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博士論文要旨

論文題目:ラヴローフのナロードニキ主義歴史哲学:虚無を超えて
著者:佐々木 照央 (SASAKI, Teruhiro)
博士号取得年月日:2002年11月20日

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 本書は十九世紀後半のロシア思想に大きな影響を与えた思想家ピョートル・ラヴロヴィチ・ラヴローフ(1823-1900)の生涯を紹介するものである。本書の文献目録でもあげておいたように、今日まで、ロシアおよび欧米でのこの思想家についての研究はかなりの数におよぶ。
 ロシアでは一九一七年の革命前後の時期にヴィーチャゼフ、ルサーノフ、ギゼッチによってラヴローフの著作集刊行のための資料収集がなされた。(本書裏71頁:著作集1) 残念ながら、この著作集はラヴローフの哲学、社会学、宗教観などの作品の一部が収められただけで、未完に終わった。ヴィーチャゼフによる研究(本書裏89頁:文献番号25-30、以下最初の数字は頁、コロンの後は文献番号)は先駆的なものであるが、ラヴローフの活動のごく限られた部分しか発表できなかった。これは革命期の動乱のせいである。
 次に重要な功績を残したのは、クニージニク=ヴェトロフの仕事である。1934-35年に彼は「政治懲役流刑囚人協会」とともにラヴローフの社会学・政治文献著作集刊行をてがけたが、8巻の予定が4巻しか出版できなかった。(71:2) クニージニクの課題はその当時のナロードニキ主義批判の波に抗してラヴローフの思想を評価しようとしたものであった。その時代にラヴローフを評価するということ自体、極めて困難な作業であり、時代にあわせるために、自ずとラヴローフのマルクス主義的主張、唯物論的主張を大きくとりあげざるを得なかった。(92:77-81)そのためにラヴローフの哲学の特徴である「主観重視」の側面に注意が払われなかった。その後、スターリン批判ののち、1965年にラヴローフの哲学・社会学著作集がクニージニクらによって公刊された。(71:3) クニージニクの仕事は伝記的研究の面では時代的制約を強く受けているが、著作集の公刊の面で大きな貢献をした。
 ソ連でナロードニキが再評価されるようになったのは60年代の後半からであった。それにはイテンベルグ、ヴォローヂン、ホーロス、アントーノフ、トヴァルドフスカヤ、などの歴史家が大きな役割を果たした。イテンベルグは特にラヴローフの生涯とナロードニキの革命運動史の研究に功績を残している。古文書の発掘にもとづく事実史料の紹介においてイテンベルグはその後の研究者たちのための豊富な材料を提供した。ただし、ラヴローフの著作集のより完全な刊行は今にいたるも実現されていない。
 またアメリカでは、フィリップ・ポムパーが『ラヴローフとロシア革命運動』という単行書を1972年に出した。(99:8)これはロシア以外では最初のラヴローフ伝であるが、思想的分析も運動面での分析もそれ以前の先行研究より深められたとは言い難い。またキムボールもアメリカを代表する研究者の一人であり、ラヴローフについて一連の論文がある。
 日本では鳥山成人氏の論文「ラヴリズムの形成―綱領<前進!>小史」が先駆的論文である。ただし、これは対象とする期間が十九世紀70年代初頭という限られたものである。
 私は金子幸彦教授の指導のもと、修士論文『ラヴローフ研究』(一橋大学大学院社会学研究科1972年提出)でこの分野の研究を始めた。それから、このテーマでの論文を発表しつづけたが、30年近く過ぎてやっと単行本の形で出版できた。本書では先行研究であまり触れられていない歴史的事件、深められていない思想的分析、未発表の史料の紹介、に力を傾注した。
 第一章では、裕福な貴族の家庭に生まれたラヴローフが同時代のロシア文学から受けた影響を強調した。この視点は従来の研究になかったものである。同時代の流行作家、詩人のプーシキン、レールモントフに強い感化を受けたという事実は、未公刊の少年時代の日記に記されている。日記には、小説の余計者的主人公の心情が綴られている。ラヴローフの精神の形成期に余計者貴族の心理が育成されていたことの指摘は、本書が初めてである。余計者の心理の特徴はこの世の「無常」観、「空虚」感であり、そのために帝政ロシアという現実の中で隠遁者となり無為の生活を送る。ラヴローフは後にその余計者的精神の克服の実践哲学、歴史哲学を構築しようとする。さらに、デカブリスト詩人ルイレーエフを引用したラヴローフの詩(これも日記の中にあり、未公刊)は、青年時代のラヴローフが1825年のデカブリストの革命精神に深い衝撃を受けていたことを物語っている。
