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博士論文要旨

論文題目:明治期小新聞の研究
著者:土屋 礼子 (TSUCHIYA, Reiko)
博士号取得年月日:2001年6月13日

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 本論文は、日本の大衆ジャーナリズムの歴史的源流である、明治期における小新聞(こしんぶん)の実態を実証的に明らかにしようとするものである。小新聞とは、近代日本のマス・メディアの中核をなしてきた『朝日新聞』『読売新聞』といった全国紙の直接の起源であるばかりでなく、明確な政治的立場を持たず不偏不党を標榜するこれらの新聞の原型であると考えられる。こうした政治的中立性を掲げて日本独自の発展を遂げた新聞を山本武利は、「日本型新聞」と呼んだ。これは欧米の新聞に典型的な高級紙と大衆紙という区分にあてはまらない、日本の新聞の特殊性を強調する呼び方であるが、実際には少数エリートに読まれる高級紙が存在せず、そうした区分がない国々も多い。そうした国々との比較にも開かれるために、筆者は「日本型新聞」の代わりに「国民的大衆紙」または「国民型大衆紙」という呼称を用いたい。すなわち、十九世紀末に東京と大阪という都市で生まれた小新聞が、二十世紀に政治的中立性を掲げる国民的大衆紙(national popular papers)として発展したという観点である。

 しかし、大衆紙の成立という現象、あるいは新聞の大衆性とそれに対応する社会構造という問題は、新聞研究そのものを導く大きな契機であったにもかかわらず、大衆紙に関する研究は、新聞の歴史的研究において必ずしも中心的な課題として取り上げられてこなかった。新聞はまず政治過程の一部をなす言論機関として叙述されてきたし、新聞各紙の興亡を述べた新聞史でも、新聞の大衆性は、新聞の商業化の進展過程でより多くの読者を獲得するための方策として、通俗、娯楽、センセーショナリズム、煽情主義、スキャンダリズムといった非政治性と対になることばで語られてきた。すなわち、一方で大衆紙は通俗的で一段低い新聞として軽侮され、倫理的な批判を受けながら、他方では政論新聞から営利新聞、商業新聞へという新聞の発達史において何らかの発展段階を示す現象として触れられ、多数読者を勝ち得た経済的成功例として称揚されてきた。しかし、新聞あるいはニュースの大衆性とは何かと正面切って問うならば、歴史的研究は漠然とした曖昧さを繰り返してきたと言えるだろう。

 たとえば、明治前期の小新聞、明治後期に赤新聞と呼ばれた『萬朝報』や、さかんにジャーナリズム批判が展開された大正末期から昭和初期の大衆紙、あるいは現代の夕刊紙・スポーツ紙と呼ばれる新聞群まで視野におさめれば、新聞の大衆性とその指標には時代的な変遷があり、それらを比較し関連づけた考察は、充分に行われてきたとは言いがたい。またそれらと諸外国における大衆紙の現象、たとえば1830年代のアメリカ合衆国におけるペニー・プレスや、1840年代の英国における日曜紙の登場、1890年代のイエロー・ジャーナリズムなどは、単なる比喩として語られる以上に、綿密な比較がどれほど行われてきたであろうか。

 そこで本論文では、そのような比較を可能にする基礎的議論として小新聞を総合的に分析する。具体的な方法としては、残されている小新聞の新聞紙面を資料の中心に据え、小新聞の世界そのものに密着し、小新聞の作り手と読み手がどのように新聞というメディアに関わり、またそれを社会的な空間として創り上げていったのかを、文体、視覚的要素、読者の社会層、筆禍事件など、さまざまな角度から綿密に追ってゆきたい。俗悪で低級であるという評価や偏見にとらわれず、そうした価値観自体も対象化しながら、小新聞の内側から新聞と人々の関係を見つめなおす作業こそ、大衆紙および大衆ジャーナリズム研究にとって最も基本的で重要だからである。

