博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:スペイン内戦を戦ったイギリス人義勇兵の研究:ケンブリッジの若き文士たちを中心にして
著者:川成 洋 (KAWANARI, Yo)
博士号取得年月日:2003年1月15日

→審査要旨へ

研究目的
 両陣営がともに「十字軍」と僭称し、相互に非寛容な干戈(かんか)を交えたスペイン内戦(1936―39年)は、「今世紀最大の宗教戦争」ともいわれたように、ヨーロッパの知識人、とりわけイントロヴァートの世界に安住していた文学者たちに深刻な影響を与えずにおかなかった。
 イギリスの場合も例外ではなく、文学者たちは己れの信念に従って、社会的な発言や政治的な行動を積極的にするようになった。そのもっとも典型的な形態は、自らを「行動する文学者」と規定し、義勇兵、あるいは医療部隊員として直接スペインの戦場へ赴くことであった。たとえば、G・オーウェル、W・H・オーデン、R・フォックス、C・コールドウェル、C・ドネリー、L・リーなど、前途洋々たる若き作家や詩人たち、であった。ちなみに、スペイン共和国軍の一翼を担った第15国際旅団イギリス人大隊は「詩人大隊」というニックネームをつけられたことがあった。この呼称は、文学的誇張もあったろうが、イギリス人大隊は、他の大隊と比べて、作家や詩人の層が厚かったことの証左となるであろう。
果せるかな、と言うべきか、イギリスでの「スペイン内戦とイギリス人の文学者」研究といえば、現在でも、こうした評価の確定した作家や詩人たちがきまって俎上に載せられている。
しかしながら、彼らより若い世代の文学青年だったらどうだろうか。20代前半の青年であれば、年齢からして、わずかな例外はあるにせよ、おしなべて社会的には無名の存在に近い。また、スペイン内戦との関連で彼らがおのおのの記録を残しているとは限らない。まして、本人以外のだれかが彼らに関する記録を残すことなど、ありえないと考えねばならない。当時の時代思潮からすれば、「行動の人」たることを自明の理として実践したのが、他ならぬ彼らであった。
 本論文は、イギリスのケンブリッジ大学を卒業した6人の文学青年の、スペイン参戦の動機、戦場での生活などを中心にして、可能な限り等身大の人間像を再構築し、あわせてスペイン内戦が与えた人間的なインパクトを解明することを意図したものである。
 本論文は、全体でVIII章より成る。
 第I章 「スペイン内戦とイギリス人」
 スペイン内戦が勃発した頃のイギリスは、挙国内閣が誕生したために政治的には閉鎖状況となってしまった。こうした政治的な盤根錯節を一気に切開するには、議会や選挙といった民主的な手段ではもはやいかんともしがたく、左右両勢力は、しだいに過激な直接運動を展開するようになっていた。
 イギリス人は、スペインで相対して激しく抗争を繰り広げる両陣営のいずれかに、自らを帰属させたのである。すなわち、1930年代になって社会的な地盤沈下に襲われ上昇のチャンスをうかがっていた上流階級は、スペインの叛乱軍指揮官とその同調者を支持し、一方たえず要求が無視され生活に喘いでいる労働者階級は、スペインの民衆に同情したのである。こうした支持は、イデオロギー的要素のみならず、積年の階級的対立から生じた憎悪なども加わり、スペイン内戦がフランス革命以降、はじめてイギリス人を決定的に分裂させた対外問題となったのである。
 ところで、義勇兵といっても、スペイン共和国側に加わる場合と、フランコ叛乱軍側に加わる場合とがある。共和国側には、コミンテルン主導の国際旅団、反共産党系の統一マルクス主義労働者党(POUM)の民兵隊、アナキスト系の労働組織である労働国民連合(CNT)の民兵隊の、3通りがあった。また、フランコ側にも、王党派のカルロス民兵隊「レケテス」、外人部隊「テルシオ」、ファシスト政党のファランヘ党の、3通りあった。
 さらに、両陣営の非戦闘員として、さまざまな医療部隊に加わる場合もある。
 本論文で扱った6人の文学青年の場合、後述することになるが、彼らの参戦形態が実に多岐にわたっており、この6人だけでも、スペインの戦場へ馳せ参じた約2,100人のイギリス人義勇兵の総体をほぼカバーすることができる。
 第II章 「ジョン・コーンフォード(1915-36)」
 
