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博士論文要旨

論文題目:民族の語りの文法:中国青海省河南モンゴル族自治県における日常生活・牧地紛争・教育運動に関する民族誌的研究
著者:シンジルト (Shinjilt)
博士号取得年月日:2002年7月31日

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1. 論文の構成
 序論
 第1章 課題と方法
 第2章 河南蒙旗の歴史と社会
 第3章 日常生活における民族の語り
 第4章 牧地紛争における民族の語り
 第5章 教育運動における民族の語り
 第6章 結論――民族の語りの文法
2. 本論文の目的
 序論においては本論文の目的を述べる。
 中国は多民族国家であり、その民族を語る人が多い。中国国内において、おおかた国家主導のもとで体制や秩序の維持や安定のため為政者と学者が民族を語り合ってきた。一方中国国外においては、多くの人々とりわけ国家に対して反感を抱く学者たちが少数民族へ関心を寄せ、少数民族を近代国家への抵抗のシンボルとして賛美的に語ってきた。両者の語りは思惑や方向の違いこそあれ、同一基準(民族識別による公定基準)で民族を語ってきたことに変わりはない。これらを総じて「権威的語り」と呼んでおく。他方、語られてきた少数民族側はと言えば事情はやや複雑である。少数民族の中でも、学者や官僚そしてナショナリスト的なポジションにある人たちは民族の代弁者と自認しながらも、権威的語りの基準に則って民族を語るケースが多い。では、そうではない実際に少数民族を生きる人々はどうなのか。彼らは自ら背負う「少数」や「民族」の現状に無関心ではなく、何らかの形でそれに言及している。なかには権威的語りにはめられ公定少数民族像を演出する者もいれば、そうではない者もいる。複雑ではあるが、彼らにとってそれは「矛盾」ではない。彼らも同時代の人間として、身のまわりの既存秩序を時には遵守し、時には違反する必要があるからである。これを、彼らの「自家製語り」と言っておく。彼らにとってはそれが主体的なものでもあり、その限り彼らは「少数」でもなければ「民族」でもない「普通」の「人間」である。したがって、常に「少数民族」と名づけながら彼らの事象を考察しようとすれば、彼らの現状や心情を見逃すことになる。そうではなく、微視的な接近法で少数民族の社会的現実問題に注目すれば、従来の少数民族研究に現れてこなかったいくつかの景観をみることができる。その社会的現実問題とは、どのような社会の誰でも一度は経験しうる日常的な出来事や、隣人同士の摩擦や衝突、そしてそれらに対する人々の判断や行動である。その中でみられる景観とは、個々の人間の様々な行動様式や人々自らがその行動に付与する意味である。これらの問題の原点はいくつかのコンテクストの中で展開される人間同士のやり取りと、それに関する人々の解釈および語りに求められる。以上を踏まえて筆者は現代中国における民族のあり方を考察するひとつの手がかりとして人々の語りに注目したい。具体的には、日常生活、土地紛争、教育運動における人々の語りを通じて青海省黄南チベット族自治州河南モンゴル族自治県における民族的自己認識の動態を民族誌的に描くことを本論文の目的とする。
3. 各章の要約
 本論文は、「少数民族とされる個々人の日常経験」、「異なる少数民族同士の相互作用」、「同一少数民族内部での相互作用」の3つの問題に特に注目し、6章によって構成される。
 第1章では、広い意味で本研究に関連する理論的、地域的な先行研究をレビューする。第1章第1節では、主に「民族」学(人類学)分野における既存の「民族」に纏わる理論的な蓄積を鑑みる。アカデミックな民族研究への影響という点では、人類学者フレデリック・バルトが出発点となる。彼は、民族の文化的諸指標が常に変化するにもかかわらず、民族という社会集団が存在し続けるという、民族の持続的メカニズムを解明するために、境界や主観的帰属意識を概念の中心にすえる立場を提唱した。その後、バルトの境界論をめぐる議論の再展開として登場してきたのが、クリフォード・ギアーツに代表される原初論者と、エイプナー・コーエンに代表される道具論者である。