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博士論文要旨

論文題目:アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の形成と遂行
著者:谷川 建司 (TANIKAWA, Takeshi)
博士号取得年月日:2001年3月28日

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 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国軍に対し無条件降伏し、アメリカを中心とする連合国軍の占領統治下に置かれることになった。日本占領の目的は軍国主義の根絶とともに、″他国の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示されているアメリカの目的を支持するような、平和的かつ責任のある政府を最終的に樹立する″ことにあったが、この占領政策がうまくいくかどうかはひとえに日本国民一人一人が連合国軍の占領目的を正しく理解し、敗戦の痛手から立ち直るために何を目標としていけば良いのかを正しく認識するかどうかにかかっていた。

 為政者、すなわち連合国軍の側に立って考えれば、軍国主義・全体主義的教義に染まっていた日本人に対して、廃墟の中から再建していくべき社会のモデルを提示し、その目的実現のために、従前の社会システムやものの考え方などの中からどういった要素を排除していくべきなのか、そして新たに取り入れるべきシステム、採用すべき態度、学ぶべき概念は何なのかを具体的に示すことが必要だった。

 連合国軍、という建て前ではあったものの、事実上、日本占領はアメリカ太平洋陸軍による単独占領に限りなく近い形で行なわれた。そして、アメリカ合衆国は為政者として日本占領政策を行なっていく上でのプランを用意し、日本を非軍国主義化し、民主主義国家として再建させる上での日本人″再教育プログラム″を実施したのである。

 この大事業を成功させる上で、極めて有効なツールと位置付けられていたものの一つに映画があった。民主主義の生きたお手本として、あるいは″アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ″を他の何ものよりも雄弁に物語るヴィジュアル素材として、占領軍は対日占領政策を実施していく上で映画―――特に自前(=アメリカ製)の作品―――を積極的に活用しようとした。

 実際のところ、映画は視覚に訴えるメディアとして他のどのメディアよりも大きなインパクトを持つと考えられていたし、情報伝達の手段として大きな可能性を持つものとしてアメリカを含む世界中の国々で認識されていた。対日占領政策が形成された1940年代において、当時の最先端のメディアであった―――アメリカで映画が産業として成立したのは漸く1920年代になってからのことである―――映画が、連合国側、枢軸国側を問わず、多くの国において政府の政策を推進する上での有効な手段として用いられていたこともまた今日では良く知られている。

 こうした映画というメディアを巡る20世紀前半から半ばにかけての環境を考えた時、占領下日本で行なわれた日本人″再教育プログラム″の一環として、映画というメディアが積極的に利用されたという事実が、けっして占領の現場スタッフの思い付きによる偶然の産物ではなく、あくまでもアメリカ合衆国政府による確固たる方針の下に行なわれたことであったと推測するのは極めて自然な見方であると言えるのではないだろうか。

 しかしながら、これまで様々な角度から研究されてきたアメリカ合衆国による対日占領政策が、こうした合衆国政府としての対外文化政策という視点との関連で分析されたことは全くなく、実際に占領下日本で行なわれた対日映画政策が、アメリカ合衆国としての公式な対外映画政策に基づいて行なわれたものであるかどうかの確認作業もまたなされた例はない。―――すなわち、アメリカ合衆国による対日映画政策の形成過程とその遂行過程との間には確かな連続性があったと言えるのではないか、ということが証明すべき仮説として設定し得るのである。

 こうした問題意識の下、本論文は何よりもその連続性が存在したことを実証的に証明すること、あるいは結果として連続性はなかったという結論に辿り着く可能性も含めて、アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の政策形成のプロセスと政策遂行のプロセスの両方を検証することによって、その連続性、あるいは非連続性を解き明かすことを目的として書かれたものである。こうした観点から、政策形成のプロセスを検証する第一部「占領期対日映画政策の形成」(第一章~第八章)と、政策遂行のプロセスを検証する第二部「占領期対日映画政策の遂行」(第九章~第十六章)に大きく分け、さらにそれらを踏まえた上で具体的な事例を検証していく第三部「事例検証」(第十七章~第十九章)を含めた三部構成とした。

