる。「災譲」においも次第に太平天国後には、その被災調査、減免率の決定が地主個々ではなく、地主の「公議」や官が関与して行うようになり、官にとって佃戸は納税戸としても捉えられるようになっていった。このように大平天国後、蘇州の地主-佃戸関係は官の関与が進み、私的関係から公的関係へと展開していったのである。
 第五章においては、租桟が展開する中で、租桟に代わって在地において佃戸と小作地を掌握した催甲に焦点を当て、その任務、どのような人が催甲になったか、抗租と催甲の関係について分析した。催甲は、城市や市鎮にある租桟に代わって在地において収租、催租全体をマネージメントし、自立化を図る佃戸を租桟の下につなぎ止める役割を果たしていた。彼らの管業地はかなり広範で、数都に跨るものも多く、貧しい零細な佃戸というより専業的な大催甲が蘇州では一般的であり、時代が経つにつれてその専業化の程度も増していったと思われる。彼ら正規収入は決して高くはないが、租桟と佃戸を介在する中で種々の「陋規」があり、相当に富裕で、中には県会議員に当選するものもおり、在地の「顔役」的存在であった可能性が強い。催甲は租桟の郷紳の権威を背景に在地に勢力を張るとともに、租桟も「顔役」的催甲に依拠して佃戸と小作地を掌握するという相互依存の関係にあったと思われる。催甲は租桟の代理人で、在地で租桟支配の実行者として佃戸に接触することから、抗租においては佃戸の攻撃の的となった。清末・民国時期の抗租において地主の城居化と租桟の盛行に伴い、佃戸の攻撃対象は在地での租桟・地主の化身である催甲に向けられるようになっていったのである。
 第六章では、辛亥革命が蘇州の地主-佃戸関係に如何なる影響を与えたかを考察した。辛亥革命前、郷紳主導の新政、地方自治の進行による負担の増大、インフレーションの進行の中で、地主-佃戸の間において租米折価と洋元の折価の額を巡る問題及び「災譲」を問題で緊張が高まっており、収租はかなり困難な状況に陥っていた。1911年10月10日に武昌起義が発生し、11月5日蘇州も「光復」した。蘇州の革命は全く政治的混乱を伴わず、郷紳潘祖謙等が江蘇巡撫程徳全に働きかけた「和平光復」であったが、地主の収租は困難を極めた。同年夏の大水による不作と政権交代を理由に佃戸が租米を支払おうとしなかったからである。このような状況に対して一部の地主は、宣統元年に発足した地主の組織である田業会を機能させ、呉県民政長宗能述に働きかけ「官督紳辧」の公局を設置し、租糧併収の方法で対処しようとした。このやり方には蘇州の地主の中からも強い反対があり、地主の分裂を生みだしたが、佃戸の抗租が蔓延する中に他に良法もなく、租糧併収を通じて田業会は地主の団体としての地位を確立していった。翌1912年秋からは辛亥革命時期という非常時に行われた租糧併収は停止され、以前の地主独自の収租に戻ったが、田業会は地主の利益団体として機能していった。租桟簿冊資料によると、民国に入って地主経営は清末に比べて大幅に改善された。これは第一に、地主団体としての田業会が機能し、官の公権力を動員しての収租体制が強化されたために欠租が減少し、収租状況が好転したためである。第二に、税が少額であるが軽減されたことである。民国初年に太陰暦から太陽暦に暦が変更されることに伴い、地丁銀の閏月の加徴が廃止され、民国十年には浙江省に続いて江蘇省でも漕米の一部を引き下げる減賦が行われたが、この減賦で減免された分は全て地主に回され、減租は行われなかった。第三は、租米折価と税である地丁折価、漕米折価の間のに変化が生じ、地主にとって有利な状況が生まれたことである。民国に入ると地丁・漕米の折価は固定されたが、租米折価は物価の上昇に伴い上昇し、地主の租米の中に含まれる税負担は顕著に低下し、地主経営を安定させたのであった。このように辛亥革命は地主の組織化、地方権力との癒着による地主にとって有利な状況を作り出す契機となり、租桟地主制の安定を生み出すことになったのである。
