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博士論文要旨

論文題目:健康増進計画における自主活動の位置づけ:長野県須坂市・健康補導員制度の成果
著者:張 勇 (ZHANG, Yong)
博士号取得年月日:2001年3月28日

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1.はじめに

 日本における健康政策の中に健康増進の考えが導入されたのは比較的新しく、昭和30年代末である。それ以来、厚生省を中心に進められてきた日本の健康増進対策は、個人の、しかも身体の健康づくりが中心であり、社会づくりという最終目標まで見据えたものではなかった。例えば、昭和53年から始まった「第1次国民健康づくり対策」は、国民に成人病と生活習慣の関連を認識させ、まず食生活を改善して成人病を防ごうとする政策であり、続く昭和63年からの「第2次国民健康づくり対策」は、それに加えて個人の生活の中に運動を取り入れようとする政策であった。この2次、20年間にわたる日本の健康づくり政策は、疾病を予防するために身体的な機能の改善に照準を当てた健康づくりであったために、最終的には日本人の心情や文化に触れるものにはなり得なかったといわなければならない。それでもこの一連の施策によって、施設の建設、人材の配備などの基盤整備が進み、国民は運動やスポーツを楽しみ、健康水準は向上し、平均寿命が延伸するなど、ある面での成果はあったと評価することもできる。しかし反面、健康の思想を欠いた健康づくりによって、多くの矛盾が出現してきたことも無視できない。それは全国民の間に高まる理由なき健康不安、数値に置き換えて自身の健康を判断する数値主義、増え続ける国民医療費、ストレスの増加、減らない寝たきり、国民各層の体力低下、等々数え上げればきりがない。しかし、何より、こうした身体面だけに向けた健康づくりは、高齢社会の健康づくりとしては、まったく的を射ていないものだといわなければならない。何故ならば、肉体的な健康は、年齢と共に必ず衰えて行くものであり、肉体的な健康が衰えてもなお健康を実感していられる手段がなければ、高齢者は高齢であるというだけで自分の健康に自信が持てなくなるのである。人間は生涯無病という者はなく、例え、現在無病の者でもいずれ老化による機能の低下は避けられない。機能の低下は病気を招くが、老化を病気という者はいない。特にこの高齢社会にあっては、多くの人は何らかの不調を持ち、病気と共存しながら生活しているのである。

 こういう流れから見ると、平成12年度に始まった「第3次国民健康づくり対策・健康日本21」は、一転して、「社会づくり」や「生きがいづくり」を指向した点では評価できるものである。「すべての国民が健やかで、心豊かに生活できる活力ある社会の実現を目指す新世紀の道標となる健康施策である。」と唱われ、「1人1人が稔り豊かで満足できる人生を全うできるようにする」と述べられている。時を同じくして、WHOの健康の定義も50年ぶりに見直しの動きがある。WHOの健康の定義は、「spiritual」という言葉の導入によって、人間の生きる根源を問うものになる見通しである。これらの健康に対する新しい潮流を偶然の一致と見ることはできない。すると、本来の健康づくりとは、根本に人間が生きるとはどういうことかという大きな問いかけに答える営みであって、単に成人病、寝たきり、痴呆を予防したり、寿命を伸ばすことと決して同一ではないということになる。健康づくりは、確かに、身体的、精神的、社会的、そしてそれらを統合した生きる目的すべてに関わる取り組みなのである。

 筆者は、21世紀の健康づくりを個人主体の自主活動で、「自主的に学び、自主的に行う」という理想で描いている。その点では、「健康日本21」も「住民主体」の健康づくりであるといっているが、住民という視点では、まだ行政のものである。「住民対策」ではなく、これを1人1人の問題意識から発した行動として行うという意味を込めて、上記のように表現してみた。

 21世紀の日本の抱える課題は、少子高齢対策と福祉国家建設である。「健康日本21」は、まさにこうした課題の解決に照準を合わせた健康政策なのである。すなわち、少子高齢社会では、高齢者が健康で、いかに長期間介護なしで自立して暮らせるか、これが重要な問題になってくる。しかし、健康づくりは、すぐに成果が現れるものではない。若い時から健康的なライフスタイルを確立させ、生涯にわたってそれを持続して行く以外に確かな方法がないのである。こうした生活を自己選択する価値観を国民に共有させようというのが狙いである。健康と生きがいは、重なり合う部分が非常に多く、特に高齢者では生きがいを持っていることが健康の維持、増進につながっていると、『厚生白書』にも述べられている。しかし、生きがいが必要なのは、高齢者ばかりではない、現代の日本では、若年層も生きがいや張り合いを失っていると、『国民生活白書』にも述べられている。健康づくりは、人間関係から最終的には社会づくりを目指して行われなければならないことが確認される。

 どんな時代でも、誰もが安心して暮らし、与えられた命を十分に生きることが望ましいのはいうまでもない。現代医学の恩恵を受け、寿命では世界一の長寿を達成した日本においても、「安心して」「十分に」という国民の基本的な願いに応えられているかどうか、はたして疑問といわなければならない。

 古く、貝原益軒は、名高い『養生訓』の中で、「すべての人間の生まれつきの天寿は長いものであるが、養生しなければ短命となり、養生をよくすれば長命になる。」と説いた。養生は「衣食住行思」にわたる生活のあり方を説いたものであるから、現代的に言えば、「健康的なライフスタイルの確立」を提唱したのである。本来の健康づくりは技術ではなく、このようにその人の行動や思考、価値観まで含めた広い概念がむしろ普通であった。そして、そのような生き方を自らの意志で選択することを前提として養生は成り立つものであった。

 ところがこれまでの健康づくりが、なるべく病気にかからない、あるいは病気になってもそれに打ち勝つことを目指して、この30年間、大急ぎで対策をされてきたものであったために、肝心の健康の本質を顧みる余裕がなかった。これから始まる21世紀の健康づくりも、高齢社会に向かって急いで対策を立て、国の求める成果を早く上げたいという意識が先に立てば、その問題意識は国民の共有するものにはなり得ない。やはり国の「住民対策」に留まることになるのである。ここで「自主活動」の生起を目指したところから、本研究が出発している。

2.研究の目的

 筆者は、21世紀の健康づくりを個人主体の自主活動で、「自主的に学び、自主的に行う」という理想で描いていることは述べた。21世紀の健康づくりであるから、全く新しい健康づくりであって、過去には行われたことがなかったかというと、実はそうではない。これまで地域でこうした自主的な取り組みをしてきたところは決して少なくはないのである。『地域保健』『保健婦雑誌』『生活教育』などには、保健婦を中心にした住民の自主的な健康づくりの実践がかなり紹介されている。こうした自主活動への関心が、長野県の「保健補導員制度」へと向かうことになった。

 長野県は、古くから教育県として知られ、全国一といわれる公民館数に象徴されるように、社会活動が非常に盛んであり、地域医療でも農村医療のメッカとして全国的に名が知られている県である。しかし、現在、長野県が新しく注目を浴びているのは、老人医療費が全国最低であるということについてである。しかも、 長野県は、平均寿命が男性が全国第1位、女性が第4位という長寿県で、高齢化率も全国第10位という高齢県なのである。普通住民に高齢者が多くなれば、医療費が増えるのが当然であるが、長野県は医療費をかけずに長寿を達成したことになる。医療費の高騰が、現在、日本の大きな社会負担となっており、これからの少子高齢社会を展望すると、なおさら見通しが立たない。長野県が日本中から注目を集めるのは、こうした背景によるものなのである。この要因を分析し応用することができれば、21世紀の社会を維持する見通しが立つ。こう考えて厚生省をはじめ各都道府県が調査に乗り出している。

 統計的な数値から導き出される結果は明確である。例えば、入院日数と医療費は正の相関関係があり、長野県の場合、入院日数が全国最低なので医療費も全国最低であるというように明確に説明がなされる。これは表面的には納得がいくものである。しかし、病気の状態には差がないのに、何故入院日数が短いのかという事情になると統計的な手法ではとても説明しきれない。医療者の意識が高く、医者の都合ではなく患者中心の医療が行われているためであるというのが一応の結論であるが、このような長野県の長寿の遠因、医療費の低い遠因は、統計的手法だけでは、とても証明しきれるものではなかった。

