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博士論文要旨

論文題目:ビルマ農民大反乱(1930~1932年):反乱下の農民像
著者:伊野 憲治 (INO, Kenji)
博士号取得年月日:2001年2月14日

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構成

 序
 第一章:研究史と本書の課題
  第一節:研究史と論点
  第二節:従来の農民像と本書の課題

 第二章:反乱の背景
  第一節:農民の経済的没落と世界恐慌
  第二節:農村社会の制度的解体
  第三節:民族主義運動の興隆

 第三章:反乱像の再構成
  第一節:サヤー・サンの事前組織活動とその位置付け
  第二節:蜂起の発生と展開
  第三節:反乱の結末

 第四章:反乱の諸特徴
  第一節:蜂起集団形成過程における諸特徴
  第二節:蜂起集団の編成方式おける諸特徴
  第三節:反徒の行動様式における諸特徴

 第五章:反乱下の農民像
  第一節:農民の世界観(意識構造)
  第二節:反乱下の農民像
  おわりに

要旨

 本論文は、1930年から32年にかけて植民地ビルマを震撼させた反英農民反乱を対象としたものである。この農民反乱は、その発現・闘争形態及び組織構成が、いわゆる「伝統的」「呪術的」色彩が強いものであったこともあって、その指導者の名前をとって一般的には「サヤー・サン反乱」として言及されてきた。ビルマ現代史研究においては、「日本軍政時代」と同様、様々な解釈・評価がなされてきた。さらに近年になって、歴史学研究以外でも、宗教学、人類学などの研究者の関心を引くようになり、現在では、各々の問題関心に基づいた多様な見解が提示されてきている。

 そうした研究状況下、本論文の課題は、従来「伝統」と「近代」との狭間で描かれてきた反乱下の農民像を再検討し、主体となって反乱を担った農民の論理を明らかにすることで、新たなビルマ人農民像を提示することにある。

 第一章では、まず、従来看過されがちであったビルマ人の研究も含めた、本反乱に関する豊富な研究蓄積を研究史的に整理し、一般的・概括的な論点を明らかにする。その上で、従来の研究で示されてきた農民像を抽出し、その検討・批判を通じて、本論文の視角及び方法を示す。

 反乱についての最近の研究の特徴としては、(1)ビルマ人の価値観、世界観、伝統等を理解し、それを研究に反映させていこうとする傾向、(2)千年王国論的研究やモーラル・エコノミー論に代表されるように、個別性を重視しながらも、一般化(理論化)を目指す傾向とその傾向への反発、(3)いわば「解釈の先走り」傾向に対して、反乱自体の事実認識の再検討を強く主張する傾向等が見られる。さらに近年の研究の深化に伴って、次のような論点が、浮かび上がってきている。(1)反乱の組織化に関する論点、(2)サヤー・サンの指導者としての位置付けに関する論点、(3)反乱におけるリーダーシップに関する論点、(4)反乱発生の社会経済史的背景に関する論点、(5)宗教社会学・人類学的論点、(6)農民が蜂起に立ち上がった際のお守りに代表されるような呪術的要素の位置付けに関する論点。ところが、こうした論点の多くは、上にあげたように「解釈の先走り」傾向を反映したものが多く、反乱研究全体としては、事実認識の再検討が最重要課題となっていると言える。

 こうした一般的・概括的研究状況を踏まえた上で、本論文の課題である農民像に関して再度整理を試みると、従来以下の5つの農民像が示されてきたと言える。(1)農民は「極度の呪術性と非科学性を特徴」としたものとされ、「時代錯誤的」「伝統志向型」等の形容詞を冠されて、合理に対する非合理、近代に対する中世の代表として捉える研究。(2)近代的民族主義者として捉える研究。(3)「千年王国主義者」として捉える研究。(4)「モーラル・エコノミー論」に代表されるような、独自の価値判断基準を有していると捉える研究。(5)仏教思想や西欧思想をいわば「つまみ食い」し時代状況に対応してきたとする研究。以上の5つの農民像のうち、(1)(2)は、西欧近代を基準にして捉えているのに対して、(3)(4)(5)は主体となって反乱をになった農民の独自の論理の追究が問題関心として存在する。

 本論文では、特に(3)(4)(5)の研究に示唆をうけながら、その批判的検討を通じ、以下のような構成で新たな農民像を提示していくことにする。(1)まず、当時の農民の置かれていた客観的諸状況、反乱の発生、展開、結末等を中心に反乱自体の事実関係を再構成する(第二章・第三章)。この作業は、反乱の事実認識が特に問題とされている研究状況下、必要不可欠だと考える。(2)次に、蜂起した農民の論理を考えていく上で、いわば社会通念の表出形態として特に重要と思われる、蜂起集団の形成過程、蜂起集団の編成方式、蜂起下の農民の行動様式における諸特徴を抽出してみる(第四章)。(3)最後に、従来の人類学・宗教学的研究を参考にしながら、こうした社会通念を有機的に関連づけている農民の世界観(意識構造)を措定し、この世界観(意識構造)とそれまでに明らかにしてきた農民の社会通念や具体的行動との関連を論じていくことで、反乱に身を投じた農民の論理を浮かび上がらせていく(第五章)。こうした一連の分析を通じて、一つの解釈としての農民像を提示する。

