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博士論文要旨

論文題目:中国民営企業の労使関係と人事労務管理:民営科技企業を中心に
著者:黄 咏嵐 (HUANG, Yong Lan)
博士号取得年月日:2003年3月28日

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1、 研究視角
 中国における市場経済化は、従来の国有企業にかわり、民営企業などの新たな形態の企業を生み出している。それにともない、労使間にもこれまでにない新たな関係が生まれ、企業形態による労使関係の多様化・複雑化が生じている。しかし、これまでの研究関心は国有企業や外資系企業に集まっており、こうした新たな形態のもとでの新しい労使関係については、分析枠組みもなく、実態も十分に明らかにされているとはいえない。そこで筆者は現代中国の市場経済化を象徴する民営企業を対象に、その労使関係の権力構造に注目し、民営企業に現れた新しい労使関係モデルをとらえることを課題とする。
 当然のことであるが、筆者は先行研究に啓発されたところが多い。従来の労使関係論では、ダンロップの理論に代表されるように、労働者全体をひとまとめに論じることが多く、個々の労働者に照準を合わせて議論することは少なかった。しかし、現代中国の労使関係を考察する場合、従来の集団的労使関係というアプローチは適用できない。その理由として、少なくとも現状では、工会は労働組合として機能不全であることがあげられる。民営企業の労使関係は、実質的に企業内における経営者と個々の雇用者の関係に規定されていると考えられる。そのため、中国労使関係を研究するには工会などを媒介とする集団的労使関係より個別的労使関係の視点が有効である。さらに従来の労使関係類型が雇用安定化を前提にしているのに対して、現代中国は雇用流動化が著しい。そのため、筆者は雇用流動化の時代を迎えた中国の現状に適合した、個別的労使関係の分析枠組みを提起することを試みる。
 筆者は中国の新たな労使関係の形成に政府が果たした役割を重視している。市場経済の移行に際しては、さまざまな制度変革が不可欠であるため、政府による新しい制度の形成に向けたサポートが重要になる。政府は労働市場の規則や秩序の形成と維持、労使関係の調整と労働行為の規範化を規定し、労働市場の育成に力を入れている。労働制度改革以降、政府は集権的な行政的機能を縮小しながら、労働の市場化、契約化をリードしてきたのである。
 政府による労働制度改革以降、中国の新たな労使関係のキーワードとして登場したのが、企業の自主権と労働者の職業選択権である。中国は市場経済を推進するのにあたって、市場による労働者の効率的な配置を目標にしている。そのため、企業自らが労働者を採用・解雇する権利、すなわち自主権を与えるとともに、労働者には自由に起業・転職する職業選択権を付与した。理念上、使用者と雇用者は対等な立場で契約を結ぶ。この場合、労使間の権力構造は均衡である。しかし、雇用者が企業に入った限りは、使用者の指示・命令に従って働くことが義務付けられる以上、雇用者と企業が対等な関係を形成することはむしろ不可能であろう。企業が採用の自由、雇用者が職業選択の自由をもつことだけで、労使が対等関係にあることと判断することは軽率である。企業の自主権と労働者の職業選択権の行使の実態を考察する必要がある。
 そこで、筆者は労働市場の階層性を認識した上で、専門技術者を主に採用する北京市中関村の民営科技企業を現地調査の対象にした。筆者は2001年3月と2002年6月の二回調査を行い、民営科技企業の労使関係を考察した。調査目的の一つは企業の自主権と雇用者の選択権の対等性を実証的なデータで検証することであった。解雇と自発的転職という明確な指標で検証した結果、民営科技企業の雇用者は企業との間に、政府の法制度による間接的な指導のもとで、労働市場の需給関係によって調整された「自由競争」的な対等関係が確認された。雇用者と企業の関係は市場化、契約化へと移行している。労使双方は、徹底的な経営上の市場原理が追求されると同時に、労使関係の面でも市場原理が追求されているように見える。筆者はこれを、国有企業の管理体制の束縛から解放された企業と個人の関係の反動、また個人と組織の関係の原点復帰として理解している。もちろん、対等性の達成には、競争的労働市場の存在や、専門技術者がもっている企業が必要としている技能によるところが大きい。
