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博士論文要旨

論文題目:初期中世贖罪書の基本的性格
著者:滝澤 秀雄 (TAKIZAWA, Hideo)
博士号取得年月日:2001年3月28日

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 贖罪書は西欧中世のキリスト教会で贖罪の儀礼を行うために用いられていた手引書である。贖罪は、来世において魂の救済に与るために罪人が現世において済ませておくことを求められた償いの業であると同時に、現世において、教会、特に聖体拝領を中心とする信者の共同体に復帰するために必要とみなされていたものであった。贖罪書は贖罪を監督する任にあった聖職者のために書かれたものと考えられるのである。

 六世紀から十二世紀までに編まれた長短様々な九〇点近い贖罪書が、二四〇点にのぼる写本によって今日に伝えられている。罪を犯して神の恩寵を失ったキリスト教徒は、聖職者に罪を告白し、命じられた贖罪行為を成し遂げることによって、それを再び取り戻さなければならなかった。贖罪書の中心は、告白すべき罪の種類と、それぞれに科されるべき贖罪を定めた贖罪規定である。短い贖罪書にはわずか一〇余りの規定が記されているだけで、長いものでもおおよそ一〇〇規定から二〇〇規定の間であり、三〇〇規定を越えるような大部の贖罪書は稀であった。贖罪規定で扱われる罪は、殺人、傷害、偽誓、偽証、窃盗、略奪、放火、姦通と姦淫、近親相姦、近親婚、同性愛をはじめ、夫婦間の問題にまで及ぶ様々な性的な罪、堕胎、子殺し、暴飲暴食、更に教会の教えに反していたものと思われる、民間の祝祭や様々な信仰、偶像崇拝、異端や破門者との交際、利子をとること、隣人との不和を招く感情や表情、聖体やミサ祭儀に関わる違反と過失、穢れた物の飲食といった多様なものであり、罪の種類によっては、どのような行為がそれにあたるかが具体的に叙述されていた。課されるべき贖罪は断食が主であったが、他に巡礼あるいは追放、施し、被害者への賠償金の支払い、祈り、詩篇朗誦、徹夜などの苦行、夫婦関係や帯剣の禁止、稀にではあるが禁固や隔離が定められることもあった。これらの贖罪規定には、序文や跋文が記されている場合があり、そこには贖罪の原理、贖罪を科す際の聖職者の心得、その際に、また罪の赦しを宣言する際に、贖罪者に唱えてやるべき祈りや儀礼、そして、本来の贖罪である断食を他の行為によって代替したり、施しによって「買戻す」ための方法が説明されていた。

 贖罪書は初期中世の文書の中では、比較的多くの写本が残されていながら、教皇や公会議あるいは教会会議による認可を経たものではなく、自然発生的に作り出され、流布していた点に史料としての特徴がある。写本制作に費やされる物質的時間的負担に見合うだけの必要性が、中世教会組織において認められていたことになるのである。このことから、古代の教皇教令や教会会議の決議とは異なり、実地に用いられるために作られ、また実際使われていたと考えられることが、贖罪書が史料として重視されるようになった、何よりもの理由であると言ってよい。実際に使用されていたのであれば、規定で扱われている罪は実際に行われていたのであろうし、科されている贖罪は、教会がその罪をどれほど危険視していたかを示す指標になるものと考えられるのである。贖罪書が繰り返し編み直され、キリスト教的な謙譲の美学に裏打ちされた保守主義が文書の作成を支配していた時代にあって、以前の贖罪書の規定がそのまま書き写されていただけでなく、時には修正や加筆の加えられる場合のある「生きた文書」であったことも、贖罪書が実用本位の文書であったことを窺わせる。しかし、その史料としての価値が一様に認められているのではなく、それをめぐる論争がなされてきているにもかかわらず、贖罪書が実際に用いられていたとして、それがいったい教会の中の誰によって、どのような機会に用いられていたのか、また規定の適用はどのようになされていたのかという問題は、ほとんど取り上げられることがなかったのである。