 まず、そのような小新聞の実証的分析に入る前に、「小新聞」という語とその概念がどのように定義されてきたのかを第一章でふりかえってみた。最初に小新聞という名称とその概念を体系的に整理したのは、野崎左文である。彼は日露戦争中の明治三十八年(1905)五月発行の雑誌『明星』に掲載された「昔の新聞談」で、小新聞と大新聞を十項目にわたって比較した。後にそれを改稿した「明治初期の新聞小説」(『私の見た明治文壇』1927年所収)では、八項目をあげて大新聞と小新聞のちがいを説明した。その共通項は、(1)新聞史の寸法の差異、(2)ふりがなの使用、(3)政治を論ずる社説の有無、という三点であり、これが大新聞と小新聞のちがいを決定する大きな要素であったとみられる。一方、初出と改稿では、(4)雑報記事の内容、(5)連載小説の有無、(6)記者層のちがい、(7)読者層の相違、の項目に関して比重のちがいがあった。また、海外ニュース記事の有無、広告の多少、文体の差異、価格差、呼び売りの有無については、初出と改稿で言及が一致しなかった。

 野崎左文によるこの二つの回想記の間に、小新聞に関する記述が新聞史で始められた。最初は朝倉亀三『本邦新聞史』(1911=M44)で、「時事問題を痛論せる社説を掲載し、振仮名を附せざる新聞紙を世に大新聞と呼び、俗談平話を主として総振仮名を施したるものを小新聞と称せり」と簡単に定義し、その起源を「明治六年一月二十五日創刊の『東京仮名書新聞』同年二月十五日創刊の『まいにちひらかなしんぶんし』等に発す」とした。ついで小野秀雄『日本新聞発達史』(1922=T11)が、第七章「所謂小新聞の創刊」と題した十六頁にわたる叙述で小新聞を取り上げた。小野はその起源を「明治二年四月二十九日内外新報の編者であった橋爪貫一が東京で出版した『開知新報』である」とし、「初めて小新聞の本質を完全に備えた新聞が起った」のは、明治七年の『読売新聞』、翌明治八年の『東京絵入新聞』『仮名読新聞』の創刊によってであったと論じた。小野は小新聞と大新聞のちがいを、体裁、文体、官令、論説、雑報、読物、投書、記者、読者、販売法、条例、部数の十二項目に整理し、大新聞=政論本位=輿論を担う新聞、小新聞=娯楽本位=報道を担う新聞、という対立図式を描き出した。さらに小野は、この対立が日清戦争を境に無効となり、「比較的品位を重要視して通信設備の完たきものを大新聞と称し、品位よりも時好に投ずるを主とする者を小新聞と称することとなった」という転換にも言及した。

 こうした朝倉や小野の論には、小新聞の本質的使命は、非知識人の啓蒙啓発にあるが、卑俗で興味本位の娯楽紙となってしまうのは逸脱である、という視点がこめられている。これは大正期において、新聞の営利主義を批判し、倫理性や公益性を重視して新聞の質を高めようとする新たな新聞研究の興隆とつながっている。小野は民間の好事家たちによる新聞の歴史的研究と、新聞事業興隆のための実用の学としての新聞学を、新聞の社会的機能を論じるアカデミックな新聞学に止揚しようとした。その背景には、川辺喜三郎や長谷川如是閑、戸坂潤などによる、世論機関としての新聞、資本主義社会における商品としての新聞という議論があり、その中で当時の大衆紙のセンセーショナリズム批判に対する歴史的投影として、小新聞が重要な表象になっていた。すなわち、小新聞は産業としての新聞事業の起点として肯定され、同時に通俗化の源として断罪されたのである。野崎左文の記述の差異もそれに影響されているとみられる。

 このような認識の下で、小新聞の研究は、小野秀雄および野崎左文による枠組みに基づいて展開した。戦後の新聞研究は、小新聞の娯楽性・通俗性を重視する方向ですすんだが、一九五〇年代以降、議論の対象となるメディアは映画やラジオ、週刊誌、テレビと拡散し、新聞の娯楽性・大衆性への注目度が相対的に低くなったせいか、小新聞に関する議論はさほど高まらなかった。したがって戦後の小新聞研究は、一九三〇年代の問題意識をゆるやかに引きずったまま、新聞史研究というより狭い領域での局地的課題に縮小されてきたといえるだろう。