 ラヴローフは砲兵大学校の数学教官となるが、同時に政治的な詩を作り、帝政ロシアの後進性を批判していく。ロシアにおいて詩人であることは預言者であり警世家の役割をになうことでもある。つまり、詩と革命が同じ次元で捉えられている。第二章ではクリミア戦争に従軍したラヴローフが敗戦を重ねるロシアに失望して急進化する過程を詩の中で検討し、さらにドイツ哲学の研究に没頭していくさまを紹介した。そして農奴制・専制ロシアの現実の中で生きざるをえないラヴローフが、ヘーゲル法哲学序文の「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」という有名な文句をいかに解釈していったか、を紹介し、哲学的思索の中で、歴史発展の必然性と自由意志の関係をどのように構築したか、を農奴解放の時代背景において検討し、ラヴローフが自由意志の重視のほうに力点を移して、急進化する様子を紹介した。
 第三章では、ラヴローフが農奴解放期に発表した哲学的著作を分析し、それが「余計者」貴族のための実践哲学であることを指摘した。これは従来のロシア欧米のラヴローフ研究になかった視点であり、私の修士論文時代の発見であった。ツルゲーネフの小説『父と子』をめぐる貴族と雑階級人の論争は有名であるが、その論争において、ラヴローフは進歩的貴族の側の支援者として論陣を張り、ゲルツェンにそれを捧げるという献辞をそえた。それ故に「余計者論争」で良心的貴族余計者を支持するゲルツェンと対立した雑階級人唯物論者チェルヌィシェフスキイの側からの批判を浴びた。この時からラヴローフの哲学は観念論、主観主義、折衷主義というレッテルを貼られた。
 第四章で、農奴解放後のラヴローフの社会的実践活動を紹介した。ここでは従来の研究をふまえながら、裁判記録を利用してあまり知られていない活動「婦人労働奨励協会」、出版アルテリ、などへの関わりを紹介した。ラヴローフの裁判記録は今まで断片的にしか公刊されていなかったので、その原本の利用は価値がある。裁判記録によれば、ラヴローフの流刑は、チェルヌィシェフスキイら反体制不穏分子への同情が主な罪状であった。
 第五章ではナロードニキ主義の聖典と目される『歴史書簡』の内容を分析、紹介した。これは流刑中に執筆されたラヴローフの歴史哲学であった。『歴史書簡』では歴史過程を観察する主体の道徳的意識の重要性と歴史発展への参加の義務が論じられ、「批判的思惟」が歴史発達の重要な契機とみなされた。ロシアにおいて知識人は恵まれない民衆の犠牲によって知識を獲得し、特権的地位に置かれている、知識人はその発達の代価をまだ民衆に支払っていない、という「未払いの債務」の訴えは「悔悟する貴族」の心情と合致し、ヴ・ナロード運動に大きな影響を及ぼした。
 第六章では、流刑地から脱走して亡命した後のパリコンミュンへの参加と体験を紹介し、コンミュン戦士弾圧がラヴローフに与えた衝撃を指摘した。このコンミュン戦士の救援活動においてラヴローフのマルクス、エンゲルスらとの親交がはじまった。ラヴローフのパリコンミュン論は一九一七年の十月革命直後、トロツキイによって高く評価され、再版された。
 第七章において、ロシア革命運動に大きな足跡を残した在外革命機関紙『前進!』発行の過程を紹介した。これは本邦では鳥山成人氏によってその最終綱領と作成プロセスが紹介されているので、そこにあまり書かれていない事項に力点をおいて紹介した。この章であつかう事件は従来バクーニン派との関係でかなり多くの研究が出されている。したがって、それらの研究との見解の相違点(ラヴローフへの依頼者の特定の問題など)やあまり知られていない点(第一綱領、第二綱領など)をアーカイヴ史料に依拠して紹介した。