人間は血縁や親近感に基づく原初的紐帯とも呼ぶべき非合理的な感情によって特定の民族に属するというのが前者の立場である。それとは反対に、民族は状況に応じて意図的に操作される道具であるとするのが後者の立場である。1980年代以降、エリック・ホブズボウムとベネディクト・アンダーソンに代表される近代主義者たちの発明的アプローチが大きく注目されてきた。このアプローチには、民族や国民を含む共同体の過去との繋がりを分断し、それをあくまでも近代の発明品として相対化することによって、その任意性、可変性といった一側面を把握することが可能になったという画期的な意味がある。しかし、このような観点に対する反対論者も存在する。アントニー・スミスは、主にナショナリズムの理解をめぐって、近代のネーション形成には前近代的な「エトニー」の存在が欠かせないと主張し、それを永続的な「核」として位置づけている。
 このように、民族をどう規定するかについては統一した定義や見解がないものの、現在人類学分野において優勢なのは道具論的アプローチと発明的アプローチである。これらの立場をとる研究者の中には、とりわけアンダーソンの「想像」理論を「想像イコール非現実」ととらえる者が多い。筆者は、「想像性」の発見を、現実の形成に積極的に関わっている要素の発見として認めるが、社会科学者の使命は、その「想像性」の発見だけにとどまらず、むしろこれらのタームに纏わる人間の想像力が現実的なものの成立といかに関わっているかを解明することにあると考える。このような理論的関心のもとで本論文が目指すのは、「民族とは何か」を解明することでも、「民族は想像か現実か」の議論の中で自らの立場を表明することでもない。ここでは、まず、民族およびそれに関連する諸カテゴリーがどのような状況の下で人々に語られているかを記述し、次に、それらの語りのコンテクストを分析することで、語りのパターンと「文法」を提示し、ひとつのモンゴルコミュニティにおける民族の動態を明らかにしたい。したがって、本論文は既存の一連の理論的な枠組みの中で議論を展開するよりは、むしろこれらの理論をあくまでも民族をめぐる研究者たちの言説(語り)として相対化し、これを対象地域の人たちの言説(語り)と対等な土台に位置づけたい。
 第1章第2節では、地域研究分野における「モンゴル」に関する学問的な語りやその研究姿勢について検討する。学術世界においてこれまでモンゴルについての語りは均質的であり、その語彙も豊富ではなかった。日本のみならず国際的にも、モンゴル研究は総じて、チンギス・ハーンや蒙古帝国の歴史的栄光ないしは大草原の遊牧民という本質化したモンゴル人イメージに準拠してきた。非ネイティブおよびネイティブ研究者の共同作業で築かれたこれらの研究傾向は、国家の暴虐に対する民族の抵抗を賛美する文脈、あるいは純粋学問的な「異文化理解」を求める文脈においては有効であるかもしれない。しかし、それのみでは現代モンゴルのイメージを安易に固定化することになる。実際、それらの言説が生み出した「鋳型」に合わない「変則」モンゴル人のほうが多い。近年、今日的なモンゴル社会の「多様化」に重きをおき、社会学、統計学、言語学などの手法で、農耕化や都市化に伴う文化変化(culture change)問題などを取り扱う研究が展開されはじめている。だが、これらの研究において、少数民族であるモンゴル人は、あくまでも受身的・従属的な存在として描かれがちであり、結果的に研究者の分析のみが先走り、被研究者の論理をブロックしてしまう傾向がしばしばみられる。いうまでもなく、為政者やナショナリストあるいは研究者にとって当たり前の理念的なモンゴルモデルがあると同時に、モンゴル人生活者が日々の営みの中で語る実践的なモンゴルモデルも存在するはずである。にもかかわらず、後者はほとんど等閑視されてきたと言ってよかろう。