 こうした疑問から、長野県が健康県である要因を俯瞰してみると、やはり長野県の場合、「県民の健康意識」に大きな特徴があるといわなければならない。県も、自県のキャッチフレーズを「健康長寿・金メダル!長野県」と称し、その要因を「健康に対する県民1人1人の取り組み」と、それを支える「保健医療関係者の弛まざる努力」の成果と発表している。健康県達成の土台になったのは、「県民1人1人の取り組み」と県も公認しているのであるが、この取り組みとは、どの様なものなのか関心が持たれたのである。そしてこのカギが、長野県独自の制度である「保健補導員制度」にあるのではないかと考えた。

 その理由は、「保健補導員制度」は、長野県独自の制度であり、全県規模の制度としては他県にはみられないものである。この制度の詳細は後述することになるが、自分の居住する市町村単位で活動する健康づくりのボランティア組織である。全県で120組織に上り、「自分の健康は自分で守りましょう」をスローガンに、自主活動によって健康づくりに貢献してきた。古いものでは50年以上の活動の歴史を有している組織もある。

 本研究は、県下120の組織の中から制度の発祥地である須坂市を取り上げ、長野県の「保健補導員制度」の典型例として「健康に対する県民1人1人の取り組み」が、どのようなものであったのか、その活動を詳細に分析したものである。そして、須坂市の取り組み、「学習」と「実践」を2本の柱とする「自主活動」に、21世紀の健康づくりのカギを探した。

 さらに附言すれば、筆者の母国である中国は、「一人っ子政策」による少子化が徹底して進み、大人口と相まって、少子高齢社会の抱える問題は、日本の比ではないといわれている。その時代を目前にして中国が解決しなければならない問題は多い。日本の健康づくりの戦略は、中国にとっても大きな関心の持たれるところである。本研究によって、中国の健康問題に何らかの示唆が得られるのではないかと考えた。

3.本論文の構成

序章 健康を求めるこころ
 第1節 今、なぜ健康なのか-健康に問われる意味
 第2節 1人1人の健康づくりとは何か・本研究の展望
 第3節 本論文の構成と先行研究
第1章 日本の現代の健康づくり対策
 第1節 健康づくり政策の誕生
 第2節 健康ブ-ムの到来 (昭和41年~昭和52年)
 第3節 第1次国民健康づくり対策 (昭和53年~昭和62年)
 第4節 第2次国民健康づくり対策・アクティブ80ヘルスプラン (昭和63年~平成11年)
 第5節 21世紀の健康づくり
 まとめ
第2章 健康長寿・長野県
 第1節 長野県の健康施策
 第2節 健康長寿・長野県
 第3節 住民の手による健康づくり・長野県の保健補導員制度
 まとめ
第3章 須坂市・保健補導員制度のあゆみ
 第1節 終戦直後の須坂市近隣の衛生環境
 第2節 保健補導員制度の芽ばえ
 第3節 須坂市・保健補導員制度の成立
 第4節 保健文化賞受賞と活動記録集発行(昭和43年~昭和52)
 第5節 OB会発足と保健補導員だより(昭和53年~昭和62年)
 第6節 守る健康から作る健康へ(昭和63年~現在)
第4章 須坂市・保健補導員活動の内容
 第1節 保健補導員会の組織
 第2節 保健補導員の実践活動
 第3節 保健補導員の研修活動
 第4節 講演会
 第5節 体験発表
第5章 保健補導員制度の成果
 第1節 健康づくりの成果
 第2節 内外交流による成果
 第3節 地域における女性の役割
第6章 保健補導員活動と健康意識
 1. 調査の目的
 2. 調査の方法
 3. 調査の結果
 4. 論議
終章 自主活動による健康づくり
 第1節 須坂市に学ぶ健康づくり
 第2節 21世紀の健康づくり
 第3節 まとめと今後の課題

4.論文の概要

序 章 健康を求めるこころ

 まず、序章では、健康とはどの様な状態をいい、健康づくりは、何のために必要なのかという基本的な問題に対して、現代の健康はその人の「生きがい」や「人生の目的」と連動して考えられなければならないテーマとして世界的に浮上してきたことについて述べた。このような新しい健康観に立てば、これまでのような身体的な健康づくりだけでは、高齢化の進む21世紀の健康づくりとしては的はずれになってくる。健康づくりは最終的に社会づくりを目指すもので「誰もが安心して暮らし、与えられた命を十分に生きる」ことが保障される社会である。

「住民活動」から「自主活動」へ

 これからの健康づくりは、行政が主役ではなく、住民が主役である。「対住民対策」として行政の 行う健康づくりではなく、自ら主体者となって担う健康づくりである。しかし、「住民主体」の最大の問題は、どうしたら住民が自らの問題に気づくかという点にある。矛盾するようであるが「住民主体」と言っている間は、その問題意識は行政側の問題意識なのであって、問題は行政側に留まったままである。行政側の問題意識を住民側に自らの力で解決させようとする表現が「住民主体」というように聞こえるのである。

 どうしたら住民に主体性を持たせることができるかという、こういった発想こそ、従来までの行政が住民を誘導して意図する方向へ持って行こうとする発想から一歩もでていないことに気がつくのである。さらに、行政が住民主体と言った場合の「住民」とは、誰を指すのかという問題がある。個人は行政から見れば「住民」なのであろうが、普通、自分を「住民」と称する者はいない。「健康づくりには、1人1人が、発見→選択→設計→実現という過程を踏むことが必要である。」と厚生省は言うが、この過程は、あくまで1人1人が踏んでいくことが大切なのである。

 「住民主体」の健康づくりは、従来までの健康づくり政策に比べたら、格段に健康の本質性に迫る政策である。しかし、それでもまだ行政側の視点が強い。自己の文化に基づく「自主的に行う」健康づくり、これが21世紀の健康づくりの姿である。

自主的に学び、自主的に行う

 「自主的に学び、自主的に行う」健康づくりは、行政側の必然性ではなく、自分の中の必然性や必要性に基づいて起こす行動を意味している。この自発的に生起した行動を行政が育成し支援していくのであるが、しかし自発的に生起した行動が、必ずしも客観的に見て望ましい健康行動とは限らない場合もある。また、育成、支援といっても従来の主導と一線を引けるのかという問題もある。これを防ぎ得るものとして「学習」と、「学習をしていく過程で備わる問題意識や問題解決能力」に大きな期待を持っている。行政側による住民への教育ではなく、住民による自己学習である。

 また、「学習」とは、必ずしも知識面だけではない。特に健康に関わる分野は、その内容が幅広く、運動やスポーツなどを始め、技術や技能の習得など身体よる学習も多い。身体経験を知的レベルで定着させる行為も含めた「学習」である。こうした「学習」の経験を多く持つことは、1人1人が自らの問題意識を発見し、それを解決するための方法や手段を選択するに当たって、その選択肢を広げ、健康づくりの設計図をより実現可能なものにしてくれる。

 しかし、自主活動は、黙っていても自然に生起するものではない。行政は、まず行政と住民が現状を共通認識するために、情報を住民に公開し資料を提供することが必要である。現状を共通理解するという過程がなければ、住民と行政の協働はあり得ず、情報を行政側が握ったままで協働しようとすれば、住民が自らの問題化とする過程を抜かしたことになる。こうした学習の機会を身近な所で提供することは、行政の力でなければ難しい。このサービスの対象は住民一般であるが、そこから問題を発見するのは、1人1人の価値観ということになる。そこで、問題意識を共有する者がいたならば、自主グループを結成したり、ネットワークを作ったり、共に問題解決に向かって必要な活動が始まって行く。そこから人と人、あるいは地域や行政と協働しながら進める健康づくりが始まって行く。

 現在の日本が抱える健康問題、その解決のカギは「自主活動」の生起をうながすことである。しかし、これまでのような日本の健康政策からは、「自主活動」が起こりにくい。それは、問題点と解決策を同時に示すという対策として行われてきたことが大きく影響している。

第1章 日本の現代の健康づくり対策

 第1章では、戦後の厚生省の健康づくり対策について概略を述べ、特に昭和53年から10年毎に展開された第1次から第3次までの「国民健康づくり対策」の考え方や施策を重点的に分析した。これは現在の日本が対策を迫られてる健康問題がその時期に端を発していると見られるからであり、社会の変遷と健康政策がどの様に連動して展開されてきたかを把握した。