 第二章は、イギリス植民地支配体制の矛盾の表出によって、1920年代に農民がどのような状況に置かれていたのかを、経済的、社会的、政治的側面から概観する。

 1880年代の三度にわたるイギリス・ビルマ戦争でビルマは、イギリスの植民地・英領インドに組み込まれた。その後数十年間で、人口希薄で大部分が荒蕪地であったエーヤーワディー・デルタは、イギリス帝国主義政策によって、世界の主要な米輸出地帯へと急激に変えられていった。この「開発」によって、ビルマ社会にはインドからの労働者及び金貸しが流入し、いわゆる複合社会が形成されていく。その結果、世界経済が翳りをみせる20世紀初頭より、ビルマ農村社会には、インド人との雇用競争及びインド人金貸しへの負債問題が顕在化する。具体的には、20年から30年にかけての急速なビルマ人農民の土地喪失、小作・農業労働者への下降分解として表れた。そして、1929年に始まる大恐慌は、籾価の急激な下落として農民の生活を直撃し、イギリス植民地支配による下ビルマ「開発」の矛盾を露呈させる結果となった。

 イギリス政庁は、一方でデルタの開発を進めるとともに、他方では、植民地収奪体制強化のために、在来の地方行政制度の改編に着手した。それまでビルマの農村では、ミョウ・ダヂーと呼ばれる在地の地方支配者が、中央権力(王)の過度の収奪に対して、農民の利益を護る保護者的役割を少なからず果たしてきた。政庁の制度改変は、このミョウ・ダヂーの権限を剥奪し、かわって、政庁の任命した村長を置くことによって、農村の直接支配を目指したものであった。数度に渉る制度的手直しが加えられた末、20世紀、特に20年代になると、徴税をはじめとする植民地政庁の支配がダイレクトに農村に及ぶことになった。

 こうした経済的・社会的状況下、20年代には、農村を巻き込む形での民族主義運動の興隆が見られる。中央ではビルマ人団体総評議会(GCBA)といった政治組織が結成され、時を同じくして、植民地支配によって特権を剥奪されていった仏教僧侶達もサンガ総評議会(GCSS)を結成する。そして、こうした組織が中心となって、農村各地では愛国主義結社といわれるウンターヌ・アティンが、急速に結成されていく。農村における民族主義団体として登場したウンターヌ・アティンは、他方では、農村社会の互助組織としての役割を果たし、20年代から顕在化する経済的窮乏化、植民地支配の徴税等に対する自己防衛組織として機能した。

 ところが、1929年に始まる世界恐慌がビルマ農村を直撃し、政庁による徴税が過酷を極めるなか、ウンターヌ・アティンといえども個別的な対応ではいかんともしがたい状況に追いやられた。本来ならばこうしたアティンを統括する中央組織であるGCBAやGCSSが、各地のアティンを糾合し、植民地支配に立ち向かう役割を果たすはずであった。しかし、こうした中央組織は結成直後から内部分裂を重ね、何ら有効な対抗策をこうじることができなかった。ビルマ史上最大の農民反乱は、こうした状況下発生したのである。

 第三章では、主としてThe India Office Library and Records, London所蔵の反乱関係の一連のファイル及び国軍文書館(ヤンゴン)所蔵の史料、当時のビルマ語新聞等を中心として、蜂起の発生から鎮圧に至る反乱自体の事実関係、反乱のビルマ社会に与えた影響等の再検討を試みる。

 一般に「サヤー・サン反乱」と呼ばれているように、従来この反乱に関する事実認識は、主要指導者の一人であるサヤー・サンという人物の言動の分析から導き出されてきた。また、そのサヤー・サンの言動すら、政庁側が残した反乱に関する報告書を唯一の拠り所として分析されてきた傾向が強い。ところが彼の言動を詳細に追っていくと、従来の反乱に関する事実認識に大きな誤解があったことが明らかになる。特に重要な点は、サヤー・サン自身は、彼がそれまでの生涯で築き上げてきた個人的人間関係を通じて、主に地方指導者の組織化に追われ、一部の地域を除いては、農民を直接糾合した事実が無い点である。確かに、サヤー・サンは、各地の指導者に武装蜂起という形態での反植民地闘争を選択させる一つの契機を与えたこと、かつそれが可能であることをターヤーワディー、インセイン地方で実際に示したことで重要な役割を果たし、その後に発生した蜂起においては、ある象徴的意味をもって言及されることになった。しかし、各蜂起は、当初よりGCBAやGCSSといった組織を基盤としたものではなく、サヤー・サンと地方指導者の個人的つながりに依るところが大きかったために、地方指導者のもとに、かなり独自に発生・展開していった。