 本論文が対象とする地域は、国家側の行政区分上では「青海省」に位置し、チベット側の視点からは「アムド」、モンゴル側の視点からは「デード・モンゴル」と呼ばれる地域にあたる。青海省内のモンゴル人居住地域は海西モンゴル族・チベット族自治州、海北チベット族自治州と河南モンゴル族自治県の3か所に区分できる。とりわけ、アムド・チベット地域のほぼ真中に位置する河南モンゴル族自治県(以下「河南蒙旗」と略す)は、言語、服装、生活習慣などの面でチベット族の影響を深く受けている。幾重もの意味で地政学的・学問的な「周縁」にあたり、河南蒙旗に関する本格的な民族誌的研究は極めて乏しい。
 なお、本研究の基礎となった資料は、1995年から2000年にかけて延べ14か月の現地調査によって得られたものである。

 第2章では、以下の民族誌的記述に背景的な知識を与えるために、河南蒙旗の歴史的社会的事情を紹介する。
 17世紀、ゲルク派の軍事援助の要請を受けモンゴル・ホショド部は、チベット地域に進軍しチベット各部落を統一した。その後、ホショド部の一派は黄河以南の地域に移り住み、現在の河南蒙旗モンゴル族の開祖となった。1723年2月に清朝皇帝の信頼を得た河南蒙旗の首領ツァハンダンジンは青海モンゴルで2人目の親王となった。黄河南部に移った当初から、河南蒙旗の上層は統治の安定をはかり、1711年に、アムド地域では最大の規模を誇るラブラン寺を建立した。当寺は、ゲルグ派の他のチベット仏教寺院にはみられないいくつかの特徴を有する。それらの特徴はとりわけ、寺院において河南親王を尊敬する旨を厳しく定めた寺院の規定に現れている。また、河南蒙旗は言語や社会的な側面でも独自の選択を行い、チベット語の学習や、寺院への出家が奨励され、河南蒙旗貴族とチベット人の宗教的上層階級との通婚も盛んに行われた。20世紀に入ると、河南蒙旗の政治的軍事的な影響力が衰弱し、ラブラン寺そして河南蒙旗四旗のひとつラジャ旗が行政的に河南蒙旗と分断された。1954年に河南蒙旗が新中国に編入されてから最初の5年間は青海省の直轄県として扱われていたが、1959年からは黄南チベット族自治州の委託管理下に入った。現在、河南蒙旗は6つの郷と1つの町によって構成されている。モンゴル族が総人口の91%を占めるが、日常言語として主にチベット語を用いている。

 第3章から第5章までは本論文の中核となる民族誌的な部分である。第3章では、主に個人の経験に注目し、人々が日常生活においてなぜ、どのように、民族を語っているのかを分析することで、その語りのコンテクストとパターンを明らかにする。
 まず、河南蒙旗の民族史的な変遷に鑑みて、ここで対象とする範囲を次の3種類の人々に絞る。1、モンゴル族に民族別を変更したニンムタ郷の住民。2、旧河南蒙旗の一部で、公的な統計によりチベット族と分類された自治県外のラジャ郷の住民。3、上記の1と2を除く河南蒙旗の住民(以下「五郷」と略す)。それから、本論文のキーワードとなる「ソッゴ」(「モンゴル」を意味するアムド・チベット口語)を説明する。ソッゴは多種多様にイメージされた包括的で柔軟なカテゴリーであるため、分析を明晰に進めるためにここで、チベット側による他称としてのソッゴを「ソッゴT」と、河南蒙旗の自称としてのソッゴを「ソッゴH」と、国家による民族識別の枠組みにおける蒙古族を指す意味でのソッゴを「ソッゴC」と、他の地域のモンゴル族を指す意味でのソッゴを「ソッゴM」と類型化する。そして、「日常生活」の場として主に地域社会(生活圏)内部と外部の2つを想定する。
 河南蒙旗社会内部においては、「ソッゴH的なもの」が一種の線引きの基準となり、それらの「もの」を全てカバーしているという前提で、五郷の人々はある特定の下位集団が本物のソッゴHかどうかを判断する。その基準に基づく限り五郷の人々からみたニンムタの人々はソッゴHではなくなる。更にそれをもってソッゴCへの帰属を疑問視する。しかし、近隣チベット族など更なる「他者」との紛争などのコンテクストにおいては、五郷の人間はニンムタの人々をソッゴだと認め、ソッゴのカテゴリーをニンムタにまで拡大する。他方、ニンムタの視点からみた場合、五郷とほぼ同様な基準でソッゴと名乗ったり名乗らなかったりする。ニンムタの幹部は、五郷と同様、ソッゴH的なものやソッゴの歴史、あるいはジャサグの人間がチベット族になった事実をもって、自らがモンゴル族となる正当性を主張する傾向がみられる。しかし、ニンムタの牧畜民の間では必ずしもそうではなく、自治県外においてはソッゴと自称したりするケースがあるものの、自治県内においてはむしろソッゴであることに否定的なケースが多く、ソッゴとしての自称を五郷に譲る傾向がみられる。
