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博士論文要旨

論文題目:養生思想と教育的学校保健の成立
著者:鄭 松安 (ZHENG, Song An)
博士号取得年月日:2001年7月26日

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 日本の学校保健は世界でも類のない特徴を持った学校文化である。その特徴とは極めて教育的な性格を有することにある。この教育性は、明治から現在に至るまでどの時代にあっても強調されてきた。教育的な日本の学校保健がどのように成立したのかを解明することが、本研究の課題である。

 日本的な学校保健の成立について、先行研究では、富国強兵という国家目的を達成するために、軍事力・労働力の確保が強く意図され、学校の外部から医学的に関与するという形をとって設置されたのが学校衛生であるという見方が一般的である。しかし、これは制度史研究の成果であって、しかも、学校保健を西洋から導入された衛生のみに絞って捉えているところに不十分さが残る。こうした先行研究から得られる知見では、教育的な学校保健の起源を解明することはできない。

 このような先行研究の現状とも関連して、日本的な学校保健に対する認識の現在の主流は、学校保健は学校の福祉的な機能や管理することにあるとされ、その教育的な性格が正確に認識されているとは言えない状況にある。そのため、学校保健の学校教育における位置と役割を巡っては歴史的に繰り返し論争がなされてきた。学校教育の学校保健に対する議論も、学校保健を医療衛生として捉え、近代的分業の発想に基づいて学校保健を教育の一環とはみなさず、学校が担うべきことではないとさえされることもある。

 筆者は、制度的な学校衛生の先行研究の限界を越えるために、多くの史料を検討した結果、日本の学校保健の教育的な性格を解明するには、衛生が移入される以前から存在した日本的な養生にまで遡って考察し、当時の学校現場の保健活動のあり方に重点を置いて研究する必要があると考えた。

 多くの史料をひも解くなかで、近代日本の学校現場の保健活動は西洋的な学校衛生の他にも無視できない営為があることを見いだした。それはとりわけ次のような三分野に集中して現れている。(1)学校における貝原益軒の養生思想、(2)明治期に本格的な西洋化の中で導入された西洋衛生・医学に基づいて導入された学校衛生、(3)学校現場における日常的保健活動。本論はこの三分野から、課題を解くかたちをとっている。

 本論の検討を通して得た結論は、学校保健の教育性は貝原益軒の儒教的な養生思想に由来するものであり、気の一元的思想のもとで、養生の包括的で有機的な関係論的性格と教育的性格をベースに、西洋的衛生を取り入れることによって形成されたものである、というものであった。以下では、この結論にたどり着いた論証過程を振り返っておきたい。

第一部

 第一部では、近代日本の学校にみられる養生の殆どが貝原益軒の養生思想に起源をもつことを明らかにした。学校の様々な場面に現れた養生を理解するために、先ず、貝原益軒の『養生訓』をはじめとした彼の諸著作から彼の養生論を思想的に解明し、これと「人となる」こととの関係を明らかにした。この関係を理解するために、さらに朱子学にまで遡って検討した。後に、修身教科に直接引用された貝原益軒の養生思想を突き止め、近代日本の学校に導入された養生を検討した。その結果、以下のことが明らかになった。

気の養生思想

 貝原益軒の養生思想とは、気の思想をもとにした生命保護の思想である。気の宇宙観・生命観にあっては、気は人間を含んだ宇宙のすべてを構成する物質的な根源である。

 人のからだは気でできた「器」であり、この「器」の中でめぐり動く気が生命力・活動力の根源である。「器」のなかに流れる気は生命そのものである。したがって養生する対象は、気でできたからだではなく、体内で巡り動く生命力・活動力の根源である気なである。養生の「生」とは生命、すなわち、生命力・活動力の根源であるからだの気を意味する。このように、養生が対象にするのは解剖学的な意味での身体ではなく、言うなれば生命のエネルギーのような気である。

 人の寿命は生まれた時に受けた気の厚薄や清濁などの差で決められている。人の寿命やからだの強弱、生死病老なども気で決まる。人間の肉体は気が凝集すれば生まれ、気が離散すれば死ぬ。つまり、人の生死は気の凝集と離散の状態によって決定される。病気とは気を病むことである。体内の気の循環が乱れることと気が減ることによって引き起こされるのが病気である。

 養生は、気の人間観に基づいて気の運動原理に遵ってできた元気保護方法であると言い換えることもできる。このため、養生とは、気を減らさないことと気を循環させることを目的とし、気の循環原理に従って行動することを説く。

 では、人の体内の気を減らしたり、その循環に影響を及ぼすものは何かといえば、人欲と外邪がその主たる要因とされている。人の情欲は気の循環を乱し減らす要因であるとされる。一方、外邪とは風・寒・暑・湿という気と関係する環境である。外邪とは生命の根源的な物質である気に対応した気の環境である。外邪を防ぐ方法は畏れて早くしりぞき、あるいは人欲を慎んで内気を強くすることである。そうすると結局、養生は人の情欲を制することに収斂してくることになっている。だが人欲を制するということは禁欲するということだけを意味しない。人欲そのものが生命を害するわけではなく、それが行き過ぎたり不足したりするときに、生命の気の循環を保つことが妨げられることになるからである。貝原益軒の養生論は禁欲を勧めているのではなく、過不足なく中庸の道を守るべきであることを説いている。まとめると、養生とは、人の内面からおこる人欲を過不足なくちょうどよいところに制御しておく営みである。

 養生の具体的な方法としては、元気を保つことを根本とし、静かにして気を保ち、動いて気を巡らすことにある。この心静体動の養気も、結局、人欲を制することに集中している。

 養生とは気の循環変化に害を与える人欲を取り除くことを主眼とする。貝原益軒の『養生訓』においては、人欲を慎む、少なくする、畏れるなど人の感情や欲望を制することについて多くの頁を割いて述べられている。しかし、これは根本的に人欲を制することにはならない。究極的に人欲を制するには「理」によらなければならない。

「人となる」ことによって生を養う

 朱子学徒と自称する貝原益軒の思想は基本的に朱子の理気思想に依拠しいる。朱子は養生に興味をもっていたものの、詳しく論じるには至っていない。貝原益軒は気の養生思想に理を導入し、養生と儒教的な修養を繋げたのである。

 養生は人欲を制することに収斂するため、「理」を樹立して人欲を制することを行わなければならない。これは、儒教の「人となる」ために、人欲を取り除かなければならないとする修養に行き着く。