 比較的最近になって、F. ケルッフは、贖罪書の内容と、贖罪書が記されている写本に、ともに伝存される文書の性格の分析から、贖罪書がそれまで漠然と前提とされてきたように、教区司祭によって、アイルランド型贖罪、あるいはカロリング期以降の秘かな贖罪において、司祭と教区民により一対一で秘かになされる耳聴告解の場で用いられていたのではなく、カロリング期以降に制度化された、俗権の強制力を背景に行われる司教による教区巡回裁判の際に、司教によってあるいはその代理にして従属的職務執行者である司祭によって用いられていたものであると結論した。その最も重要な論拠は、裁治権の問題である。裁治権は教会の聖職者が行使し得る、贖罪はもとより、洗礼、埋葬といった宗教的行為、あるいは指導・監督の後盾となる権利であり、教皇のそれは普遍的に妥当するが、それ以外の聖職者の裁治権は、より下位の品級の他の聖職者、並びに俗人に、それぞれの教区内において及ぶに過ぎない。しかし、贖罪書では司祭より上位の聖職者である司教、また修道士といった司祭の裁地権が及ばない者によって罪が犯された場合が扱われているのである。また贖罪書は通例、古代の教会会議決議等の一介の司祭が扱うことのできる範囲を超えた問題を扱った文書とともに伝存されているのである。

 ケルッフの主張の問題点は、贖罪書に司祭によって扱われ得ない事柄が記されているとしても、それが直ちに司祭によっては用いられ得なかったことを意味するわけではないことである。もしも贖罪書が、贖罪に関するあらゆる事柄をまとめたものであったとすれば、そこには当然司祭によって下されるべき贖罪の裁き以外にも、司教によって、場合によっては修道院長によって下されるべき裁きの手助けとなるような規定が盛り込まれることになったと理解できるからである。また写本にともに記されている他の文書についても、現存する写本には、その手本となった写本の葉の紛失や、端の擦り切れによるものではないかと疑われる語句の欠落が見られ、従って贖罪運用の場で実地に使われていた贖罪書ではなく、修道院の蔵書整理の際などに、何らかの基準によって一つの写本にともに書き込まれることになった可能性が想定されるため、司祭による使用を否定する絶対的な論拠とはなり得ない。

 しかし、ケルッフの観方は、カロリング期以降については十分妥当するのであると言えよう。ところがカロリング期以降には、イタリアを除いて、それ以前には多種多様な贖罪書が作られていた地域であるフランス北東部やマイン川流域からアルプスに及ぶ、ドイツ南部とスイスを含む地域では、以前のように贖罪書が編み直されることはなくなってしまったのである。贖罪書が「生きた文書」とされる根拠である規定の加筆や修正は、時としてそれが規定を現実の状態に合わせたものではなく、筆者の規定内容への単なる無理解から来るものと思われるものが含まれ、それは上述のような写本伝承の問題を考慮する必要はあるが、贖罪書が実用本位のものであったことを必ずしも裏付けるものではない。また規定自体が、今日の刑法規定のように現実の罪に規定される際に、必ずしも規定の内容とそれを適用される罪との厳密な一致が必ずしもはかられていたわけではなく、更に贖罪書の実地における使用は、そのような刑法的規定の適用だけではなく、告白に来た者に対して規定に記されている罪の一つ一つについて質問することによっていたものと考えられるため、贖罪書が編み直される際になされた規定内容の変更が現実の状態を直接反映したものと考えることには無理があろう。贖罪書が現実に用いられていたことの根拠は、規定そのものの改変ではなく、それが編み直されていたことに求められるべきであろう。そうだとすれば、ケルッフの論じた時期は、贖罪書が「生きた文書」であった時期とずれているのである。

 そうであるならば、贖罪制度の運用を支える強制力が、巡回裁判の制度化以前には存在しなかったことを問題にしなければならない。贖罪に来世と現世にわたる二重性があるとすれば、来世については、罪人に地獄の有様を語ることをもって脅す手段が有効であろうと思われるが、贖罪書において聖職者にそう語るよう勧めている例は少なく、そればかりかその語句が、より後の贖罪書に受容される際に削除されている例すら確認される。一方、現世における聖体拝領の共同体からの排除についても、教会が聖体に罪を消す力を認めていたこともあり、必ずしも有効な強制力として作用していたとは見なせない。それでは贖罪は一部の「敬虔な」人々によってのみ行われていたのであろうか。