 河南蒙旗社会外部においては、河南蒙旗のソッゴHをはかる基準や眼差しを超越した「ソッゴC(モンゴル族)的なもの」が指針とされることがある。それらのソッゴC的なものの中で、河南蒙旗が「欠け」ているのはモンゴル族(ソッゴC)の言語や文字だとされる。ソッゴC的なものの持ち主と自認する外部モンゴル族(ソッゴM)がモンゴル語や文字をモンゴル文化のキーワードとして強調する以上、それを有しなかった河南蒙旗の人々は、「本物のモンゴル人」ではないと自認せざるを得なくなる。このようにして、相手と相互作用の中で、状況に応じて語りのコンテクストが変化し、カテゴリーが区画される。これに応じて諸々の文化要素がソッゴ(H、C)的なものに選択され、線引きの基準となるのである。それらのコンテクストを超えて、ソッゴに纏わる語りに一定のパターンがみられる。それは、対周囲のチベットという「他者」との関係における他者の他者化と、対「真の」ソッゴ(五郷やソッゴM)との関係における自己の他者化というパターンである。それによって、ソッゴを自称する河南蒙旗の人々の視点からみれば、周囲のチベット族との関係においては自らの認識上の他者であるチベット族を他者化すると同時に、ソッゴMとの関係においてはソッゴという自称を相手に譲ってチベットと自称し、自己を他者化することになる。

 第4章では、牧地紛争というコンテクストの中で、人々がどのように民族を語っているかを考える。
長期にわたって河南蒙旗と周囲のチベット族との間では牧地をめぐる武力紛争が続けられてきた。この牧地紛争はモンゴル族とチベット族の間でのみ存在するのではなく、チベット族同士の間でも発生している。また、紛争のきっかけも個々の地域の間における歴史的な復讐関係や経済的な利害関係などによるものが大きい。これらのいわゆる客観的な分析からすれば、チベット側が一致団結してソッゴとしての河南蒙旗に包囲網を仕掛け、計画的に攻撃を行ったということではなく、河南蒙旗に纏わる牧地紛争は民族間の紛争でもないことが確認できよう。しかしながら、人々が紛争について語る際に、あるいは紛争実践においても「ソッゴ」は非常に重要な意味をもつ。例えば、(民間や官方による)紛争調停において「ソッゴ」に対する言及がみられる。河南蒙旗の人々は宗教的権威に代表される民間仲裁者に対して信仰心を示しながら、牧地などの実益問題に絡む場合、それらの民間仲裁者の民族的立場に言及することがよくある。また、彼らは自ら所属する上位自治体も含む官方調停の公平さにも疑問を抱いており、その理由も各レベルの役人がソッゴではないからだと認識する。そして、民間や官方調停に限界を感じる河南蒙旗の人々は、国家の権威に頼り、当地域における歴史的な正当性を持ち出すが、その歴史はモンゴル族(ソッゴC)としてのものである。自らの現状を民族的な弱者(少数民族の中の少数民族)として解釈し、モンゴル族としての位置づけを最大限に強調するのである。こうした状況からは、民族というカテゴリーがいかに道具として「利益集団」に利用されているかを窺うことができる。しかし、民族の名による訴えや、連帯と団結が自らの存亡に直結するなら、民族は紛争の当事者にとっては極めてリアルなものとなる。その場合の民族はイマージニングだからこそ、人々に広く受け入れられ、力のあるものになるのである。紛争の長期化や紛争調停の公平さの問題に、民族がひとつのキーワードとして登場することは、ある意味では自然の成り行きとなる。牧地紛争におけるこれらの民族(ソッゴCやチベット族)としての主張は、対立する両側の幹部などによるところが大きい。しかし民衆の間では必ずしもモンゴル民族(ソッゴC)のために戦っているという意識はない。紛争状態の中で地域社会内部の相互支援や連帯などが強化される傾向がみられたが、そのような行動を遂行させているのはむしろソッゴHとして認識である。つまり、牧地紛争状況において人々が相互支援しているのは、ソッゴCの大義のためではなく、むしろ、歴史や現実生活の中で築いてきた身近な生活空間としての河南蒙旗のためである。