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博士論文要旨

論文題目:近代朝鮮における塩需要と塩業政策
著者:田中 正敬 (TANAKA, Masataka)
博士号取得年月日:2001年3月28日

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 本稿では、近代朝鮮における塩需給の変化と塩業の展開過程とを、(1)1876年の開港~大韓帝国期(1908年前後における統監府の塩業への方針の確定):本稿第1章、(2)韓国併合以降~1920年代:本稿第2章、(3)1930年の塩輸移入管理令施行~1945年:本稿第3章、の3期に分けて考察した。

 第1期の需給構造の変化は、日本からの輸入塩に始まる。1886年を画期とする日本塩の大量輸入という事態は、開港場付近の朝鮮在来塩業(民間塩業)による生産塩(民間塩)と日本塩との市場における販売競争を生み、民間塩業は大きな打撃を被ったが、日清戦争の直後、1897年を境にして日本塩輸入は減少し、一時期、民間塩業の復活を見た。

 しかし、日本塩輸入の減少と反比例するように、しかもより大量に朝鮮に輸入されるようになった清国からの輸入塩(中国塩)は、民間塩生産の減少をもたらした。当初もっとも多く輸入されたのは山東半島産のものであったが、これは山東半島と朝鮮西北海岸との交易ルートを前提とし、その中には多くの密輸入塩が含まれていた。また、民間塩と日本輸入塩とが高価な煎熬塩であったことに対して中国塩が安価な天日塩であったことも、中国塩輸入増大の原因であった。

 かかる中国塩輸入問題に対して統監府は、1908年前後には官業として塩田を建設・運営し、この官営塩田での天日塩(官塩)生産による将来の塩自給の完成と塩専売制度施行という方針を打ち出したが、これは財源確保を第一義的な目的とするものであって、民間塩業の救済策はなされなかった。民間塩業は、ここに中国天日塩のみならず新たに登場した官営天日塩との競合関係の中に置かれることとなった。

 一方、統監府は、民間塩業に対して1907年に「塩税規程」を施行し、生産量に応じて塩税を課すこととした。これは、従来の生産施設(塩盆)に対する課税という方針から大きく転換するものであったが、生産量の把握を充分に行えず、1920年に廃止された。この課税策の失敗以後、戦時期に至るまで民間塩生産については「自由販売」となったが、このことは統監府および朝鮮総督府の民間塩業に対する統制策の失敗を意味していると同時に、民間塩業に対する保護策もまた、全く講じられなかったことを意味していた。

 第2期の塩需給構造と塩業政策とについては、まず、朝鮮総督府財政における官営塩業の位置について考察した。煙草、紅蔘、塩、アヘンの4品目は、朝鮮総督府においてほぼ一貫して専売部局において管理されていた。1910年代にはこれらの品目を管理する部局は度々移動したが、1921年の煙草専売制度施行以後、新たに専売局が設けられ、塩についても専売局で管理されることとなった。専売局収入は総督府財政において15%内外であり、比較的に大きな比重を占めていたが、中でも煙草収入は専売局収入全体に占める割合が90%前後であった。一方、官営塩業収入は、1920年代には2%前後と、わずかな割合に止まり、しかも塩田建設費を考慮に入れると、1924年度までは一貫して赤字であった。官営塩業が「専売局の癌」とも称された背景には、このような経営状態があったのである。

 官営塩田建設は、1907年の朱安試験塩田を嚆矢とし、官営塩業方針確定後に本格化した。第1期塩田建設は朱安・広梁湾を中心とし、1914年までに858町歩が完成し、1917年から開始された第2期塩田建設では朱安・徳洞に347町歩が完成した。しかし、1920年から開始された第3期塩田建設は、7ヶ年で2,600町歩を建設する計画であったが、関東大震災の影響で朝鮮事業公債が打ち切られたことにより、27年までの計画が25年で中断し、完成した塩田も計画の半分の1,241町歩に過ぎなかった。官塩生産は、1920年代前半までは漸増に止まったが、20年代後半から生産が急増して29年には朝鮮内の塩流通量の過半を占めるに至った。