 第七章は、1927年の南京国民政府の成立が蘇州の地主-佃戸関係に与えた影響と、その後の1930年代の恐慌の中で如何なる変化があったかを分析したものである。1920年代前半は蘇州の租桟地主にとって最も安定した時期であった。田業会会長に蘇州の有力郷紳である丁懐◆が就き、田賦徴収の問題で大きな発言力を擁して商会・農会・教育会という三法団と匹敵する地位を占めるようになった。蘇州城内の郷紳とは別に市鎮の地主が市郷田業会を結成する動きがあり、田業会の投資銀行的性格の田業銀行が設立され、地主団体の地域における活動範囲は広まっていった。蘇州の田業会をモデルに江南各地で地主の組織化が進行したのもこの時期である。佃戸の抗租も他の時期に比べて少なく、収租状況も良く、折価の差益が最も大きくなり、経営的には安定していた。これの状況を大きく変化させたのが1927年の国民革命の結果生じた南京国民政府であった。南京国民政府下の蘇州の地方政府は財政上の問題から地主への妥協を行っていくが、その一方「江南秋収」を起こした共産党への対抗と、総理の「遺教」実現すべく農民への救済と覚醒の措置をとっていく。この措置の一つが「二五減租」である。江蘇で行われた「二五減租」は浙江省のものと比べて行政機関の権限が強く、しかも改訂の度にその権限は強化され、農民の意向が反映しづらくなり次第に骨抜きにされていったが、力米の廃止等一定農民の負担を軽減して、地主-佃戸関係を安定させようとする意図が見られた。また地方政府の種々の事業は地方に移管された田賦にその財源を求めざるを得ず、地主の税負担は増加した。南京国民政府の成立以後、蘇州の地主-佃戸関係に地方政府はそれまでの地主側ではなく独自的な立場での介入するようになり、田賦折価も上昇し、地主経営は次第に悪化していった。これに追い打ちをかけたのが1931年以降の農業恐慌であった。1931年の長江大水害、1932年からの世界恐慌の波及による農産物価格の急落で中国農村の疲弊は進み、各地で抗租等の暴動が頻発した。地主の収租は困難となり、1935年から蘇州では聯合公桟という公的機関による収租が行われるようになった。これは地方政府による収租・催租への全面的介入であり、租桟独自で収租が行えない状況になったことを示している。直接的に佃戸と関係を持った地方政府は、農村復興、地主-佃戸関係の安定させる措置をとる中で、地主を農民に寄生する「癌」的存在と意識していくようになった。また物価の下落、租米折価の下落にも拘わらず、田賦折価は地方政府の財政的要求から上昇を続け、地主経営自体も大きく悪化していったのである。
 本論文が蘇州の地主制の最終的崩壊である1950年代初めの土地改革でなく、1930年代半ばで終わっているのには、次の二つの理由がある。第一は、本論文が使用する日本の各大学・研究機関収蔵されている資料の最も新しいものでも、1930年代半ばで終わっていることである。それ以降は文献資料或いは中国で収蔵されている文書資料に基づいて実証が行わなければならず、別に稿を改めて叙述すべきと考えている。第二に、地主の城居化の進行に伴って、特に太平天国鎮圧以降盛行した蘇州の租桟地主の終焉は、1930年代半ばの農業恐慌と聯合公桟という地方政府の収租への全面介入に求められると思われるからである。土地改革までは、日本軍の占領、清郷と反清郷、国民政府の南京復帰と戦後の混乱、内戦時期、共産党政権の成立と幾度にも亘る波乱を経るが、基本的には、地主が租桟という機関で自立する佃戸をつなぎ止めて収租を行うことができなくなり、政府のより強い関与に頼らざるをえなくなり、政府の方も共産党政府はもとより、国民政府もまた地主制を農民を収奪し、農業投資を行わず、農業の近代化を阻害しているものと考え、それへの規制、廃止を日程に載せていくのが1930年代半ばの事態と考えられる。土地改革は共産党の指導によって政治的に行われたというより、蘇州においてはすでにその条件が作られていたといえる。
※ ■は王へんに爰、◆は上に戸と攵、下に木。

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