 そこで、大反乱を構成した箇々の蜂起の発生・展開・終息過程を詳細に見ていくと、従来の事実認識に対して、以下のような修正が求められる。

 (1)反乱全体としては、政庁軍との大規模な戦闘による敗北から、蜂起集団が匪賊化していったとも言えるが、各蜂起集団の主要な活動は、むしろゲリラ的戦術にそったものであり、その活動内容の分析が、農民の論理を考える上では重要である。(2)反乱は、基本的には、徹底的な武力鎮圧によって終息するが、政庁は、その他にも様々な宣伝活動を用いた。しかし、農民はそうした宣伝活動には全く応じなかった。(3)当時の都市在住のビルマ人エリート層へ与えた反乱のインパクトは、決して軽視されるべきものではなく、植民地支配の否定が、この反乱を契機に否定しがたい価値として「親英的」エリートを含むビルマ社会の社会通念となっていった。

 第四章では、前章で行った反乱に関する概括的事実認識の修正を踏まえながら、反乱に身を投じていった農民論理、反乱を通じての彼らの意識変化を考えていく上で貴重な手がかりを提供する、蜂起集団の形成過程、編成方式、蜂起下の反徒の具体的行動といった点に関し、より詳細な事実分析を行い、それらの諸特徴を明らかにする。

 蜂起集団の形成過程に関する諸特徴としては、第三章で明らかにした蜂起集団の具体的な形成過程に加えて、大きく以下の2点が特徴として指摘できる。(1)蜂起は、既存のウンターヌ・アティン等の組織がそのまま蜂起集団化した場合と、外部から訪れた人物によって蜂起集団が形成された場合の二つのタイプが存在した。しかしながら、両タイプ共通する特徴として、蜂起に参加した農民が、日常生活から蜂起へと身を投じていくその転換点においては、組織の名称変更や指導者により儀礼が執り行われた。また、そうした日常から非日常への転換に際しては、地方指導者が重要な役割を果たし、農民個々人にとっては、彼らこそが第一次的・直接的指導者であった。(2)農民糾合の際、地方指導者が農民に何を訴えたかに関しては、以下の4点をあげることができる。(イ)「王位」を主張する指導者が複数名いた。(ロ)「王」ではなく「超自然力をもったサヤー・ヂー(偉大な師)」の到来が訴えられた事例があることから、従来の千年王国論的研究に見られる仏教の救済思想からの説明には限界がある。また、指導者が執り行った反徒団への入会儀礼における誓約の内容を見ると、農民は単に指導者の訴えるナショナリズム的主張に反応したから蜂起に加わったとは言い切れない。こうした誓約の内容は、農民の抱える現実的苦境とナショナリズムが如何に結びつけられていたかを明らかにしている。(ハ)入れ墨等の護身のための呪術的要素は、実際に効力を試された例もあり、単なる形式的な儀式として執り行われたと考えることには無理がある。(ニ)反徒団への参加は、強制によってなされたとは単純に見なすことができない。反徒団への入会に際しては、入会金の徴収が行われているが、その徴収の仕方は、植民地当局が課す税と本質的に異なっていた。

 蜂起の編成方式における諸特徴としては、反徒団内での役職に関する任命方式、命令・指揮系統、反徒が獲得した「戦利品」の分配関係等を見ていくと、次の3点の特徴を指摘することができる。(1)中央のGCBAやGCSSに統括されたウンターヌ・アティンといった既存の組織内での序列が、そのまま蜂起集団内の序列に対応したわけではない。(2)蜂起集団は、村落共同体的な結合を基盤にして編成されたのではなく、むしろある人物とその人物に従う者といった、パトロン・クライアント関係に見られるような個人の一対一の結合によって編成されていた。(3)蜂起集団は、単なる戦闘集団ではなく、ある程度の政治的・社会的機能を有した集団であった。

 反徒の具体的行動様式における諸特徴としては、以下の3点が指摘できる。(1)既に指摘したように、反徒団へ加わる際には、必ず指導者の行う儀礼に参加している。(2)反徒個々人の実際の活動は、政庁軍との正面衝突が主ではなく、村長や役人に対する箇々の襲撃であった。そうした襲撃の主な内容は、政庁協力者の殺害、租税簿の破棄、銃・弾薬の奪取、金品の略奪であり、略奪品は指導者によって分配された。また、殺害に際しては、仏教徒とは思われないような残虐行為が行われることがあった。(3)反徒は、政庁側が仏教僧を用いて行った懐柔策にすら応ぜず、基本的には政庁に徹底的武力鎮圧されるまで闘いを続けたが、その後行われた裁判等では、自らの反乱行為の正当性を真向から主張しなかった。

