博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:文革期における派閥分化と集団的暴力行為:公民権の配分と獲得競争
著者:楊 麗君 (YANG, Li Jun)
博士号取得年月日:2002年11月29日

→審査要旨へ

一 先行研究と課題
 本論文は、中国の文革期における派閥の分化と、集団的な暴力行為の発生要因の解明を課題とする。この2つの要因については、すでに多くの研究者が様々な視点から研究を行なってきた。本論文は、これらの先行研究の成果を吸収したうえで、公民権という概念を導入し、制度論的分析枠組を構築して上述の課題の解明に取り組む。
 先行研究を大きく区分すると、国家中心論と社会中心論の2つのアプローチに分けられる。
 国家中心論的アプローチは、国家政策、毛沢東の個人的なカリスマ性、毛沢東と他の中央指導者間の政策分岐ないし権力闘争を分析の中心に置いた、いわゆる「上から下へ」の研究である。この種類の研究は大勢の参加者を操作された客体と見なし、一般大衆の参加意識や運動中の行動の特徴を軽視する傾向がある。
 社会中心論的アプローチは、集団・派閥を分析の中心に置き、参加者の動機と行為に関する分析を重視し、社会構造によって生じた社会矛盾と大衆組織間の対立構造との関連を強調したうえで、参加者を毛沢東などの指導者に操作された客体と見なすのではなく、運動の積極的な参加者であり、運動の主体であると主張した。いわゆる「下から上へ」の研究である。この視点からの研究は国家中心論の残された課題の一部を明らかにし、文革期における派閥の分化と衝突を理解する際に有効な視点を提供した。しかし、まだ解明されたとは言えない問題は存在している。例えば、文革以前に潜在的に存在していた社会矛盾は、なぜ1966年の時点で爆発したのであろうか。また当時、現状に不満を持つ参加者が、なぜその怒りを利益の配分の担い手である政府機関と全く関係のない人々に向け、暴力を加えたのであろうか。これらの問題を解明するためには、社会的要素以外に指導層が果した役割も考えなければならない。
 したがって、派閥の変化と集団的暴力の発生という2つの問題を解明するためには、国家と社会(派閥)の2つの側面から分析する必要がある。本論文では、国家と社会間の相互作用の中で、最も大きな役割を果すものは公民権であると認識し、公民権という概念と制度的空間配置の要素を重視して、文革研究の制度論的分析枠組を構築することを試みる。また、政治運動としての文革という従来の取りあげ方と異なり、筆者は文革を各利益団体が政治機会を利用しながら公民権を争奪する、政治動員型社会運動であると認識している。公民権獲得競争の過程において、諸集団の行動様式は、中国共産党統治下における公民権の配分様式という制度的な要素の影響を受けていると考えられる。そのため、同一制度下における公民権の配分と獲得競争という視点からの分析によって、国家と社会の両方面の要素を総括的に把握することが可能となるのである。文革研究の制度論的分析枠組みを構築する際、筆者は4つの要素に注目する。第1は、文革が展開した制度的空間配置という要素である。第2は、同じ制度的空間配置の中で、国家による公民権の配分や、社会における公民権の獲得をめぐる競争が、いかに相互作用して文革の派閥対立と集団的暴力の発生を促したのかという要素である。第3の要素は、派閥分化と集団的暴力行為の発生要因において、制度化の度合が果たした役割である。第4は、毛沢東期の中国における忠誠を利益に量化する精神構造は如何に理性的利益競争行為に非理性的な特徴を付与したのかという要素である。制度論的アプローチの中で、国家・社会の制度的空間的配置は第一レベルの制度的要素であり、公民権の配分制度と制度化の度合は第二レベルの制度的要素である。制度が行為を決定することから考えると、文革期における国家の行為にしろ社会の行為にしろ、どちらにしても以上に述べた2つのレベルの制度的要素からその行為の特徴を理解することができると考えられる。次の節からこれらの要素を説明しながら、本論文の主要な論点を整理しておきたい。
二 国家・社会の制度的空間配置
 