 では、いったい小新聞が発行されていた明治前期の人々は小新聞をどのように捉えていたのだろうか。第二章では当時の新聞雑誌を主な資料としてこれを検討した。小新聞の最初といわれる『読売新聞』が創刊した頃には、この語はまだ成立していなかった。「仮名書新聞」「平かな新聞」あるいは「傍訓(ふりかな)新聞」という呼び方が一般的であった。「小新聞」という語が使われた始めたのは、明治八年(1875)末頃かららしい。特に『仮名読新聞』が、同じ横浜新聞社から発行されていた『横浜毎日新聞』と区別するために、大新聞・小新聞という呼称を積極的に使った例が目立つ。「小新聞」の語が定着したのは、新聞が政党化し、政党系のふりがな付き新聞が発行されるようになってからである。「小新聞」はふりがな付き新聞の総称として受け入れられると同時に、一種の蔑称になった。それは小新聞における読者数の優位と低い価値評価の不均衡を反映しており、実際に小新聞と大新聞の格差が縮まるにつれて、「小新聞」は蔑称の意味を強めたと考えられる。紙面における実質的な大新聞・小新聞の区別は、明治十九年(1886)に『郵便報知新聞』が率先した改革により形骸化したが、「小新聞」にこめられた評価と偏見は日清戦争前後まで残存した。

 以上を踏まえて、本論では「小新聞」の語を、近代日本における新聞の商業化と通俗化の第一段階の形態を表すものと考え、その起点、すなわち明治七年(1874)年の『読売新聞』の創刊から、明治十九(1886)年『郵便報知新聞』が振り仮名を採用するまでの間に創刊された、総振り仮名付き新聞を指すものとする。

 いままでの研究では、主に明治十三年頃までの初期の小新聞が議論されてきた。また、それ以降は小新聞自体が変貌したと考えられる。そこで第三章から第七章までは、初期の小新聞を対象に、その成立の背景と小新聞が切り開いたコミュニケーションの世界を多面的に分析した。

 まず第三章では、小新聞の読者と当時の言語階層との関係を論じた。日本における新聞というメディアの考察にあたって重要なのは、識字の階層性であろう。すなわち漢字とかな文字という文字の修得の段差に対し、全く文字の読み書きの出来ない非識字層、かなの読み書きはできるが漢字の読み書きがおぼつかない準識字層、漢字とかなの両方を読み書きできる識字層という三層を設定するのが妥当であろう。これに応じて錦絵新聞、小新聞、大新聞というメディアの階層性を仮定することができよう。

 この仮定に基づいて、当時各地で行われたリテラシイ調査を検討してみると、男性の識字率に対して女性の識字率は約半分以下であり、地方の差も大きい。特に農村地域においては、大新聞を読みこなせるほどの識字者は、二%ほどのごく少数であったと推測される。しかし明治九年(1876)の東京府のリテラシイ調査によれば、男性の八割以上、女性でも六割以上が、「書ヲ読ミ字ヲ書キ得ル者」とされ、準識字または識字層に該当すると考えられる。この識字人口と、当時の大新聞・小新聞の推定読者人口をつきあわせると、東京における大新聞の読者は識字人口の約一割、小新聞は約二割と試算される。識字とメディアの階層性に関する仮定からすると、新聞を読まない準識字層がかなり大きかったと思われる。また身分階層との対応を考えると、華士族の約七割が大新聞の推定読者にあたり、その残りと平民の約二割が小新聞の読者であったという想定がなされる。小新聞が成立したのは、このような都市における識字率の高さと男女差の小ささ、また華士族と平民という階層差が背景にあると考えられる。