 アメリカ合衆国としてのオフィシャルな対日占領政策案立案過程というのは、すなわち国務・陸軍・海軍三省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee =SWNCC)、及びその下部組織、極東小委員会(State-War-Navy Coordinating Subcommittee for the Far East =SFE)による政策文書の形成に至るプロセスである。

 太平洋戦争開始直後からスタートした戦後計画は、国務省内の戦後計画委員会(PWC)での検討を経て、SFEで国務省を中心に陸・海軍省との連携によってプランが形成されていったが、その中心的役割を果たしたのは元駐日アメリカ大使ジョゼフ・C・グルー(Joseph C. Grew)やユージン・H・ドーマン(Eugene H. Dooman)といった国務省の幹部スタッフ、そして日本研究者として招かれたジョージ・H・ブレイクスリー(George H. Blakeslee)やヒュー・ボートン(Hugh Borton)などの学者で、いずれも国務省内にあってはけっして多数派ではない″知日派″と呼ばれる面々であった。そこで準備された様々な政策文書の中で、対日マス・メディア政策案SWNCC-91/162シリーズ中の対日映画政策の内容に関して言えば、日本の映画産業界に対し軍国主義的映画の上映・製作を禁止させ、映画法などの法律を撤廃させるなどの″統制″色の強い措置のみならず、戦後日本の民主主義促進のために映画を有効なツールとして利用するというポジティヴなプランが提唱されていた。

 しかしながら、国務省知日派スタッフによる対日占領政策原案は、それらがSFEで正式な政策文書案としてまとめられSWNCCで承認される、という正規の手続きが完了するよりも前に日本が無条件降伏し、実際に占領政策が始まってしまった結果、いわば″幻の政策文書″として公式には陽の目を見ることなく終わることになった。つまり、それらは基本的には日本に直接軍政が敷かれることを前提に起草されており、占領開始直前になって直接統治方式から日本政府を存続させる間接統治方式への転換が行なわれたことに対する対応が間に合わず、公式な文書として採用されたのはSWNCC-150(「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」)のようなマスター・プランのみであったのだ。―――この事実によって、これまで、国務省知日派スタッフによる対日占領政策原案と、実際に行なわれた対日占領政策との直接的な関連を疑問視する研究者が少なくなかったのである。

 本研究では、こうした点を踏まえ、このSWNCC/SFEの流れとは別に、より直接的に対日映画政策形成に関わったグループがあったのではないか、との仮説を立て、合衆国政府内で映画に関係した他の部局の動きを整理し直した。つまり、対日占領政策案の中における対日映画政策、ではなくて、合衆国政府による公式の対外映画政策の中での占領地日本の位置付けがどうであったのかという観点で調査をしたのである。

 映画政策をその業務の核として行なっていた合衆国内の部局としては、ローズヴェルト大統領の肝いりにより、合衆国映画サーヴィス局(United States Film Service Division =USFS)が1938年8月に設立されていたものの、政府内の各部局はそれぞれに映画を利用しており、政府としての統一した映画政策は存在していなかった。こうした状況下にあって、合衆国政府としての初の公式な″映画会議″が1939年1月に行なわれ、今後の合衆国政府としての公式の対外映画政策を担当していくのがUSFSではなく、国務省内において映画をハンドリングする立場にあった部局であることが確認された。実際のところ、たとえば占領下日本で配給されたアメリカ製劇映画はすべて国務省の承認を受けており、検閲を担当した民間検閲部(Civil Censorship Detachment =CCD)での分類番号も国務省を表す頭文字=S(State Department のS)となっていたことがこれまでの研究で既に判明していたのであるが、こうして、合衆国政府としての公式の対外映画政策を担当していくことになった国務省内の部局こそが文化関係部(Division of Cultural Relations)であった。