 一般に、社会学分野において、社会空間は私的領域と公的領域の2つに分けられる。私的領域は個人的な空間で、国家などの公共制度とほとんど関わりがない。一方、国家と社会の間の相互作用は公的領域において行われている。いわゆる民主主義体制の国家においては、社会運動は公的領域と私的領域の2つの領域の間で移動する。人々が私的領域で要求を満足できなかったり、失望を感じた時には、公的領域に介入するようになる。その結果、社会運動が発生する。したがって、運動の発展に伴い、予想できない結果が出てきた場合、あるいは参加者の希望にそわず、願望を満足できない場合、人々は公的領域から退出し、私的領域に戻るようになる。これによって、社会運動に出口を与え、運動の急進化を緩和する。
 欧米の社会運動と比べて、文革は「退出」する道がない公的領域で展開されていた。第2章の分析に示されたように、建国初期から文革期に至るまで、国家が社会主義体制を導入し、各分野において国有化、公営化が徹底的に行なわれた。その結果、民営企業、民間組織はゼロ近くまで縮小し、公的領域は拡大し、国有部門はすべての組織を網羅した。また、それと同時に行なわれた共産党組織の権力システムおよび被管理大衆組織の建設は、社会を完全に共産党の統治下に置いた。私的領域が縮小した過程は、公的領域が拡大し政治化する過程でもある。この過程において、国家は次第に究極まで政治化され、私的所有の根絶を目指す生産手段の社会主義的改造の完了に伴い、私的領域がほぼ消滅させられてしまった。国民も様々な政治動員によって公的領域に入るようになった。少なくとも文革終了までの中国においては、私的領域が縮小してしまい、ほぼ消滅したかたちとなったのである。
 私的領域が存在せず、公的領域しか存在していなかったという制度的空間配置は、文革期の社会運動にとってきわめて重要な意味を持っている。すなわち、私的領域が存在しないため、公的領域は集団間の利益競争の唯一の場所になってしまった。そして、私的領域が存在していないため、公的領域から「退出」するという選択も当然ありえない。したがって、社会運動が急進化するのは当然であると考えられる。なぜなら、運動が開始されると、参加者は最後まで参加するしかなく、それ以外の選択の余地がないからである。大衆動員の政治社会のなかでは参加者が運動から「退出」することは許されないし、仮に「退出」できても極めて高い代価を払わなければならない。それは、個人が生存していく上で必要とする権利をすべて公的領域で獲得しなければならないからである。したがって、私的領域が存在していないことは文革の急進化と暴力の発生の制度的な背景なのである。
 
三 公民権の配分と獲得競争
 欧米では、公民権(citizenship)は市民的権利(civil citizenship)、政治的権利(political citizenship)および社会的権利(social citizenship)の3つに分けられている。また、この3つの部分を含む公民権が公的領域と私的領域の2つの領域に分布している。個人が生きていくために必要な権利や価値などの公民権は、公的領域とほとんど無関係に私的領域に分布している。相対的な独立性を持つ私的領域は、国民の個人としての生存権を保障するだけでなく、公共の権利の濫用を抑制する機能も果している。
 それに対して、毛沢東期の中国では公民権は生存権を含む人々の政治・経済利益を中心とするすべての権利を意味する。また、欧米と比べて中国の公民権は法律的概念ではなく、政治的概念である。例えば、公民における人民と敵、人民内部における党政幹部と大衆、また、大衆内部における積極分子、一般人民と落後分子などの区分は法律的なものではなく、政治区分であるといえる。それら政治的地位によって、享受できる公民権が異なる。また、毛沢東期の中国では私的領域が存在しないため、私的領域に属すべきものを含むあらゆる公民権が公的領域に集中されるようになった。第3章の分析に示されたように、建国後、国家・社会関係の再編を通じて、国家があらゆる政治・経済・文化資源――公民権――およびその配分権力を完全に独占した。そして、出身階級制度、戸籍制度、労働人事制度、党政幹部の行政等級制度、企業における雇用制度、企業所有制管理制度、積極分子の選出政策などの様々な制度ないし政策の確立に伴い、国家が等級的な公民権の配分制度を作り出した。このような国家による公民権の独占と政治的な配分方法は等級的社会構造を創出しただけではなく、大衆間における公民権の獲得競争の様態――政治方法で行なわれた利益競争――を決定した。