 第四章では、「談話体」と呼ばれる小新聞の文体を検討した。小新聞は大新聞で採用された漢文訓読体ではなく、総ふりがなという方法によって話しことばを取り入れた。当時「俗談平話」と呼ばれた小新聞の文体は、「言文一致体の先駆」という評価を得ているが、漢字漢語になじみのない準識字者や非識字者に漢字を読ませるように工夫した文体で、ふりがなによる話しことばが主で漢字まじりの文章は従という構造であった。こうした小新聞におけるオラリティの重視は、当時小新聞が呼び売りという方法で販売されていたことと関係がある。つまり、新聞記事の一部を読んで聞かせながら歩く売り子の呼び声につられて一枚買いをする「聞く」読者が、当時の小新聞を支えていたのである。だが、こうした呼び売りは押し売りなどのトラブルの種になり、西南戦争をきっかけに自主規制され、明治十二年(1879)以降は、政府機関によって禁止された。これに従って、小新聞における「俗談平話」の文体は減少し、かわりに続き物や見出しなどの報道形式が定着していった。

 第五章では、旧来の視覚メディアである錦絵と小新聞の関係を明らかにし、絵入り新聞というジャンルが生み出された過程を論じた。絵入り新聞の鼻祖といわれる『東京絵入新聞』は、実は大新聞『東京日日新聞』が支援して創刊されたらしい。その創刊に先立ち、『東京日々新聞』と題する錦絵のシリーズが刊行され、これに『東京日日新聞』本紙の創刊スタッフが関わっていた。さらにこれらのスタッフは『東京絵入新聞』の創刊にも携わっており、錦絵新聞が絵入り新聞の創刊の契機になったと推測される。

 では、錦絵新聞とはどのようなメディアだったのであろうか。錦絵新聞に関する小野秀雄、宮武外骨、原秀成の先行研究を踏まえ、筆者は七百五十点以上の原資料を調査し、その全容を明らかにすることに努めた。錦絵新聞は明治七年(1873)八月に発刊された『東京日々新聞』と題するシリーズが最初で、それが評判になり、これをまねた四十種類以上の錦絵新聞が東京・大阪・京都などで発行された。それらは新聞記事をもとにしてニュース=「新聞」を絵にした木版による多色刷り版画で、その生産は前時代から続く錦絵(浮世絵版画)の工程に基づいて行われ、絵草紙屋から出版された。特に大阪では、日刊で配達される錦絵新聞も登場し、定期的で視覚的ニュース・メディアとして機能していた。錦絵新聞は絵とふりがな付きの文章によりニュースを伝えるという点で、浮世絵師が雑報の挿絵を描く絵入り小新聞の可能性を開いたのである。やがて小新聞の普及とともに、錦絵新聞の読者たちは小新聞の読者に移行し、版元である絵草紙屋は新聞販売を担うようになった。つまり、錦絵新聞はニュース=「新聞」とは何かさえわからなかった人々を新しいメディアへといざなう広告宣伝の役割を果たし、小新聞の成立基盤を視覚的な方向から準備したと考えられる。

 第六章では、小新聞の投書欄に注目し、初期の代表的小新聞三紙『読売新聞』『東京絵入新聞』『仮名読新聞』における投書件数と投書者の階層を分析した。小新聞の投書の掲載件数は、明治九年がピークで、三紙合わせて月に三百件以上に達する時もあったが、その後少しずつ減少している。投書に付された筆名などから投書者を同定して数えると『読売』で2650人、『東京絵入』で688人、『仮名読』で539人が確認され、複数の新聞にまたがって投書している人数を引くと全体で3721人であった。このうち、一人あたりの投書件数が非常に多く十件以上にのぼる、いわゆる投書家と呼ばれた常連投書者は、各紙あわせて89名確認され、全投書者の2.4%にあたる彼らが全投書件数の四割以上を占めていた。投書者の地域構成は各紙によってちがいがあるが、七割以上が東京在住者であった。また投書者のうち、性別、出身地、職業などの履歴が明らかになった五十九名に関して分析を行い、男性が圧倒的多く、江戸の出身者および武士と町人の階層出身者が半数を占め、年齢構成は幅広いという結果を得た。