 ワーズワースとチャールズ・ダーウィンの血を引き、トリニティ・コレッジの古典学教授の長男として生まれたコーンフォードは、16歳でトリニティの奨学生試験に合格したために、1年繰り上げ入学して、20歳で卒業し、そのまま大学院へ進学した。
 大学在学中に、詩や評論をさまざまな文芸誌や思想誌に寄稿するかたわら、「共産党の若きプリンス」といわれる程、彼の政治活動は目覚ましかった。まさに八面六臂の大活躍といえよう。
 スペイン内戦の勃発した2週間後、『ニューズ・クロニクル』の記者証を使って、バルセロナに入る。ここで、POUMの民兵隊に入隊し、アラゴン戦線に従軍するが負傷する。やがて一旦帰国し、今度はイギリス共産党のポリット書記長から正式な協力を得て義勇兵を募集し、13人の応募者のうち6人を選んだ。10月15日、その6人とともにアリカンテに上陸する。間もなく国際旅団が創設され、コーンフォードはマドリード大学の戦闘、次いで、アンダルシアのロペラの戦闘へと転戦し、1936年12月27日または28日の払暁、味方の総退却を掩護中、戦死する。21歳の誕生日、もしくはその翌朝であった。彼の戦死は目撃されず、遺体も確認されなかった。彼はスペインの戦場で、何ともペーソスあふれる3篇の詩を書き残している。
 第III章 「ジュリアン・ベル(1908-37)」
 ブルームズベリー・グループの重鎮のクライブ・ベルとヴァネッサ・ベルの長男、「ブルームズベリーの秘蔵っ子」として生まれ育ったベルは、ケンブリッジ大学に進学するに際して、大方の予想に反して、進歩的なキングス・コレッジを選んだ。入学早々、労働党の下部組織「社会主義者協会」に入り、瞬く間に指導的活動家となる。一方、在学中に詩集を2冊も上梓するが、彼の詩は、C・ガーネット以外、誰からも評価されなかった。
 大学院を修了して中国国立武漢大学英文科教授となるが、スペイン内戦に国際旅団の義勇兵として参戦するために、教授を辞職し、帰国する。非戦闘主義ないし平和主義の牙城であるブルームズベリー・グループの猛烈な反対にあう。ベルの参戦動機は、将来政界へ進出する際に、スペイン体験の有無が重大となるはずである、それに戦闘とか作戦そのものに異常な興味がある、という2点であった。これでは、両親を説得できるはずがない。結局、義勇兵ではなく、医療部隊員になる、という妥協点に落ちついた。
 ベルが救急車の運転手として初陣したのは、マドリード攻防戦の天王山であるブルネテの戦闘であった。1937年7月18日、彼は負傷兵を救急移送中に、胸に砲弾を受け、野戦病院へ送られるが、昏睡状態のままふたたび醒めることはなかった。