 官営塩業収入が伸び悩んだ背景には、中国からの輸移入塩との競合もあった。特に1910年代と20年代には、中国塩輸入が朝鮮内の塩流通量のなかでもっとも大きい割合を占めており、市場での販売において、官塩はその販路に苦しむこととなった。

 官塩の販売については、1911年より「委託販売」として民間の塩取り扱い商人に任されたが官塩販売はふるわず、各地の塩卸売人(特約販売人・塩売捌人)を指定し、総督府の統制下に販売を行う、政府直営の販売方法に変更された。1918年より開始されたこの制度は、以後官塩販売の根幹をなす制度となった。だが、官塩の販売は価格面において輸移入塩よりも不利であって、官塩販売促進のために特別に塩価を下げて販売する制度(特価制度)を適用しなければならない地域もあった。したがって、官塩との競合関係にある輸移入塩をいかに統制し、円滑な官塩の販売を行うかが朝鮮総督府の課題となった。

 第3期の塩需給構造および塩業政策の画期は、関税制度改編による塩輸入税撤廃を契機に1930年5月より施行された「塩輸移入管理令」であった。塩輸移入管理令は、輸移入塩を全て総督府のもとに収納し、総督府がこれを販売するというものであり、以後塩価は安定し、また、課題であった官塩と輸移入塩との競合関係も解消された。すなわち、ここに朝鮮総督府は天日塩についての完全な統制権を確立し、朝鮮における塩流通量の9割を手中に収めたのである。総督府は、塩輸移入管理令施行のスローガンとして民間塩業の保護をうたっていたが、第一義的な目的は官営塩業の保護にあったと言えるであろう。また、塩輸移入管理令施行後には、官営塩業収入もそれまでの2倍以上に一挙に増大したのである。

 だが、この時点では、輸移入塩統制から踏み込んだ塩専売制度の実施までは行われなかった。このもっとも大きな理由として、事実上総督府は朝鮮内における塩の統制権を得ており、財政的な負担が大きい専売制度に移行する積極的な理由が無かったことが挙げられる。また、専売制度施行において特に問題となるのは民間塩の統制であるが、民間塩への課税に失敗した経験を持つ総督府は、民間塩に対する統制策に消極的だったのではないかと考えられる。さらに附言すれば、塩輸移入管理令施行のスローガンが民間塩の保護にある以上、民間塩に対する強力な統制策(廃業など)をもって製造専売制を確立することは論理的に矛盾しており、このことも製造専売制度へ移行しなかった要因ではなかったかと思われる。

 塩輸移入管理令の施行と同時に、総督府は新たな塩田建設に乗り出した。この塩田建設は、1925年に中断した塩田建設を引き継ぎ、朝鮮における自給自足を達成して製造専売制度へ移行するためのものであったが、この計画段階においては、帝国日本における塩の自給自足と朝鮮における塩の自給自足とが相互に連関しているという認識があった。すなわち、朝鮮総督府は、1930年代の塩業政策を進めるに当たって、朝鮮内における需給問題と財源確保という朝鮮の内的な課題に加えて、新たに朝鮮の外部にも目を向けるようになったのである。

 かかる傾向は、1930年代を通じて一層深まっていくものと考えられる。この傾向については、1931年に内地と外地との間の塩の需給調整を目的に開催された第1回内外地塩務主任官会議、1934年に日本における工業用塩需要の急増と満州における塩田開発を背景に開かれた第2回塩務主任官会議、1936年に長蘆塩田開発問題を背景に開かれた第3回塩務主任官会議についての検討を行う中で考察した。