 こうした投書者は新聞と読者をつなぐコミュニケーションのなかで、一方では、小新聞の取材活動を補い情報を提供する役割をつとめ、他方では投書者同士で新聞記者を含めた人的交流を広げ、読者に親しみを与えた。彼らは主に江戸-東京という都市文化の連続性に基づいて、浄瑠璃から端唄、川柳、狂歌、漢詩に至るさまざまな韻文形式を駆使し、詩歌の替え歌を楽しんだ。大新聞には見られないこのような表現は、小新聞の投書活動は口頭のコミュニケーション活動と連動し、投書者の交遊が投書家親睦会に発展する文芸サロン的な性格を持っていたことを示している。

 第七章では、小新聞の筆禍の実態を大新聞と対照させながら明らかにした。『仮名読新聞』における筆禍報道をもとに、明治八年から十三年までの大新聞五紙と小新聞三紙の筆禍事件を整理すると、総件数では大新聞も小新聞もほぼ同数だが、小新聞の筆禍の98%以上が讒謗律による筆禍で、大新聞に見られる新聞紙条例の犯罪教唆・国家転覆・成法誹毀に問われたものはなく、また大新聞に課せられたような長期の禁獄や多額の罰金刑はあまりなく、罰金五円という軽罪が七割以上であった。また筆禍内容を分析すると、大新聞では誹毀の対象とされた人物は県令や学校教員、警察官吏など政府機関の役人あるいは元家老などの華士族であるのに対し、小新聞では市井の一般人が対象で、しかもその約三割が女性であった。小新聞の筆禍事件のほとんどは、不倫などの醜聞、養子と義理の親の不仲、盗難や詐欺・横領などの犯罪を扱い、大新聞の筆禍は主に、地方会議の紛糾、条例の誤用や規則違反、公職者の使途不明金などを批判する記事によって起きている。ここに、文明開化を唱えながら勧善懲悪の正義を市井の人々を相手に展開した当時の小新聞の性格が現れている。

 第八章から第十一章では、これまで十分に実証的に論じられてこなかった中期および後期の小新聞を対象に、小新聞がどのような変化と発展を遂げたのかを、蓄積の乏しい小新聞の各紙研究を進めながら検討した。

 まず第八章では、自由民権運動期の代表的小新聞のひとつである『いろは新聞』を取り上げた。この新聞は仮名垣魯文が『仮名読新聞』についで主宰した小新聞で、明治十二年(1879)十二月五日に創刊された。『いろは新聞』は、『仮名読新聞』から仮名垣ファンを吸収しただけでなく、低価格で部数を伸ばし、横這いないし低減傾向にあった東京紙の中で、四千部以上に増加した。『いろは新聞』は、『仮名読』と同様に魯文による花柳界ゴシップを売り物にしたが、『仮名読』で常設だった投書欄がほとんどみられなくなった。もはや投書欄が編集側と読者を結ぶ活気あふれる解放区だった時代は終わっていた。『いろは新聞』は挿絵を常用しなかったが、風刺と諧謔に満ちた文章を特色とし、「いろはポンチ」という風刺絵欄も試みた。しかし、「猫」「鯰公」という隠語さえ危険なほど言論弾圧が苛烈を極め、明治十六年(1883)に新たな新聞紙条例が施行されると、魯文は第一線から退き、翌年四月には仮名垣一派と『いろは新聞』との関係は絶えた。

 『いろは新聞』の広告欄を、当時の小新聞の経営状況と読者層を探る手がかりとして分析すると、明治十年前後の小新聞では号あたりの広告件数が五~六件で、紙面全体の一割程度を占めていたにすぎない広告欄が、明治十五年の『いろは新聞』では号あたり十~十五件に増え、紙面に占める割合も二割前後に高まっているのがわかる。業種別にみると、出版、売薬・衛生関係、銀行・保険関係の三つが多く、他の小新聞とくらべて小規模な広告主が目立った。これらの広告による収入を試算すると、購読料収入の一割にも値しないが、経費を差し引いた利益から考えると重要な収入源だったと思われ、実際に正月の特別付録において有力広告主へのサービスも見られた。