 ちなみに、アメリカ合衆国政府による国務省を中心とした対外文化政策に関しては、政府側の部局変遷史や映画産業界側の視点でまとめた先行研究がいくつかあるが、この合衆国政府初の″映画会議″について言及しているものはない。この″映画会議″の詳細な会議録を発見し、この会議をもって政府としての公式な対外映画政策の始まり、と位置付けたのは本論文のオリジナリティの一角を為す部分である。

 そして、結果的に国務省にイニシアティヴを奪われる形となったUSFSの中心スタッフたち、すなわちチーフのペア・ロレンツ(Pare Lorentz)とその補佐役として″映画会議″の議長を務めたジョージ・J・ガーキー(George J. Gercke)は実はともにその後別の立場で対日映画政策遂行の過程に大きな役割を果たしているのである。

 その後、合衆国政府としての対外プロパガンダ政策は戦局の進展とともに徐々に整備され、一部のUSFSスタッフを吸収する形で政府調査局(Office of Government Reports =OGR)が設立され、さらに太平洋戦争勃発という状況を受けて1942年6月に合衆国政府としての対外プロパガンダ政策全般に対して責任を持つ組織としての戦時情報局(Office of War Information =OWI)が設立された。また、ラテンアメリカ諸国における情報プログラムに関しては既に1940年8月に設立されていた米大陸間問題調整局(Office of the Coordinator of Inter-American Affairs =CIAA)が担当していくことが改めて定められた。

 OWIの活動に関しては、その映画課(Bureau of Motion Pictures =BMP)のハリウッド・オフィスが事実上の検閲機関としてハリウッド映画産業界をコントロールしていたことがいくつかの先行研究によってわかっている。また、BMPによってコントロールされた上で製作されたハリウッド製劇映画に関しては、その内容についてのレヴューとともに、上映するのに相応しい地域や国についての勧告がなされており、それが後に占領下日本へ送付する″厳選された″アメリカ映画の選定に利用されたと考えられる。

 そして、占領下日本へ送付する″厳選された″アメリカ映画の選定について言えば、OWIとハリウッド映画産業界の密接な関係によって45本の占領地域での上映向け作品リストが選定され、そしておそらくはそのリストを基に追加作品を加えて選定したと思われる、日本向け承認作品60本のリストを国務省と陸軍省が承認したことがわかっている。ただし、そのリストそのものは残念ながらOWI海外映画課の文書類の中にも、国務省文化関係部(及びその後身の部局)の文書類にも、またハリウッド映画産業界側のアクセス可能な資料の中にも発見することが出来なかった。もちろん、このリストに基づいて日本に作品が送られたということである以上、実際に公開された作品から元のリストを推察することは可能ではあるが、やはりOWI文書や国務省の文書の中で度々言及されている以上、リストそのものの発見は大きな課題であると言える。

 OWIの海外映画課では、戦後の極東におけるアメリカ映画配給体制についての具体的な提案として1944年末に二つのプランが起草され、承認されている。その二つのプランを起草したOWIスタッフというのは、一人は占領下日本で民間情報教育局(Civil Information & Education Section =CIE)の情報課長(Chief of the Information Division)として直接映画を含むマス・メディア政策を担当したドン・ブラウン(Don Brown)であり、もう一人は戦前にコロンビア映画の日本代表として極東でのアメリカ映画配給ビジネスに関わっていたマイケル・バーガー(Michael Bergher)である。

 二つのプランは密接な関連を持つと考えられるが、特にバーガーの詳細に渡るプランにはハリウッド映画産業界の共同配給機構としてのセントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジ(Central Motion Picture Exchange =CMPE)設立の提言が含まれており、実際に彼は占領下日本でCMPEを設立し、初代日本代表としてOWI時代に自らが立てたプランを実行しているのである。―――これらの文書の発見によって、占領下日本で実施された映画政策の中で、厳選されたハリウッド製劇映画を占領国民に生きた教材として見せていく、という政策部分を具体的に準備していたのがOWIであったことが初めて明らかとなった。

