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博士論文要旨

論文題目:アッラーのヨーロッパ ― 移民とイスラム復興 ―
著者:内藤 正典 (NAITO, Masanori)
博士号取得年月日:1997年10月8日

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構成

序章 統合ヨーロッパの光と影

第・部 「文明の衝突」と移民のイスラム復興
 第1章 共存の争点としてのイスラム復興
 第2章 政教分離国家トルコのイスラム復興

第・部 何がイスラムの覚醒をもたらしたのか
 第3章 「民族」が共存を阻むドイツ
 第4章 フランスのムスリムか、フランス的ムスリムか
 第5章 多文化共生と見えざる差別・オランダ

第・部 アッラーのヨーロッパ
 第6章 イスラム復興に」何を託すのか
 第7章 信教の自由か、イスラム国家の樹立か
 第8章 イスラム復興をめぐる争点
 第9章 統合と多極の移民社会

終章 クルド亡命議会


 本論文は、西ヨーロッパ諸国に定住するトルコ系移民のあいだに興隆しつつあるイスラム復興運動の実態と背景をなす諸要因を多角的な視座から論じたものである。従来、世代の交代とともにホスト社会への同化が進行すると考えられてきた移民の社会において、1980年代以降、なぜ、急速にモスクの数が増え、多様なイスラム組織が成長してきたのか。本研究の端緒となったのは、移民後30年以上を経た現在、彼らの民族的、文化的アイデンティティがいかなる変容を遂げつつあるのかを分析するために著者が行ってきた現地調査であった。

 ドイツにおける先行研究の多くが、そして移民のドイツ社会への統合を促進する目的で活動をしている多くの移民支援組織が指摘してきたのは、トルコ系移民第二世代、第三世代の「アイデンティティの危機」であった。しかしながら、移民の若者たちが、ドイツ社会への統合も進まず、母国トルコの文化をも喪失しつつあるという「アイデンティティの危機」論は、移民をめぐる一つの言説としては成立するものの、自ら「アイデンティティの危機」にあることを言明する人間は、ほとんど存在しない。

 実態は、移民を受け入れたヨーロッパ諸国の側も、また、移民のホスト社会への統合を促進しようとする諸組織の側にとっても予期せざる方向、あるいは望まざる方向へと進みつつあった。即ち、イスラム復興運動に参加することによって主体的に自らのアイデンティティを確立しようとする人々が増加するという現象である。

 従来、通説としては、高齢化しつつある移民第一世代が、イスラムへの回帰を志向することが指摘されてきた。しかし、彼らは「イスラム的倫理」と信じるところの社会的規範から逸脱しないという意味において宗教的に保守的であるにしても、社会変革を志向する活力を備えたイスラム復興運動を担っていく存在ではない。むしろ、定住先のヨーロッパで高等教育を受け、イスラムを学知として修得し、ベルリン、ケルン、アムステルダム、パリといったヨーロッパ諸都市を舞台に組織されてきたイスラム復興組織に参加する若い移民たちこそ、今日、世界各地域において生起するイスラム復興運動に通底する政治・社会変革の志向を備えた活動家なのである。

 彼らは、なぜ定住先のヨーロッパにおいてムスリムとして覚醒し、イスラム復興運動に参加するに至ったのであろうか。本論文の問題提起はこの点から出発している。トルコ系移民がイスラム復興運動に参加していく過程を分析するにあたって、筆者が本論文で提示した視角は以下の通りである。第一に、中世以来の古い伝統をもち、冷戦後の西欧世界において強化されつつあるイスラム脅威論と、それに対するムスリムの反応である。第二に、彼らの母国トルコ共和国における国家イデオロギーとしてのライクリッキ(laiklik)原則とイスラム復興主義との相克である。第三に、ドイツ、オランダ、フランスの三国を例に取り、これらの国々の国家を構成する基本原理の、何が、いかにして、移民たちにムスリムとしての覚醒を促す契機-換言すればムスリムとの共生をめぐる争点-となったのか。そして最後に、上述の三つの視角とは逆に、移民社会内部において、イスラム復興運動への傾斜を抑止しうる要因の存在を分析の視角とすることによって、イスラム復興運動が移民社会におけるアイデンティティ確立の主要な潮流足りうるか否かを検討することとした。

