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博士論文要旨

論文題目:如来教の思想と信仰 ―教祖在世時代から幕末期における ―
著者:神田 秀雄 (KANDA, Hideo)
博士号取得年月日:1997年10月8日

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1802(享和2)年、尾張国愛知郡熱田新旗屋町(現、名古屋市熱田区旗屋)に住む元武家奉公人の女性きの(=喜之。1756~1826。開教当時47歳)によって創唱された如来教は、近世後期から明治期のわが国に開教した一連の宗教(いわゆる「幕末維新期の民衆宗教」)の1つである。黒住教、天理教、金光教などに比べて開教時期の早さが注目されているその如来教を修士論文のテーマとして以来、筆者は同教に関わるいくつかの論考を発表してきたが、1990年に上梓した本書では、その時点までに披見しえた関係史料をほぼ網羅的に使用しながら、教祖在世時代から幕末期までを対象として、如来教の成立過程、宗教思想、信仰活動の実態とそれらの歴史的特質を、総合的に解明することをめざした。なおその際、文化文政期前後の名古屋一帯における庶民信仰の展開状況と如来教成立の関係、ことに金毘羅信仰の流行と如来教成立の関係に新たな焦点をおいた。本書の全体は、「序章 如来教研究の意義と本書の視点」「第一章 如来教の開教」「第二章 如来教の宗教思想」「第三章 如来教の信仰活動」「史料編」からなっており、「史料編」には、筆者が独自に公開を得た史料のうち主な5点の全文を翻刻し、校註を加えて収載している。以下、史料編を除く各章ごとに要旨を記す。


序 章 如来教研究の意義と本書の視点

如来教(分派の一尊教団を含む)は、教団の規模や布教状況からすれば、現代日本の宗教界ではかなりマイナーな位置にある。しかし同教には、・教義内容が現世中心主義的だといわれる他宗派と異なり、「後世」を問題とする教義を掲げている、・伊勢信仰(「おかげまいり」に現れた神威)や富士信仰の社会的流行を背景として成立している他の宗派とは異なり、これまでその内容があまり注目されてきていない金毘羅信仰の流行を背景として成立している、という2つのきわだった特徴がある。したがって、如来教がそれらの特徴を持つにいたった歴史的な事情を分析することには、「幕末維新期の民衆宗教」一般の歴史的意義を再考する大きな手がかりが含まれている可能性がある。如来教・一尊教団には、教祖きのの25年間にわたる説教、および教祖に天降った神仏と信者たちとの応答を筆録した膨大な宗教文献(教典)として、『お経様』が伝存するが、『お経様』は神仏分離以前の近世における創唱宗教成立の様相とその信仰活動の実態を伝えるきわめて稀な文献であり、その分析には、近世後期から明治期にかけての日本宗教史の小さくはない書き換えを促す可能性が含まれている。今日、如来教を研究対象とする意義は、およそそれらの点にあるといえよう。(以上「第一節 如来教研究の意義」)

『お経様』がきわめて貴重な宗教文献であることについては、石橋智信による戦前の如来教研究の段階で、すでに概括的な指摘がなされている。しかし、石橋の『お経様』披見は例外的なもので、以後、宗教法人如来教では教団史料を一切公開していない。そうした状況のもと、1971年に分派の一尊教団から教団史料が公開されたことは、如来教研究に新たな展開の可能性をもたらした。また筆者は、一尊教団所蔵の史料群とは別に、一信者から、如来教本部旧蔵史料を含むいくつかの関係史料の公開を得た。「第二節 如来教の研究史と本書の視点」では、大略右のような如来教研究史を辿った上で、近年の村上重良、浅野美和子両氏の如来教研究、ことに筆者の如来教分析の方法を批判し、宗教思想の中世的性格に特に注目しようとする浅野氏の研究に反批判を加え、筆者の研究視点を具体的に説明している。その際、本書は・かつて安丸良夫、ひろたまさき両氏が提起した、各宗派の宗教思想が信者にどのように働きかけ、彼らの主体構造をどのように変革していったか、という視点を意識的に継承する立場に立っている、・神観念や宗教思想は、教義面からのみならず、信者集団の意識面からも解明する必要がある、とする桂島宣弘、しらが康義両氏の提起をも摂取しようと試みている、などの事情を併せて説明した。