 儒学においては、宇宙間の万物に理が宿り、人に生まれつき備わっている理が人の性であるという。しかし、この理は欲に蔽われて、その順当な発現を妨害される。理は純粋至善であり、欲は理の働きが外に表れるのを妨げるため悪の根源として否定的に見られがちである。このような人性論のもとで、「存天理去人欲」(人欲を取り除いて天理となること)という言葉に代表されるように、私欲を克服し、理に合致する心を保つことは、「人となる」ことでもあり、修養の課題でもある。その修養方法は、心を集中して事物の理を極めること、修養論においては五常、五倫の理を極めることにある。つまり、仁・義・礼・智・信という「五常」の学問をして私欲を克服するのである。その実践は、私欲を克服して、理に従って行動する儒教的な「人となる」ことである。

 養生も、五常の性を修得して人の私欲を制する実践を行わなければならないと説く。したがって、養生は「人となる」ことでもある。貝原益軒も、養生には「理」を樹立しなければならず、養生は修身そのものだとしている。これは、養生も「人となる」修養も理によって人欲を制することに至るからである。

 このように、貝原益軒においては養生は「人となる」修養のことであり、逆に「人となる」修養も養生になる。このために、儒教の道徳を実践すれば、長寿になれる。最高の養生は仁の実践にもなる。

 人が学問をして儒教の道徳を篤く実践すれば、仁者と呼ばれる人のように、人欲の参雑のない純粋に理そのものの人格になれ、「不死身」になれる。つまり、私欲を取り除き、仁の実践を篤く行い、心が純粋に理即ち「五常の性」となれば、命が長寿になるという。この「仁者寿」の思想を気の養生思想からみると、儒教の実践を行なえば人欲を制して気の循環がよくなり、気が全身の隅々にまでにあまねく流れてよく循環するため、貝原益軒の言葉でいうと「君子不死」の身になれるのである。このように、養生の目的は修養によって達するものである。

養生思想の教育性と一元論

 上にみてきたように、貝原益軒の養生思想は、儒教道徳修養によって人の情欲を制することに収斂する。生命の元気を保つために、絶えず内面に向けて人欲を制するのは極めて精神的な修養であり、その結果、立派な人間となって元気を保つことができるようになる。

 このような内面の精神修養により健康を保護する養生を、子どもに対して実践するとなると、衛生とは違って教育的に行わなければならない。養生は大事な術なので早く子どもに教えるべきであると、貝原益軒も言っているように、子どもが養生を勉強し、儒教道徳を教えて内面化させ、これに従って行動して、道徳的な人間性を醸成することによって人欲を制し生命を養う習慣を身体化させるのである。このような狙いをもった養生は教育そのものであり、子どもにとって「人となる」ことでもある。

 養生思想は、儒学の気の一元的な人間・世界観に基づいて展開されたものである。気によって人間の身体・心、環境、宇宙間の万物が繋げられている。気は人間の健康、病気、寿命に関係するだけではなく、人の性格や運命、富貴貧賎・吉凶禍福など万の事は皆、気の陰陽変化によるものであると考えられているため、養生はその内容が豊かで、適用の範囲も広く、隣接分野も多い。

 一元的な気の理論のもとで展開された養生思想は、心身一元的にとらえるだけではなく、気を養うことと「万の悪」である人欲を制することによって、人間存在の全般、宇宙の万物に構造的で有機的に関連している。養生は修身であるだけではなく、道徳・心・身を養い、養老・養家・養財などにもなる。また、養生は倹約、勤労、忠孝などの儒教道徳と軌を一にしている。

 養生の包括性とその環境一般との有機的な関連性は、後の近代日本の学校における健康保護の位置と役割、養生と学校教育の諸分野との関係の理論的な基礎をつくった。

忠孝のための養生

 儒者である貝原益軒は、道教的な養生術が個人的な欲求を満足するためになされるものであるとし、中国の養生文化の重要な要素であった神仙ないし道教的な養生術の要素を排除し、養生を儒教道徳規範のもとで儒教の道徳実践の一環として構成した。

 貝原益軒は、忠孝のために養生することと、仁義の実践のためにいのちを捨てることとの間に生じる矛盾を、平常時の養生と、大節に臨む時の義理の行為に分けて、いのちより義理の方が大事であるという儒教的な価値観を保持しつつ養生論を展開している。彼の養生思想は儒教的なもので、儒教の道徳倫理の実践にほかならないのである。

 養生は忠孝のために元気を保ち、家を保つことに繋がり、またその術は人欲を制することに集中しているためにそれは一定のかたちをとった修身となるのである。このような養生は、儒教の道徳倫理の実践であると同時に、修身・斉家・治国・平天下という儒教の政治実践の基礎ともなる。貝原益軒が創った忠孝のための儒教的な養生は、後の近代学校において忠君愛国へと作りかえられていくものの母胎ともなった。

 一方、貝原益軒は自分の幸福のためとも述べている。この両面は矛盾しているようであるが、これはともに、近代日本の学校の中に反映されているのである。

 貝原養生論の特徴は儒教的なものであることにある。養生が「人となる」修養と合い通じ、明確な気の一元論をもとに構築された養生思想は人間存在の万般にわたって影響を及ぼす。他方で、個我への視野をも含み込み、一つの独自の近代化への胎動を彼の論調の中にみることができる。

 貝原益軒の養生思想は社会的な道徳倫理や価値観と一致している。また、貝原益軒の養生は、多くの役立つ生活術を含んでいる。彼の養生論は伝染病の原因や治療法が確立されていない時代に人々の現実生活に応用できる確かな健康術を提供し、またその実践によって万悪を制し幅広い利益を収めることを可能にしていた。さらにはこの養生自身が道徳的な人間形成にもなる。貝原益軒の『養生訓』で勧められている術は、普通の民衆の生活思想や利益と一致しているため、長く広く普及したと考えられる。他方、貝原益軒の養生思想も民衆を教化するものとして使われている側面がある。

 このような養生思想の教育性や構造的な関係性が日本的学校保健の基礎・原型を作った。

近代日本の学校教育における養生

 貝原益軒の養生思想は、人々の中に深く広く浸透し、日本の保健文化となっている。これは、近代日本の学校にどのような内容、どうのような場面で現れてきたか、を見るためにまず直接引用された貝原益軒の養生思想を探した。その結果、貝原益軒の養生思想が日本の近代学校の表舞台に登場したのは、明治十三年の『小學脩身訓』と『小學脩身書』(明治十六~七年)の登場によってであり、そこで初めて日本の近代学校の表舞台に引き上げられ、教育の中心に位置付けられたのである。これによって、貝原益軒の養生思想は、近代日本の学校教育の中に影響を広げ、学校の諸活動に浸透していった。

 貝原益軒の養生思想は主に、道徳修養の一環として編輯されている。これは、学校における養生を修身教育の修徳として位置づけた先例である。

 儒教による道徳教育の確立に伴い、修身は学校教育の根幹とされ、智識技芸はその枝葉とされた。そのため、編輯者の意図とはかかわりなく、修身教科書に養生に関する名句が輯録されていることは、学校における養生を修身として近代日本の学校教育の根幹に位置づけていることを意味していた。また、そこでの養生は健康を守ることに限定されず、それは同時に人間育成の方法であるとみなされていた。さらに、これらの修身教科書の普及によって、学校における養生のこのような位置づけと役割が学校教育において広く認識されてきたと考えられる。

