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博士論文要旨

論文題目:デーモクラティアーと公開原理:古代ギリシア文献におけるメソンの用例をもとに
著者:名和 賢美 (Nawa, Kemmi)
博士号取得年月日:2003年3月28日

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 古代ギリシアの民主政(デーモクラティアー)は、前6世紀後半から前5世紀初めにかけて諸ポリスで樹立が試みられた。枚挙にいとまがないデーモクラティアー研究の蓄積の中で、この期間における考察を中心的に展開した研究は、史料的制約が大きいために、従来かなり手薄であったと言える。しかしながら、ギリシア人がなぜデーモクラティアーを樹立したのか、彼らがどのような意図で何を求めるが故に、先行する政体に代わるものとしてこの政体を選択したのかを検討する場合には、この重大な選択を伴う革命的変動の時期が決定的に重要である。本論文は、デーモクラティアー樹立期に不可欠とされた原理の探求を試みたものである。つまり本論文の目的は、デーモクラティアーが運営・維持されていた期間ではなく、まさにその政体への移行が選択された時期にその根底にあった原理を解明しようとすることにある。
 以上の目的を持つ本論文は、まず「序章」において、先行研究を整理しつつ、本論文の考察対象、方法、態度などに言及した。従来、こうした変革期におけるデーモクラティアー思想に関する考察は、イソス(「平等な」)の合成語に着目し、その意味を調べることによって、デーモクラティアー固有の原理を、自由ではなく平等であると指摘してきた。他方で本論文は、こうした研究で脚光を浴びることがほとんどなかった表現に着眼した。すなわちそれは、ギリシア文献上おそらくヘーロドトスだけが言い表した「国事(もしくは支配権)をメソン(「真ん中」)に置く」という表現である。この注目すべき表現を彼は、デーモクラティアー的政変の出来事を記述する際に使用しているようである。そうであるならば、この表現はなぜギリシア人が先行する政体からデーモクラティアーへと変革したのかを探求する場合には、極めて重要なものとなり得る。
 この表現に関する数少ない従来の解釈は、政治的権利の全市民による共有という平等原理を意味するというものである。しかしながらこの理解では、「メソンに置く」ことと共有との関係が十分に説明されていないと同時に、メソンという語が本来持ち合わせている空間的意味がすっかり抜け落ちている。従って本論文は、ヘーロドトスによる「支配権をメソンに置く」という表現に注目し、その意味を考察することによって、イソスの合成語からはとらえることのできなかったデーモクラティアーの原理を明確に掘り起こすことが主たる目的となる。
 さて、本論文が注目する表現は、ギリシア各地を歴訪し、しばしば人前で自らの著作を朗読したヘーロドトスが使用しているという点で、彼と同時代のギリシア人全般に普及したものとみなすことができる。しかしながら、彼が『歴史』を著作したのは、前5世紀中後期であり、その表現を実際にアルカイック期後半にギリシア人が使用していたかどうかは問題となるであろう。しかも、その表現が現れる4箇所の文脈からだけでは、その正確な意味を得ることは難しい。以上の理由から、その表現をより部分的に考察することが求められる。つまり、一方で「メソンに置く」の意味そして「メソン」が伴う性格を理解すべきであるし、他方でアルカイック期後半とヘーロドトス時代とでこれらの意味に変化がみられたかを確認する必要がある。そして、これらの時代の史料不足を補うために、比較的多くメソンの用例が現れる『イーリアス』『オデュッセイアー』並びに前5世紀末及び前4世紀の著作も、考察対象とする。従って本論文は、アルカイック期後半の「支配権をメソンに置く」という表現が何を含意するのかを探求するというスタンスをとりつつ、『イーリアス』からデーモステネースまでのメソン概念を包括的に検討するという性格も併せ持つことになった。そして、以上の考察を通して「メソンに置く」及び「メソン」を理解した上で、ヘーロドトスにおける「国事をメソンに置く」という表現を検討し、デーモクラティアーとの関係を考察する。従って、本論文は2部構成で全5章からなり、各章の内容は以下の通りである。