 一方、国務省文化関係部には、ニュース映画製作やラジオ番組制作の仕事など豊富な実務経験を持っていたジョン・M・ベッグ(John M. Begg)が1941年9月にチーフとして迎えられた。それ以降、彼の強力なリーダーシップの下でこのセクションの国務省内での役割は次第に大きくなっていき、部局としての名称を映画ラジオ部(Motion Picture and Radio Division =MPR)、国際情報部(International Information Division =INI)と変えていきながら、対日映画政策の中の啓蒙教育目的で製作されたドキュメンタリー映画を積極的に見せていく、という政策部分を準備していった。同部局ではまた、映画に関するすべての領域において、合衆国政府内の他の部局との調整を図る役割を担っていたため、CIAAやOWIとも緊密な連絡を保っていた。

 そして、実はこの部局こそが、1945年5月、SWNCC/SFEで審議すべき対日映画政策案の原案作成を、SFE議長であった国務省幹部のユージン・ドーマンから委託され、CIAAやOWIなどの意見も取り入れた形でこれをSFE-118(SWNCC-91の草稿)としてまとめた部局に他ならないことが本研究によって明らかになった。―――そのことはつまり、SWNCC/SFE自体が直接に占領下日本で行なわれた映画政策に関与していなかったとしても、このジョン・M・ベッグの部局(この時点では国際情報部)が占領下日本で行なわれた映画政策に直接関与していたとすれば、アメリカによる対日映画政策の形成過程とその遂行過程との間に直接的な繋がりがあったと言えることを示している。

 ジョン・M・ベッグの国務省国際情報部は、終戦と共に廃止されたCIAAとOWIの機能、プラン、及びそのスタッフを吸収する形で最終的に国際映画部(International Motion Picture Division =IMP)として一本化された。特に、極東における戦後のアメリカ映画配給機構のプランを立てていたOWIが吸収されたことにより、国際映画部は対日映画政策の中で、啓蒙教育目的で製作されたドキュメンタリー映画を製作、供給する部分に加え、従来OWIが中心となって進めてきた一元化したニュース映画供給体制としての「ユナイテッド・ニュース」(United Newsreel)の製作、そして厳選されたハリウッド製劇映画をCMPEを通じて配給し、民主化促進の生きた素材として活用していくという政策部分をも受け持つことになったわけである。OWIのスタッフであったドン・ブラウンやマイケル・バーガーも一旦国務省の所属となり、国務省からの派遣という形で日本に送られているのである。

 一方、占領政策の開始後、占領の現場としての日本とアメリカ本国(ワシントンDC)とを結ぶ公式チャンネルとしての機能を果たしたのは、陸軍省民政部(Civil Affairs Division =CAD)であった。民政部はそもそもSWNCC設立を促し、国務省、海軍省と共に占領政策立案に当たってきた部局であったが、占領開始後にその再教育課占領地域メディア班(Occupied Areas Media Section, Reorientation Branch)に映画・演劇ユニットという部門が組織され、そのチーフとして元USFSチーフのペア・ロレンツが就任し、日本に送付するハリウッド製劇映画の承認手続きや、国務省国際映画部と同様のドキュメンタリー映画製作などを取り仕切った。

 ペア・ロレンツが陸軍省民政部の映画製作現場責任者兼国務省との連絡担当将校として1946年7月に表舞台に復帰したことと、その僅か四ヵ月後の11月にUSFS時代にロレンツの腹心の部下だったジョージ・J・ガーキーがCIE情報課長ドン・ブラウンの下で映画演劇班長に就任したことの直接的繋がりを示す資料は発見できなかったものの、元OWIのドン・ブラウンやマイケル・バーガーが国務省からの派遣の形でそれぞれCIE情報課長、CMPE日本代表として送り込まれた事例も含めて、占領期対日映画政策の形成に直接関与した現場スタッフが実際に占領期対日映画政策の遂行に関わったことはけっして偶然ではなく、二つの段階の連続性を実証する一つの有力な手掛かりと位置付けたい。