 修身教科書に輯録された貝原益軒の養生論の主だった内容は、人はなぜ養生を必要とするのかという養生の根拠、私欲を制することによって生を養うといういう養生の技法、養生することによって道徳的な人間になるという儒教的な道徳教育の目的、さらには「養老」を介した忠孝との関連づけなどであった。修身教科書に選ばれた内容は、殆ど貝原益軒の『養生訓』の総論、あるいは彼の諸教訓書に現れた養生思想である。貝原益軒の養生思想の重要な内容は基本的に学校教育に導入されたとさえ言えるほどである。

 これらの教科書に抽出された貝原益軒の養生思想は、儒教的な道徳や倫理と深く関係するものである。生を養えば立派な人間になり、道徳修養をすれば健康な人にもなる。その一方で、『養生訓』にある多くの実用的な養生術は輯録されなかった。これは、修身教科書の道徳教育としての性格と関係があり、この輯録方法は学校における教育としての養生の性格を強めた。

 養生が有する多面性・多機能性という内容も学校教育の中に導入されていった。養生を実践すれば、養身、養心、養徳、養財につながる。更に、養生は儒教道徳の実践でもあるので、養生することは養智や養老にもつながっていく。

 この養生の独特の性格は、後に学校教育の様々な領域へと養生的な実践が広がってゆくことの基礎となった。学校教育において、養生的な保健は、徳・智・体を繋げて機能し、教育としての多くの健康保護の実践を行っていた。

 修身教科書に集録された貝原益軒の養生的価値観は、個人の命に至上の価値をみているのではなく、命よりも「仁義」という儒教的な道徳のほうを重視していた。このため、養生は平常時の務めで、大節に臨むときには仁義の為に身を捨てるという議論が展開される。養生はそもそも儒教道徳の孝行の実践のためのものであるからである。この思想は学校にあっては、健康保護を孝行のためから忠のためへ、身体の所属が個人から国家へと変えられていく理論の基礎をなすものであったと考えることができる。

 学校教育における儒教的な修身教育への改変と、これらの教科書の普及およびその後の修身教科書への影響力は、貝原益軒の儒教的養生思想を近代日本の学校教育の表舞台に出すことになった。養生は学校の底流から学校教育の中核へと位置づけられた。

 修身教科書のうち『小學脩身書』は古典から原文を集録したものであり、例話や解釈は全く入っていない。当時の教師はこれらの内容を授業するにあたって、この難解な古典を解説、説明することが求められる。したがって、教師はすでに持っている養生の知識を補強し、新たな養生の知識を勉強しなければならない。これによって、教師は、教科書に選録された養生の智識よりも遥かに多くの養生知識を持って、生徒に教えていたと考えられる。また、生徒は養生の内容を暗唱しており、生徒の間にも養生思想は普及していた。

 明治初期の教師の多くが、師範教育を経ることなく教職についており、かれらの多くは儒学的な知識を持っていた人々である。儒学知識においては儒学と医学・養生が密接な関係をもっており、当時の儒者は儒者でありながら、医者でもあった。このような人々の多くが後の明治期に学校の教師となったのである。さらに、日本では、西洋医学が導入される以前には、医療・保健領域では漢方医学・養生に基づく知識が主流をなしていた。人々の医療保健に関する知識も、漢方医学・養生に基づくものが多かったと考えられる。

 儒教的道徳倫理と養生は分かちがたく結びついた思想であるために、儒教思想が学校に受容されたことは、養生思想が学校で息づいていたことをも意味する。したがって、貝原益軒の儒教的養生思想は近代日本の学校に広く浸透していた、と考えられる。

 貝原益軒の儒教的な養生思想は、近代日本の学校にあって様々なところで直接的、間接的に現れていた。例えば、明治四十四年に、開智学校の「校訓にうちて」で貝原益軒の養生論の原文が引用されており、明治四十四年にも校訓として掲げられている。こうした事実からも、近代日本の学校において、貝原益軒の儒教的な養生思想の影響が長く持続していることが分かる。

 貝原益軒の儒教的養生思想は、近代日本の学校において教育としての学校衛生とは異なるもう一つの学校保健、すなわち教師が行う教育としての保健を創った。この学校保健は、学校衛生より先に学校に取り入れられ、教師による教育活動を通して機能していた。これが学校の健康保護活動の基礎となり、後にこれを土台にして西洋の衛生思想が学校に吸収・融合されたのである。このような養生と衛生の融合は、西村茂樹が集録した『小學脩身訓』にも現れており、養生が修身として学校に導入された時点においてすでに、儒教的養生思想に基づいた西洋の保健方法の導入がなされていたのである。

第二部

 日本的な学校保健はその思想基盤は養生であるが、その保健技術としては衛生的なものが多く取り入れられた。この日本的な学校保健の保健技術の成立経緯を探るために、第二部を設けた。

 第二部では、近代に入り伝染病の流行によって、精神修養による保健では対応できなくなり、西洋衛生が重要視されてきた中で、学校において衛生が如何に自覚され、どのような学校衛生制度が作られたかを解明することを課題とした。これを解明するために、近代日本の学校教育に現れた学校の衛生に関する史料を手がかりにして、学校における衛生の自覚化過程を探った。また、日本の学校衛生の創始者である三島通良の学校衛生調査とその学校衛生論などの史料を検討した。

衛生的な健康保護の自覚

 明治初期の学校において教育としての養生は既に存在していたのに、なぜ、学校に衛生的な保健を導入する必要が自覚化され、求められるようになったか。

 明治七年に、欧米から、衛生が新たに導入され、公衆衛生が成立したが、その公衆衛生法規の中で学校にたいする衛生的な関心は薄かった。明治五年に発足した日本近代学校教育制度は、学校の福祉的機能を排除し、学校衛生的事項が省略され、知識教授を中心とする学校であった。

 「学制」が公布され、日本近代学校教育が発足した後に、明治三十年代に学校衛生制度が公布されるまでの間、学校衛生制度は基本的に空白の状況にあった。これに加えて、学校の教室や設備など物理的環境に関する知識もなかった。学校の教師たちは学校環境や子どもの健康に対する衛生的な保護に関する衛生知識を欠き、また注意も払わなかった。