第一章 如来教の開教

この章では、如来教の開教に関わる具体的な経過とその歴史的特質について、教祖の生い立ちや前半生の特徴を含めて解明することを期している。まず「第一節 『御由緒』をはじめとするきのの伝記史料について」で、『御由緒』と呼ばれる教祖伝(本章の基本的な典拠)について、その著者や成立年代に考証を加え、つづく「第二節 奉公人きのの前半生」では、主に、幼少時における肉親との死別、短く不幸な結婚をはさんだ長い奉公生活、熱田への帰郷と独り暮らし、法華行者覚善父子との同居と新たな苦難などをめぐって、きのの前半生の特徴を分析した。またその際、きのの最初の神憑りは、信心深かった父に関する幼時の記憶をも背景としながら、直接には、同居人の祈祷師覚善の活動に触発されておこったとみられることを併せて論じた。

「第三節 如来教の開教」では、1802(享和2)年8月と9月の2度にわたる神憑りの後、金毘羅大権現が憑依していることを、きのが約一年を要して、覚善をはじめとする周囲の人間に承認させていった過程を分析している。その際、『御由緒』に伝えられている覚善その他の宗教者による審神のエピソードや、神憑りの真正性を主張するためにきの自身が行ったいくつかの象徴的行動を取り上げ、それらが含む宗教史的な意味を中心に考察を展開した。また『御由緒』に記されている複数の神憑りについて、各神憑りでは、それぞれの目的に関係が深く周囲の人間を納得させやすい神仏が天降っており、そうした金毘羅以外の神仏の登場は、かえって金毘羅大権現の権威を高める結果をもたらしていること、さらに、そのような傾向は教典『お経様』に記された説教にも受け継がれてゆくこと、などの諸事実を明らかにしている。


第二章 如来教の宗教思想

この章では、全体像の概観、神格論(神学の成り立ち)、現世と来世についての捉え方、救済に関する思想という順で、如来教の宗教思想の内容と特質を構造的に明らかにすることにつとめた。そのうち、まず「第一節 概観」では、宗教思想分析に際して基本的な史料となる『お経様』をめぐって、その原本の成立事情、諸編の構成、教祖きのの説教の内容、宗教思想の基本的性格などについて全般的な概観を行っている。

 「第二節 金毘羅大権現 ― 威力と済度の神」では、主に、近世における金毘羅信仰の一般的な流行と如来教神学の形成の関係を論じている。『お経様』には、早い段階から、金毘羅大権現は、諸人救済という釈迦ないし如来の意思にもとづく事業を現実に執行する上で重要な端緒を作った神であり、如来と釈迦を除くあらゆる神仏との比較において優れた神だ、とする主張が広く認められ、そこには、威力ある神・果断な神という、教祖きのの原初的な金毘羅イメージを窺うことができる。一方、一般的な金毘羅信仰では、18世紀半ばから幕末期にかけて、金毘羅とは、かつて保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇の御霊のことだ、とする説が流布していったとされており、その背後には、御霊ないし祟る神の威力に期待する民衆意識があったと推測される。『お経様』のいく篇かに『保元物語』以来の特定のモティーフを継承した展開が含まれていることは、きのの金毘羅イメージがそうした民衆意識の動向の中に位置することを示唆しているといえよう。なお、きのの金毘羅イメージは、御霊・祟り神のイメージと天狗・修験のそれを一体視する方向に発展していったと理解されるが、それらのイメージの源泉は、住居の近くに所在した延命院やどこかの尾張藩士の家に祭られていた金毘羅神像であった可能性がたかい。

宗教思想の深化とともに、金毘羅大権現は、釈迦・諸宗祖・その他の神仏が持つ済度の力をすべて兼ね備えた神として描かれてゆく。如来教神学の最大の特徴は、本地垂迹的な神仏の世界という既成の観念を前提としつつ、威力ある神としての金毘羅大権現という観念の社会的流布を背景に、その世界には如来の意思にもとづく統一的な神仏の秩序が実在し、実際に機能している、という主張を展開しているところにあるといえよう。

 「第三節 『悪娑婆』と『後世』」では、救済思想成立の前提となったはずの、世界の成り立ちに関する教義上の捉え方を扱っている。開教当初から、『お経様』には、現世を否定的な世界(「悪娑婆」)だと捉える一方で、来世(「後世」=「能所〔よいところ〕」)は如来のいるこの上もない良い世界だとする観念が広く展開されている。また「神代」の人間創造と「神代」終了後における人間の出生過程を対比的に描いた、固有の神話と「魔道」に関する教説も、早い時期から現れている。ただ「魔道」というデーモンには、如来の使者という側面が次第に強調されてゆき、やがて金毘羅や如来には「魔道」をも統率する力量があると主張されてゆくことになる。