 昭和53年に、第1次国民健康づくり対策が開始されたが、この伏線となったのは、東京オリンピックに始まる国をあげての体力づくりブームである。経済的には世界の一流国の仲間入りを果たしたものの、オリンピックの成績は振るわず、諸外国に比べて日本人の体格や体力の劣位が明らかであった。国民の間に広がった体力の不安を解消するため、国は、体力づくりを重点施策に取り上げ、特に西ドイツやアメリカに学んで対策を立てた。アメリカからはエアロビクスや運動処方の考え方を取り入れ、西ドイツからは、健康増進センター建設の構想を取り入れたが、諸般の事情によって、「当面、必要な部分」だけの導入に止まったため、日本の文化に合うように修正されたり、同化されたりしたものではなかった。この時期に合理的な傾向の強い欧米に学んだことによって、人間の身体を精密機械に例える考えが主流になり、以後全てを数字で評価する健康づくりになっていったといえる。

 こうして国民の体力づくりは一応進んだが、全体的にみれば栄養摂取状況はまだ満足できる状況にはなく、成人病が増加する傾向も見られ、今後の方針を国民の栄養改善に置くことに定めた。こうして第1次国民健康づくり対策が策定されたのであるが、第1次国民健康づくり対策は、高齢化の準備のための第一段階ともいえる施策で、国民に「自分の健康は自分で守る」という自覚を促すものであった。健康づくりの3要素として「栄養・運動・休養」を上げたのもこの時代である。主な施策は、検診制度の充実、健康増進センター建設、健康づくりの啓発などというものであった。

 第1次国民健康づくりから10年後、昭和63年には、第2次国民健康づくり対策「アクティブ80ヘルスプラン」が策定された。この時期は今後の高齢社会を展望し、新たな高齢者像をイメージして、積極的な健康づくりを目指した時期である。そのために、特に第1次に盛り込めなかった、運動面を重視した健康づくりとなった。主な施策は、健診による早期発見、早期治療に、発病予防を加え、運動面では、運動指導者の養成、健康づくり施設の認定、整備、健康文化都市推進などである。全体に国民の生活習慣そのものを健康なものにすることを目指した施策であった。

 この第1次、第2次の20年にわたる健康づくりはどの様な効果あるいは弊害をもたらしたのであろうか。急速に増加してきた成人病に対処するという目的が根底にあったので、身体機能の改善にばかり目が向いて、国民の健康観を育成したり健康を個人の問題意識として認識するという過程を踏む余裕がなかった。国が問題点と解決策を同時に提示するという形で示したので、自主活動が起こり得ない健康づくりになったのである。

 この間、国民は本当に健康になったのであろうか。客観的には、平均寿命が世界一になったのを始め、WHOが新指標として定めた「健康寿命」や「保健システム」でも日本は世界一という高い評価を得ることができた。しかし、前述したように健康不安を感じている者が国民の半数以上に上り、主観的には健康感を実感できないというのが今の現状である。早期発見を目指して、精度の高い検診が普及すればするほど不安が増大し、自分が健康かどうかますます分からなくなっていくのである。

 これまでの一連の健康づくりに欠けていたものは、本人の問題意識に基づく必然性ではないかと考え、国が手取り足取り行うのではなく、本人に強い自覚を促すものとして、第3次健康づくりが策定されたといえる。

 これまでの健康づくりをさらに簡単にキーワードで示すと、「健康診査」、「バランスのとれた食生活」、「運動やスポーツの奨励」である。これは確かに重要なものであるが、これを実践させる問題意識が国民に涵養されなかったというのが第1章の要旨である。

第2章 健康長寿・長野県

 第1次から第3次までの国民健康づくりは国の施策であるが、続く第2章では、長野県が保健行政の大成果と讃えられる「健康長寿・長寿県」の地位を確立した地方行政と住民活動の双方の取り組みについて述べて行く。健康づくりの流れは、国(厚生省)→都道府県→保健所・市町村という体系が出来上がっており、国は国民の健康に必要な基本的事項を設定し、対策を立て法整備を整え予算化する。それが都道府県に送られ具体化され、保健所や市町村で実践される。従って長野県の健康施策も基本的には、国の方針と連動しており、保健所や市町村も同様である。しかし、そこから先が、長野県が他の県と大きく異なっているのは、健康施策を実践する15000人近い大推進部隊を有しているということである。このことが「健康県」達成に貢献しなかった筈はない。

 まず、第1節では行政の取り組みについて、県の施策を述べてみる。長野県は、現在でこそ健康県として名が知られているが、30年ほど前までは日本有数の脳卒中多発県であった。昭和26年から死因の第一位を脳卒中が占め、心臓病、ガンがこれに続き、脳卒中は全国2位、心臓病、ガンは全国4位という発生状況であった。その後、この三大死因による死者は増加の一途をたどり、20年後には県民の全死亡者の3分の2を占めるまでになった。特に、脳卒中は、40代、50代での死亡者も多く、これを防ぐために県下で保健婦が中心になって生活改善運動が推進されていたのである。従って、昭和53年に始まった国の第1次国民健康づくりは、県にとっても、まさにこのような成人病急増に対処する必要性に迫られていた時期であった。

第1次健康づくり対策の主な施策 (昭和53年~)

 長野県の第1次健康づくり対策は、成人病対策、中でも特に脳卒中撲滅を目指して、食生活の改 善と健診の普及を中心施策に置いている。

 1.県民減塩運動-脳卒中の基礎疾患となる高血圧を予防する 2.食卓“愛”運動-健康な食習慣の確立を目指す 3.県民食生活指針の策定 4.各種健康増進クリニックの整備-へき地の健康増進、高齢者の健康増進など 5.健康センター開設(長野、伊那)と人材育成(栄養指導員)

第2次健康づくり対策の主な施策 (昭和63年~)

 続く第2次健康づくりは、厚生省と同様に運動習慣の確立に目標が置かれている。

 1.有酸素運動「さわやかウォーク」推進-歩行運動の普及・定着をはかる。 2.県民運動指針の策定 3.総合的な健康づくり体制の強化と思想の普及 4.その他-女性の健康づくり、地域特性に応じた健康づくり、マンパワーの育成

第3次健康づくり対策 (平成14年~)

 「健康日本21」に呼応して「健康グレードアップながの21」というネーミングは決まっているが、平成14年度を初年度として展開されることになっている。現在策定中で全容は未定である。このように、県と国の健康づくりは呼応しているが、県の施策は住民と距離が近くなる分だけ、具体的であり、地域の特徴を考慮していることが分かる。長野県の県民健康づくりは、国の基本方針を土台にして、さらに県の抱える固有の健康問題を解決するために行政、保健所、医師、保健婦などの関係者が長い農村医学で培われた経験を役立てよく協働してきたといえる。

 続く第2節では、長野県の健康の特徴を明らかにする。長野県は、平成11年の「平均寿命」が、男性が78.97歳、女性が85.06歳で、これは男性が全国第1位、女性が第4位という長寿県である。また、介護いらずの期間を意味する「自立期間」も長く、男性が全国第2位、女性が第4位という健康県である。さらに、65歳以上の高齢者の総人口に占める割合は21.0%で、これは全国平均からほぼ10年先行しているといわれる高齢県である。それでいながら、100歳を越える超長寿の人は全国22位で、そう多くはいない。また、高齢者の就業率は36.2%と高く、この数値も全国一である。

 このような長野県の高齢者の特徴を一口であらわす言葉が、「PPK」である。これは、死ぬまでピンピン元気で働き、死ぬ時は病まずにコロリと死ぬという「ピンピンコロリ」という意味で、この頭文字をとって「PPK」と呼ばれている。

 この「健康長寿」と並ぶ、もう一つの大きな特徴が、「全国一低い老人医療費」である。1人当たり592.000円余りで、これは、最高の北海道と比較すると半分ほどの金額なのである。高齢社会の医療費高騰に頭を抱える厚生省はじめ日本中が長野県に注目するのは、このような理由によるものである。これを解明するために、平成8年に厚生省が国保中央会に依頼して行った全県規模の調査からは、多くのことが明らかになった。その結論の主なものは以下のようなものであった。

 1.老人医療費と最も相関が高いのは入院費であり、入院費を抑制することができれば、医療費は抑制できるが、長野県の入院日数は全国最低である。また、自宅での死亡者が多くなれば医療費は減少するが、長野県は自宅での死亡割合が全国最高であるので、医療費が全国最低である。