 本論文で分析した文革期の集団的行為は実際には上に述べたような国家・社会の制度的配置の中で行なわれた公民権の獲得競争である。第4章から第6章までの派閥行為に関する分析に示されたように、表面からみると、文革期における集団的行為は非理性的、暴力的であるようにみえるが、実際には、個人としての参加者は退出する道がない公的領域で政治運動によって提供された機会構造を利用しながら、理性的に利益を追求し、公民権の獲得競争を行なった。公的領域しか存在しないという制度的空間配置を念頭に入れ、文革期における集団的行為を理解する時、次のようなことが明らかになる。すなわち、派閥リーダーにしろ、一般の参加者にしろ、彼らにとって、選択の余地はきわめて少なかった。なぜなら、私的領域がなく、あらゆる公民権が国家によって独占された背景の中で、彼らにとっては政治化された公的領域で派閥間の競争を通じて利益の最大化を追求する道しかなかった。これは第4章から第7章までの派閥分化と集団的暴力行為を分析する際の中心的論点である。
 第4章から第6章までは、文革期における派閥の集団的行為について扱う。3年間にわたって進行した文革は3つの副次的運動を内包しているというのが本論文の認識である。この3つの副次的運動の移行によって文革は進んでいく。これらの副次的運動期においては、運動の主体と目標がそれぞれ異なっていた。北京における中学の「老紅衛兵」と清華大学の「井崗山兵団」、上海の「工総司」という労働者造反派組織がそれぞれ運動の主役を担い、各副次的運動期の国家目標を推進しながら自らの集団利益を追求した。したがって、第4章から第6章までは、これらの派閥を分析の対象とし、この分析を通じて、(1)派閥の結成、分化と衰退の原因とプロセス、(2)各副次的運動を推進する過程において、国家、国家代理人、派閥リーダーおよび派閥のメンバーがそれぞれ果たした役割、の2つを明らかにする。この3つの章においては、以上に述べた共通の問題意識以外に、それぞれ異なる問題に重点を置いている。
 第4章では、文革の第一副次的運動期(1966年5月末から同年10月まで)における主体である「老紅衛兵」を分析の対象とする。「老紅衛兵」という派閥の興起と衰退に関する分析を通じて、中央指導層による政治闘争の社会化と社会における利益競争の政治化がいかに結びつき、派閥の興起をもたらしたかを分析の重点におく。文革の第一副次運動期に北京の中学・高校に幹部子女を中心とする紅衛兵組織がいち早く造反し、下から上へ運動を展開する方法を毛沢東に提供したことで、文革の主役として選ばれた。これは幹部子女が集団的利益を求めるチャンスを提供した。だが、彼らの利益追求行為が毛沢東の意図から逸脱したことにより、与えられた政治資源も最終的に撤回されてしまった。
 第5章では、文革の第二副次的運動期(1966年10月から1966年12月まで)における主体である「清華大学井崗山兵団」を分析の対象とする。この時期に、国家は運動の目標を明確に「党内の資本主義道を歩む実権派」と規定し、劉・鄧批判とその勢力の粛清を公言した。「すべてを打倒する」精神を持つ大学の造反派組織が運動の主役と選ばれた。これは文革以前の非既得利益集団にとっては合法的に集団的利益を求めるチャンスであった。だが、この時期に、国家政策の変更、中央指導層における政治リーダーの分裂と諸派閥の利益目標が相互に軋轢を生じているうちに、文革は大混乱の局面に追い込まれた。
 第6章では、文革の第三副次的運動期(1967年1月から69年4月まで)における主体である上海の労働者造反派組織の「工総司」を分析の対象とする。この時期には、政権の再建が運動の目的であった。上海の「工総司」が積極的に経済主義風潮の蔓延を抑制し、生産秩序の回復を求めたことにより、第三副次的運動期の主役として選ばれた。労働者の中の非既得利益集団による権力と権利を求める機会の獲得は、多くの地域で派閥間の競争を激化し、武力闘争をもたらしたが、上海では、張春橋が派閥で派閥を制御し、暴力で暴力を制御する方法をもちいて上海の政権再建を完成し、毛沢東の「革命と生産」が並行する構想を現実化した。その過程において、「工総司」も政権化を実現した。