 1931年の会議においては、朝鮮の自給自足を進めていくことが申合で確認されたが、他方では積極的に関東州および台湾の余剰塩を購買することが求められた。1934年の会議では、朝鮮における食糧用塩の増産による自給自足を図るべきことが申合に明記された。1936年の会議は、拓務省に代わり大蔵省の主催となり、前2回の会議よりはるかに具体的で、実行力を伴ったものとなった。朝鮮は、この会議に新たな塩田建設計画を打ち出した。また、朝鮮には、この会議以後具体的な目標をもって食糧用塩および工業用塩の自給自足を完成することが求められ、ここに朝鮮における塩の増産は、帝国日本の塩の自給問題と関連づけられることとなったのである。

 かかる情勢の変化の中で進められた第4期塩田拡張計画は、これを第1次から第4次まで分けることができる。第1次塩田計画は、1932年から着手することとなっていたが、財政的な問題により33年から実行に移され、36年に完成した。第2次塩田計画は、35年に開始して40年に完成した。その規模は、当初の3,000町歩から2,200町歩に減少したが、第4期塩田拡張計画は以上の塩田拡張で終了するはずであった。しかし、1936年の会議前後には朝鮮総督府内で新たな塩田拡張の気運が醸成され、第3次増産計画として1938年から42年までに1,250町歩の塩田が建設され、第4次計画として1,250町歩の塩田拡張が計画されたが、完成する前に日本の敗戦を迎えた。また、完成した塩田における塩の増産も予期したほどの成果は上げられなかった。

 一方、1933年に日窒がソーダ類を試験製造し、36年より本格的な生産に入ったことにより、朝鮮における工業用塩需要が生まれた。当初、工業用塩は日本と同様に自己輸入であったが、1938年に総督府は大日本塩業株式会社に塩田建設を許可して、朝鮮における工業用塩生産を開始することとなった。これは、いまだ朝鮮における塩自給を完成していない官営塩業に食糧用以外の塩を増産する財政的および時間的な余裕がなかったこと、工業用塩の生産からソーダ類の製造までを民間に任せることがソーダ工業の発展に有利であるとの認識を持っていたためである。しかし、第1次・第2次を合わせて3千町歩の拡張をする予定であった工業用塩田も、一部の塩田以外は結局未完成に終わることとなった。

 以上のように、30年代の塩田拡張は実際の建設が順調には進まなかったため塩の需給は完成せず、戦時期には塩不足が表面化した。これに対して朝鮮総督府は、1941年頃から価格統制を施行し、さらに42年には朝鮮塩専売令を施行して、従来自由販売であった民間塩業と工業用塩田とに対する統制および配給統制を行なう法的根拠を整備した。ここに戦時下という特殊な情勢ではあるが、朝鮮総督府は専売制度を完成したのであった。43年には臨時製塩地管理令を施行してさらなる増産を目指したが、塩不足解消の有効な手だてとはならず、そのまま日本の敗戦=朝鮮の植民地からの解放を迎えたのである。

 一方、民間塩業は、上記のような天日塩の増大のもとで急激に生産量を減らしていったが1920年代から30年代末にかけては比較的に安定した生産量を保っていた。この理由としては、第一に、地域によっては価格面において天日塩に対抗することができる生産者が存在したこと、第二に、天日塩と煎熬塩との形質の相違により、奢侈品として一定の需要を得ることが可能であったことによると考えられる。

 民間塩業者の大部分は農民で、副業として塩業に関わる形態が一般的であり、塩の生産から受ける利益も少なかったと思われる。安価な天日塩が朝鮮内流通の9割を占める状況下であった植民地期には、基本的に民間塩業の発展の契機は絶たれてしまっていたと言っても過言ではない。だが、民間塩業は、それに携わる生産者にとっては現金収入獲得のための重要な手段であった。ここに、民間塩業が継続した基本的な要因があったと考えられる。しかし、1930年代末以後、民間塩業存続の条件は悪化して、民間塩生産を行っていた塩業者の就業機会は奪われていったのである。

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