 2.病院数や医師数が多いと医療費は増加するが、長野県は相関係数で説明される以上に医療費が抑制されている。これは長野県の医療の内容に特性があるのではないか。また、健康診査の受診率が低いほど医療費は多くなる。長野県の受診率は全国では中位であるが、それ以上に医療費が抑制されている。従って受診率そのものよりも、実施されている健診の内容と事後の生活指導に特性があるのではないか。

 3.高齢者の就業者率が低いほど医療費は多くなる。長野県は、高齢者の就業者率が全国最高であるので、医療費は最低である。

 この調査は現在のところ、長野県の医療費に関して最も詳細で信頼性のおける報告である。そして数値などに現れにくい住民意識や生活習慣まで踏み込んだ分析をするために、県内12市町村でヒアリング調査を実施している。このヒアリングにおいて、医療に対する長野県人の県民性や医療人の患者優先の態度など、いくつかの特徴点が語られたが、それと並んで「保健補導員」や「食生活改善推進員」など、住民活動の活発なことを多くの市町村が上げたのである。

 第3節では、この「保健補導員制度」を取り上げる。保健補導員制度は、昭和24年、厚生省がGHQの勧告に基づいて、保健指導のための住民組織の設置を全国に呼びかけたことに端を発している。しかし長野県においては、その前にすでに自然発生的に類似の自主活動が組織されている村があったのであり、これが母体となって順次、全県に広がっていった。他県にも、市・町・村単独では類似の制度を有しているところもあるが、全県規模では長野県だけである。成人病時代の健康づくりは個人の生活習慣を見直すことが重要である。長野県は、生活習慣改善運動の徹底によって、全国から注目される健康県となったのであるが、これが住民自ら達成した成果であるという点が、他県にみられない長野県の偉業なのである。そして、このことに貢献したのが「保健補導員制度」であった。

 この「保健補導員制度」は、長野県独特の制度で、このような健康のボランティア網を持っているのは、全国でも長野県だけである。家庭の主婦を中心にして、「自分の健康は自分で守る」をスローガンに、「学習」と「実践」活動を行っている。健康づくりは、まず家庭から、そしてそれを地域に広め、最終的には健康な社会を作るというというのが活動の目標である。毎年、長野県では、15000人近い「保健補導員」が地域の健康づくりに活動しており、この人数は50~60軒に1人配置されている計算になる。これを単に数字として読むと見過ごしてしまうのであるが、これらの「保健補導員」は、自分の住む地域で、実際に日々、成人病予防、母子保健、栄養改善、献血、健康イベントなど、様々なボランティア活動を行っているのである。 

 しかし、長野県の「保健補導員制度」は、全県に設置されているとは言ったが、全県が一つの制度の下に組織されているのではない。長野県には120の市町村があるが、それぞれの市町村毎に設置されているのである。住民に密着した健康づくりを行うには、全県規模では確かに大きすぎる。地域の文化を共有するこの規模が効果を上げたのである。このような関心から、自主活動としての「保健補導員制度」をさらに詳細に研究しようという場合、県全体の組織がない以上、120市町村のうち、どこか一市町村を取り上げて研究することになる。本論文では、活動の発祥地である「須坂市」を取り上げることにした。 

第3章 須坂市・保健補導員制度のあゆみ

 第3章からは、須坂市の保健補導員活動を詳細に分析し、自主活動という点に着目して、須坂市の健康づくりを検証していく。須坂市の活動は制度制定以前も含めると、実に55年という長い活動実績を有している。活動の経験者はすでに5000人にのぼり、この数は市の成人女性人口の1/4とも1/3ともいわれているものである。市の全女性が保健補導員経験者となったその時こそ、須坂市は名実共に健康市となると宣言し、280人余の保健補導員が現在も活動をしている。

 本制度の見るべき点は、身体的な健康づくりに止まらず、仲間づくり、生きがいづくりの場としても、大きな貢献をしているという点である。役割を通して自己の有用感を実感できることは、高齢者の大きな生きがいとなる。2年間の現役の任期終了後も「OB会員」として一生涯にわたる学習やボランティア活動を続けていくのである。

 このような点から保健補導員活動は、個人の健康や地域の健康を改善させただけではなく、今後の高齢社会の生きがいづくりや相互扶助という観点からも高い評価をしなければならない。

 まず、第3章は、活動の歴史をその発祥から現在まで、5期に分けて述べて行く。その区分は、制度の芽ばえ(昭和20年~昭和32年)、制度の成立期(昭和33年~昭和42年)、制度の成長期(昭和43年~昭和51)、制度の拡大期(昭和53年~昭和62年)、制度の成熟期(昭和63年~現在)である。

1)昭和20年~昭和32年

 保健補導員制度の原形となった活動は、須坂市近隣の高甫村で生まれている。着任したばかりの若い保健婦が戦争末期の劣悪な衛生状態の中で、村のために献身的な努力をする姿に、村の婦人達が手助けをかって出たというのが始まりであった。当時は、伝染病の蔓延する時代で、結核、赤痢、寄生虫、性病など、いくら予防してもしても追いつかない状態であった。子供もバタバタと死んで行き、生まれた子供の半分が残ればいいというのが普通の考えであった。戦後になると、一転して産児制限が叫ばれたが、妊娠中絶も後を絶たず、母体保護に保健婦が熱心に取り組んだ時代である。 このような中で、婦人達から手助けが申し入れられたのであるが、これを組織化して、高甫村保健補導員制度が生まれている。この時に思いつくままに言った条件が、「年齢は50歳まで」「子供は育て上げ、出歩ける人」「口の固い信用できる人」この条件は、今でも生きている。

 初期の活動は、病人の世話、布団干し運動、手のひら皿廃止、集団駆虫、検診の手伝いなどであるが、ひと月に下駄が2足も減ったといわれるほど村中を歩いて活動している。学習活動も盛んに行い、生活を改善する運動をする中で、次第に女性の意識が変革していった様子がうかがえる。白いかっぽう着を制服にして、村中の保健補導員が心を一つにして生活環境の改善、伝染病撲滅、家族計画に取り組んだ時代である。

2)昭和33年~昭和42年

 昭和30年、近隣の村を統合して現在の須坂市が成立したが、須坂市には保健補導員制度がなく、 周囲の村の制度を導入して、正式に制定されたのが昭和33年のことであった。従って須坂市の保健 補導員制度の制定は昭和33年とされている。

 初期の保健補導員は、市が人選をして、市の要請で就任したので婦人会長など要職の経験者が多く、市が育成に力を入れたので活動が軌道に乗るのも早かった。保健婦の適切な指導もあり、早くも第1期(昭和33年~)から、子宮ガンの集団検診を行っている。これはこの時代としては非常に 画期的なことであった。他の主な活動は、成人病予防、血圧測定、寄生虫駆除、検便、乳幼児検診、家族計画、栄養改善などで、2年間の活動の成果を全員の前で発表するという「体験発表」もすでに行われていた。次第に活動の意味や目的がはっきりしてくると、自主活動である、保健婦の助手ではない、従って委嘱状や手当は返上するという動きになって行く。また市長に陳情して、長野県で2番目の「健康センター」を全額市が負担して補助金なしで建設するという成果も上げている。

3)昭和43年~昭和52年

 昭和44年9月、須坂市は「保健文化賞」を受賞した。これは「保健補導員組織を基盤とする総合的な健康施策の推進」に対して贈られたもので、いわば、これまでの保健補導員活動が受賞したようなものである。この自信に裏付けられて、活動がさらに盛んになって行った。この本来の地域の健康づくりに対する成果と共に、もう一方、自分達の活動が日本全国に発信する影響力と責任とに気づき、社会的な意味を考えるという成果ももたらした。しかし、ボランティア組織として勢力を持ってくると、果たして保健補導員の身分はどこに位置づけられるのかという問題も浮かんできた。 この時は、社会福祉論や地区組織論を学んで、地区組織であることを確認している。

 6期(昭和43年~)には、保健補導員になると、皆忙しい忙しいと言うが、何がそんなに忙しい のか活動に費やす時間調査を行っている。その結果は、「1日40分」というもので、20分が自分の学習、20分が地域のための活動という結果であった。300人近い保健補導員が、同じ目的のために1日20分を地域に奉仕するのである。これが健康の町づくりに大きな貢献をした行動である。