 まず第1部「衆人環視としてのメソン」において、「メソンに置く」そして「メソン」という言及を『イーリアス』『オデュッセイアー』から前4世紀中後期までの大半のギリシア文献から収集し、その意味を探った。そして第1章「前5世紀から前4世紀」において、この作業を前5世紀末から前4世紀にかけてのメソンを概観することから始めた。扱った史料はほぼ、デーモクラティアーが維持・運営されていた時期におけるアテーナイ人の著作である。
 第1節「メソンへの提示」の内容は、以下の通りである。すなわち、最初に取り上げたプラトーンとデーモステネースの「メソンに置く」という用例は、「隠す」ことの反対であり、結論、相違点、自説などを提示することを意味していた。もっともこうした意味では、「メソンに持ち出す」という語句の方がこの時代には頻繁に用いられている。そして、「諸君がメソンに持ち出すならば、私もまた示そう」というクセノポーンの用例が示唆するように、「メソンに持ち出す」ことは「示す」ことであった。考えを提示することは、少人数の会合であれ市民団の集う劇場・民会・法廷であれ、「メソンに持ち出す」と言い表されたのである。しかも、プラトーンとクセノポーンの2例では、これらが組み合わされて「メソンに示す」という表現も見られた。そして重要なことには、その用例にはコイノン(「共通、共有」)という語が伴っていた。つまり、メソンに示される話題は、聞き手全員がその情報を共有することを意味したのである。従って、話題や見解を「メソンに置く、持ち出す、示す」ことは、その周囲に必ず第三者の存在が認められる。それはごく少人数の場合もあれば、ポリス市民団の場合もあるが、隠すことなく誰からも見られる状況に、置き、持ち出し及び示す場がメソンであったと言える。
 そして第2節「発言の場」では、発言の場を意味するメソンを扱った。集会において発言者が話をするとき、その人は座っていた席を離れて「メソンに立って」、周囲の人々に話しかけた。そしてこの言い方は、より簡略的に「メソンで話す」と表現される場合が多かった。こうした発言の場としてのメソンは、軍の集会、法廷、劇場、少人数の会合など多用な場面で使用されていた。
 さらに第3節「メソンに置かれたもの」では、主として「メソンに置かれている」という用例を検討した。アリストパネース『平和』、クセノポーン『アナバシス』、デーモステネース『ピリッポス弾劾第1』『レプティネス弾劾』で現れた各用例から、メソンの注目すべき性格が明らかになった。すなわち、「メソンに置かれたもの」は競技の賞品とみなされるのである。こうした用例は、競技の賞品を「メソンに置く」という古来の慣例から引き出された比喩表現であると分かった。つまり、進んで争いを挑み勝利した者だけが、「メソンにあるもの」を獲得できるのである。しかも、アリストパネース『平和』『女の民会』では、この競技の意味を越えて、メソンに置いてある品は誰もが自由に利用できる、という理解にまで拡大解釈されていたことが認められた。また他にも、プラトーン『国家』『ゴルギアース』、クセノポーン『キューロスの教育』の用例から、「メソンに姿を現す」ことは、どこかにひっそりとこもっていることと対比され、自らが多くの人々に見られる状況を作り出すことであると理解できた。
 こうした衆人環視のメソンは、実はギリシア文献では『イーリアス』『オデュッセイアー』までさかのぼることができる。そこで、第2章「『イーリアス』『オデュッセイアー』」では、これら叙事詩によるメソンの用例分析を試みた。もっとも、これら叙事詩のエス・メソンについては、戦士集団の制度的文脈の用例をすでにDetienneが考察している。そこで彼の分析を吟味した上で、彼が扱わなかった他のメソン用例を収集・検討し、『イーリアス』『オデュッセイアー』の用法全体を考察した。まず第1節「戦士集団の葬送競技、戦利品分配、裁判、審議集会」において、Detienneの記述をもとに、これらの文脈で現れるメソンを再構成した。その結果、戦士集団の諸制度に現れるメソンはつねに共有と公開という2つの相補的概念と関係するという彼の説は、一見説得的ではあるが、これらの制度で現れるメソンと共有との関連性は、実はその根拠が不十分であると言わざるを得なかった。