四 制度化と集団的暴力行為
 国家・社会が一体化する制度的空間配置の中で行なわれた公民権の獲得競争が必ずしも集団的暴力行為の発生をもたらすとは限らない。例えば、文革以前に、同じ制度的空間配置の中で行なわれた公民権の獲得競争は大きな社会混乱を生じていなかった。では、なぜ文革期に同じような競争行為が派閥分化と集団的行為の発生を生じたのか、この問題の解明は本論文の第4章から第7章までで扱う課題の1つである。結論からいうと、国家・社会が一体化する制度的空間配置と公民権の配分および獲得競争の2つの要素以外に、国家、社会、及び国家と社会の相互作用の制度化の度合が低いことも派閥行為を急進化させる重要な要素の1つである。具体的にいえば、中央指導層のトップリーダーの間に政治闘争が生じた際、上に述べたような3つのレベルにおける制度化の度合が低いため、国家が安定した社会秩序を維持し、各利益団体の間の争いを防止する基本的な機能を果たすことができなくなっており、社会も派閥間の悪性的な利益競争を抑制する自治能力を持たないため、政治リーダーの間の政治闘争と派閥間の利益競争がお互いに利用し合い、軋轢を生じているうちに、社会運動を急進化の段階に推進してしまった。
 第7章で分析したように、制度化の度合は国家、社会、国家と社会の相互作用の3つのレベルで考察できる。毛沢東期の中国においては、この3つのレベルとも制度化の度合が低かった。国家の制度化の度合が低いことは、主に法制の欠如、党の一元化指導、中央集権、毛沢東のカリスマ的権威の面に表れた。中央のトップリーダーの間に権力闘争が生じた時に、制度ないし法律によって制約するメカニズムが存在しないため、中央指導層の政治混乱をもたらしやすい。その結果、社会に安定的秩序を提供すべきである国家の基本的な機能が弱体化された。また、国家の制度化の度合が低いため、国家代理人も政治闘争の中で、法ないし制度に依拠して自らの利益ないし政治地位を守ることができないため、一部の人が政治闘争の中で勝ち残るために社会の支持を求め、意図的に大衆を操った。一方、派閥も単なる受動的な存在ではなかった。彼らは国家ないし国家代理人によって提供された機会を最大限に利用しながら、自らの行為で国家政策を集団利益に有利な方向へ変更させようとした。このような国家と社会の相互作用により、文革が自律性を持つようになっていき、運動が1つの副次的運動期から次の副次的運動期へと進んでいくことになった。
 社会の制度化の度合を考察する時、主に、国家から独立した自治組織が存在するかどうか、これらの自治組織の内部及び他の自治組織との間に法律ないし制度によって保障された協同と連繋のメカニズムが存在するかどうか、ということを基準とする。この基準を用いて中国を考察すると、社会の制度化の度合が極めて低いことが一目瞭然となる。すなわち、建国後、私的領域が縮小されることに伴い、社会の自主性も失われ、社会が全体主義的な政治動員体制の中に置かれた。「単位」、共青団や工会などの被管理大衆団体があったにもかかわらず、それらすべてが国家によって組織され、国家政策と国家代理人によって管理されたものであった。表面的に見ると、社会が高度に組織化されたようにみえるが、実際には、これらの組織は国家が社会を統治・動員するための道具であり、社会の自らの権益を求めるための機能を果していなかった。「単位」、共青団や工会などの被管理大衆組織を社会成員が公民権を求めるための道具として利用できないという原因があったからこそ、文革期に社会成員が自らの利益を求めるための利用可能な組織、すなわち、派閥というものが現れた。