 第八章では、従来から知られているラヴローフ派、バクーニン派、トカチョフ派の論争点を紹介しながら、私の自説であるラヴローフの変化の過程(中央集権への傾斜)を明らかにした。ラヴローフ派のナロードニキ(ラヴリスト)とラヴローフはこの変化のために決裂した。ラヴローフの変化にはロシア国内のヴ・ナロード運動への厳しい弾圧、国際労働運動の推移が深刻な影響を及ぼしていた。この説は私の初期の論文からの主張であるが、ロシアのラヴローフ研究者たち(イテンベルグ、トヴァルドフスカヤ他)の間で支持されている。ラヴローフ派ナロードニキとの分裂過程の分析は未公刊のアーカイヴ史料に依拠し、従来の研究にはなかったものである。
 第九章の民族問題と『前進』の論調では現在にまで尾を引いているユーゴスラヴィアの民族独立問題と中央アジア、極東征服に対するラヴローフ派ナロードニキの主張を紹介した。これはナショナリズムを超えるインタナショナルの立場からのアプローチであった。また神人教コンミュンの運動については、今までの研究はほとんどない。本書ではこれがヴ・ナロード運動からの発展であり、トルストイ主義への架け橋であることを紹介した。
 第十章でのパリの活動については、これまでまったく触れられていない事実を紹介した。従来の研究では、この期間はラヴローフがいっさいの政治的活動から遠ざかっていたとされていた。しかし、この時に彼はウクライナ主義者の指導的イデオローグ、ドラゴマーノフとともに革命家の旅費を支援する路銀金庫を運営し、なおポーランドの社会主義団体の誕生を支援したのである。ラヴローフはそのための綱領まで執筆しているので、その文書をアーカイヴ史料にもとづいて紹介した。ドラゴマーノフとの往復書簡は未公刊で、本書ではじめて紹介したものである。引用が長いのも、史料紹介の価値があると考えたからである。ラヴローフとドラゴマーノフがウクライナの特殊性を承認するかいなかの点で対立し、ナロードニキの運動がインタナショナルな運動から地域の特殊性に依拠したナショナルな運動へと分裂していく。その傾向を両者の往復書簡に見ることができる。
 第十一章で、ロシアの革命運動の急進化においてラヴローフがいかなる立場にたっていたかを紹介した。ラヴローフは「人民の意志」党のテロリズムに最初は批判的であった。むしろ「チョールヌィ・ペレデル(土地総割替派)」に近い立場をとっていた。彼は、両派を統合する組織「ロシア社会革命文庫」の運営において中心的役割を果たした。プレハーノフとモローゾフは「土地と自由」の分裂時に対立した両派の指導者であった。その二人が「ロシア社会革命文庫」において共同活動をする。この「ロシア社会革命文庫」について、従来の研究はほとんどなかった。本書ではこれをアーカイヴ史料に依拠しながらはじめてその推移を記述した。引用が長いのも、初めて公刊する文書が多いためである。とくにラヴローフとモローゾフの往復書簡は、「人民の意志」党のテロリズム戦術への批判が直接に表明されている貴重な資料である。このような書簡が未公刊であったがゆえに、ラヴローフの思想と行動を理解する上での障害となっていた。
 またガルトマンとの往復書簡は、マルクスとの関係でかなりの数が公刊されているが、本書ではそこで公刊されていない部分を付加した。マルクス、エンゲルスが「人民の意志」党を支持する姿勢を示す上で、ガルトマンとの関係が極めて重要なかぎをにぎっている。ザスーリチあてのマルクスの書簡に見られる「人民の意志」党支持の姿勢は日本でも和田春樹氏らによって深く研究されてきた問題であるが、本書ではそのことをさらに裏付けるようなガルトマン証言を紹介することができた。
 さらに、「人民の意志赤十字会」の紹介も従来の研究より多くの情報を提供することができた。これも、未公刊史料に依拠した。ザスーリチとラヴローフの協力によって運営されたこの組織が、「人民の意志」という名称を冠していることも、当時の「人民の意志」党にたいする革命諸派の態度を象徴的に示すものである。
 第十二章において、ラヴローフの「人民の意志報知」への関わりを詳しく紹介した。これは、ほとんど未公刊史料に基づいている。テロリズムに批判的でありながらも、帝政打倒の運動にもっとも積極的である党としてラヴローフは「人民の意志」党を支援する。ここにプレハーノフらのロシアマルクス主義者の組織「労働解放団」とラヴローフの分岐点があった。この章で私はわが国の和田春樹氏や田中真晴氏の研究の成果をさらに豊富化する諸事実の提供をめざした。