 この状況が続いた中で、学校は「偏倚ノ教育」で、「巨害」であると批判され、学校の衛生的機能が様々な面でその必要性が自覚化され、自主的な実践が行われていった。

 明治十年当時、地方教育行政のレベルでは、学校衛生に関する規定、注意用件、実践が存在した。この中で特に注目すべきは、以下の二件である。即ち、明治九年の第一大学区の「成議案」および学校教育の注意要件において学校の物的環境の側面と生徒の養成の側面に学校衛生に関する規定があった。この「成議案」で学校衛生の基本的なかたちが形成されている。更に「預かり所」としての学校の性格から学校には子どもの健康保護が必要とされている。石川県の「学校教育注意件」のなかでは、学校に於ける子どもの「児童天然ニ有スル所ノ権」という自然権の保障の観点から子どもを衛生的に配慮することが学校の本来的任務として認識され、かつ、学校教育が注意すべきこととして強調されている。

 学校現場のレベルでは、東京開成学校において、生徒の健康を改善・増進するために「生徒養生法」という保健活動が行われていた。この養生法の内容は、飲食、運動、清潔法を中心とするもので、養生的な飲食論が大きな割合を占めた。そこでは学校特有の保健問題である勉強する身体姿勢、教室の光線および換気などの健康保護法が行われた。

 実践者・清水直義は、明治十年頃から、学校で学校の教育と管理の一端としての学校衛生活動を行っていた。そこでは衛生活動が教育活動と共存していることが認識されていた。また、子どもの健康保護のための条件整備においては衛生的な機能を重視しており、「清潔整頓」と「修飾」によって、生徒の衛生習慣を養成すると共に、学校に於ける人間形成の方法の改善をめざしていた。このように清水は、早い時期から衛生を教育に融合させて活動を行っていたことに注目すべきである。

 知識教授を中心とする近代日本の学校が子どもの健康を損なっているとの批判を背景に、「心身両全ノ道」を模索すべく体操伝習所が設置された。リーランドが伝達した体操は「健康ナル身体ヲ保有」することをめざすものであった。精神錬磨という偏った教育に対して、体育で糺し、運動によって身体健康を保護する目的もあった。初期の体育・体操は学校自身の問題や矛盾を解決するものである。後に、体育は学校教育の目的の一つになった。人の心身ともに育成するために、知育、徳育だけではなく、体育も必要となる。体育は学校の保健機能と違って、運動することによって健康を矯正し守る教科として学校に導入された。

 学校制度が次第に整備され、学校規模の拡大につれて就学率が上昇すると、学校管理に対する要請が強まり、学校管理という営為が現れた。明治十五年頃に現れた学校管理には、学校衛生に関することがその主要部分として取り込まれていた。学校教育に於ける学校衛生は学校管理法に位置づけられた。

 さらに、明治十年代に邦人が著した唯一の学校衛生論である松山誠二の『学校衛生論』は、精神の錬磨による生徒の健康損害に対する批判から、「培養ノ方法」に「幼年ノ健康ヲ保護」を加えて、従来の教育方法の保健的変革を求めていた。更に、単なる知徳教授から「精神ト身体相共ニ發育スル」ことへ、且つ、教え込むのではなく、生徒の心身発育を助けるように、学校教育を変革することを求めていた。

 当時の社会衛生環境の欠落、衛生知識の貧弱さを背景に、自身も教諭である松山は、この論文で教育者に対して衛生啓蒙、健康保護の必要を呼びかけ、さらに健康の保護を学校に求め、「人類健康ノ度ヲ高フスル」ことを学校の任務に付加しようとしたのであった。このように、松山誠二は教諭としての実際の経験を基にして学校衛生を論じ、学校教育にとって衛生が不可欠なものであるだけではなく、人類の福祉・健康に貢献するものでもあるため、学校が担うべき課題であるとしている。

 以上のように、明治初期における学校の衛生的機能の自覚は、学校現場の衛生活動、地方の教育行政レベルでの学校衛生に関する規定や健康保護をめざした体操伝習所の設置、さらに、学校管理法としての学校衛生の現れ、学校運営の一分野としての学校衛生の登場、という形をとって進んでいったのであった。

 明治初年代に、文部省のレベルでは学校衛生に関する規定は空白になっていたが、明治十年前後には学校の衛生的機能の自覚化が各地で起こり、それに基づく様々な実践的・理論的模索が開始され、全面的に展開されていたのであった。後の、三島通良の論じた学校衛生の内容もここにすでに現れていた。

 この明治初期の学校衛生の自覚は、預かり所としての学校の義務や子どもの自然な健康権として把えられていた。しかも、軍事力・労働力の養成という観点からではなく、学校の内的機能として学校衛生が認識されていたのである。

学校は「病体畸形製造所」である

 学校衛生は、様々な分野でその必要性が自覚されていた。しかし、文部省の学校衛生制度が空白の状況の中で、近代日本の学校の衛生状況と子どもの健康はどのような状況におかれていたのだろうか?これは、三島通良の明治二十年代後半の全国調査によって明らかにされた。

 日本の創始期の学校は、校舎、教室、机、腰掛けなど学校の物質的環境が極めて粗末かつ非衛生的で、学校の衛生管理も未整備の状況であり、教育衛生もほとんど未知のものであった。

 三島通良の明治二十年代後半の全国調査によって、このような衛生機能のない学校では、教室の空気の汚染によって子どもの身体健康が損なわれ、教室の光線が原因で生徒の視力を悪化させ、非科学的で子どものからだに合わない机腰掛けが子どもの脊柱を彎曲させ、伝染病予防方法がないために伝染病を流行らせている実態が明らかにされた。授業の狭間の休憩時間や遊戯によって精神的疲労を回復しようとする教育衛生の知識は有していないか、あるいは実行が不十分かである状況であった。教師は衛生上の注意を怠っており、学校活動の諸般にわたって「衛生上に背理したるもの」少なくなく、このような学校と教育はまさに「病体畸形製造所」となっていた。

 明治初期の学校は、知徳教育に偏重し、精神発達を中心とし、身体発達を無視した「知識教授学校」であった。多科目、過度の勉強、長時間にわたる机前の学習生活は、子どもの心身発達の法則に反していたため、子どもの身体健康を損なっていた。これは「偏頗不良ノ教育」と批判された。

 明治二十年後半に実施された三島を中心とした諸調査によって、以上のような学校教育こそ、子どもの「病体畸形」の原因であることが明らかにされた。学校における衛生機能の必要性は、「後天の病体畸形製造所」という代価を払うことではじめて実証された。その衛生の内容は現在では極めて常識的なことが多いのであるが、当時は、養生の健康観から衛生の健康観への移行期で、これが分かるまで、子どもの心身健康を代価としてしまったのである。