 第1章では、世界的な潮流としてのイスラム復興運動の実態とその要因を考察した。特に、サミュエル・ハンチントンに代表される「文明の衝突」の言説が、予め措定された西欧世界との衝突から遡及しつつ、イスラム復興主義を包括的に「原理主義」として規定することの問題性を明らかにした。ヨーロッパ社会に生きるムスリム移民にとって、この種の言説は彼らを疎外する要因となっている。「反民主的にして人権抑圧を是認するイスラム」の信徒であるがゆえに疎外され、差別されることは、これまで反ラシスムの運動を担ってきた人権運動団体からも見過ごされるばかりか、人権擁護団体ほど、反イスラム的な言辞によってムスリム移民を疎外する主体となりうるのである。

 第2章では、母国トルコ共和国におけるライクリッキ(政教分離)原則が、本来の理念から乖離し、国家による宗教管理(官製のイスラム)を容認しつつ、信教・表現の自由に著しい制約を加えてきた過程を分析し、そのことが建国後70年をへた今日もなお、イスラム復興主義と共和国の国家原理との間に深刻な対立をもたらしていることを明らかにした。1980年の軍部による政権掌握の後、宗務庁が、国家公務員たる宗務官をイマームとしてヨーロッパ各国に派遣し、移民社会の内部に「官製のイスラム」の装置である「宗務庁トルコ・イスラム連合(DITIB)」を設置したことは、母国トルコにおけるライクリッキ擁護派と否定派の対立を移民社会に顕在化させる契機となった。この間の経緯を分析することによって、トルコ共和国による宗教管理が、ライクリッキ原則による規制を受けないヨーロッパ諸国の移民ムスリムに独自のイスラム復興組織の形成を促す結果となっていく過程を明らかにした。

 続く第・部では、トルコ系移民が定住した三つの国、ドイツ、フランス、オランダを取り上げ、これらの国を構成する基本的原理が投影された社会制度の、何が移民たちにイスラム復興を促す契機となったのかを論じている。第3章では、トルコ系移民が最大の人口規模をもつドイツを例に検討した。ドイツでは、外国人法(Auslandergesetz)が、基本法(憲法)に加えて移民の処遇を規定する形式をとっており、このことが外国人政策(Auslanderpolitik)の基本的性格を成している。従来、移民側は、外国人法における各種の規定を争点とし、ドイツ政府が「統合」の必要性を説きつつ「同化」を求めるものとして批判してきた。しかし、91年に新外国人法が施行され、第二世代以降の若者に対する帰化要件が変更されると、トルコ国籍の離脱が要件となる点ー換言すれば二重国籍の忌避-が新たな争点となった。このことに焦点を当て、基本法上およびライヒ籍・帝国国籍法に基づく血統主義的な国民概念が、結果的に移民を疎外していることをドイツの各政党の見解、ライクリッキを掲げる移民組織、各種のイスラム復興組織等の見解をふまえつつ論証した。 第4章では、ドイツとは対照的に出自を問わない国民概念を取るフランスを例に取り上げた。フランスでは、定住後もなお移民を集団的に国民から峻別する制度は存在しない。しかし、フランスの場合、移民の母国トルコ共和国と同様、ライシテ(政教分離)原則を取っていることが、ムスリム移民による信教・表現の自由の要求と衝突することになった。さらにその際、移民を「個人」として統合するというフランス共和国の政策が、移民がムスリムとして覚醒した場合-即ちイスラム共同体の構成員として自覚するに至った場合-には意味を失っていることを、イスラム復興組織、フランス側の移民支援組織、フランスの各政党の見解を基に明らかにした。

 第5章では、多極共存型民主主義を掲げるオランダを例に、移民によるムスリムとしての覚醒の契機を考察した。オランダの場合には、ドイツやフランスとは異なり、出自の民族や信仰・信条によって、ネイティブのオランダ国民から隔てられる制度は存在しない。したがって、通常移民問題で争点とされるような排外主義の問題は、現在のところ顕在化せず、移民の社会統合が最も進んでいる例に挙げられてきた。しかし、そのオランダにおいては、個人の意志に公権力が介入しないがゆえに、結果として移民がホスト社会から隔離されるという現象が発生する。同時に、人権擁護に積極的な政策をとるオランダでは、イスラムを人権抑圧的な宗教とみなす見解が支配的となる。オランダの人権政策は、一方で移民マイノリティの権利擁護を実現しつつ、他方では、彼らの信仰への文化的差別を容認する結果をもたらしていることを、各種のイスラム復興組織、オランダの諸政党などの見解をもとに論じた。