 また、第4章から第6章までの分析によって明らかにされたように、派閥の構成は文革以前に作られた等級的社会構造と大きな関連性を持っている。文革以前の等級的社会構造があるからこそ、参加者は政治身分ないし利益認知に基づいて容易に派閥を結成した。そして、文革以前における等級的社会構造において、政治財と経済財が国家によって分散的に配分された結果、1人の個人が各種の複数の集団に帰属しているという認識を持つことになった。複数の集団への帰属認知は多様な選択と多様な組合わせの可能性をもたらした。すなわち、文革の目標が変化したり、派閥がメンバーの利益要求を満足できなくなったり、メンバーの派閥に対する価値認知が変化したり、ある派閥ないしその価値原理から疎外されたりした時、参加者にとって、集団への帰属認知を調整して他の派閥に入ったり、短期間で新たな派閥を結成したりするのはきわめて容易なことであった。
 文革期に集団利益を求めるための派閥が現れた一方、これらの派閥の自治能力はきわめて低かった。その原因は以下の4つにある。第1に、派閥の存続は国家によって決定され、派閥の自治的組織への発展が国家に容認されなかったからである。第2に、参加者がどのような集団への帰属認知によって派閥を組合わせるのかということについて、決定的な役割を果したのは国家であった。文革期における国家の目標および中央指導者間の権力フォーメーションが絶えず変化することは派閥の安定性に影響を与え、派閥の自治能力の養成を阻害したのである。第3に、派閥リーダーの利益競争が派閥の自治能力および派閥間の制度的連繋関係の養成を阻害した。第4に、なにより重要なのは、そもそも組織の自治能力の発展は長い時間がかかることであり、以上のような3つの要因がなくても、文革期の派閥が短期間に自治組織にまで発展するのはきわめて難しかった。
 以上に述べた原因により、文革期における派閥内部では自治能力がきわめて低く、派閥と派閥の間には制度化された協同と連繋メカニズムが存在しなかった。その結果、国家の社会へのコントロール機能が弱体化された際、社会が自らの力で利益衝突を解決する能力を持たないため、大衆間の利益競争が無政府状態下に置かれ、容易に急進化・暴力化した。第4章から第6章の派閥分化に関する分析から明らかになったように、同じ陣営の派閥間にしろ、対立陣営の派閥間にしろ、基本的に非制度的な競争関係しか存在していなかった。一部の派閥は目の前の利益によって一時的に連盟関係を結成したが、外的状況が変わると、連盟関係が非制度的競争関係に変わってしまう。また、一部の派閥では、母体派閥から分離した時点からその目的が母体派閥に対抗することに変わった。このような派閥間の非制度化された競争関係が最終的に派閥行為の急進化と集団的暴力行為の発生をもたらした。
 また、文革期には国家、社会のそれぞれの制度化の度合が低いだけではなく、国家と社会の相互作用における制度化の度合もきわめて低かった。国家の社会に対するコントロールは法制化されたものではなく、政治化されたものであった。このような政治化された統治方法は①階級闘争論というイデオロギーを推進すること、②高度的政治化と組織化された公的領域内部で行なわれた公民権の等級的配分の2点に概略できる。階級闘争論は政治目標の変更と政治闘争の必要性に応じてその内容も変わった。公民権の配分方法も国家目標、政策変化、政策制定レベルの国家代理人の政策意向、政策執行レベルの国家代理人の意志、国家代理人の間の権力闘争などの要素によって影響されるので、きわめて不安定であった。したがって、国家・社会が一体化する制度的空間配置の中で、国家がイデオロギーと組織を通じて社会を完全にコントロールした一方、その統治方法からみると、制度化の度合はきわめて低かった。
 他方、社会という視点から考える際、社会は制度ないし法律によって規定された政治参加チャネルを持っておらず、大衆による政治参加は政治動員の機会を利用して自らの権益保護と利益追求を展開する方法で行なわれたのである。こうした背景の中で、政治運動が大衆間の公民権の獲得競争を行なう舞台になってしまった。
 
五 忠誠を利益に量化する精神構造
 
 制度的空間配置、公民権の配分と獲得競争、制度化の度合の3つの要素以外に、文革期における派閥分化と集団的暴力行為をもたらす要因の中で、もう1つの重要な要素は忠誠を利益に量化する精神構造である。文革期において、毛沢東個人に対する熱狂的な崇拝は1つの社会現象であった。毛沢東に対する崇拝は、表面的には非理性的な行為であるが、実際にはその裏に理性的な選択が潜んでいる。つまり、忠誠を利益に量化する精神構造下において、非理性的行為は実際には理性的選択の結果であるといえる。