 三島通良の学校を見る視点は、衛生的なものであった。子どもの身体健康を損なう原因を学校の物質的な環境、教育的な環境、身体外部の伝染病菌環境に置いた。

衛生的な身体保護

 これまでの学校に衛生はなかったが、養生はあった。そうであるのになぜ、子どもの健康がそこまで損害されたのか。

 学校に養生の要素があったが、養生とりわけその病気観に限定されていて、人欲を制するのが健康を保護することであり、人の内面への修養をその方法としているため、人の外部に目をむけ、環境を変えるという思想がなかった。このため、解剖学的な意味での身体病変や伝染病、学校病に対して、病気とみなす知的な枠組みをもっていない。

 近代日本の学校が新たに創設され、多くの子どもが一室の中に長い時間座らせられ、勉強させられる。このような子どもを取りまく外的な物質環境では、子どもの健康が損なわれ、伝染病が発生すれば瞬く間に子どもの間で流行してしまう。

 このような状況に対しては、内面向けの養生だけでは対応できない。養生を補うものとして集団衛生が必要となる。つまり、学習環境を始めとする環境や、伝染病など子どもの外部環境から彼らの健康を保護することが必要になってくるのである。これは近代学校ができた当時の日本だけの問題ではなく、欧米の学校も同様の問題下にあって、学校衛生はそのような状況の中で出現した。日本もこのような欧米の学校衛生の影響を受けながら、子どもの健康問題が発生したことによって、人々は学校衛生が必要であると痛感した。さらに、授業の合間の休憩、遊戯による精神的疲労の解消などの教育衛生も必要とされるようになった。

 自覚化された学校の衛生は、未成熟な子どもが集団的に勉強する学校という場に対応するための基本的な健康管理・保護法である。子どもの健康を外部環境から守るこうした衛生は、内面から子どもの健康を守る養生を補完する。自覚化された衛生は、近代国家的な発想でその必要性が説明されているが、その中身や論理をみると、むしろ、学校自身の矛盾を解決するためのものであった。

学校衛生の成立

 このような状況の中で、明治三〇年に文部省は学校衛生を作った。作られた学校衛生を明らかにするために、学校衛生の創始者・三島通良の『学校衛生学』と学校衛生制度を検討する。

 学校現場の調査が行われ、三島通良はその結果を『学校衛生学』としてまとめた。この著作は科学性、総体性、体系性において秀でていたため、当時広く受けられた。三島の学校衛生は西洋の衛生を根拠にしているが、その中に養生的なものが多く含まれている。

 三島通良は、人間にとって健康が孝行の基礎であるとしている。この健康価値観は、孝行の為に健康保護するとした貝原益軒の養生の健康価値観と同じ根拠によるものである。三島通良は、近代国家へ奉仕する人間を育成することを目的に、親孝行よりも忠君のための衛生を強調している。気の思想により人の内面を修養する養生を説いた貝原益軒と異なり、三島通良は西洋医学・衛生学に依拠して外部環境から子どもの健康を保護しようとした。

 三島は、教育が忠孝の為にはたらく健康で丈夫な国民を作ることを目的とするものであるとして、丈夫な国民を作るためには子どもを厳しく鍛えるよりも、子どもを保護しなければならないという。

 衛生に依拠した身体観は、からだと心を分離する心身二元論であるから、身体とは「精神の容器」であり、身体を物質としてみる。子どものからだは発育途中にあるので、脆弱さに満ちているため、子どもを保護しなければならないとする。発育途上の子どもを教授する学校に学校衛生がなければ、子どもの健康を損なってしまう。こうした認識から、三島は学校教育には学校衛生という基礎が必要であるとし、学校衛生を確立しようとした。三島の「学校衛生」とは身体の健康を保護し、強壮するためのものである。

 具体的には、学校教育における子どもの健康保護の必要性を認識し、そのための教育条件の整備と教育方法の改革の重要性を訴えたのであった。教え込む教育を批判して、教育とは単に子どもを教えることではなく、養うものであるとし、従って、子どもの発育・発達に応じてプログラム化されなければならないとした。三島は、学校の環境をより自然な状態にして、子どもを自然な環境下で伸び伸びと発育することを重視している。

 子どもの健康を保護する考えも方法も学校衛生のものへと転換していくことを志向した。保護の対象は子どもではあり、保護の方法は子どもの周囲の環境の改造・管理である。

 学校衛生の基盤にある科学思想は、西洋医学的な子ども観で、子どもの外部にある病気の原因を取り除き、清潔な環境に子どもを収容することが子どもを守ることである。病原を発見し取り除く努力をすることが、環境・人を管理・監視することにつながってくる。たとえば、細菌による伝染病が発生した場合、衛生的対応策としては細菌から子どもを隔離し、環境を消毒・滅菌することになる。

 西洋的衛生学にもとづいて成立したこのような近代日本の学校衛生制度とは、主に学校の物質的な環境に対する、学校医という学校外の専門家による管理・監視に端緒に現れている。

 しかし、学校衛生制度が成立したからといって、学校現場の衛生もすぐにそれに従ったわけではなかった。学校現場においては、学校衛生は、学校の養生と矛盾し、衝突しながら融合するというかたちで、新たな学校保健が作り上げられた。

第三部

 第三部では、近代日本の学校教育において同時に存在していた養生と衛生が、学校現場でどのような関係を築きながら機能してきたのかを解明することを試みた。近代日本の学校保健に関する諸方面の史料や日誌、特に開智学校の日誌などを検討した結果、学校現場のなかで健康保護活動が具体的に観察できる場面としては、修身教科・国語教科と学校の主要な日常的保健活動である学校掃除、学校衛生制度の学校での実施等があった。明治初期から大正初期の修身、国語教科書及び学校の日常的な保健活動である学校掃除、学校衛生制度の実施を検討して得た結論を以下にまとめておく。

養生と衛生の融合

 貝原益軒によれば、養生は儒教道徳の核心である孝の実践の重要な一環であり、修身でもあるという。彼の儒教的な養生は儒教道徳と本質的な繋がりを有する。そのため、養生が児童の徳性を涵養する修身科目として採用されたのは、必然的な結果である。

 養生は江戸時代の長い間に、儒教・儒学とともに浸透していた。明治初期に民間において自然発生的に導入された翻訳修身教科書は、その健康保護法が基本的に養生思想と矛盾しないだけでなく、一致するところさえあるものであった。さらに、養生思想を基本にして西洋の健康保護法と融合させた健康保護に関する著作も既に現れていた。

 こうした傾向をさらに強化したのは、明治十三年に、修身教科における儒教道徳教育の復活を目的として、貝原益軒の養生思想が彼の原著から直接引用されるようになったことである。こうして貝原益軒の基本的な養生思想が学校教育に導入された。これによって、養生は健康保護法の底流としての存在から一躍学校教育の表舞台に現れ、学校教育における養生の位置と役割が規定された。

 これ以後、養生は修身教科の内容として子どもの道徳形成に小さからぬ機能を果たしてきた。気の養生思想、養生の環境観、養生と養身・養徳・養財との繋がりなどが、修身教科に取り入れられて継承された。修身教育としての養生は、保健だけではなく、徳・智・体をはじめとして学校教育の諸方面につながっていった。