 さらに第2節「集会、一騎打ち、歌舞、その他」では、『イーリアス』『オデュッセイアー』のなかでDetienneが扱わなかったメソンの用例を検討した。それらの用例からは、次のようなことが確認できた。すなわち、戦士以外の集会の用例では、テーレマコスの帰国を伝える場面の用例が顕著に示すように、人々に大っぴらに話すことが含意されていること。一騎打ち場面では、その一部始終を周りに座った兵士たちが見届けたこと。歌舞の用例では、メソンに演技・演奏者が位置し、周りに集った人々がそこで繰り広げられることを見て楽しんでいたこと。集会のメソン上空に出現した鳥をつぶさに眺める場面からは、集っている人々誰もが一斉に注目して判断を下したこと。そして、メソンを巧妙に使用することによって、話の流れを示唆する場合もあったことである。
 『イーリアス』『オデュッセイアー』全体から言えば、結局のところ、情報を共有するという点ではメソンは共有と大いに関係がある。けれども、物品がメソンに置かれる場合には、Detienne に反して、周りに集った人々がその品々に必ずしも共有意識を抱いてはいなかったであろうと主張する。しかしながらとりわけ重要なことは、戦利品も競技の賞品も、メソンに置かれた場合には、それを新所有者が手にするまでの途中経過を、周りにいた人々が一部始終注目していたということである。そして、Detienne の扱わなかった用例が、様々な場面においてメソンのこうした性格を例証していた。従って、『イーリアス』『オデュッセイアー』のメソン用例全体を通して、メソンが衆人環視の場面で用いられるということが理解できたと言える。
 ところで、ヘーロドトスにおいて「国事をメソンに置く」と同様の表現は、4つの記述で使用されている。そしてそれらはみな、アルカイック期後半の出来事である。そこで第3章「アルカイック期後半とヘーロドトス時代」では、ヘーロドトスが著作した時期及び彼が言及した出来事の時期との間に、「メソンに置く」そしてメソンの用法に変化が生じているかを検討した。まず第1節「ヘーロドトス以前」において、アルカイック期後半の用例を扱った。この時期に収集できる用例は他の時期と比べて少ない方であったけれども、様々な注目すべき用例が見つかった。発言の場としてのメソン用例は、この時期に簡略的表現がいくつか現れるので、過渡期と言える。そして、『イーリアス』『オデュッセイアー』にはなく、他方で前4世紀にかなりみられた提示の用例が、この時期にはいくつか存在した。しかもその用例は、明瞭に「隠す」という語句と対照的に並べて表現されていた。また、伝ヘーシオドス、アイソーポス、テオグニスからは、『イーリアス』『オデュッセイアー』と同様に、歌舞、競技の賞品、戦利品の用例も認められた。とりわけ、アイソーポスの戦利品の用例は、メソンに置かれた戦利品が全員に分配されることになる共有物であることを示唆する例であった。
 続いて第2節「ヘーロドトス時代」では、ヘーロドトスと彼の同時代人のメソン用例を検討した。用例を収集した結果、考察対象となったのは、ヘーロドトスのほかにソポクレースとエウリーピデースである。まず発言の場の用例に関しては、エウリーピデースでは『イーリアス』『オデュッセイアー』と同じく、「メソンに立って」という表現がいくつかみられた。そしてヘーロドトスには「メソンに立って」と「メソンで」の両例が使用されていた。また、ソポクレースからは、言葉がメソンから発せられる場合と、周りの人々がメソンに位置した人に非難を浴びせるという場合が、示されていた。アルカイック期後半に初めて現れた提示の用例は、ヘーロドトスとエウリーピデースでかなり見つかった。「メソンに持ち出す」という表現はすでにこの時期に常用されていたのである。また、ヘーロドトスには「案件をメソンに置く」という用例が2例あった。さらに両者には非難がメソンに出るという用例も使用されていた。他には、ソポクレースとエウリーピデースには一騎打ちの場としてのメソンも見られた。『ピロクテーテース』では、ヘレノスとピロクテーテースが戦利品としてアカイア人全てに示すために「メソンに連れて行く」と言及された。そして、交換の品がメソンに持ち寄られたあと吟味され取り引きされるという用例も、ヘーロドトスでみられた。