 忠誠を利益に量化する精神構造の形成には主に2つの要因がある。1つは国家・社会が一体化する制度的空間配置の中での国家による公民権およびその配分方法の独占である。具体的にいえば、国家・社会が一体化する制度的配置の中で、社会は国家に対する全方位の依存関係を作り出した。国家は社会に生活必要品から住宅、医療、教育、娯楽などにいたるまで、ほとんどすべての生活の必需品を提供する一方、社会から国家に対する忠誠を最大限に調達した。こうした背景の中で、国家ないし国家代理人に対する忠誠心を示すことは公民権の獲得を求める手段になった。文革期に入ると、毛沢東に対する崇拝が中央指導層によって最大限に推進されたことは、誰がより毛沢東に対する忠誠心を持つのか、ということ自体が大衆間における利益獲得競争の内容の一部になった。これは一般的な大衆に限らず、周恩来と林彪などのトップリーダーにとっても同じであった。大衆は競争し合いながら、毛沢東に対する個人崇拝を極端に盛り上げた。要するに、ここでの「国家崇拝」ないし毛沢東に対する個人崇拝という心理的要素は国家制度と政策によって具象化したとき、すでに純粋な感情表出ではなく、利益に量化できる理性的な行為になったといえる。

 忠誠を利益に量化する精神構造を創出したもう1つの要因は、政治動員式の政治参加様式である。毛沢東期における中国においては、政治動員が大衆の政治参加の形態であった。国家にとって、政治動員式の政治参加は国家ないしトップリーダーが国家目標ないし個人的な意志を達成するための手段であった一方、社会にとっては、政治動員式の政治参加は国家ないし国家代理人に忠誠心を示し、忠誠で利益を獲得する機会であった。文革期だけではなく、毛沢東期の中国において、政治運動を展開するたびに大衆間における忠誠ないし革命性をめぐる競い合いも共に展開されるようになった。もちろん、参加者にとって、忠誠心を示す目的は必ずしもより多く利益を得るためであるとは限らず、変動的な政治情勢の中で自己防衛を求めることもその目的であった。なぜなら、私的領域が存在しない国家・社会が一体化する制度的空間配置の中で、人々が共産党の権力システムから独立した法的手段を用いて自らの権利を守る可能性はないからである。

 
 以上に述べた4つの要素により、文革期における派閥対立と集団的暴力行為の発生は当時の政治環境の中で避けられないことであった。
 
六 社会運動と国家建設
 本論文は文革を社会運動として捉え、国家建設のプロセスの中で、社会運動の生成を解釈した。したがって、論文の最後に、社会運動と国家建設の関係を簡単にまとめたい。社会運動は社会の恒常現象である。いかなる政治体制の国家でも社会運動の発生は避けられないことであると考えられる。社会運動は政府に政治的圧力をかけ、場合によると、社会混乱をもたらす一方、政府に対して消極的な役割だけをはたすわけではない。本論文の分析に示されたように、社会運動の発生は政治・経済などの面における制度的要因とかかわりがある。すなわち、社会運動の発生は社会の政治・経済などの面に存在している問題を反映するといえる。この意味から考えると、社会運動は社会発展と変革を導く推進力でもあると考えられる。中国の場合、文革期に国家ないし国家代理人が政治運動を動員する方法で社会問題を解決した結果、社会運動の発生をもたらした。改革開放期に入り、中央指導層は社会の安定を維持するために政治動員の方法を放棄し、社会秩序の安定を維持するために、社会運動の発生を防止する措置をとった一方、社会運動をもたらす制度的要因を取除くために、政治・経済面における改革を積極的に推進した。しかし、終章で分析したように、改革の結果、一部の社会運動をもたらす制度的要因はコントロールされたが、この改革の過程において、新たな社会運動を創出する制度的要因が作り出された。また、新たな社会運動の発生は再び中央指導層の政治・経済改革を促進するパワーになる。こうして、社会運動は政府と対抗しているうちに、社会の発展を促進していくと考えられる。

このページの一番上へ