 ところが、明治十八年以後、修身教科書は、貝原益軒の養生思想を直接引用する形から、子ども向けの教科書用にわかりやすく書き直すように方針を転換した。加えて、伝染病の流行と近代衛生法の発達を背景として、修身教科書では、タイトルを「養生」としながらも、西洋衛生の内容が取り入れられるようになった。これらの衛生方法は、清潔法と身体運動を中心とするものであった。保健の内容を説明するのに、気の養生思想を用いたり、血液循環の生理学を用いたりするようになった。

 貝原益軒の養生にも清潔法や運動の養生法があるが、清潔法は道徳礼儀のためのものであり、運動は勤労のためのものとしている。気の養生思想からみたこれらの健康保護法は、衛生の黴菌病気観からみた健康保護法とは違ったものである。このため、清潔法、運動に養生的な要素が入ってはいるが、これらは西洋的な健康保護法に近い内容である。

 修身教科書における養生と衛生との結びつきは、貝原益軒の養生思想を基本にして、西洋の代表的な健康保護法である清潔法、運動、換気などを取り入れる方法であった。時に、西洋の血液循環の医学理論で解釈したり説明したりもしているが、明治三十三年までは、以上のような融合のあり方であった。しかし、融合した保健の基本は、養生、しかも貝原益軒の養生思想である。取り入れられた衛生方法は、貝原益軒の養生思想をもとに養生化されていた。つまり、衛生を学校教育の諸局面のことがらと結びつけ、教育化されていった。

 しかし、明治三十三年を境に、修身教科書の健康保護法は養生から公衆衛生へと転換した。これ以後、国定修身教科書の保健内容も、全面的に公衆衛生に切り替わった。養生から急激に衛生へと転換したのは、伝染病の流行および学校衛生制度の成立等と関係している。しかし、長い期間にわたって涵養された養生的な保健心性は簡単に変わり、無くなることはなかった。例えば、公衆衛生を保健内容とする修身教科書には、貝原益軒が養生によって長寿を達成した例もあげられており、また、儒教道徳の内容も重要視されている。養生は儒教道徳と本質的に繋がって一体となっているので、儒教道徳が機能するかぎり、養生は表面には出なくとも機能しているはずである。

 修身教科書の作製主体が民間から文部省へと変化したことで、近代国家の教育方針から保健の内容が養生から公衆衛生を主とするものへと変わったが、逆に国語教科書においては、明治三十三年以後に、「養生」をタイトルとする課や内容が復活、強化された。修身教科書における養生と衛生の融合の仕方とは違った、もう一つの融合のあり方がそこでみられる。

 国語教科書においては、明示三十二年以前までは、養生、あるいは養生的な内容の記述はあまり多くない。しかし、明治三十三年以後、修身教科書の場合と違って、「養生」が国語教科書に多く現れてくるようになる。国定第一期国語教科書には養生と題とする課、或いは、養生的な内容が見られなかったけれども、国定第二期国語教科書(明治四十三年から大正六年まで)には、「養生」の課が再び現れた。しかし、これを最後に養生をタイトルとする課は姿を消した。

 国語教科書に現れた養生思想は直接引用した養生思想ではなく、子供向けにわかりやすく斟酌した間接的な内容となっている。養生は修身と私欲を制するという共通の目的を持ってつながっている。これとは異なって、国語教科書では、養生は生活文化の側面と関連づけられてその必要性が説かれる。つまり、養生は生きる知識として国語教科書の中で機能している。国語教科書に現れた養生は、文化としての養生なのである。

 国語教科書においては、人が孝行の為に養生するということから養生の必要性を訴えているのではなく、個人の最高の幸福である健康のために、人生の目的を達成するために養生を実践するする必要性を説いている。これは貝原益軒が個人の幸せの為に養生することを説いたのと軌を一にしている。国語教科書においては、養生は忠孝のために行うのではなく、個人のために行う健康保護法であるとされている。

 国語教科書における養生の教育機能は修身教科書の道徳教育機能と違って、勤労に繋げて強調されている。さらに、功利的に家や財を養うことにも繋げている。気を巡らすために、身をうごかしてよく労働すれば、からだも健康になり、家も栄えるのだとする。これは、貝原益軒がいうからだを動かして務めるべきことを務めれば、養身、養財、養家にもなるという養生思想の表れである。養生は財を養い、家を養うことだけではなく、務めるべきことをよく務め、「良民」となるためにも必要なのである。

 修身教科書における養生と衛生は、前者の目的と教育的性格を残したまま、後者の方法を取り入れる形で融合し、日本に独自な学校保健となったのである。

 他方、国語教科書においては、西洋の医療衛生と養生という二つの医学が同時に存在している。西洋医学に基づく人体や生理機能の説明のあとに、衛生と養生のそれぞれの健康法が紹介されている。注目したいのは、気の養生思想で説明しても、西洋の生理衛生で説明しても、その具体的実践方法としては、何れも飲食を慎むこと、運動、身体を清潔にする、という方法を中心にしていることでは共通していることである。

 国語教科書における養生と衛生の扱われ方は、儒教道徳の比重が次第に小さくなり、実利目的のための生きる知識として展開されている。これは「総合的な読本」という国語の性格と関連している。

 既に述べたように、具体的な保健の実践方法としては、国語教科書においても修身教科書においても、養生の飲食を慎むこと、衛生による清潔法と運動が最も数多く現れている。これらの保健法が絶対的に養生であるとか、衛生であるなどと言い切れるものではない。これらは養生と衛生が相互に浸透してできたものなのである。 特に、明治初期から大正初期にかけて、修身教科書においても、国語教科書においても、飲食を慎むことと清潔法という項目が最も数多く現れた二大保健法である。とりわけ前者がくりかえし説かれてきた。

 「百病の横夭は、多く飲食による」1とも言われているように、飲食を慎むことは養生の主要な実践方法で、国語教科書に最後に設けられた「養生」の課に「不潔もまた病の種となる」という言葉があるように、清潔法は西洋衛生の重要方法である。飲食を慎むことは養生の象徴で、清潔法は衛生の象徴である。西洋衛生の清潔法は、東洋的養生によって教育的意味合いを帯び、東洋的養生の飲食を慎むことには、西洋衛生によって黴菌が口から入ることを注意する意味も加えられた。これは東洋の教育的な機能と、西洋の衛生的な機能との相互浸透の結果である。このように飲食を慎むことと清潔法とのそれぞれが東西両洋の健康保護法が相互浸透して融合したものとなっているのである。それらが教育的な意味あいを帯びていることが日本的健康保護の特徴である。