 民営企業の労使関係を個々の雇用者と企業の関係としてとらえる場合、労使関係は本質的に雇用関係であり、人事労務管理の範疇になる。企業の人事戦略が労使関係の中心的地位を占めつつある。労使関係の考察において、雇用者と企業の対等性とならび重要なのは、労働条件の決定である。個別的労使関係でとらえる場合、一般的に、労働条件の設定は政府の法律と企業の裁量権によるところが大きいと見られている。筆者は現地調査で独自入手したデータをもとに、労働者の採用、研修、評価、処遇などをめぐる企業の人事労務管理が、個別的労使関係に与える影響を考察した。
 民営企業の人事労務管理はまさに企業の自主権の範囲である。民営企業は、その都度の業績と賃金を一致させる賃金制度や能力本位の処遇という人事労務管理を行い、労働条件の個別決定化を促進した。個々の雇用者に対する評価や処遇決定が、雇用者の個別的な利害をより際立たせ、個別的労働条件決定の場が潜在的な葛藤を含んだ「労使交渉」である程度を高めた。その結果、労働条件の決定にあたっての雇用者の発言が重要な問題となる。能力や業績に応じた個人別の報酬決定要素の比重が増大するにつれて、企業は雇用者の納得性を重視して、雇用者の異議申し立て、経営参加などの「発言」ルートを提供した。さらに雇用者の転職の可能性に配慮する規則を設定している。民営企業の労使関係の規則形成は、人事労務管理を通じた、企業と雇用者間の「個別的調整」という特徴が見られた。筆者は、終身雇用時代の終結とともに、一つの企業内部に自己完結的な人事制度がもはや存在することができず、人事管理は外部労働市場にも目を向ける時代にきていることを示唆する。
 現地調査の知見を受けて、筆者は、雇用の流動性を前提にする中国の民営企業の労使関係モデル、「個別調整的労使関係」を提起した。
2、各章の要約
 本稿は大きく分けて、序論、第一部、第二部、終章の四つのパートから構成されている。序論では、筆者の問題意識の概要、研究対象の選択と研究方法について述べた。第一部は理論編であり、中国に現れた新たな労使関係に対する筆者独自の分析枠組みを提示し、現代中国の新たな労使関係の基本的枠組みを検討した。これは、第二部の基礎的作業として位置付けられる。第二部は実証編であり、第一部の理論的考察を踏まえた、筆者が実施した現地調査をもとに、分析枠組みを検証し、「個別調整的労使関係」モデルを提起した。終章は、「個別調整的労使関係」の特徴、位置付けと展望を中心に考察した。
 各章の内容は以下の通りである。
 まず、序論では、中国労使関係の新しい変化を複雑性と多様性ととらえた。そして、労働者の階層性を認識した上で、頭脳的労働者を主に採用する民営科技企業を考察対象に設定した。企業調査地は、民営科技企業がもっとも集積し、世界的にも注目されている北京の中関村地域を選択した。研究方法は理論的、実証的方法をともに重視することを主張した。
 第一部の第1章 では、まず労使関係論と労使関係の類型に関する先行研究を考察した。筆者がもっとも注目した点は、従来の労使関係の分類は雇用の安定化を前提にしていることである。専制的、階級闘争的と言われた対立的労使関係であっても、また温情主義的、均衡的、協調主義と言われた協調的労使関係であっても、経営者と雇用者は同じ企業の雇用関係の維持を前提にしている。しかし、雇用の流動化が進んでいるところでは、このような雇用安定化を前提にする労使関係のモデルは必ずしも適用できるとは限らないと指摘した。
 第1章の中心テーマは、中国の労使関係を説明するアプローチについての考察である。その焦点は、従来の集団的労使関係というアプローチで中国の労使関係を有効に説明できるかということにある。そのため、まず中国の労働組合「工会」の役割について考察する必要がある。本稿は工会の組織構造、工会の自主権と代表性の問題に注目した。そして工会には労使関係の紛争処理を担う経験が不足しており、企業の発展に応じた対応が遅れていることを明らかにした。次に、集団的活動として、団体交渉、集団契約制度、労働争議の現状を逐次に検討した。その結果、団体交渉と集団契約制度は必ずしも中国の労使関係の中心を担うほどには成熟していないことが示された。さらに中国において労働争議とは、個別的労使関係の枠内で発生する労働契約や労働関連法をめぐるトラブルを指すという特徴がある。以上の考察を踏まえて、集団的労使関係は中国の労使関係を有効に説明できないと結論づけた。現代中国の労使関係を考察する視角として、筆者は集団的労使関係のアプローチにかわり、個別的労使関係のアプローチを提示した。そして従来の雇用安定化を前提にする労使関係類型に対して、雇用流動化の時代を迎えた中国の現状に適合した個別的労使関係の分析枠組みを提起することを試みた。