 『いろは新聞』は戯作の流れを受け継ぎ、江戸の都市文化の愛好者に支持されたが、仮名垣魯文個人の文才に負うところが多かった。しかし、広告収入の重要性を認識し始めていた小新聞は、正確で迅速な報道と安定した組織的経営により発行部数の増大をめざす方向へむかいはじめ、一個人の言論の才であがなえる新聞経営はすでに時流からはずれつつあった。『いろは新聞』の終焉は、前時代から引き継いだ言語文化の限界を露呈し始めた戯作者集団と、資本主義化する新聞経営の別れであった。

 ついで第九章では、東京で叢生した政党系小新聞の分析を通じ、明治十年代後半における小新聞の変貌を論じた。具体的には、改進党系の『絵入朝野新聞』と自由党系の『絵入自由新聞』および『自由燈』を取り上げ、その親にあたる大新聞『朝野新聞』と『自由新聞』との関係を明らかにした。まず発行部数では、いずれの小新聞も大新聞の倍以上に達し、販売収入でも大新聞と小新聞が拮抗していた。また大新聞と小新聞の記者の間にあった隔たりが、大新聞の記者が小新聞の編集に加わるという形で取り崩されていったのが確認されたが、小新聞から大新聞に加わった記者は一名だけで例外であった。

 だが、こうした交流が与えた影響は新聞ごとに異なった。『絵入自由』では大小新聞出身の両記者がかなり理想的な協力関係を築き、政党色を脱していった。『自由燈』では、創刊当初は大新聞記者が強力な影響力を発揮したが、運動の衰退と共に彼等が新聞から離れ、次第に戯作者出身の記者が中心となっていった。また『絵入朝野』は途中から大新聞記者が多く移籍し、大新聞の指導による紙面改良が推進された。このように政党系小新聞は、大新聞出身記者による小新聞改革の実験場であったといえよう。

 政党系小新聞は、ふりがな付きの論説欄を定着させ、続き物と挿絵に西欧から輸入した題材や技術による新風を送り込んだ。また広告料金を体系的に細かく定め、祝祭日などによる休刊日を減らし、無料逓送による地方読者の拡大にも積極的に取り組んだ。そして傍訓新聞だからといって卑しまれるべきではなく、小新聞は大新聞と堂々と肩を並べ、あるいは大新聞以上に影響力を持ちうる存在であると主張した。しかし、政党系小新聞は、小新聞の評価を上昇させ、大新聞・小新聞の接近を率先したが、大小新聞の区分自体を完全に覆すには至らなかった。政党系小新聞は、結局親にあたる大新聞の見識と権威に支えられていたのであり、そこに強みと同時に限界があった。そのため政党の瓦解などで大新聞が衰退すると、これらの小新聞は読者を引きつける求心力を弱めていったのである。

 第十章では大阪の小新聞に目を転じ、なぜ大阪から国民的大衆紙が生まれたのかを考察した。大阪で最初の日刊紙は明治八年(1875)十二月創刊の小新聞『浪花新聞』であった。その主筆だった宇田川文海は、地元の文化人ネットワークを投書によって新聞に結びつけた。新聞投書家たちは新聞演説会を開催して新聞の普及に貢献した。文海は明治十年八月創刊の小新聞『大阪新聞』に移り、これが大新聞の『大阪日報』の発行元である就将社と合併すると、両紙に筆を執った。当時の大阪における大新聞と小新聞の垣根は低く、大新聞が雑報の続き物を載せ、また相場の付録を付けていた。

 明治十一年(1878)十二月創刊の『大阪でっち新聞』と翌年一月創刊の『朝日新聞』が新たな転換を引き起こした。当時、小新聞読者の動向を握っていた投書家たちを『朝日新聞』は積極的に取り込み、他紙を引き離して部数を拡大した。一方、山脇巍と津田貞という元大新聞記者二人を擁し、自由民権運動の高まりに呼応して、ふりがな付きの論説を最初に試みた。しかし、大阪では政党系の小新聞は誕生しなかった。『朝日』は経営危機を乗り切るため報道と娯楽中心に徹し、『魁新聞』や『此花新聞』との激烈な競争を展開しながら、廃刊に追い込んだそれらの新聞読者を吸収し、また大新聞の政党化と衰退をよそに、発行部数を伸ばしていった。