 第IV章 「デイヴィッド・ゲスト(1911-38)」
 労働党下院議員の長男として生まれたゲストは、ケンブリッジで哲学を専攻し、ウィーン学派のウィントゲンシュタインの最初の学生の一人となったが、分析哲学にそれほど熱中できず、政治的な活動に専念するようになり、ドイツのゲッティンゲン大学に留学中に、共産党員となる。その後、ケンブリッジで自ら発起人のひとりとなり、共産党細胞を結成した。大学卒業後、ロンドン郊外のバタシィーで、労働運動の専従職員となった。その後、モスクワのアメリカン・スクールの教員として、1年間モスクワ滞在中に哲学と数学の研究に打ち込み、ソ連の学会誌に論文を発表し、帰国後はロンドン大学数学科の研究グループに加わり、バートランド・ラッセルと凄まじい数学論争を展開したこともあった。やがてサウサンプトン大学の数学科の専任講師となるが、「若きデイヴィッド」は、「重要な用件で」とたった一言同僚に告げて、サウサンプトンの町から忽然と姿を消した。スペインの戦場へ赴いたのである。1938年8月1日、第15国際旅団イギリス人大隊第2中隊付偵察兵としてハラマ河の戦闘に従軍、敵弾が命中して斃れたのである。
 第V章 「マルカム・ダンバー(1912-64)」
 ダンバーはスコットランドの世襲の準男爵の家系の出であり、1936年にケンブリッジ大学を卒業した。在学中に共産党に入党し、目立つほどの活動家ではなかったが、卒業後はロンドンで気鋭の美術評論家として華々しく活躍していた。翌37年1月、スペインの戦場へ赴いた。イギリス人大隊が初陣したハラマ河の戦闘に参加し、ダンバーも負傷する。その後スペイン共和国軍の速成士官学校を経て、ブルネテ、ベルチーテの両戦闘を戦い、共和国軍が命運をかけたエブロ河の戦闘で、第15国際旅団の参謀長に任命される。エブロ河の戦闘の最中、国際旅団の解散が決定し、ダンバーはイギリス人大隊の生存者305人を引き連れて、1938年12月16日、命からがらスペイン国境を越えた。
 帰国後、他の大隊幹部と異なり、共産党の要職に就くことなく、また「イギリス国際旅団協会」に加入することもなく、民間の労働研究所に労働者の生活実態の研究に従事していた。年に数千ポンドの私的な収入を産み出すほどの資産があったにもかかわらず、その資産はほぼ浪費してしまった。というか貧しい労働者や党員たちに惜しみなく与えたのだった。こうした行為がブルジョワ的だということで、共産党と対立を生み、ダンバーはついに党と袂を分かってしまう。そして、1964年の年暮、北ウェールズのアベリストウィスという鄙びた町の海岸で、小高い丘から飛び降りたと思われる身元不詳の男の死体が発見された。ダンバーだったのである。
 第VI章 「サー・リチャード・リース(1900-70)」
 リースは、本研究で論じている文学青年というより、かなりの年長である。彼がスペインの戦場へ赴いたのは、37歳であった。ジュリアン・ベルと同様、医療部隊の救急車運転手としての参戦であった。
 1930年から6年間、ミドルトン・マリーの『アデルフィ』誌の共同出資者兼編集者として辣腕をふるう。オーウェル、ディラン・トマスといった貧しい文学青年に作品を発表する場を与え、しかも経済的な援助もすることがあった。オーウェルの自伝的小説『葉蘭をそよがせよ』(1936年)には、リースとの友人関係が詳述されている。やがてスペイン内戦の勃発、その年の12月に、オーウェルのスペイン入国とPOUM民兵隊に入隊したという噂を聞く。オーウェルに再会するために1937年4月にバルセロナに行くが、彼はすでにアラゴン戦線に従軍中であり、再会は果たせなかった。野戦病院などで働いているうち、しだいにスペイン共和国を牛耳るスターリニストの策略が露骨になるが、6ヶ月間の義務を果たす。一旦帰国して、今度は、クェーカー教徒の救援組織に加わり、ピレネー越えをする共和派の難民を援助した。第二次世界大戦に従軍し、戦後、シモーヌ・ヴェイユの翻訳・紹介をしながらも、周囲の心配をよそに45歳で画筆を握り、やがて画家として身を立てられるようになり、王立美術員(R.A)会員にも推挙された。オーウェルとの友情は、1950年1月20日の彼の死去まで続いた。
 1970年7月24日、リースはロンドンの病院で心臓の手術を受けるが、そのまま再び目をさますことはなかった。根っからの自由主義者であった。