他方、『お経様』には、現世は人間にとって、来世で救済をうけるための修行場であり、捨て去ることは許されないものだ、とするもう1つの現世観が展開されており、同時に、「家職」を大切に勤めつつ「後世」での救済を願うという信仰上の課題が提起されている。そうした「家職」論には、政治権力者批判と有機体的社会理論の両側面が含まれているが、「後世」の観念の一貫した強調は、現世には如来から衆生済度の使命を与えられてさまざまな人間に受肉している者がいる、という主張を含んでいるものと解釈できる。その意味で「後世」は、《世俗の背後にある王国》(M.ウェーバー)であるとともに、現世を批判する根拠としての他界、という性格が濃厚な観念だと考えられる。

なお、当時の如来教信者たちは、さまざまな不幸の背後に未成仏の霊の働きがあることを恐れ、その霊の慰撫にきわめて熱心だった。当時の社会には、死者の霊は死後ただちに安定を得ず、その成仏いかんは子孫がその霊の供養を丁重に営むか否かに大きく関わっている、とする観念が定着し、同時に祖霊の成仏に障害をもたらす無縁仏の供養(施餓鬼会)が従属的に行われていたのだが、如来教信者たちの右のような意識状況は、死者儀礼に関するそうした観念構造の中で、施餓鬼会執行の要素を肥大化させたものだといえる。換言すれば、彼らは、死後を祀ってくれる子孫があるという事実そのものに《人の生涯の意味》を見出す当時の社会通念から、疎外されつつある人々だったのである。

 「第四節 『三界万霊』の救済」では、筆者がかねて「三界万霊」救済の教義と呼んでいる、救済思想の成立過程とその構造を扱った。『お経様』における「三界万霊」または「万霊」の語は、初期には無縁仏とほぼ同義に使われているが、次第に固有の意味を込めて使われるようになる。特に如来教の確立期に属する1812(文化9)年には、信者が日常的につとめるべき所行として「三界万霊」の救済祈願が定められ、以来『お経様』には、「三界万霊」の救済に関する話題が多くなってゆく。そして2年後には、「万霊」の救済こそが如来教開教の目的だとする主張が示されて、さらにこの教義は深化を遂げてゆくのだが、その深化過程は、「万霊」の語義変化とともに、無縁仏、有縁仏、現世の人間は本来、区別する意味がないものだ、という文脈が濃厚化する筋道を辿っている。特に文政初年の『お経様』諸篇では、「万霊」と現世の人間との不可分性に関わる主張や、子孫に弔われている有縁仏も「万霊」であるとする主張が顕在化するとともに、多くの人間が「後世」の(如来の)秩序を根拠としてこの世を生きるようになる日が迫っているとする終末意識の昂揚が顕著になり、「後世」への期待は最高潮に達してゆくのである。

「第五節 宗教思想の歴史的意義」では、「幕末維新期の民衆宗教」の宗教思想一般に対する如来教の宗教思想の固有性と共通性を具体的に挙げながら、特に「三界万霊」救済の教義の歴史的意義について、大意次のような趣旨を論じている。

 霊の救済ということがらは、霊友会や立正佼成会など、近代日本に生まれたいくつかの宗教において中心的な位置を占める問題であるが、如来教が提起している霊の救済と霊友会などが提起しているそれとの間には、個々の霊の救済を問題にするか否かという点で、大きな次元の相違がある。如来教の「三界万霊」救済の教義は、人間の存在はその死後における子孫による追善供養が保証されてはじめて意味を持つ、という当時の社会通念を断ち切ろうとしている教義なのであり、そうした意味における救済を提起している如来教には、霊の救済という外面的な共通性に関わる視点を越えて、むしろ天理教や金光教に接近する性格を認めるべきだと考えられる。如来教と天理教に共通する救済の論理に注目するとき、如来教は、「幕末維新期の民衆宗教」における救済の論理の有力な型を、初発的に提起した宗教として位置づけうるといえよう。


第三章 如来教の信仰活動

この章では、できるかぎり信者たちの動向の側から、如来教の信仰活動の実態と特質を解明することを期した。その際、如来教の開教期(1802=享和2年~1826=文政9年)を4つの時期に区分し、第四節まではその時期ごとに信者たちの動向を追った。また第五節では、金毘羅信仰一般と如来教との関係について、さらに第六節では、教祖きの没後の幕末期における信仰活動の特質について、それぞれ考察を加えた。

「第一節 開教初年の動向」では、如来教がまだ成立過程にあった1804(文化元)年から1811(同8)年までについて、主に、・この時期の『お経様』には、金毘羅が諸人済度のために、出自の貧しい女であるきのに天降った由来など、未信者を強く意識した自己主張が顕著に認められ、すでに百人を越える人数を集めた説教も行われている、・在来仏教諸宗に対して教祖信仰(如来教)の優越性を主張する発言も次第に目立ちはじめるが、その主張の重点は、信者たちが具体的に関わっている近世仏教への批判にあったとみられる、・この時期の宗教思想展開の主契機は、きのとその側近である覚善との確執や、篤信者の死亡という不幸の体験にあった、などのことがらを明らかにしている。