 さて、占領政策実施の現場としての日本の状況に目を遣ると、先ず連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters / Supreme Commander for the Allied Powers =GHQ/SCAP)が10月2日付で設立され、映画政策の実務としての統制面(検閲)を担当する部局としての民間検閲局(CCD)、日本の映画産業界に対する指導を担当する部局としてのCIEがともにその活動をスタートさせた。CCDとCIEの間にはその役割分担を巡る混乱や対立状況が生じ、1946年前半に続けざまに開催された両部局間の会議によって問題点が整理された。特に1946年3月11日にCCD上層部とCIE情報課の映画班長デイヴィッド・W・コンデ(Davis W. Conde)との間で行なわれた会議によって、それまでCIEの持つ権限が日本の映画産業界から過大評価されていた現状が明らかとなり、役割分担が確定するとともに、行きすぎた振る舞いをしているとみなされていたコンデ自身はその四ヵ月後にはCIE初代映画班長の座を追われることになった。

 占領下日本では、新聞・雑誌に対する「プレスコード」、放送に対する「ラジオコード」というマス・メディアに対する指針が日本政府を通じて示されたが、それらと比べて、映画・演劇・紙芝居などすべてのピクトリアル・メディアを対象とした「ピクトリアルコード」の実態はあまり知られておらず、山本武利『占領期メディア分析』によって初めてその4項目が紹介されたものである。だが、本論文における調査で、実際にはすべてのピクトリアル・メディアに共通する大原則だけを示したの「ピクトリアルコード」とは別に、映画に関して現場の映画検閲官が指針とすべき詳細な規定を定めた「映画コード」が存在していたことが明らかとなった。

 OWI海外映画課のマイケル・バーガーによるCMPE設立プランは、バーガーが国務省からの派遣という立場で進めたにもかかわらず、現実には極東マーケットの再開拓というハリウッド映画産業界側の本音―――それは少なくともアメリカ映画輸出協会(Motion Picture Export Association of America =MPEA)にとっては間接的にアメリカ合衆国の利益に繋がることとして矛盾するものとは想定されていなかった―――が強く表面化していたこともあり、占領政策の一環としてのアメリカ映画配給という建て前だけは残ったままで、遠くない時期にCMPEを純粋な私企業へと転換させることを前提とした形で成立した。そしてまた、OWIに対しては進んで協力する姿勢を示していたハリウッド映画産業界は、占領地域へ送る映画の選定に関して事前に試写を行なってアプルーヴァルを与える権限を求めていた国務省国際映画部に対しては、「それは国家による映画検閲に繋がる」として拒否し、最早戦争は終ったのであり、映画産業界としては自己の責任において作品を選定していくという態度を明確にした。

 その結果、45本ないし60本の日本向け作品リストとともにOWIのプランを国務省国際映画部が受け継いだ形で進められたCMPE設立構想は、″厳選された″アメリカ製劇映画を民主化促進のために用い、それらに表れている″アメリカン・デモクラシー″や″アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ″のヴィジュアル・イメージを生きた教材として提示する、という建て前の下に進められていたにもかかわらず、実際には、CMPEによって配給・上映された映画アメリカの中には、明らかに利益最優先の娯楽映画とカテゴライズできるものも少なからず含まれていたし、1947年5月を境に実際にCMPEに私企業としての活動が認められて以降は、概して娯楽的作品の割合が増えていった。―――だが、占領下日本で上映されているアメリカ映画が民主主義促進に役立つ内容のものであるべきだ、という建て前自体はCIEやCCDの現場スタッフの間に浸透していたため、CCDによる検閲では、CMPE配給によるアメリカ映画といえども「映画コード」の内容に抵触していないかどうか厳密にチェックされたわけである。