 このように進展した大阪の小新聞の特徴は、三点に整理される。第一に大阪では東京とちがい戯作の伝統と文筆者層が薄かったため、大小新聞の垣根が低く境界が明確でなく、主筆格の記者でも移動が多く行われ、大新聞と小新聞が相互の要素を取り入れるのに抵抗が少なかった。第二に、大阪の新聞では経営側の意向が新聞を左右し、新聞を商売と見なす出資者に対し、算盤にあわない記者のほうが放り出された。第三に、大阪では新聞は文芸の器ではなく、情報媒体としての側面に関心が高かった。

 かくして、事業としての安定と実利を追求する経営者と、伝統や派閥に縛られない記者たちとが、商売に有利な続き物と事実の迅速な報道という小新聞の要素を主眼とし、大新聞の要素も取り入れて中新聞への脱皮を導いた。それとともに東京のように主筆の個性による新聞づくりではなく、電信網や販売網に投資する組織的な新聞づくりが大阪ではいち早く進み、それが大阪で生まれた『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』を全国紙へと発展させて行く基礎を築くのである。

 そこで第十一章では、東京における新たな小新聞の誕生、すなわち後に大正・昭和初期まで存続する『都新聞』と『やまと新聞』の前身である、『今日新聞』と『警察新報』を対象に、小新聞というカテゴリーの変化と終焉を論じた。

 『今日新聞』は明治十七年(1884)九月に創刊された夕刊紙で、仮名垣魯文が主筆であった。夕刊紙という試みとしては二番目で、官報や他紙の記事を材料に紙面を作成する当時の新聞編集から考えて、当日の夕方に他紙より安い価格で同じ内容が読めるというのは魅力であり、他紙には脅威だったが、当時の技術的経済的条件では、夕刊紙の速報性は十分発揮されなかった。また魯文の諧謔の筆もかつての生彩はなく、小新聞の改良が論じられる中で現状を打破できずに苦しみ、魯文退社後、持ち主を転じた後、朝刊紙となり『みやこ新聞』と改めて継承されていった。

 一方、明治十七年(1884)十月に創刊された『警察新報』は、警察が扱う事件や警察に関する事柄を報道するという趣旨で、総ふりがなではあるが続き物も挿絵もないという、小新聞の類型を脱した地味な新聞だった。これは『東京日日新聞』の発行元である日報社が企てた小新聞だと推定される。つまり、官報の創刊などにより部数が凋落していた『東京日日新聞』の減収を補い、また信頼性と品格のある新しいタイプの小新聞を姉妹紙として創刊したのではないかと思われる。しかし『警察日報』の売れ行きは低迷し、明治十九年十月に改編されて『やまと新聞』として再スタートした。

 條野伝平が率いる『やまと新聞』は、『郵便報知新聞』がその年の九月に発表した改革宣言によって引き起こされた新聞界再編の嵐のただ中に創刊されたが、『東京日日新聞』の人脈を背景に、人気噺家・三遊亭円朝の口述筆記の連載と芳年による挿絵で人気を集めた。落語講談の連載を初めて取り入れた『やまと新聞』は、急速に部数を伸ばし、東京紙のトップに躍り出た。以後、大新聞と小新聞の別なく小説や読み物が連載されるようになり、中新聞化の過程は促進された。

 こうして小新聞と大新聞という二層構造は明治二十年代に崩壊し、記事の総ふりがな、続き物、挿絵といった小新聞が率先して行ってきた工夫は、ほとんどすべての新聞にスタンダードとして定着し、それとともに小新聞というカテゴリーは事実上、消滅した。大衆紙の歴史における小新聞の意味は、近代メディアの普及という観点からは、大衆紙の第一段階とみなされる。しかし、アメリカ合衆国や英国やと異なるのは、議会も選挙制度も整備されない状態において、民主的な言論はいかにして可能かという命題を、ふりがなという方法と、江戸ではぐくまれた戯作の蓄積を糧にして、展開したのが小新聞だったという点である。