ソッゴHの存続のためにはソッゴCによる保護が必要であるが、人々の間ではソッゴHを中心に語りが展開されていることを認識することは重要である。外部の人間にチベット人と混同されるほど「チベット化」が進んでいる彼らにとって、自らの生存権を脅かす切実な問題である牧地紛争は自分たちがソッゴ(H)であることを再確認させられる数少ないきっかけとなっている。五郷の相互支援のみならず、ニンムタへの支援などの事柄は、周囲との牧地紛争という状況においてソッゴHというカテゴリーが最大の拡張をもつことを示す。このことは、自己(ソッゴH)の認識上の他者(チベット族)との相対での他者の他者化という、ソッゴHの語りパターンの他者排除の側面を、その拡大の位相で反映するものである。

 第5章では、モンゴル語教育運動というコンテクストにおける民族の語りを分析する。
 河南蒙旗社会外部との接触の諸経験に基づいて、人々は、あるべきソッゴイメージをソッゴMの理想化を通じて形成し、それに自らを照らし合わせようと試みた。それが最も顕著な形で現れたのは本章で取り上げるモンゴル語教育運動の実践であった。教育運動の本格化は、認識的にソッゴHからソッゴCへの移行、行動的にソッゴMへの接近を意味する。この教育運動は、1985年にモンゴル族固有の言語文字を復活するというスローガンのもとで発足した。「外国語」に等しい「母語」モンゴル語を学習するという意味では運動目的は達成された。しかし現在、運動はモンゴル語を「自主」放棄する方向へ展開している。この結果を導いた原因は単純化できないが、運動のプロセスの中で、実践者たちの民族に対するこだわりや認識が変化したことは確かだ。変化をもたらした一要因としてソッゴMとの経験的な触れ合いがまずあげられる。ソッゴCの模範として河南蒙旗の人々が思い描いたソッゴM(内モンゴルなど)と、現地に見出したソッゴMの間にはずれがあった。そこには、定住し農耕するモンゴル人、言語や生活習慣上自分たちが周囲のチベット人と大差ないように、周囲の漢人と大差のないモンゴル人のほうがほとんどであった。河南蒙旗の人々にとってモンゴル語はモンゴル人らしさの象徴として受け入れやすい。しかしモンゴル語の導入を実践に移してみれば、河南蒙旗という生活の現場、そしてまた、現代の中国において実用性のないものであることに気づく。1996年、河南蒙旗では純モンゴル語教育は歯止めがかけられ、それに代わって、加授モンゴル語教育を河南蒙旗全域に普及させることが決定された。更に1990年代後半以降、市場経済や西部大開発の流れの中で、人々は漢語を受容し始めている。その場合の漢語とは、特定民族集団の所有物というより、現段階においては、自分らしさを再構築するために利用可能な道具のひとつとして位置づけられていると、人々の語りから理解できる。ソッゴMとの関係性の中で、展開されてきたモンゴル語教育運動における人々の語りは多様に変化してきた。河南蒙旗のモンゴル族は、模範とすべき対象を、理想化したモンゴルイメージから周囲の環境に柔軟に対応して漢化しているソッゴMに移しつつあると理解できる。つまり、ソッゴMの真正さと自らみたソッゴMの現実との間に乖離があったが、河南蒙旗の人々にとっては、ソッゴMをソッゴだと理解する他ないのである。結果的に運動は河南蒙旗を主体とするソッゴの解釈を強化するが、それはソッゴMに対する否定ではなく、むしろ他のモンゴル(ソッゴM)地域で得た経験によるものである。そのような意味において、河南蒙旗ではソッゴMを新たなモデルとしている認識が現れている。この漢化しているモデルとチベット化してきた自己と重なり合う部分が多く、それゆえソッゴのモデルとして受け入れやすかった。このコンテクストにおける、モンゴル人らしさという認識には、モンゴル人である以上モンゴル語を操るべきなどといったものが含まれる。そこでは言語が多大な意味をもたされた。河南蒙旗では人々がモンゴル語を初めとするソッゴC的なものを導入し、モンゴル的な振る舞いを学び始め、ソッゴCの標準規格に自分を合わせた。言い換えれば、ソッゴHとソッゴMのみぞを埋めようとした。