 次に第2章は、労使関係の基本的枠組みを形成してきた政府の役割を分析した。政府は改革の過程で、各利益集団の均衡を保つことをなによりも先に解決し、改革の推進者、利益の調整役、資源の調達者として行動してきた。労働市場の規則や秩序の形成に関して、まず労働制度の改革、賃金制度改革、社会保障制度改革を中心に労働市場の規則や秩序の形成に関する歴史的な考察を行った。そして、労働関連法の整備や労働市場の育成に政府が果たした役割の大きさについても考察した。中国政府は労働市場の育成にあたって、人材交流センターなどの情報機関に大変力を入れている。政府は集権的な行政的機能を縮小しながら、労働の市場化、契約化をリードしてきたと主張した。 
 第3章では、まず雇用制度改革に見られた企業形態による違いを見た。中国の労使関係の複雑性はここにも見られた。それは、本稿の研究対象を民営企業に絞らせる原因の一つにもなった。そこで、中国の労働制度改革のキーワード、企業の自主権と雇用者の選択権について歴史的考察を行い、労使関係の市場化動向を見た。また、労働契約の普及についての考察を通して、労使関係の契約化動向を考察した。ところで、経営者の自主権が確立されると、経営者主導による専制的労使関係の可能性が生じる。また、労働者の職業選択権は、流動的労働市場が前提となろう。労使関係の市場化には、このような問題がある。そこで、頭脳的労働者を主に採用している民営企業において、企業の自主権と労働者の選択権が対等な権力構造として確立されうるのか、明確な指標をもって検証する必要がある。こうした権力構造ないし、力関係の検証には文書資料の解読だけでは不十分である。正確な検証には、当事者の主観的認識にまで踏み込んだ聞き取り調査を行うことが不可欠である。
 続いて、第二部では、筆者が実施した現地調査の結果をもとに、民営科技企業の労使関係の枠組みを検証した。この枠組み自体が筆者独自の発想であり、既存の研究では試みられたことがないものである。
 第二部の第1章では、まず筆者の研究対象である民営科技企業について紹介した。民営科技企業は政府のハイテク産業戦略に深く関わっている。民営科技企業はハイテク産業区に集積することによって、企業間の専門技術者をめぐる競争を激しくさせている。民営科技企業の特徴は「六自原則」(資金の自己調達、人材の自由採用、事業の自主経営、損益の自己責任、資産の自己発展、行動の自主統制)によって、古い体質を一変させ、企業の優位性を確立している。しかし、企業特殊な技術の蓄積が少なく、外部優先型の発展が必要である。雇用者についてみると、専門技術者は民営科技企業の基幹的労働者であり、中国の雇用者層の中で一番上のランクを占めている。専門技術者の流動化は他の労働者に先駆けて実現した。そして、技術、経験、学歴、能力などの違いから個人差が大きい。そのため、集団としての管理ではなく、個別的管理に向いている。また、専門技術者の技能の大部分は、他の企業でも十分に通用するため、企業内で受ける画一的な訓練よりも、技能形成に対する個人の自主性が重視される傾向が強まっている。専門技術者は賃金による生活の質の向上に大きな魅力を感じているが、企業での能力の発揮とスキルの向上も重要な魅力となっている。最後に現地調査地域を北京の中関村に選定した理由として、豊富な人材と研究資源に恵まれていること、また高い経済成長への貢献と市場の占有率などを指標で説明した。
 第2章では、民営企業の労使関係の権力構造を分析するために、解雇と自発的転職という指標をもって、企業の自主権と雇用者の職業選択権の対等性を考察した。分析手法としては、当事者の主観的認識にまで踏み込んだ聞き取り調査を用いた。自発的転職にとって労働力市場の形成が重要な条件である。そのため自発的転職の実態を把握するために、転職原因、転職の効果について、考察した。その結果、雇用者の転職について、企業側の引きとめや政府から規制をかけることでルールが形成されていることが示された。転職に対応するためには、企業は個人を対象に個別的労使関係を結ぶしかないといえる。
 第3章は、聞き取り調査とアンケート調査の実証的データにもとづいて、採用、研修、人事考課制度、賃金制度、昇進制度などの民営企業の人事労務管理の具体的な状況を考察した。企業は労働条件の規則をすべて人事労務制度で決めるのではなく、雇用者にも労働条件の交渉をすることができる発言ルートを提供していた。具体的には、雇用者評価過程における情報公開、上司との話し合いのシステム、不満や苦情を訴える制度、さらに人事労務管理への経営参加という形で、労働者は自らの労働条件が個別的に決定される過程での発言や影響力を保持している。