 また7期(昭和昭和45年~)から2年間の活動の記録をまとめた「活動記録集」の発行も始まった。このことも、後に10数冊並べてみると大きな足跡であることが分かる。

4)昭和53年~昭和62年

 制度発足から20年経ち、この時期、活動は各方面に向かって拡大していく。ここでの大きな成果は「OB会」を組織したことである。第1回の「OBの集い」は、昭和53年に開かれているが、出 席率90%、会場からはみ出るほどの盛況であったという。OB会は、自分が活動した2年間を意義 づけ、生涯学習の場となるものである。何かの時にだけ、急に集まって活動しようとしても無理で、普段から何かしていることが大切だということと、互いに助け合う老後の生きがいにもなるという 気持ちであった。従って、現役を助けるだけでなく、OBも町内単位、ブロック単位など思い思いのグループを作って独自にボランティア活動をしている。この活動は、現役に匹敵する成果を上げているが、活動が自分の生きがいになっているという点では、現役を凌ぐものとなっている。

 この時代の活動は、成人病予防が中心である。また昭和53年に長野県で国体が開かれたのをきっかけに、体力づくりやスポーツが活動の中に積極的に取り入れられるようになった。また、区長とも懇談会を定期的に持ち、地域づくりの重要な責任を果たすようになっている。さらに、古くなった「健康センター」を改築し、新しい「須坂市保健センター」の建設も果たした。この「保健センター」は、市民がいつでも使える自分達のセンターを目指し、建物に対する要望ばかりではなく、常設健康相談窓口を設置するなど、これまでの活動経験から多くの提案をしている。

5)昭和63年~現在

 活動が拡大を続けている時期は、前年度の実績を少しでも上回ろうとする意識が強く働くのは、やむを得ない。これまで保健補導員活動もそうして拡大してきた面があったが、この時期からは、業績を競うようなことはなくなっている。組織に常設された「三委員会」を中心に、第2次健康づくりに合わせて、生活習慣の改善を目指した活動が行われている。「組織委員会」は、組織の運営と他の団体との協働、「教養委員会」は、学習活動全般、「体力づくり委員会」は、健康体操や歩け歩け運動の推進といった受け持ち分担となっている。

 活動を基礎にして、積極的にボランティアの輪が広がったのも、この時期の特徴である。集団リハビリ、高齢者施設、知的障害者施設をはじめ、独り暮らし老人訪問、食事サービスなど多くのグループが多分野にわたる活動を始めている。確かに活動の「山」や「目玉」など、皆の心を一点に集中して取り組むというスタイルではなくなったが、地に着いた自分に合った活動という点からは、むしろ着実な活動ということができる。この時代をキーワードで表すと「ウォーキング」と「ボランティア」で、どちらも言うは易く行うは難しである。

 以上のように、50年以上にわたる活動の歴史をいくつかの時代で区切って述べてきた。その時代ごとに、何人かの会長にインタビューを行い、実際の経験者の話を聞いた。どの会長も皆、素晴らしい活動であったと言い、「学習」と「実践」の両方ができるのは他にはないと語った。「勉強するのは大変だったけど、知識という財産を得、これは一生の宝となった」「そこでできた友人も老後の宝である」ということであった。また、「保健補導員にならなければ。人生を家庭の中だけで暮らしたと思う」ということや「現在元気で暮らしていられるのはその時の経験のお陰」と言う会長も多かった。しかし、筆者が聞いた中で、一番耳に残っている言葉は「楽しかった」という言葉であった。保健補導員会が上げた大成果も、自己犠牲の上に成り立ったものではなく、楽しい活動の結果であったということなのである。

第4章 須坂市・保健補導員活動の内容

 第4章は、組織の形態、実践活動、研修、講演会、体験発表など項目別に整理して理解していく。

 まず第1節は、組織の位置づけであるが、須坂市に保健補導員制度が導入される時の構想は、「社会の構成単位の最も基本となるのは家庭であり、家庭の健康を守る立場に立つ家庭の主婦が、ある程度の医学的知識と健康を守る技術を身につけ、家庭におけるよき健康管理者になれば、これをこのまま地域社会に発展させて、やがては全家庭の主婦が保健補導員の体験者になる。その時こそ須坂市は住民自らが築いた健康都市になる。」というものであった。

 しかし、当時各区には、保健衛生や健康という分野では衛生委員があり、女性の組織という点では婦人会がすでに存在していた。そこへ新組織を設置させるとすれば、どの様な位置づけとなるのか、皆目見当がつかなかったのである。そこで衛生委員は、地域の「環境の健康」を守る「お父さん」、保健補導員は地域の「人間の健康」を守る「お母さん」と位置づけた。この考え方は一般的に非常に分かりやすい説明であった。しかし、どこの組織であるのかという論議は残った。市から委嘱され手当をもらっていれば行政の一団体であるが、これは実際に活動をしている保健補導員達の意識とかなり食い違うものであった。誰かに言われてやるのではなく「自分のため、家族のため、そして地域のため」という素朴な気持ちなのである。しかし、当時の社会体制は、まだこのような考えを受け入れられる余裕はなく、女性のしかもボランティア団体がすぐに入っていける余地はなかった。そのため、実際に奉仕活動をしている地区からさえ、正当に認識されないといった状態が続いている。最終的には区の組織であるという共通理解が区長との間に成立し、この問題は決着した。

 同じ地域の住人であれば、まさに同じ土地の文化を共有している者同士である。健康づくりは、生活に根ざして行われなければ、真の効果を上げることはできない。それは「たてまえ」や「公式」ではなく、「本音」の行為になるということである。

 第2節は、活動の内容についてであるが、保健補導員会では、活動の出発点あるいは基礎になるものとして「知識と技術の習得」を据えている。これが「学習活動」であるが、これは学習者の要求によるものではなく、活動に必要と考えられる知識や技術を専門家が選択したものである。これだけで学習が足りる訳ではないが、各分野にわたる一通りの専門的知識が身につくことになる。

 その学習の対象には、胎生期から老年期までの人間の一生が含まれ、対象も方法も実に多岐にわたっており、健康づくりの幅の広さが分かる。実際の実践活動は、さらに豊富である。「家庭における健康管理」が活動の基本で、学んだことをまず家庭から実践し、そこから地域へ発信していくのである。地域への働きかけは、市の事業への協力もかなり多く、行政の下働きで無報酬で働かされているのではないかという批判が、このようなところからもきていることは事実である。

 ここで、行政のために働くということは、住民として意識が低いのかということを改めて考えて見なければならない。保健補導員の行う行政への協力は、主に「健診・検診のおすすめ」と「健康講座へのお誘い」である。しかし、健診受診は受診した本人にとって利益となる行為であり、健康講座のお誘いも住民の学習要求に応える行為である。このように考えると、最終的には行政の利益となることではあるが、第一の利益者は、むしろ住民なのである。また、行政の手伝いを住民がすることは、行政の無駄を省く行為であるとみることもできる。もし、検診のすすめも、保健補導員の協力がなければ、市としては、他の何らかの方法でPRをしなければならないところである。この経費を節約するために、保健補導員が家庭訪問をするのである。こういう意識は、須坂市は自分達の市であり、自分達のできることを市任せにしないで自分達で行うという素直な発想である。健診、検診業務は、保健補導員会ではできない。行政の担当と自分達の担当を自覚し、住民ができることは自分達でやる。この意識と行動が須坂市の行政と住民の協働である。

 第3節は、学習活動についてである。活動が非常に盛り上がっていた中期の代表例として、14期(昭和59年)を見ると、14期は、2年間で28課目343時間に上る学習や研修を行っている。

 保健補導員活動の目的は、自分の健康は自分で守るという「自覚」を促すことにある。しかし、自覚は、ただ自覚しろと言っても生まれるものではなく、納得がいかなければならない。納得は論理的な作業である。そのためにも学習が必要なのであるが、一方の目的が「実践」であるので、このことを念頭に置いた課目の配列になっている。すなわち、「法律関連課目」で活動の根拠や理由を、「医学的課目」で病気の予防や健康増進を、「実技・実習課目」によって、実際の技術を習得するというのがおおよその構成である。学習課目は以下のようなものである。