だが、その動きはソッゴMへの追求のあまり、自己への否定に至る。つまり、ソッゴC的なものを導入することはソッゴH的なものの排除に繋がる。問題は、ソッゴHとソッゴMの対立か整合かにでなく、むしろ、ソッゴMの基準をもってソッゴらしさをはかろうとする認識にあった。もしソッゴH的なものがもはや自らのオリジナルでなくなるとしたら、ソッゴC的なものを模倣し、導入しなければならない。本章で扱ったモンゴル語教育運動という事例は、自己(ソッゴH)の認識上の「真の」ソッゴ(M)との対比における自己の他者化という、ソッゴHの語りパターンの自己排除の側面を、その拡大の位相で反映するものである。
4. まとめ

 終章である第6章では、河南蒙旗における民族に纏わる語り分析を統括し、本研究の意義を確認する。

 ソッゴというカテゴリーには、五郷および、河南蒙旗全体のそれぞれのカテゴリーでの自他称、そして河南蒙旗の人間のイメージするあるいは実際に出会う外部のモンゴル族、更にこれら全てを統括するモンゴル族などを指す様々なカテゴリーが含まれる。状況とコンテクストによってこれらの中から選別されるカテゴリーがソッゴの語りに登場する。語りにおいて、ソッゴは一見して多種多様な形で展開するが、状況とコンテクストに応じてカテゴリーの選別には一定のパターンが観察され、語りの文法が見出せる。
 日常生活において、河南蒙旗の人々は周囲のチベットとの自他関係において、ソッゴ(T)と他称され、ソッゴ(H)と自称し、ソッゴ(H)的なものを強調する。つまり、ソッゴ(H)というカテゴリーは抽象的なものではなく、チベットというカテゴリーとの相関関係の中で、いくつかの視覚的に弁別可能な生活要素がソッゴ(H)的なものとして強調された。それらは、ソッゴ(H)の認識において、自他の間の線引きの基準となってきたという意味で、ソッゴ(H)のエスニックマーカーとみなすことができる。この同一のエスニックマーカーは、周囲のチベットとの関係のみならず、ニンムタに対する五郷の人々が抱く自己認識のステレオタイプでも強調されている。同時に、河南蒙旗と周囲のチベット地域との牧地紛争のコンテクストにおいては、日常生活では、ニンムタを「他者」視していた五郷の人々も、ソッゴ(H)のカテゴリーをニンムタまで拡大した。ソッゴ(H)の境界は、一方で河南蒙旗内部での五郷のニンムタに対する他者化、他方でニンムタを含む河南蒙旗全体のチベットに対する他者化を両極として、状況に応じて揺れ動くことになる。しかし、これはソッゴ(H)の境界付けのひとつのメカニズムに過ぎない。
 河南蒙旗の人間が国家によって蒙古族と名づけられ、公定民族のカテゴリーに包括された。河南蒙旗の人々はそれを自称と同じ「ソッゴ」という語で表現する(ソッゴC)。その表現は河南蒙旗社会内部に限定すれば問題はないが、外部においては公定のソッゴ(C)に所属する他地域のソッゴ(M)との乖離を、河南蒙旗の人々は実感する。彼ら特にエリートが接した外部のソッゴ(M)とりわけエリートソッゴ(M)は、彼らに、彼らにはソッゴ(C)の資格において欠けているものがあることを実感させた。その場合、河南蒙旗の視点からみれば、ソッゴ(C)的なものは、河南蒙旗以外のソッゴたち(ソッゴM)がもつものに依拠している。その状況において、モンゴル語を喋る人々(ソッゴM)は、「本当」のモンゴル人としてその「真正さ」を強調する。河南蒙旗の人々も、ソッゴMをソッゴの中心とみなす。ソッゴHとソッゴMの対置において、河南蒙旗の人々の民族の語りが流動的になる。相手の認識に合わせて、チベット人と自称したり、妥協的な姿勢を示したりする。このようにして、自称(ソッゴ)を相手に譲り、自己を他者化(チベットと自称)するアンビバレンスは、ソッゴMとの関係において、河南蒙旗の人々がソッゴMをソッゴの中核としてみなし、その視点から自己を位置づけるからである。この自己他者化(チベットと自称)はソッゴHの境界付けのもうひとつのメカニズムである。