 以上のようにメソンの用例を検討した結果、ギリシア文献全般を通して、メソンに関して以下の点を確認することができた。すなわち第一に、「メソンに置く」ことは、戦利品と競技の賞品では、若干意味が異なっていた。戦利品の場合は、アイソーポスにおいては全員への分配であり、しかもアリストパネースの用例では誰もが自由に手に入れることができるという解釈までされていた。他方で、競技の賞品は『イーリアス』『オデュッセイアー』以来ずっと同じ意味であり、メソンに置かれたのは競技者の意欲をかき立てることが目的であり、全員が分配に授かるわけではない。第二に、『イーリアス』『オデュッセイアー』の集会場面で現れた「メソンに進み出て話す」「メソンに立って話す」という用法は、アルカイック期後半には簡略的な「メソンで話す」という言い方が現れ、しだいにその簡略表現が多用されていった。こうした傾向はみられたが、この用法におけるメソンは、集会、会合の発言者の位置を示す点では、一貫していたと言える。そして、アルカイック期後半からは「意見をメソンに置く、持ち出す、示す」という表現が多くみられるようになり、こうした用例は提示による情報の共有を意味した。しかも、重要なことには、決定事項ではなくてこれから議論すべき事項の内容が共有され公開討論が展開されるという文脈が多かった。第三に、「メソンに現れる」という表現も、『イーリアス』『オデュッセイアー』から古典期まで時々使用され、メソンに出現した人やものは一斉に注目を浴びることになった。
 そして最後に最も重要な点であるが、これらの用法全てにおいて、メソンの決定的な性格が示唆されていた。すなわち、メソンに位置した人やものは、その存在がメソンからなくなるまでの間中ずっと、周りにいる人々によって見られ、聞かれ、さらには何らかの判断を受けることになる。しかも、メソンをぐるりと取り巻く人々は、プラトーンの用例では少人数の場合が多かったが、他の史料の大半では大勢の人々が想定されていた。そうした大規模な衆人環視の中で物事が展開される、ということをメソンは含意すると言ってよいであろう。
 ギリシア文献において、メソンは伝統的に日常語として頻繁に使用されていた。そして大半の場合、第三者、メソンの周りに群がる証人の存在が含意されている。メソンは何かが行われる場所であり、周りを取り巻くように集まった人々はその行為を見て聞き判断したのである。つまり、秘密裏に何かが行われることと反対に、行われているときに人々が居合わせていることが強調されていると考えられる。こうした意味では、今日話題となっている「情報公開」とはその内容が異なると言ってよい。つまり現代の公開は、政府や自治体が保持する情報にアクセスできる、市民が情報の開示を請求すればその情報を見ることができるということを意味する。他方でギリシアのメソンはむしろ、実際に行われているプロセスを見届けるということに重点がある。例えば、戦利品はただ単に平等に配分されればよいのではなく、その配分決定過程をしっかりと見届けることが何よりも求められたのである。従って、たとえ結果的に共有や分配に至るとしても、「メソンに置く」という表現は、衆人環視の中で途中の過程全てが繰り広げられることを含意すると結論する。
 このようにギリシアに伝統的な衆人環視としてのメソンを理解した上で、第2部「ヘーロドトスのデーモクラティアー用語」において、ヘーロドトスの「国事をメソンに置く」という表現の解釈へと向かった。だがその4例を検討する前に今一度、第4章「プラーグマタ、デーモクラティアー用語」において、次の2点を予め考察した。まずは第1節「国事と支配権」において、その表現は「国事をメソンに置く」の場合と「支配権をメソンに置く」の場合があるので、ヘーロドトスによる「国事」と「支配権」との関係を検討した。そして、ヘーロドトスでは「国事」が「支配権」「王権」などの意味で用いられる場合があること、さらにはより突き詰めると、「国事を処理・管理すること」が「支配権」であることを例証した。それから第2節「デーモクラティアーとイソス合成語」において、ヘーロドトスが用いるデーモクラティアー、イソノミアー、イソクラティアー、イセーゴリアーなどの用語の関係を考察した。これらの用語が各箇所に配置されているのは、ヘーロドトスによる注意深い言葉の選択があったようである。すなわち、デーモクラティアーは、その批判者もしくは語り手としてのヘーロドトスの言及で使用されていた。他方で、イソノミアーとイセーゴリアーは「感じのよい」言葉として扱われていた。また、イソクラティアーは、明らかにデーモクラティアーを用いるのがふさわしくない箇所で現れた。