 民営企業の人事労務管理の特徴をまとめると、次の四点に集約できる。一点目は、雇用と処遇の個別化である。個別化は目標管理、能力主義、業績主義などによって特徴づけられる。二点目は、雇用関係の市場化である。人事労務管理は、外部労働市場を視野に入れて運用されている。三点目は、雇用関係の契約化である。企業と個々の雇用者との労働契約の普及は、雇用と処遇の個別化と関連している。四点目は、雇用関係の短期化である。労働契約はほとんど短期的に結ばれている。仕事の目標、人事考課も短期的に実施されている。勤続と昇進の関係があまり見えず、臨時的、柔軟的な労働契約によって、長期的に企業と雇用関係を維持できない雇用者が増加している。
 このように民営企業の人事労務管理は個別的、市場的、契約的、短期的という四つの特徴を併せ持っている。このような人事労務管理は結局労使関係を大きく規定することになる。当然、個別的、市場的、契約的、短期的という特徴が、労使関係の特徴にもなる。
 終章はこれまでの議論を踏まえて、筆者は民営企業の労使関係を「個別調整的労使関係」と名づけた。民営企業と雇用者は対等な立場で、雇用関係を媒介にしてお互いの利益を調整していく。雇用関係の達成と継続は利益調整の一致であり、自発的転職や解雇などの企業からの退出は利益調整の失敗である。また、企業が雇用関係を維持している限り、労使間は労働条件の調整を行っている。その形式は個別の業績に対して処遇する人事労務管理であったり、また、異議申立てなど発言の機会を通しているものもある。企業は、雇用者の数量、賃金を調整することができ、雇用者は技能を高めて、企業と賃金などの労働条件を交渉し調整することができる。労働争議は苦情処理と転職によって調整されている。また、こうした労使関係そのものが、流動的労働市場の状況によって、調整されている。

3、結論
 あくまで政府、経営者組織と労働者組織の組織間の関係を重視するダンロップの枠組みと違って、筆者の枠組みは政府、個々の企業と雇用者の関係に注目している。「個別調整的労使関係」は、雇用の流動性の現状を踏まえて、労使双方が自立した立場で互いに利益を追求し、自らの利益を計りながら雇用関係の存続を決定し、利益の調整によって一致したときに、達成するか、逆に達成しない個別的雇用関係である。この労使関係は個別的、市場的、契約的、短期的という四つの特徴が見られた。
 政府は直接労使間の規則交渉に参加しないが、産業政策のほかに、人材の流動化を奨励し、労働法制の整備、社会的保障制度、労使交渉のガイドラインの提示など個別的雇用関係の形成に重要な役割を果たしている。特に「社会主義市場経済」という中国独自の市場化路線の中で、政府は経営者と雇用者の権力構造の外から支配する上からの権力である。
 民営科技企業の労使関係を支える環境としては、政府による最低基準の保障ではなく、流動的労働市場による雇用の保障である。そして、個別的紛争処理も外部労働市場の存在によって、労働者の個人主義的問題解決行動に処理されている。雇用者は、賃金、労働条件について企業と個別的交渉をする。雇用者にとって、交渉力として一番重要なのが、流動的労働市場へ退出するオプションがあることである。労働条件が他の企業より悪く、それに不満があるとき、労働者はその企業から転職し、別の企業に雇用されるようにする。このような労働市場の「退出・参入」メカニズムを通して、労働力資源の最適配分が実現できる。現状では、専門的技術者は労働市場において相対的な優位性を持っている。確かに「個別調整的労使関係」は労働市場の需給状況によって、うまく行かない場合があるように思われる。しかし、この労使関係は雇用流動化の時代に見られるモデルである。それは、雇用者に個人的責任を要求し、常に学習によって雇用しやすさと適応性を保証しなければならないことになる。
 本研究は民営科技企業を調査の対象にしている。この結論は、もちろん、専門技術者を主に採用している民営企業についてのものである。また、市場経済の進展にともない、「個別調整的労使関係」は専門技術者を中心に採用している他の企業類型でも広がる可能性がある。 

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