1.地区組織活動 2.ボランティア(女性の生き方) 3.保健統計 4. 福祉制度 5. 国民健康保険 6. 健康管理 7. 家庭看護法 8. 救急法 9. 指圧 10. 健康体操 11.栄養改善 12. 歯の健康 13. 血液の知識と献血 14.予防接種 15. 健康づくり(運動・栄養・休養) 16. 母子健康 17.成人保健 18.婦人科疾患 19.乳房自己検査 20.公害と健康 (タバコ、洗剤、食品添加物) 21.薬草の知識 22.精神衛生 23.視察研修(特養老人ホーム、清掃センター) 24.室温測定 25.リハビリテーション 26.体験発表 27.関係講演会受講 28.他団体との交流

 このような多分野にわたる課目を343時間学ぶのであるから、保健補導員活動が短期大学に例えられるものうなずけるものがある。

 第4節では、講演会のテーマを分析していく。講演会は、形態が受動的であるので、学習効果という面ではあまり高く評価することはできないかも知れない。しかし各界の一流人の話を聞くということは、講演会という形を取らなければ難しい。この講演会のテーマを時代毎に追っていけば、その時の問題を推測することが可能である。

 講演のテーマは、保健補導員活動に関するもの、子供や母子に関するもの、成人病に関するもの、これらの3分野が最も多い。この3テーマは全期間を通じて見られるテーマである。初期の頃には、伝染病、寄生虫、家族計画なども見られたが、これらは中期以降は見られない。次いで多いのは、健康一般、ボランティア、社会活動、高齢者などの順番である。ボランティアや社会活動は、中期の10期(昭和51年)以降から、高齢者は、12期(昭和55年)以降から登場するテーマである。さらにいえば、前半はどちらかというと、実際の知識や技術を学ぶ内容が多く、後半は人間の生き方や値観に触れるものが多くなってくる。多様な考え方に触れることによって、自分の生き方を見直したり、考え直したりするヒントとなるような内容が多く、初期の実質的な講演から、質的にも変化していく様子がうかがえるのである。

 反面、以外に少ないのが栄養と運動である。特に、減塩や歩け歩け運動は、実践活動としては終始活動の中心に据えられていながら、講演会のテーマとはなっていない。この2つは、講演会で大聴衆で聞くというよりは、実習として実際にやってみるのがふさわしいテーマである。

 「OB会」も講演会を毎年企画している。「OB会」の講演は、現役の講演会とは多少傾向が異なっており、キーワードは、「健康」「老い」「女性」と見ることができる。そしてそれぞれ自分の仕事に活躍中の女性が、上記の3つのキーワードに、歌、自然、美などどいう独自の視点を交えて語るという形が最も多い。現役の講演会の専門性に比べると、やや一般的内容であるが、OBの中には高齢者もおり、幅広い年齢層が出席する会であることを考えれば、妥当な選択である。出席者はこの講演会で、自分と異なる人の体験談を聞き、人生の巾広さを実感するものと思われる。また現役の講演会が、「知」であるとすれば、OB会の講演会は、「心」というようにも形容されるものである。

 第5節は、体験発表活動についてである。体験発表は、年に1回、各ブロック毎に会員が活動の成果を全員の前で報告するものであるが、この体験発表が、第1期の昭和33年からすでに行われていたことは注目に値することである。初期の発表会の風景を見ると、発表者も聴講者も全員和服姿である。このような時からすでに研究テーマを決めて調査をし、その成果を皆の前で発表してきたというこの活動のあり方に驚かされる。発表することによって各ブロックが上げた成果を全員が知ることになり、ブロックで得られた知見が共有のものになるという効果もある。このことは活動のレベルを上げたが、発表者自身の意識を変えるいうことにも大きな効果があった。

 1期(昭和33年)から20期(平成10年)まで、40年に行われた体験発表は、300題以上に上っている。これらの題名からも、その時期どの様な活動が多く行われていたか推察することができるのであるが、前半にだけ見られるのが、家族計画や寄生虫、やや前半の方が多いテーマが、血圧、ガン、成人病など、後半がやや多いテーマは、老人訪問、ボランティア、歩け歩けなどと言うことができる。

 活動の成果を記録する、まとめる、発表するという過程を踏むことによって、自分たちの活動を客観的に展望できるようになり、全体を見通す力、問題を発見する力、解決する力が身につくようになる。保健補導員同士、語り合って浮き彫りにされた内容や反省したことが、合理性や科学性を持っているかどうか、それを判断することは、個人の成長にとっても組織の成長にとっても、大きな意味を持っている。このようなことをそれまで経験したこともない普通の主婦が、すでに昭和33年当時から一貫して続けてきたのである。

第5章 須坂市・保健補導員制度の成果

 第5章は、活動の成果について、健康づくりに果たした成果、内外の交流に果たした成果、その他、女性の地位向上に果たした成果など、制度の果たした成果について述べて行く。

 「保健文化賞」受賞後、7期(昭和45年)頃から活動が拡大して行くが、それは同時に、市の事業が拡大していったこと連動している。そして、市が事業を拡大して行く方針を決めたのは、保健補導員会の全面的な協力や助力が得られることを見込んでいればこそであり、市当局にとっても保健補導員の存在は、もはやなくてはならないものなのである。市が事業方針を決めるに当たっても、それを実行に移すに当たっても保健補導員の協力なしには目的を達成できないといっても過言ではない。この存在感こそが活動の第一の成果である。

 活動の大きな部分を占める家庭訪問については、11期(昭和53年)以降、2年間で延べ16万軒~20万軒の訪問をしている。これを1人の保健補導員が1年間に何軒の家庭を訪問したかに直すと300軒から400軒ということになり、1軒の家を5~7回訪問しているのである。

 健診受診は、保健補導員がチラシを「手配り」で全戸配布するところから始まる。その後も申込書の回収、結果通知と一連の業務が保健補導員の手配りで進められて行く。こうして上げた「市民健康診査」の受診状況は、昭和63年度の2000人代から平成10年度の4000人代まで、10年間で2倍になっている。これが保健補導員の徹底的な戸別訪問によって上げた成果だということは市の担当者も公認している。

 健診受診後のフォローとしては、「要医療」の者は、治療を受けるが、「要指導」あるいは「要注意」の者に対しては、再び、保健補導員の出番が回ってくる。各種健康教室へのお誘いである。高血圧、コレステロール、糖尿病、骨粗鬆、その他必要な健康教室への参加を勧めるのである。これも健診後の適切な生活指導という点で高く評価されている保健補導員活動である。

 第2節は、内外交流に果たした成果についてである。須坂市保健補導員会は、国内や外国から多くの視察団の訪問を受け入れている。それは北海道から沖縄まで日本全県に及んでおり、訪問のなかった県は1県もない。特に「保健文化賞」を受賞した昭和44年直後は、全国から、視察団、訪問団の来須もひときわ多かった。こうした視察団を介して、須坂市が日本全国に向かって発信した情報は、大きな価値を持っている。また、須坂市の保健補導員制度が特徴的なのは、行政側からも住民側からも、両方から関心を持たれていることである。そのため視察団も両サイドにまたがっており、この制度が両者にとって有益な制度であることが分かるのである。

 こうした多くの視察団を受け入れる交流を通して、保健補導員達がさらに自分たちの活動の社会的な意義を自覚し、住民の手になる健康づくりの先駆者として、日本中の自他共に認める団体に成長していったといえる。

 しかし、視察団は、国内からだけではない。須坂市の保健補導員活動は、国際的にも評価されており、国外からの視察団も多かった。視察の目的は、主に、家族計画、母子保健や寄生虫予防である。家族計画協力財団(ジョイセフ)は、須坂の活動を機会を見ては海外に紹介し、国連を通じても保健補導員活動が、世界各国へ紹介されている。

 中国も人口抑制のため、かつて家族計画で成果を上げた須坂市に、昭和54年から毎年のように視察団を派遣し、寄生虫予防の視察団も、インドネシアなど東南アジア11ヶ国から視察団を迎えている。メキシコ家族計画協会会長は、女性の手になる保健補導員組織に関心を持ち、メキシコでも作りたいという構想を話している。