 「第二節 宗派の確立と講活動の活発化」では、創唱宗教としての如来教が確立した時期にあたる1812(文化9)年から1816(同13)年4月までについて、主に、・きのに対する信者たちの意識に大きな変化が生まれ、きの自身も、神による命名だとする自称を定めたり、開教12周年の一連の説教を実施するなど、教祖としての立場をさらに鮮明に主張しはじめる、・尾張藩士、町人、農民などによる如来教の講組織がいくつも成立し、活発な講活動が展開されはじめる、・教勢の定着・拡大が既成寺院や町役人などを刺激した結果、一方では、信者間に、信仰活動を自主規制する動きや、在来の行儀を如来教に導入する動きが顕在化し、教祖きのが説教活動の中止を宣言するにいたる、などのことがらを明らかにしている。

「第三節 江戸の講中の参入と諸願の増加」では、1816(文化13)年閏8月から1820(文政3)年の尾張藩による弾圧の直前までについて、主に、・信者批判の目的で約5カ月間中断されていたきのの説教活動は、讃岐の象頭山を信仰する江戸の金毘羅講中が如来教へ参入したことを契機に再度活発化すると同時に、如来教の宗教思想はこの時期に最も深化を遂げている、・この時期には、右のような事態を背景に諸願の件数が急増し、その内容も多様化の傾向を示すが、『お経様』には、個別の病気治し願いや縁者の追善願いなどを、説教の場に集った人々一同が願っている様子がしばしば描かれており、そこには、信者たちの意識状況の変化が窺える、などのことがらを明らかにしている。

 「第四節 文政3年の弾圧ときのの晩年」では、1820(文政3)年4月から1826(文政9)年5月のきのの死までの6年間について、主に、・文政3年の尾張藩による弾圧(きのの側近であった法華行者覚善の喚問)は、既成寺院の訴えによるものだった可能性がたかい、・江戸の金毘羅講中の指導者(金毘羅社の神官)だった金木市正は、その弾圧の際、吉田・白川家への入門をきのに薦めたが、神職資格出願は結局果たされずに終わっており、その事実には布教の合法化に対する教祖きのの姿勢が窺われる、・金木は、江戸で大名家にもおよぶ布教を展開し、その活動は流行神的な活況を呈したが、教祖きのは、そうした金木の活動に次第に批判的な立場を明確にする、・この時期の教団史料『文政年中おはなし』には、説教の実施が困難化する中で行われた、地元の信者たちと教祖との対話の様子が記されている、・江戸の講中に向けてきのが口述筆記を送らせた手紙の写『文政年中御手紙』は、江戸の布教活動の様子を伝えているほか、教祖きのの思想形成が、奉公人にとっての道徳的当為を重要な素材として行われたことを示唆する記述を含んでいる、・『お経様』に伝えられているきのの臨終の様子には、キリスト教的な贖罪者観念よりも、むしろ地蔵菩薩信仰の影響を認めることができる、などの分析を行っている。

「第五節 金毘羅信仰と如来教 ― 碩道・金木市正・講中」では、近世の一般的な金毘羅信仰と如来教との関係について、本書の執筆にあたって行った、関係文献の分析およびフィールド調査の結果を紹介している。開教当初にきのが接触した知多郡緒川村の金毘羅道者碩道や、1817(文化14)年に如来教に入信した江戸の金毘羅社の神官金木市正の活動は、修験道や密教の要素をも含む、習合的な性格が相当に濃厚なものだったこと、文化文政期から幕末期にかけての名古屋は、江戸などとならんで金毘羅信仰の流行が顕著だった地域の1つで、当時の如来教はその金毘羅信仰の講活動ともかなり重なり合う部分を持っていたこと、などがその主な内容である。

 「第六節 幕末期における信仰活動とその矛盾」では、教祖きの没後の信仰活動について、小寺一夢(1797~1862)を中心とする名古屋における活動と、きのの最晩年に後継を指名された武州出身の女性きくが、金木市正の講社を受け継いで江戸で行った布教活動の、双方に考察を加えた。その際、彼らの主な活動は、既成の寺院・講組織や上層の武家奉公人(奥女中ら)などへの接近に向けられ、当時の如来教では、固有の教義を持つ宗派としての自覚は深化を遂げえなかったこと、また教祖在世時代から、信者中に占める名古屋の町人と尾張藩士の割合が高かった同教では、幕末期には、有力町人に対する経済的な依存度がさらに深まり、そこには、現世の秩序に対して否定的・批判的な内容を持つ同教の宗教思想と整合しない状況が生まれていたこと、などがその主な内容である。

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