 贖罪書は、特に中世後期に用いられていた告解の秘蹟に関するあらゆる要素を網羅した『聴罪師大全』の研究者によって、贖罪者それぞれの状態や心の内面を考慮することなく機械的に贖罪期間を規定する、「非人間的」な手引書であったと評されることがあるが、このような評価は、贖罪書の中に根拠を持っているのではない。『聴罪師大全』の著者たちによる一方的な決め付けに影響されたものである。実際には、贖罪書の編著者たちは、その序文や跋文の中で、規定を杓子定規に適用しないよう固く戒めているのである。罪人は後悔の度合い、置かれている社会的並びに経済的な状況、育ち等に配慮した上で贖罪の裁きを下さねばならない。そうした方針は規定においても反映され、犯意の有無や、罪人の状況に応じて贖罪を区別するための規定が時代とともに飛躍的に増加していった。そのような方針は贖罪書の著者たちがその実用性を確保しようとした証拠があると見る立場を取る。なぜなら、特にカトリックを擁護する立場のキリスト教史家によって描き出されたような、教会に従順な中世キリスト教徒という像も、その逆の立場からの、俗権との結合を果たした教会の専横的支配に抑圧された人民という像も、こと贖罪に関しては妥当し得ないものと考えられるからである。それは、決して多くの例があるわけではないが、贖罪書の著者たちが時にもらす、厳しい裁きが罪人を教会から遠ざけることになるのを恐れる言葉から、また聖者伝的な史料に描かれる、贖罪することには同意していながら聖職者が下す贖罪の裁きには反抗する俗人の姿から窺われるのである。贖罪書の編著者たちが、罪人に一見「人道主義」的な態度をとっているのは、キリスト教的な慈悲のなせるわざばかりではなく、そうせざるを得ない状況が贖罪をめぐってあったからではないだろうか。贖罪の教会への「施し」による買戻しは、その濫用の危険性が常に指摘されながら、広く用いられた贖罪書には必ずそのための方法を指示した規定が含まれる。これも、単に教会の金銭欲によるのではなく、特に肉体労働に携わる俗人にとっては、時として十年を越える断食を成し遂げることが不可能であることに、教会が配慮していたためではないか。こうした現実主義が贖罪書の編纂に際して貫かれていたとすれば、罪人への配慮は、同時に教会がせざるを得なかった現実的妥協の結果と見ることもできるのではないか。

 それでは、贖罪書の著者たちが、贖罪を緩和することには配慮しながら、それが何故必要であるかを語ることにほとんど無関心であったのはなぜか。そこで宗教学、並びに人類学における概念である儀礼的聖潔について考える必要があるものと思われる。特に初期の贖罪書には、殺人や盗みといった、今日の刑法の対象となるような罪以上に、旧約のモーゼ五書に見られるような、動物と飲食物の浄穢を扱った規定が多く含まれているからである。そうした規定は、上述したような罪人に配慮する必要性から生み出された、様々な付帯状況に応じて贖罪を区別する一見体系的な規定の組み合わせが見られることもあって、「最古の刑法典」とも言われる贖罪書の姿におおよそそぐわないものである。それらはかつてすべて呪術的な慣行を攻撃したものであると見なされていたが、近年メーンスが論じたように、それだけでは説明できない。筆者はそれが、初期の贖罪書における儀礼的貞潔を要求する観念の現れとしてしか説明されないという立場であるが、もしそうであれば、贖罪は聖体拝領前の身の浄めとして運用されていたものと考えられ、それがゲルマン社会について指摘されるような、罪を神との平和な関係の毀損と捉え、罰をそれに対する補償として捉える刑罰間と結びつくのなら、贖罪はいわば自動的に行われており、従って贖罪書の編著者たちが、なぜ贖罪が必要な理由について説明することに無関心であったかを説明することができるものと思われる。しかし、これは大きな問題であり、本論では十分に論じることができない。

 いずれにせよ、贖罪書について、贖罪の方法についての協会側の現実の状態への適応がそこに見られるのであれば、それは教会と教会にとっての罪人の妥協の産物であり、まさに「相場表」と呼ぶことのできるものであろう。そうであるならば、そこには教会が俗人に一方的に押しつけたキリスト教的な価値観のみならず、俗人の側の価値観までもが映しこまれていると見ることができるものと思われる。贖罪書の史料としての価値は、それが現実の直接的な反映であると見なされるからではなく、教会によってキリスト教化されつつあった、俗人の姿をそこに間接的に透かし見ることができる点に求められるべきであると考えられる。

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