 このような、国際交流も補導員にとっては、準備で大変な負担である。しかし、最後は、一緒に踊りを踊ったり、手づくりの料理を食べたり、言葉は通じなくても楽しい交流ができて良かったという感想になっている。おそらく普通の家庭の主婦であれば、これは体験しなかったことであろう。世界の貧しい国の主婦に同じ主婦としての自分を重ねて、深い同情と共感を抱いている。

 第3節は、女性という視点から見た活動の成果を検証していく。保健補導員制度の当初の目的が、家庭で健康管理を担当する主婦に、「ある程度の医学常識と健康を守る技術」を身につけさせるというものであった。その当時は、女性の社会的な地位は高くはなく、特に須坂のような地方の農村では、尚更であった。その時代に、家庭という社会の最小単位から健康づくりを発信させ、それを地域に広げるという発想は、確かに的を射ていた。普通、新しい考え方は、社会から家庭に取り込まれるが、逆の流れをイメージしたのは、健康という問題に関しては極めて先見の明があったというべきである。また、当時考えてもいなかった予想以上の効果は、「健康」に関わる分野が非常に多岐にわたっていたので、初めは「医学常識」でカバーできる範囲の健康を考えていたのであるが、次第に医学だけでは納らない「生きがいづくり」や「社会づくり」を見通した健康づくりに目覚めていったことである。須坂の女性の取り組みは、誰が教えたのでもなく、自ら学習をする中で、真の健康づくり、すなわち自分も他人も社会も健康にする取り組みに自然に変わっていったのである。

 保健補導員会は、今や須坂市においては、全市を代表する社会組織として非常に重要な地位を占めている。それは単に健康に関する分野に止まらず、その影響力は市政の様々な分野に及んでる。さらに女性の団体としては、婦人会と並んで須坂市の女性を代表する組織として定着しており、数多くの協議会や委員会に委員として参画している。就任している委員会は、行政改革推進委員会、健康づくり推進協議会、婦人団体連絡協議会など市にとって重要な委員会も多く、市長と福祉を語るつどい、ボランティア連絡協議会、高齢者・障害者サービス調整、社会福祉協議会などは市の福祉行政に直接反映するような委員会である。その他、部落差別、平和事業、女性活動計画から健康マラソン、水道事業まで、19期(平成6年)会長は、101回も出席している。

 次に、女性の活動という視点から制度を見ると、そもそもこの制度は自然発生的に生まれたものであり、忙しい保健婦を見かねて村の婦人達が手助けをかって出たということに端を発している。その時に、女の保健婦さんを手伝うのだから女がいいという単純な発想から始まったものであったが、長い歴史の間、活動が一貫して女性だけで受け継がれてきた理由は何であろうか。

 まず、活動の内容が女性の領域であったことは確かである。毎日の衣食住など家庭の管理が、女性の担当であるということに男性、女性を問わず、当時疑問を持つ者はいなかった。女性自身も自分の責任範囲のこととして受け止めていたので、自然に活動にも熱が入った。この伝統的な考え方は、「健康づくりのお母さん」という表現にもよく表れており、このお母さん像と保健補導員活動は、非常にマッチしていたのである。伝統的な家庭の主婦の理想と連動して「保健補導員制度」は、これまで長い間存続してきた。女性の視点や特徴を生かした活動としても定評があり、しかも、活動しながら、女性同士で気兼ねなく大いに楽しんだことも伝わってくる。しかし、最近社会の価値観も大きく変わった。伝統的な主婦の像が描けなくなったのである。また、長い間、学習し実践してきたその問題意識が、女性だけが活動しても「健康な社会づくり」は目指せないという気づきとして現れてきた。

 そのような漠然とした違和感が表面に浮上したのが、19期(平成6年)の頃の組織や活動の見直しである。男性補導員の話が持ち上がり、結局、時期尚早であるという結論で見送りになったが、これは時代の要請とも受け取れる動きであった。健康づくりは女性のみが負わされるべきことではない。女性、男性を問わず、健康は個人にとって大切なものであり、特に女性だけが負担を強いられるべきものではないからである。まして「家庭婦人」という制限は、「家庭婦人」という層にのみ健康づくりの負担を負わせることになる。

 このような問題意識の浮上は大変意味のあることである。時期尚早という理由も、女性には女性特有の問題が多い。妊娠、出産、婦人科疾患、更年期など、女性同士だから気安く話せるというものであった。「男性の補導員さんにはこんなことは話せない」と言うのであるが、このことは確かに納得がいく説明である。しかし、大変うがった見方であるが、自分達の文化の域に男性を入れることを拒んでいるとも見受けられるものがある。今まではともかく、健康が1人1人の人生の問題として捉えなければならなくなった現在、女性だけの活動が、これからどのように方向修正されながら21世紀に受け継がれていくのか、大いに興味が持たれるところである。

 筆者は、21世紀の展望として「OB会」の活動を高く評価している。「OB会」こそ、何の制約もないまったくの自主活動である。現在、OBは4500人を越え、思い思いにグループでの活動を楽しんでいる。まったくの自由な活動でありながら、全体を展望してみれば、すべて福祉社会の形成に貢献する活動となっている。自由な筈の自主活動が期せずして同じ方向に向かっているのである。しかも他人に奉仕しながら、同時に自分も楽しんでいる。高齢者にとって「生きがい」が、健康維持にとって何より大切であることは冒頭に述べた。奉仕しながら楽しむ、そしてそれを自主選択するという意識を育てた、これこそ2年間の短期大学の学習の大成果ではないだろうか。しかも、教えたのではなく、自ら学習したのである。

第6章 保健補導員活動と健康意識

 第6章は、研究の手法を変えて「意識調査」で章を構成した。第3章から第5章までは、住民の組織活動としての保健補導員活動を論じたものであったが、住民は個々の人間の集まりであり、活動は1人1人の意識や行動を基礎にして成り立っているものである。従って、1人1人の実感を何とか把握できないかと考え、保健補導員経験者1002名を対象に、活動の内容や健康状態について質問紙法による調査を実施した。保健補導員会の掲げる目的や目標が、たてまえとするならば、この制度の中に見られる本音を探れれば、より真の評価ができるのではないかと思われた。

 具体的な質問内容の組み立ては、活動を通して、知識が増え→意識が変わり→行動が変わり→自己実現ができた、というように、個人の内部で意識の深化が行われるのではないかと考え、それが把握できるように工夫した。また、家庭の健康管理者である主婦が実践する健康法は、配偶者を始め、一番身近な単位である家族にまず影響し、そこから次第に地域に浸透していくという流れを活動の中に折り込んでいるので、活動内容が家族に及ぼした影響度も調査できるようにした。

 保健補導員経験者1002人に対するアンケート調査からいくつかの知見が得られたが、その1つは学習活動の影響力に関してである。保健補導員の学習は、あらかじめ決められた課目を履修していき、そこから自分の関心を持ったテーマが見つかるとグループでの自主学習や実践に移っていくというのが一般的である。この講義や講習の中で重点的に取り上げられたものが、学習者の記憶に強く留まるのは当然であり、時間数の多さとその問題に対する本人の関心度の積が、その後に続く意識の変化、行動の変化をもたらすものと思われる。

 学習に費やした時間数の多少は無視できない要素である。繰り返すことによってある程度意識に働きかけることが可能であり、一旦意識が変われば、行動には結びつきやすいということは、調査からも明らかであった。意識を変えるための重要な手段を筆者は学習と想定したが、学習者に問題意識を持たせ、解決法を探る方向に学習をリードする助言者の存在、力量も問題である。須坂市の場合、これは保健婦であったが、保健婦の功績は誰もが認めているように、この点でも大きいものがあったと言わなければならない。

 保健補導員活動については、歴代の会長からのインタビューによって把握した活動の様相と少し異なる角度から実態把握ができた。保健補導員全員が、必ずしも会長の様なレベルで活動の目的を理解し、高い評価をしている訳ではないということである。無論、高評価をしている者の方が多数であることは間違いない。しかし、すべてが礼賛者ではなかった。これらは、意義は理解しているとしても、手配り、手渡し、ひと声運動など活動の負担を指摘しているのかも知れない。回答者が丁度現役だった頃に活動の見直し論が起こってる。この時期と重なり合っていることから、評価の低かった部分はこのようなところにも原因があるかも知れない。また高評価をした者も、組織が上げた成果を評価したというより、自分の生活に学習したことが役に立つという面で活動を評価している様子もうかがえるのである。