 第・部では、トルコ系移民による各種のイスラム復興組織に焦点を当て、ムスリムとしての覚醒を経た移民たちをいかにして組織化し、いかなる運動を展開し、究極の目標として何を志向しているのかを明らかにした。第6章では、移民社会におけるイスラム復興運動の多様性を、主体となる各組織の性格をもとに論じている。そこでは、トルコ共和国政府による官製のイスラム組織である『宗務庁トルコ・イスラム連合(DITIB)』、トルコの福祉党の支持基盤であり、かつ共和国のライクリッキ原則に反対する『ヨーロッパ・イスラム共同体の視座(AMGT)』、暴力によってトルコ共和国の体制を打倒し、イスラム体制の樹立を図るカプランジュ、特定の宗教指導者の教説に従う閉鎖的な集団を取り上げたが、なかでも最大の勢力をもつ『宗務庁トルコ・イスラム連合(DITIB)』と『ヨーロッパ・イスラム共同体の視座(AMGT)』の競合関係を中心に議論を展開した。第7章では、汎イスラム主義的なイスラム復興運動を展開しようとしているAMGTに焦点をあて、移民たちがヨーロッパにおいてムスリムとしての覚醒を経験する要因、母国トルコの体制に対する彼らの見解などを、イマーム(宗教指導者)の見解を訳出することによって提示した。その上で第8章において、トルコ人あるいはトルコ国民という民族的・国民的帰属を超越したイスラム復興運動を展開するうえでの障壁とは何であるのかを明らかにし、第3章から第5章にかけて分析した定住先の国ごとの争点を総括した。ここでも多様なイスラム復興組織のなかで最も汎イスラム的性格を強調しているAMGTに焦点をあてて検討した。その結果、彼らの復興運動は、基本的にホスト社会を成すヨーロッパ諸国と母国トルコという二つのベクトルを視野に入れて実践されていることが明らかとなった。AMGTは、一方では、トルコ共和国のEU加盟を抑止するためにトルコを人権抑圧国家と規定してきたヨーロッパ諸国によって保護されてきた。共和国がライクリッキ原則を堅持しているために、自由な宗教活動が制約されてきたことが、ここでは庇護の理由とされたのである。しかし他方では、先に述べたように、ホスト社会からのイスラムに対する批判と制度的差別にさらされている。トルコ共和国政府との関係についても、一方ではライクリッキ原則を容認しないがゆえに反体制的な運動として拒否されながら、他方では、トルコ国内におけるイスラム政党(福祉党)の台頭によって、AMGT自身が体制派となる可能性をもつというアンヴィヴァレントな状況におかれている。筆者は、移民自身の手によって発展してきたこのイスラム復興組織が、ホスト社会内部におけるアンヴィヴァレントな状況と母国との関係におけるアンヴィヴァレントをたくみに利用することによって移民を糾合してきたことを解明した。この作業を通じて本論文は、国家を超越するイスラム共同体の創出を掲げるイスラム復興運動が、現存する諸国家体制のなかで、何を主張し、何を実現していくかという現実的な課題に答えていくプロセスを明らかにしたのである。第8章までが、移民社会におけるイスラム復興運動の様態を明らかにするという本論文の問題提起への答えとなっているのだが、第9章では、イスラム復興運動の台頭に対して、トルコの国家的民族主義を掲げる組織およびホスト社会への統合を志向する組織が、いかなる反応を示したのかをベルリン市を例に具体的に検証する作業を行った。この作業を通じて、イスラム復興運動への参加以外に、トルコ人たちが移民としていかなる集団的アイデンティティを模索しうるのかを検討した。

 さらに終章では、筆者による将来の研究への展望として、母国における「民族問題」の存在が、イスラム復興運動にいかなる試練となるのかを検討した。ここでは1995年にオランダで開催された「クルド亡命議会」という一つの事件が、瞬時に移民社会を分裂させたことを明らかにすることによって、移民のイスラム復興運動が、実態としては出自の「民族」や「国民」を超克し得ていないことを指摘した。ヨーロッパ諸国を構成する諸原理とトルコ共和国を構成する諸原理との相克こそが移民のイスラム復興運動にとって極めて本質的な課題となっていることを提示したのである。

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