 日本の映画産業界に対して封建主義的要素を含むジャンルであるとしてチャンバラ映画を禁止していたにもかかわらず、CMPEを通じて配給されるアメリカ映画の中には西部劇や西洋剣劇なども含まれていたから、それらはCIEやCCDの現場レヴェルで常に問題視されることになった。結局のところ、政策案立案過程とその実施過程との間に連続性があったかどうかという観点で考えれば、国際映画部が劇映画政策部分のイニシアティヴを完全に失っていたことによって、この政策部分に関して連続性はなかったとも言えるが、占領下日本で上映されるアメリカ映画についてはCIEとCCDによる二重のチェック機能が働いており、少なくとも占領初期においては、占領目的に沿わない娯楽一辺倒の作品ばかりが氾濫することを防ぐフィルターの役割を果たしていた。

 だが、結果的には占領期間中を通じて着実に、CMPEは利益を追求する私企業として日本の映画興行界における巨大な存在になっていった。そして、CMPEのもたらしたプラス面、マイナス面それぞれの遺産は、現在の日本の映画産業界における様々な状況を形づくったと言える。

 一方、対日映画政策案の中で、啓蒙教育目的で製作されたドキュメンタリー映画を占領地域の津々浦々にまで移動上映などの形で見せていく、という政策部分については、始めから国務省国際映画部によってハンドリングされており、占領開始後はCIE情報課の映画演劇班(Motion Picture and Theatrical Unit / Branch)教育映画ユニットによって実施された″CIE映画″政策として、多少の遅れはあったものの国務省が直接責任を持つ″再教育プログラム″の形で当初のプラン通りに実施されたと言える。

 ただし、啓蒙教育目的のドキュメンタリー映画の製作について、1946年段階になって国務省国際映画部と陸軍省民政部再教育課占領地域メディア班映画演劇ユニットという二つの部局で、ほぼ同じ趣旨で同じようなドキュメンタリー映画政策が行なわれていたという点に関し、少なくとも陸軍省側の担当者であったペア・ロレンツが国務省との連絡担当将校でもある、という立場だったにもかかわらず、両部局間でも連絡の記録などが発見できず、その繋がりが解明できなかった点は今後の課題として残った部分である。

 アメリカ合衆国による占領期対日映画政策が成功裏に終わったといえるかどうかは、簡単に結論が出せる問題ではない。それは日本に民主主義が定着したといえるのか、あるいは戦後民主主義とは何であったのか、といった問題と密接に結び付いている。たたし制度の上ではCIEの行なっていた日本映画産業界への指導はCIEの肝いりで設立された映倫によって引き継がれ、映画界が再び国家による統制を受けることのないようにする防波堤として今日もなお存続しているわけであり、対日映画政策の置き土産として評価できる。

 最後にひと言だけ言い添えるならば、対日映画政策の形成過程、そしてその遂行過程において、そのシステムの解明とともに、実際に政策案を立案したのが誰であったのか、それを誰がどのように実行していったのか、という″人物″に焦点を当ててきたのは、アメリカという国の政策決定プロセスというのが常に″人物″と密接に結びついていたからに他ならない。その形成過程にしろ、遂行過程にしろ、アメリカ合衆国による占領期対日映画政策に中心的に関わった人たちというのは、時としてその立場に違いがあったにしろ、いずれも日本の映画産業界の民主化や、日本人再教育プログラムの一環としてのハリウッド製劇映画上映といったその政策に対し、熱意を持って取り組んでいたことは間違いない。―――対日映画政策のどの部分を切り取ってみても、その背景には映画というメディアの持つ大きな可能性や、日本の映画産業界の特質を熟知した者たちの知恵や理念、そして夢が詰まっていたわけだし、どんなに精緻に練られた政策であっても、それを実行し、応用し、改善していくのは人間の創意や誠実さ、という部分に他ならなかったと思うのである。

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