 河南蒙旗の人々の民族的自己アイデンティティは、自己の一方に他者(認識に現れる他者)の他者(非ソッゴHとりわけチベット)化があり、他方には、自己の他者(チベット)化が配置される形で成り立っている。これはソッゴの語りにみられる共通のパターンである。このパターンはとりわけ牧地紛争と教育運動の中で明らかにされた。牧地紛争という状況においては、最終的な調停や解決をめぐるエリートたちの語りに、民族(ソッゴC)というカテゴリーが有力なものとして登場してきた。しかし、牧地紛争の過程で、それとは異なる形で展開されてきたものがある。それは、牧地をめぐる周囲との利益関係というコンテクストにおいては、ソッゴ(H)の中心である五郷同士の相互支援が行われていた。そして日常生活では、ニンムタをソッゴから排除する五郷のステレオタイプがあるものの、ニンムタと周囲のチベットとの牧地紛争関係というコンテクストにおいては、五郷がニンムタを支援した。これらのことは、牧地紛争はアイデンティティのパターンの一方の側面(他者の他者化の境界)が、他者との関係の状況によって可動的であることを例示する。アイデンティティのもうひとつの側面、つまり自己他者化の側面は、教育運動の全過程における語りから示された。様々なソッゴC的なものの導入はもとより、モンゴル語教育運動の発足自体もソッゴMをソッゴCの価値的中心として認識したことに由来した。そして、教育運動の停滞における人々の語りは、コンテクストによって錯綜していたものの、ソッゴMをソッゴ(C)の中心として認識することを否定しようとはしていなかった。それらの出来事は、ソッゴMの中に更に新たなソッゴモデルを見出したことに起因する。内モンゴルを初めとするソッゴMはソッゴの模範となるべき存在として教育運動に終始一貫して関わってきた。
 日常生活そして牧地紛争や教育運動におけるソッゴに纏わる一連の語りにみられるように、河南蒙旗における民族というカテゴリーは、「山型」の形で成り立っている。そして、語りにおける民族は「地域的な文法」を成している。ソッゴMと言語や生活慣習が異なるものの、河南蒙旗のソッゴの人々はソッゴMを語りの中心として扱い、その「山型」の上部には内モンゴルを初めとするソッゴMが位置づけられる。また、「山型」の中部には河南蒙旗の五郷が位置し、その下部にはニンムタ郷などが布置する。「山型」のすそ野には、「他者」としてチベット族が分布する。河南蒙旗社会外部においては、河南蒙旗の人々は、ソッゴMを含む外部の人間からソッゴと呼ばれたり呼ばれなかったりされることに対して、ソッゴと自称したりしなかったりするが、ソッゴMをソッゴとして否定しない。河南蒙旗社会内部において、ニンムタ郷の人々は、五郷にソッゴとして認められたり否認されたりすることに対して、ソッゴと自称したりしなかったりするが、五郷をソッゴとして否定しない。河南蒙旗の人々は、周囲のチベット人からソッゴと呼ばれ、そう自称し、周囲のチベット人をチベット人として否定しない。両者の違いは自他を互いにいれかえるだけであり、河南蒙旗側の語りに対して相手は応答し、その語りが成立するのである。また、語りには「文法」があると言うのは、語りそのものが個々人の恣意によって行われているわけではないからである。語りのパターンを諸集団にあてはめた場合、諸集団は一系列に配列される。配列された諸集団の間で、共通の語りのパターンに従って、相互に整合的に成立している語りの系列を、民族の語りの「文法」と理解する。ここで言う地域的な文法の「地域」は、それらのカテゴリーを生み出す語りが、河南蒙旗という空間において、その住人とその相手にとってこそ成立することを意味する。この「地域」において異なる集団が同一の文法を持ち合い、想像の噛み合いの中で、語りが展開する。語りの文法が成立し、共有されていること自体が、この地域における民族の語りの客観的リアリティを保証している。
 河南蒙旗における人々の語りを通じて本論文で考察したように、民族というカテゴリーは、一見して交渉相手との語りの中で生まれ、変わり、更なる語り合いの中で再構築されるかのようにみえる。しかし、人々の語りは流動的に展開されているものの、それには一定のパターンがみられる。自民族について想像するカテゴリーの範囲は全員に共通ではなく、相互にずれがある。しかしながら、互いに共通するパターンの中で、語る行為によって語る対象である民族が意味付けられ、民族の語りの文法を成す。この民族は、序論で提示した少数民族生活者の「自家製語り」にみられる民族である。彼らは、国家や学者による「権威的語り」ともリンクしながらも、「自家製語り」を展開し、コンテクストの中で「自在」に民族を構成する。これが河南蒙旗における民族のダイナミズムである。