 最後に、補導員活動の経験から学んだ、高齢者自身が自ら努力をして備えるべき要件として、「趣味や友人との交流を持つ」が第1位に上げられたことは、今後の高齢社会に対する貴重なアドバイスとして受け止めなければならない。高齢者が社会の中で自立して元気に暮らすためには、栄養でも運動でもなく、趣味を持って楽しく友人と交流することが重要であるということなのである。生活を厳しく管理したり節制をしたりということが秘訣ではなく、むしろ暮らしを楽しむという明るい考え方が重要ということである。食事にしても、栄養やカロリーより「おいしく」食べるということが上位に来たのは、家族や友人と団欒したり食卓を囲むコミュニケーションが必要であると言うことである。 こうしたことを総合的に考えると、高齢者にとって最も避けなければならないのは孤立である。人からの孤立、社会からの孤立、情報からの孤立、これらを防ぐのは、結局、若い時から良い人間関係を築いておくということになるが、活動経験から導き出されたこれらの知見には貴重な示唆が含まれているようである。

終 章 自主活動による健康づくり

 最後に終章では、須坂の保健補導員活動から、21世紀の日本の健康づくりに何を学ぶことができるかを整理してみる。21世紀の健康づくりは「自主的に学び、自主的に行う」というのが理想であり、自主活動を生起させることが施策に求められる要件であると冒頭に述べた。健康づくりは社会づくりであり、長野県が「健康長寿県」あるいは「PPK」として注目を集めているのもこのことなのである。これは県民と医療関係者そして行政が問題意識を共有して協働してきた成果であるが、しかし、医療関係者や行政がどんなに努力をしても、県民1人1人の取り組みがなければ、この大成果は達成できなかった。県民に自主活動が生起したという点が最も大きな要因であったことは間違いがない。そして、このことに貢献したのが「保健補導員制度」ではないかというのが、研究の出発点であった。ここで、興味深いのは、次のことである。

 厚生省は、平成12年10月「健康日本21」を広く徹底させ、国民全体の運動に盛り上げるため、国民から「ヘルスサポーター」を募集するという構想を打ち出した。国民の100人に1人、約100万人を健康ボランティアに任命するという大構想である。平成13年度から募集を始め、3年間で100万人を目指すと発表している。ヘルスサポーターは、生活習慣病や予防などの講習を受け、地域の健康づくりのリーダーとして活動し、年に1回、都道府県単位で大会を開いて自らの体験談の発表や研修を行うというのが方針である。「自分だけでなく、周囲の健康まで気遣う人の輪を広げたい」と構想の趣旨を述べている。これは、「保健補導員制度」と同じであるとは言えないだろうか。「ヘルスサポーター」と「保健補導員」は、名称に50年という時代の隔たりが反映しているだけで、まったく同じに見えるのは筆者一人ではないだろう。「ヘルスサポーター」制度を軌道にのせて、全国をまさに長野県にして21世紀を乗り切るという見通しのようにみえるのである。

 この構想には、一面、同意したいところであるが、全国にこの制度を導入しても、地域の文化に受け容れられなければ、定着することは難しいと思われる。手っ取り早くシステムを導入するのではなく、あるいはこれまでの行政による健康づくりがそうであったように、問題と解決策をセットにして提示するのではなく、住民の問題意識を育てることが第一である。

 一農村の家庭の主婦の直感と日本の専門家が、期せずして同じところに到達したのを見ると、須坂の女性の問題意識、着眼点の正しさなど、これまでの活動が正鵠を射たものであったことが確認される。独自の営みが同じ結論を持つに至るのは、現状の社会認識や問題意識が共通であるということである。これまでの一連の健康づくり対策に一方は制度の制定者として、一方はその制度によって規制を受ける側として、立場は違っているが長く関わってきた関心が、一定の方向に向かって展開したのである。須坂の女性が、「自分の健康は自分で守る」から「自分の健康は自分で作る」と、活動のキャッチフレーズを変えるに至った自覚こそ、まさに21世紀の健康づくりに必要な視点である。これを育てたのが「学習」であり、「学習」を「実践」で確かめてきた成果である。

 「学習」と「実践」は、保健補導員活動の二つの大きな活動である。今回、インタビューを試みた会長も、一様に「補導員活動は奉仕しながら勉強できるという素晴らしいものです。単なる奉仕団体ではないのです。勉強はいっぱいしましたが、みんな自分のためになりました。」と語ってくれた。学習した関心や興味を持って生活を見直せば、いろいろと工夫したいことが沢山ある。こうして学習と実践を行ったり来たりさせながら、次第に自分で自分を育てて行ったということが分かる。「自主的に学び、自主的に行動する」力を持った女性が、須坂市にはすでに5000人以上も誕生している。このことが、「健康と福祉の町・須坂市」を作り上げるのに大きな貢献をしたことは間違いないと言えるのではないだろうか。社会づくりを目指す健康づくりとはこのようなことである。

5.まとめと今後の課題

 自主活動とは、その人の問題意識の自己解決手段として生起する行動であり、どのような自主活動が起こるかは、その人の問題意識に由来する。しかし、健康に関する自主活動と言った場合、健康の概念があまりにも広いために、その関係を整理して論じることはなかなか難しい。ましてや、健康づくりが、個人の「生きがいづくり」「生涯づくり」であると表現されるような現代においては尚更である。健康づくりに欠かせない健康学習も健康実践も、人間の行うおよそ全ての行動や行為が包含されてしまうほどの内容を含んでいるからである。

 しかし、ここで「生きがい」という言葉が、逆に1つの示唆を与えてくれる。個人にとって「生きがい」とは、最も個別性の強い感覚であり、普遍性とは最も遠いところに位置するものである。言葉にしたくても言葉という普遍的なフィルターを通しては、とても表現しきれないもどかしさがあるのはそのためである。すると「生きがい」は、その人のもっとも奥深い「文化」や「個性」に根ざしている感覚であるということが分かる。健康づくりが生きがいづくりであるならば、健康づくりは、こうした欲求から発現するものでなければならない。須坂の保健補導員活動は、「楽しいからやった」と多くの人が語ったが、「楽しい」ということは、これはまさに健康づくりの真のあり方を期せずして実現したものであった。自分の文化性に依存した行為は楽しいという実感を伴って味わえるからである。

 行政の施策によって示される健康づくりは、問題と解決策を同時に示すという形で提示される。その意味では、それに従えば、ある程度の効果は得られるようにできている。しかしこれでは、その問題は行政側の問題なのであって、個人の問題意識として認識される過程を抜かしたことになる。行政側の問題意識で行われる健康づくりは、効果は得られてもそれによって満足感や充足感が得られるかどうかは疑問といわなければならない。

 筆者は、21世紀の健康づくりは、厚生省のいうように「住民主体」ではあるが、それを1人1人のレベルで考えるという意味で、「個人主体で行われる自主活動」が理想であると結論づけた。しかし、自主活動は行動として発現するまですこし時間的な経緯が必要である。そして、その経緯、すなわち自分の中で行動が発現する必然性を確認する段階に「学習」が位置づくのではないかと考えている。それを「自主的に学び、自主的に行う」と表現してみたのである。

 本研究では、長野県の120の市町村に置かれた保健補導員制度の中から須坂市一市を取り上げて分析したが、始めてみると一市の活動さえも十分に書ききれなかったといわなければならない。更にどの程度、須坂の伝統や文化に深く触れられたかということでは、不十分な点が多い。

 また、須坂市の取り組みと、例えば、同じ長野県でも上田市あるいは佐久市との取り組みは、どの様に違うのか、他の市と比較することによって、更に須坂の特徴が明らかになる。もし共通した点があれば、さらにそれは他県にも応用が可能な普遍的なものなのかどうかも興味が持たれる。もしあれば、それを育成することによって、個人の文化に基づく健康行動から地域の文化に基づく町づくりへと発展させることができる。そしてさらに、その延長上に、日本の文化に基づく健康づくりの形が見えるかも知れない。それが得られれば「健康日本21」の目指す「健やかで心豊かに生活できる活力ある社会の実現」に、側面から援助することが可能となる。

 また冒頭でも述べたが、筆者の母国である中国の健康づくりに、日本の健康づくりから何を学ぶか、中国の文化の視点から検討をしていくことが次の課題である。

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