 第VII章 「ピーター・ケンプ(1915- )」
 ケンプは、イギリス人がフランコ叛乱軍の戦列で戦ったわずか12人のひとりであることからも、きわめて稀有なスペイン内戦を体験した(ちなみに、第15国際旅団イギリス人大隊の義勇兵は、2,000人余りであった)。
 ケンプがケンブリッジ大学を卒業した年にスペイン内戦が勃発した。当時、彼は裁判官をしていた父のサー・ニール・ケンプと同様、法曹界に入るための勉強中だったが、突然、スペインに行くことに決めたのである。それも、フランコ軍側で戦うために。彼の参戦動機は2つ。青年特有の冒険心と自己鍛錬、それに共産主義に対する憎悪。ロザミーア系の『サンデー・ディスパッチ』紙の記者証を交付してもらい、1936年11月、無事、バスク地方の「国境の橋」を渡ることができた。
 ケンプは、トレドでカルロス党民兵隊「レケテス」に入隊するが、翌年1月、父の危篤の報を受け、一旦帰国する。2月、再びスペインに戻り、配属先の歩兵大隊を追い求めて、ハラマ河の戦場にたどり着いた。したがって、ケンプは同朋と銃火を交えたことになる。
 その後、外人部隊「テルシオ」に転属し、従軍中に、ゲルニカの無差別砲撃が起こる。ケンプは、ゲルニカ爆撃直後に現地入りした2人のフランスの新聞記者から、退却する共和国軍による爆破によってゲルニカが破壊されたと聞く。つまり、ゲルニカ爆破は共産主義者の最も成功した戦争プロパガンダであり、ピカソの才能によって、歴史のなかに定着された「ゲルニカ神話」にすぎないと頑なに信じている。
 これが、内戦後から現在までのジャーナリストとしてのケンプを支えてきた考え方である。

 作家のフィリップ・トインビーの紹介で、入院中のケンプに会ったが、自分がフランコ軍に従軍したのは全く正しかった、ゲルニカ爆破については自分が今まで書いてきたとおりである、と私に自信たっぷりに語ってくれた。
 第VIII章 「戦いが終わって」
 第15国際旅団付政治委員で、作家のジョン・ゲーツは「スペインへの入国よりも、スペインからの出国がはるかに難しい」と言ったが、それにつけ加えるなら、元義勇兵にとって、帰還先あるいは亡命先での生活は、さらに苛酷であった。「アカの危険分子」というレッテルと社会的な差別や迫害が元義勇兵たちを痛撃したのである。帰還したイギリス人元義勇兵は、「イギリス国際旅団協会」を結成した。
 元義勇兵がそれぞれ悪戦苦闘を強いられてほぼ半年後、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたのである。それこそ、青天の霹靂であった。今まで命がけで守ってきた信念が木っ端微塵に粉砕されたのだった。「共産党離れ現象」が起こり、それが日増しに広がった。
 第二次大戦後も、厳しい東西の冷戦構造という枠組みのなかでの平和にすぎず、元義勇兵には例の「アカの危険分子」のレッテルが重くのしかかっていた。それでも「イギリス国際旅団協会」は倦まず弛まず前進した。そして、1985年10月、ロンドンのテムズ河畔にイギリス人大隊記念碑を建立した。
 また、1986年10月に「国際旅団讃歌」という国際旅団結成50周年記念世界大会がマドリードで開かれ、88年10月には「国際旅団の行軍――平和・自由・民主主義のために(1938~88年)」という世界大会がバルセロナで開かれた。その8年後の96年11月に、国際旅団結成60年周年記念大会が開かれた。すでに80歳を優に越える元義勇兵が望んでいることは、自分たちの足跡を歴史に刻印したい、ということである。
 1992年8月、私はアイリス・マードックの紹介で、スティーヴン・スペンダー邸を訪ねた。「スペイン内戦とイギリスの文学者」についての、最後の重要な証言者だからである。戦場であえなく斃れた作家や詩人について、言葉をひとつひとつ選んで喋る彼の語り口には、「内戦を歌った詩人」の「内戦を戦った詩人」への追悼の情が横溢していたのだった。そのスペンダーも、95年7月16日、80歳で亡くなった。私にとって、忘れ得ぬ詩人であった。
 締めくくるにあたって、フランコ軍側はともかく、共和国の戦列で戦ったイギリス人義勇兵のこうした途方もない愛他主義的行動をどう解釈すべきだろうか。彼らの行動を過大に美化する必要がないのと同様に、過小評価し無視する理由もない。彼らをいつまでも「伝説」の世界のなかに閉鎖させておけば、われわれは彼らの歴史から何も学びとれないのではあるまいか。
 時代の大きな流れを少しでも変えようとして身を挺した彼らの愚直な生き方を、歴史に刻印するのは、他ならぬわれわれの仕事なのである。

このページの一番上へ