 本論文の記述においてこれまで使ってきたキーワードのひとつは民族の「語り」であった。いうまでもなく、人々の「語り」を支える存在のひとつとして人々の「想像(力)」は無視できない。しかし、本論文において筆者は自らの表現として「想像」という言葉の使用をあえて避けてきた。なぜなら、「想像」イコール「非現実」だと理解する傾向が、現に研究者たちの間に存在するからである。それらの研究者は、自分で「民族は想像されたもの」というのを、民族イコール虚構、非現実と理解しておいて、当事者にとって民族はリアルであるという事実とまるで矛盾する逆説ででもあるかのように、悩んでみせる。しかし、現実と想像を対立する二項ととらえるなら、現実は人々の主観によって容易には変えることできず、逆に、想像はほしいままに行使しうることになろう。しかし数多くの経験から分かるように、現実的なものと想像的なものは対立するものではなく、現実的なものの成立において働いている想像力の作用は無視できない。そこで問題にすべきは、現実的なものを生成させる非任意的で強制的な想像力、つまり、好むと好まざるとにかかわらず現実的なものとして人々をとらえて離さない想像力なのである。民族をめぐる想像力はまさにそうした想像力である。その産物は想像的なものではなく現実的なものとしてしか意識されえないし、また個人によって自由に作ったりキャンセルしたりできるものではありえない。本論文において表現として「想像」という用語の使用を避けてきたものの、「想像性」の発見が現実の形成に積極的に関わっている要素の発見としての意味を無視し、一方的に民族の「現実性」を強調する意図はない。むしろここで強調したいのは、もし人類学的なアプローチで民族を研究することがまだ可能であれば、民族生活者の抱く民族のイメージそしてそれらによって形成されうる様々な地域文法を解明することが研究する者の責務である、ということである。ただし、「想像」をめぐる議論は必ずしも本論文の議論と直接に連動していない側面もあり、今後のひとつ課題として追求していきたい。
 本論文ではソッゴを自称する人たちの事象を描くことで、「大モンゴル世界」の多様化や変容する姿を改めて実証的に論じようとしたわけでも、「純粋な」モンゴル人の存在を否定しようとしたわけでもない。これら「純粋」(「不純」)、「変容」(「不変」)などといった表現も含めて、モンゴル人像あるいはモンゴル人というカテゴリーがどのように生成してきたかを考察してきた。これまで議論の素材としてきた人々の語りは、人々が経験する様々な出来事の一側面を反映するものに過ぎず、本論文で取り上げた出来事が河南蒙旗社会全てを表象するものだと主張するつもりはない。また、ひとつの理論を用いて本論文で提示してきた複雑な状況を論じつくし、データの体系化を第一義視しているわけでもない。筆者は自ら観察した民族の現象を「民族誌的な情報」として読者に提供しようとしてきた。そこで、少数民族とされるモンゴル人に関して、民族誌的研究に対する貢献があるとすれば、それは筆者が意識的に行った調査地の選択と関連する。河南蒙旗のような「風変わり」なモンゴルコミュニティは、モンゴルという名のもとで構築されてきた「真正たる」モンゴルイメージには噛み合わない存在であるがゆえに無視してもよい存在ではない。「疎外」されたら彼らの実状を認識することなしには、現代のモンゴル人(族)を理解することはできない。モンゴルの「純粋な」文化、栄光ある過去にのみ学術的価値を求める外国人研究者や、モンゴル人ネイティブたちの、懐古趣味的な、学問上の戦略的本質主義的な姿勢のもとで創作された作品に、モンゴル人読者はもとより海外の成熟した読者も食傷気味になっている。この望ましくない知的状況を、モンゴル(人、族)の周辺的な立場から打開したいと願う。

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