 東京でも大阪でも小新聞は、都市社会における身分差を越えた文芸サロンの機能を担い、草双紙の要素を取り込み、俳諧や都々逸のサークルを巻き込み、芝居や講談と連携しながら、大新聞の創り出した漢文訓読体の世界と並行して、前時代に芽生えていた文芸的公共性をすくいあげ、押し広げた。こうした初期の小新聞における文芸は、大新聞における文芸と同様、政治と文化という対立で捉えられるように政治と分離していなかった。だが、こうしたサロン的文芸の世界は、自由民権運動の時期に大きく揺さぶられ、解体し始める。

 政党系小新聞は、大新聞の漢学的文芸と小新聞の戯作的文芸という分断を踏み越えて、正面から政治を論じるスタイルを小新聞に持ち込み、ひとつの市民的公共性を立ち上げようと試みた。しかし自由民権運動は、下からの民衆文化を吸い上げるのではなく、遊郭を背景にした娯楽の部分を文明開化時代の民主的議論にはそぐわぬ卑俗な遊興だと蔑視し否定しようとした。こうした動きは、小新聞においては、論説の設置と戯作的な続き物の改良という二方向で具体化した。これにより文芸サロンの世界を、国民的統合を可能にする文学へと発展的に解体する契機が拓かれ、同時に政治言論と学問文芸の分離も導かれた。読者も含めた参加と交流の場としての文芸の機能は失われ、論説が政治的議論を引き受ける一方で、文芸は非政治的領域へ退くようになった。

 政府による言論弾圧と官報の創刊は、大新聞を衰退させ、小新聞の非政治性を強めた。政府公報の役割を担っていた小新聞は、国家の言論機関としての大義名分を失うとともに、商品としての新聞に転換せざるを得なかった。政治的に当たり障りのない娯楽読み物と報道を中心とする企業化が小新聞の歩む道となった。新聞の企業化を牽引したのは、大新聞では『時事新報』であり、小新聞では『朝日新聞』であった。文芸サロンに縁のなかった人々が、大新聞・小新聞の間を身軽に乗り越え、その二層構造を積極的に取り崩し、報道媒体としての新聞、広告媒体としての新聞、商品としての新聞の可能性を切り開くことになった。

 結局、市民的公共性を背景とした高級紙・大衆紙は日本では成熟しなかった。自由民権運動の過程で、大新聞と小新聞が接近する一方、政治と文芸は分離し、別々に独立したジャンルになり、明治半ばには、一面の論説欄で政治的議論をする政治記者が上位で、三面の社会種や文芸欄担当者は下位という序列の中に編成され、それらを総覧してみせる総合的な新聞の型がつくりあげられていった。かつてのサロン的文芸は否定され、国民文学あるいは大衆文学の名の下に編成しなおされ、続き物は連載小説となって定着した。

 こうした商業新聞の中から国民型大衆紙が成長した。それがはっきりと姿を現すのは、日露戦争以後、大正時代にかけて大阪系の二大紙が全国制覇を争うようになってからである。欧米の高級紙と大衆紙という対立図式からすれば、国民型大衆紙は、政治的主張を明確にかかげ少数のエリートに読まれる高級紙ではない。国民型大衆紙は欧米の高級紙のように一都市に根ざした市民新聞ではなく、都市から発しながら国家に基盤を置く大衆紙である。また、この全国的大衆紙は、政党と結びついた各地方紙と補完的な関係にあった。この国民型大衆紙は、現在、ナショナリズムからの脱却をどのように目指すかという曲がり角に直面している。かつて小新聞と大新聞が示した多様で多層な新聞のありようは、現代の多様なメディアのありかたにも示唆を与える、大衆メディアの原点なのである。

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