 さて第5章「支配権をメソンに置く」では、まず第1節「ギリシア3ポリスの用例」において、キュレーネー、サモス、コースの出来事で使用された「支配権をメソンに置く」という表現を分析し、以下の3点を指摘した。すなわち第一に、キュレーネーとサモスの用例で顕著なように、その表現は単なる王政・僭主政の放棄にとどまらず、新政体設立の文脈で使用されていた。第二に、前支配者が保持していた支配権が置かれたのは、3例とも市民全体のメソンであった。第三に、サモスとコースの用例から、その行為をヘーロドトスは「正しいこと」と評価していた。さらに第2節「オタネースの唱える政体」では、本論文が注目する表現が最も決定的に現れる政体論中の一文を検討した。そしてその一文がペルシアにデーモクラティアーを樹立するという意味合いで採用されたことの論証を試みた。さらに、前節の結果も踏まえて、「支配権をメソンに置く」という表現は、ヘーロドトスにおいて政体的変革、しかもデーモクラティアー設立の文脈で使用されていると判断した。
 本論文は「終章」の第1節「考察結果の要約」において、以上第1部と第2部双方の考察を要約した上で、以下の結論を引き出した。すなわち、ヘーロドトスがデーモクラティアー樹立の文脈で使用した「支配権をメソンに置く」という表現は、政治的権利が集団全体の共有となることを意味するだけではない。現代人には特異とも思われるこの表現からは、より具体的、直感的理解が可能である。「市民全体のメソン」に置かれた支配権は、メソンを取り巻く市民団にとって可視的存在となり、白日の下にさらされることになる。すなわち、モナルキアー・オリガルキアーに付きまとう秘密主義とは対照的に、あらゆる国事の処理・管理の過程が、原則的には、市民全体が注視する中で展開されるのである。こうした状況では、例えば役人となり一時的に処理管理を独占した市民は報告義務を負うことになるであろうし、その過程を見ることができなかった市民には、結果に接近できるように配慮されたであろう。つまり、「支配権を市民のメソンに置く」という表現は、少なくともデーモクラティアーへの変革時には、政治的権利を共有するという意味のみならず、国事の処理・管理が市民の環視の的となる、いわば透明でガラス張りの政治・行政・裁判が実施されるということも含意すると思われるのである。
 このように本論文は、ギリシア人が日常的に使用していた語句を通して、デーモクラティアーの原理を考察した。そして最後に第2節「デーモクラティアー出現の必要条件」において、メソンがギリシア文献で『イーリアス』から前4世紀まで伝統的に使用されていたことと、デーモクラティアー成立との関係について言及した。すなわち最近では、ギリシアにおけるデーモクラティアー出現に関しては、アルカイック期後半までにギリシア世界に平等主義が浸透していたことが必要条件であった、と主張する傾向にある。しかしながら、Dahlの「強固な平等原理」を用いてこのような見解に立つMorrisとRobinsonの主張を吟味すると、彼らはDahlの理論を十分に理解することなく議論していると指摘できる。Dahlの原理は、集団の決定に加わる資格が十分にあると集団の成員全てが信じるというものであり、あくまでも政治的なものである。他方でMorrisとRobinsonは、社会的経済的平等の点で議論しがちであった。これに対して本論文では、これまで考察してきた衆人環視の「メソンに置く」こそ「強固な平等原理」をもたらしたであろうと主張した。つまり、すでにポリスが出現したときから、ギリシアの一般市民は、何かあるたびに集会場に行きメソンで繰り広げられることを見届ける、ということを行っていた。メソンの周りを取り巻いた大勢の人々は、もちろん当初はオブザーバー的存在にすぎなかったであろう。だが、このような衆人環視が習慣的であれば、彼らは次第に意識を変化するはずである。つまり彼らの多くが、そうした場では自らは他の人々よりも大きく劣っているわけではない、発言さらには決定に加わる資格が自らにも同様にある、と自信を持つようになったにちがいない。こうして「強固な平等原理」が浸透したことにより、デーモクラティアー出現の必要条件が整い、支配権までも「メソンに置く」という大変革が試みられたのであろう。

 以上が、本論文の要旨である。

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