 こうして形成された日本的学校保健は、道徳教育としての側面と生きる知識としての側面とをあわせ持ち、さらに孝行および個人の幸せのためにも必要なものである。その方法は、養生的な思考で個人を対象とし、個人を中心としたものである。飲食を慎むことをはじめとして、運動も、そして、清潔法も人のからだや衣服などを中心とするものである。それが公衆衛生に転換したことによって、他人、公衆、環境へと健康保護法が働きかける方向は変わったが、病気を個人の責任にすることは養生の考え方の延長線上にある公衆衛生である。

 内面向けの養生思想は、日本の学校保健を教育化し、保健の教育的な心性を作った。この心性をもとにして、清潔法は教育化され、運動が勤労化されたように、西洋衛生をはじめ学校保健の諸活動が教育化された。

 儒教道徳の私欲を制することは養生と修身とを本質的なところで繋げた。したがって、養生は修身の不可分の重要な一環とされ、修身と同じ位置づけがなされた。養生はまた、総合的な読本で国民の徳性を養う国語教科書の内容としても取り扱われたために、先の位置づけがさらに強固なものとなった。

 養生が生すなわち気を養うことは、その働きが教育的であるだけではなく、これを通して学校の諸分野とつながって、統括する根本原理となる。つまり、養生は学校教育の核心にありながら、学校教育の基礎でもあり、学校教育の諸機能に関わっているのである。これが教育としての養生である。

 融合した学校保健も、教育としての養生の基本性格を持ち、学校で教育的な機能を果たしながら、学校の核心的なところに位置づけられている。このような養生と衛生とが融合したことによって作られた日本的な学校保健は、その内容が公衆衛生を中心とするものに変わっても、その位置と役割は変わることなく、学校教育の教育諸活動の中で機能している。

 養生が基本となって衛生と融合した保健は、以上の養生が儒教道徳の中に位置づけられたように位置づけられ、道徳実践の一環としての役割を果たす。

教育的な学校掃除の成立

 近代日本の学校における養生と衛生の融合は、教科書に現れただけではなく、底流にある養生が新たに導入された衛生と矛盾し衝突しながら学校の日常生活のなかで進んでいった。

 学校掃除は、近代日本の学校の主要な日常的保健活動である。学校衛生の成立以前に、学校掃除に直接的に影響したのは、儒教、特に朱子の教育論の掃除観であった。 朱子の掃除観は、儒教学問、究理をする第一歩である儒教道徳的な実践活動である。掃除は子どもが最初に行う勉強である。掃除は外から内を養い、身体から心を律する人間育成方法である。

 貝原益軒の掃除観も基本的に朱子のそれと同じ考えである。しかし、掃除を教育の意味でのみ捉えていた朱子とは違い、貝原益軒はそれに加えて養生としての掃除という面からも捉えている。養生からみると、掃除は、気の循環をよくする養生法でもある。掃除を行っている過程とその掃除の結果である清潔な環境は、からだも養うし、心も養う働きがあるという。

 このような朱子と貝原益軒の掃除観は、近代日本の学校掃除の思想的基盤となり、学校は、人間形成として掃除を行っていた。

 学校掃除は、日本の伝統的な教育活動である。貝原益軒も、掃除を外から内面を養う養生でありながら徳を養うことであるとしている。養生の保健観からみると養生・養徳・養財するのに最も相応しい活動である。学校掃除万能論が唱えられるにいたるほど、学校掃除は近代日本の学校教育活動の重要な人間形成法として位置付けられてきた。学校掃除の実践によって、それが養生に良いだけではなく、掃除を通して諸道徳、すなわち修身教科書に現れた諸道徳を子どもが身につけることになるという。近代日本の学校において、学校掃除は教育的な保健活動であった。

 しかし、衛生の普及、学校衛生制度の成立などを背景にして、人間形成としての学校掃除が批判されるようになった。衛生は、環境を黴菌が満ちた空間であるとし、掃除という過程を危険視するものである。したがって、子どもに掃除させるのは不衛生、不人道の行為であるとみる。

 掃除という教育活動を是認する教育者と身体健康の保護から掃除を排除する医学衛生者との対立の底には、近代化過程における伝統文化と西洋文化との対立があり、そこから教育、健康保護に対する認識の齟齬が現れていた。つまり子どもに掃除させるべきかどうかを巡る論争は、養生的な立場の人と衛生的な立場に立っている人との対立によるものでもあったのである。

 教育関係者や学校現場の教師の多くが、掃除が学校教育において教育の目的を達成し人間を育成するのに最も効果のある適切な活動であるとして伝統的な教育方法としての掃除を肯定している。彼らは、完全な人間を育てるには教科の知識だけでは不充分で、重要なのはその上に行う行動的な教育であると考えていた。このような教育は、子どもの健康保護を犠牲にしたのだろうか。そうではなく、その教育における子どもの健康保護は、、養生的見地に立てばむしろ鍛錬主義的な自己保護である。

 それに対して、近代衛生科学の素養を身につけた人々は、学校が病菌の巣窟であるということを実験によって立証した。そこで衛生医学者は、細菌から子どもを保護するために、伝統の道徳的な清潔観による掃除の教育を批判し、教育における身体健康という衛生学的な基礎を新たに提起し、衛生学的な清潔観を主張した。それは子どもを塵埃の中で鍛えるのではなく、塵埃から子どもを大人が保護するということを意味した。彼らにとって、健康保護とは、自己の保護能力を育成することではなく、環境・人の管理で教師が子どもを病毒・黴菌から保護することなのである。

 この論争の結果、学校掃除が全廃に至ったわけではない。だが、人間育成の教育は西洋科学的知識によって新たな土台を据えられることになった。学校における児童の掃除をめぐるこの論争を通して、衛生学は、科学の名のもとに学校の中に浸透していったのだ。例えば、細菌の消毒による掃除の改良策がその好例であった。ここでは学校における子どもに対する認識、教育に対する認識がかわっていったことを見て取れる。ここから教育的な学校掃除と衛生的な健康保護とが融合していくことになる。教育は教授と訓練だけではなく、子どもの保護を教育活動に組み込まなければならなくなり、身体健康を保護する機能が実践レベルにおいて教師によって模索し始められることになった。

 結果として、儒教の教育的な学校掃除に、後に導入された衛生的な保護を加えて、日本的(教育的)な学校掃除が作られた。これは学校現場の日常保健活動における教育的な学校保健の成立である。これは、帝国教育会が調査報告にまとめた教育者が融合した学校掃除である。このような学校掃除は現在まで生きている。

教育的な学校保健へ

 これまで、日本の学校保健の教育性の起源を追ってきた。そこで明らかになったことは、貝原益軒の儒教的な養生思想が近代日本の学校保健の礎となっていたことである。それは衛生科学とは違った独自な理気思想の下でできた人の内面に向かう教育的な保健思想である。養生思想は学校衛生が導入される以前に、学校現場における教科教育や、学校の日常的保健活動として現れ、後に西洋衛生を吸収して融合し日本的な教育的学校保健へと変質したのである。