 ラヴローフは帝政を倒すこと、その専制倒壊の上に直接に社会主義を樹立すること、を目標とした。この姿勢は、資本主義の発達によるプロレタリアートの成長を待つ「労働解放団」の戦術と対立したのみならず、ロシアの自由主義者との相違点を浮き彫りにした。自由主義者はロシアを専制から立憲議会制へと移行させようと運動した。ブルジョワ市民社会の樹立を当面の目標としたのである。当面の反ロシア帝政運動において「労働解放団」は自由主義者と連携しようとした。またロシアの合法的マルクス主義者は社会主義にいたる前段階として市民社会を公然と要求した。ラヴローフはそれらすべてを批判し、ロシアがブルジョワ社会の段階を経由すべきであるという説には組しなかった。この姿勢を「対飢饉闘争協会」設立の動きにおいてもラヴローフは貫いた。そのために、彼はステプニャーク・クラフチンスキイらの「Free Russia」の組織とも袂をわかち、ロシア国内の自由主義に傾斜する新たな「人民の意志」派の動きにも警告を発した。それが「旧派人民の意志グループ」結成につながる。この派の社会主義への直接的移行の革命論は後にボリシェヴィキによって実現されることとなる。
 さらに、「人民の意志」党の崩壊の過程で、トルストイの非暴力主義思想が登場してくると、ラヴローフはそのトルストイを批判する論陣をはった。青年時代のラヴローフであればトルストイ主義の「空」の意識と共通する思考様式をもっていたけれども、「人民の意志報知」の編集部にいたラヴローフは、非暴力を唱えるトルストイ主義をロシア帝政との直接的闘争の妨げとみなした。
 最後の章で、ラヴローフの晩年と死を紹介した。彼はパリ市内のモンパルナスの墓地に葬られた。彼の墓はパリコンミュン戦士追悼の慰霊塔の下にある。この事実も筆者が直接訪れて感銘をおぼえたがゆえに、書き記した。ラヴローフの墓と慰霊塔の間に植木があったため今までの研究者(イテンベルグ氏など)も気づかなかったのである。ラヴローフがあくまで社会主義への直接的移行にこだわったのも、パリコンミュンの悲惨な弾圧を体験したためであろう。ヴァルランらのコンミュン戦士を虐殺したフランスブルジョワ社会をラヴローフは許容することができなかった。ラヴローフのコンミュン体験は彼の書物を通じて一九一七年の十月革命においてボリシェヴィキによって重視された。
 ラヴローフの死後、ナロードニキの後継者と称する「社会主義者=革命家」党(別名エスエル党)は彼を自党の理論的支柱の一人とみなした。しかしながら、ラヴローフの道徳的な革命思想や倫理的社会主義が忠実に受け継がれたのではけっしてない。また革命直後の一時期を除いてソ連時代においてラヴローフの思想およびナロードニキ主義は長い間否定的評価を受けていた。再評価されたのは六十年代から七十年代までのわずかな期間である。ペレストロイカ以後ソ連崩壊を経て今日に至るまでラヴローフはまたも注目を浴びなくなった。通りの名前も消えた。
 本書ではラヴローフの思想と生涯を書き記すことによって、その風化を少しでもおしとどめようとした。記述のさいに、今までのロシア思想の分析の視点に出来る限りとらわれないように配慮した。すなわち、西欧派とスラブ派の対立、ナロードニキ主義とマルクシズムの対立、中央集権とアナーキズム、プロレタリアートと農民、などの図式はできるだけ避けて、ロシア文学で注目される「ニヒリズム」、「空虚」、「余計者」などの用語を適用してみた。そのことによって、ロシア思想と革命運動への十九世紀ロシア文学への影響を指摘した。ラヴローフは同時代の多くの思想家たちとの論争過程で自己の世界観を形成していったために、その論争をたどることによっておのずとロシア思想史の発展を紹介することにつながった。
 本書では多数の未公刊史料を使用した。これは1980-81年のソ連科学アカデミイソ連邦史研究所でイテンベルグ教授の指導を受けた成果である。ロシア、ソ連でも未発表のラヴローフ文書をその時に筆写することができた。しかしアーカイヴの手稿を利用したために、新事実の紹介もできたが、私の気づかない誤読も多々あったと思う。誤読や誤解の部分は後世の研究によって正されることを期待したい。

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