 第二部で述べたように、学校は成長途上の子どもを集めて教育する場であることから、集団衛生の必要性が自然に生じてくる。こうして学校衛生が導入される前に学校現場で自主的な衛生実践が行われてきた。明治三十年頃になってようやく学校衛生制度が作られたが、これは専ら西洋的な衛生の発想を基盤としたもので、学校医が校長と同格の立場で学校外から学校と教師の教育活動に対して医学的に指導し監視する制度であった。しかし、この学校医体制は当時の学校の実状とはかけ離れたもので、有名無実のものと批判された。

 一方、近代日本の学校現場においては、学校保健活動が教科教育、学校掃除と学校衛生制度の実行というところに集中して現れていた。教科教育としての保健と学校掃除は既に明らかにしたように養生思想を基にして衛生を吸収するという形で融合したものである。

 学校衛生制度はその性格が学校現場においての衛生管理である。この学校衛生制度は上に述べたように成立した学校現場の保健と矛盾が生じる。

 近代日本の学校の養生文化を背景として、学校における学校衛生制度の実行は学校現場の保健思想と矛盾し衝突した。三島通良と清水直義の論争はそれを象徴するものであった。

 明治三十年代に新たにできた学校衛生は、学校と教育活動が子どもの健康を破壊しているという認識のもとで、環境衛生、伝染病対策を中心にしてできたものである。学校衛生を推進する文部省の官僚や学校医は、学校教育の活動に対する監視と指導を行った。このような学校衛生の実施は不可避的に学校現場の教師との衝突を引き起こした。代表的な事例としては、当時の小学校校長であった清水直義と学校衛生主事・三島通良との論争がある。上に見たように、学校現場では養生が基本になった健康保護法が機能していた。しかし、学校衛生の成立によって、養生は健康保護のためにはならず、健康を損なうものであるとさえみなされるようになった。

 明治二十九年、学校衛生の導入にあたって、西洋の医療衛生学の素養を身につけた三島は、学校の子どもの身体健康に関することは衛生学者の仕事であって、それには素人である教育学者が「尚武」などといった教育的理由で子どもの健康を論じるのは「拙策」であると批判した。三島の考える学校衛生は、専門家の仕事として外部から学校、教育そして教師に対して医療衛生学的に管理と監視を行うことを目指すものであった。

 この三島の学校衛生に対して、当時、東京教育会会長でもあった東京芝区鞆繪小学校の校長であった清水直義は、教育家が昔から行っていた保健と自主的に実践して得た学校衛生的智恵を根拠に、それまでの伝統からも学校の現実からもかけ離れ、既存の学校運営の文脈を深慮することなく学校衛生を独立した事業として計画する三島のやり方を批判した。

 清水は、それまでも学校衛生は教育の一環として教育の諸活動の中に織り込みながら実施してきたと主張した。これは、三島が構想していた、学校の外部から学校とその教育活動を衛生的に指導し監視する学校医制度とは違ったものであった。

 清水と三島の論争は、それぞれの学校衛生観の対立であった。清水の学校衛生は、当時の学校現場の声を代表するものであり、現在の日本的な学校保健とも繋がっている。

 清水は、学校衛生が学校教育の不可分の一部で、完全な教育を達成する重要な部分であると捉えていた。そのため学校医制度には反対した。清水は学校制度と違った学校衛生を自主的に実践してきた。彼の学校衛生は「清潔整頓」、生徒の心身健康管理、学校の物質的保健条件の整備、「修飾」と「学校衛生」などに代表されるように、学校衛生を学校教育と融合させて、子どもの健康を保護する機能を果たしながら子どもの心を養い、学校教育の条件整備を多方面に結びつけて機能させた。

 特に、校長管理の下で、教師兼務としての衛生係の設置は、学校運営の内的な必要から生まれたものである。その執務内容は学校の一般管理衛生に、予防・治療・救急という医療の専門性の高いものも加えた。この衛生係は文部省の政策と関係ない学校現場の保健担当者であり、衛生係による学校衛生は当時ある程度普及した。

 「衛生係」という教員をおき、養生と衛生の融合した健康保護活動であった。この「衛生係」は文部省の政策ではなく、学校現場の教師の自主的な実践によって生まれたものである。「衛生係」の執務内容は、伝統的な学校内の健康保護活動の他に、予防・治療・救急という医学的な衛生を取り入れたものである。

 学校の日誌など史料によると、以上のように学校現場の教師は、自主的に学校衛生を取り入れることが多かった。学校現場では、修身教科の授業が伝染病を予防するために自主的に西洋衛生を講じていた記録は多数見られる。

 清水の学校衛生実践は、外から内を養うこと、形から人間を育成することと環境の清潔整頓を重視することが特徴である。これは朱子の児童教育観や貝原益軒の養生観に近く、それに属するものであると考えられる。しかし、小学校の校長としての清水の学校衛生は管理的な性格が強く帯びている。

 以上のように、清水の学校衛生は、学校教育の徳智体の三育に融合し、健康を保護しながらその人間形成機能を果たしていった。また、これを基本に西洋衛生も積極的に取り入れた。このように、清水の学校衛生は儒教的養生と衛生を融合したものであることが見いだせる。

 清水の学校衛生に代表された学校現場の保健は、学校衛生制度が成立する以前のもので、後には学校衛生制度の内容を吸収して新たな形となった。この新たな学校衛生は、儒教的な養生を基にして衛生を取り入れたものである。このような学校衛生は基本的に学校衛生制度を吸収することにもなっていた。外から医学衛生学的に監視するものとして衛生係が作られ、これを基に、学校医の仕事をとりいれ、後に、伝染病流行を背景に専門職である看護婦を学校の中に取り込むようになった。

 以上のように、衛生を学校教育に融合して、教育の不可分の一環とする学校保健に、校長の指揮の下、衛生係に替わって専任の専門知識をもつ学校看護婦、後の養護教諭を加えれば、これは日本的な学校保健の姿そのものである。そして、その性格は教育的である。この時期に既にこのような動きがあったが、本格的に成長したのは後のことである。しかし、この時期に基本的な骨格は既に形成されており、したがって日本的な学校保健の原型がここにあると結論づけることができるのである。

 以上の検討から明らかになったことは、教育的学校保健は、養生的な健康保護法の目的と教育的性格を残したまま、衛生的な健康保護法の方法を取り入れる形で融合することで成立した。その教育的な性格は、明治初期には明確な形で引用され、その後も日常的な学校の諸活動のなかに形を変えて息づいてきた貝原益軒の養生思想によって形成されたものである、と結論づけることができる。

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