 最後の第五章全体が、本論文全体の結論に相当する。第五章では、第三章・第四章で明らかにしてきた事実関係を基にしながら、そこに農民の論理の一貫性を読みとって行くといった問題関心から、まず、こうした一連の農民の行動を有機的に関連づけていると考えられる当時の農民の世界観(意識構造)を、ビルマやその他の上座部仏教文化圏の国々を対象としたこれまでの人類学的・宗教学的観察や研究を参照しながら措定する。次に、そうして措定された世界観(意識構造)を念頭に置きながら、これまで指摘してきた農民の行動に関する事実関係や社会通念が、如何に説明・解釈できるのかを具体的に記述する。そのことによって、本論文の課題である、一つの農民像を提示する。

 ビルマ人農民大衆の宗教、世界観等に関しては、これまでに観察や調査に基づいた少なからぬ研究がある。その中で、ここでは、スパイロー(Spiro)の析出した仏教とアニミズムの「二体系併存・仏教優位説」を出発点としながら、タイ人の世界観を研究したムルダー(Mulder)の二元的世界観を援用し、当時のビルマ人の世界観を措定した。当時の農民の世界観(意識構造)は、「慈悲」の概念に代表されるような「道徳的善」の領域(内部世界)とアニミズム的な力に代表される「威力」の領域(外部世界)といった基本的に二つの領域から構成され、その間に「媒介」領域が存在する。この中で、実際の社会生活のレベルでは、「媒介」領域の存在が最も重要となる。この世界観において、「媒介」領域の存在は、内部世界としての社会の集団の秩序形成の要となり、その象徴は「良き指導者」である。「良き指導者」は、内部集団に対しては「道徳的善」をもって支配し、外部世界から加えられる「威力」による攻撃に対しては、「威力」をもって対応できる資質を兼ね備えていなければならない。重要な点は、ある集団の秩序(社会秩序)は、こうした資質を兼ね備えた指導者という人間の存在によって、安全なものとなり、安定・繁栄を維持できるという事にある。

 当時の農民の世界観(意識構造)を以上のように措定すれば、農民の抱いた不満は、土地の喪失や徴税といった単に経済的要因からの説明だけでは不十分となる。日々の生活・安定した社会秩序崩壊への漠然とした不安、農民に対する「無慈悲」な税の徴収方法への不満が、支配者の有する資質の問題、すなわち支配者の正当性の問題に直接結びついていった点も見落とすことができない。そして、その不満は、彼らの世界観における徳と威力を兼ね備えた「良き支配者」到来への願望となった。その時、各蜂起を指導した地方指導者が、一方では様々な呪術的手段を用いて自らの持つ「威力」を示すことによって、他方では自分に従えば、「税を減免する」等の「慈悲」を約束することによって、農民を糾合し、蜂起集団という政庁に代わる一つの秩序を形成していった。そして、一つの秩序が形成されることによって、指導者に逆らった場合の制裁観念は、より現実味を帯び、指導者の命令に忠実に従う反徒団が出現することになった。

 指導者個人と結びつくことによって一つの秩序を形成するといった論理は、蜂起集団の編成方式にも反映され、パトロン・クライエント的関係(保護・被保護関係)が指導者と各反徒との間に形成されていった。既存のウンターヌ・アティンといった組織との関係からすれば、その指導者が、苦境に喘ぐ農民の心情を理解せず、彼らを救おうと立ち上がらなかった場合には、農民は新たな「良き支配者」の出現を望み、外部からやってきた人物に容易につき従っていったのである。

 政庁軍との正面衝突には敗れたものの、反徒団の主要活動であった村長をはじめとする政庁協力者への箇々の襲撃は大きな成果を見た。反徒個々人や地域社会住民にとって、それは反徒団・指導者のもつ「威力」を認めさせる結果になった。反徒団は、地域社会に入会金をはじめとする様々な要求を出したが、それは相手の状況を斟酌して行われ、その徴収の仕方が、政庁の税の徴収とは全く異なる、「慈悲」をもった支配者のあるべき徴収方法と受け取られた。こうして、指導者と反徒間、反徒団と地域社会との間に保護・被保護関係が成立し、反乱は拡大していった。

 反徒個々人は、「威力」と「慈悲」を兼ね備えた指導者を頂点とする一つの秩序に属することによって、植民地支配からは最も自由な人間となった。政庁協力者を殺害するに当たっての残虐行為も、反徒団という内部世界の秩序を乱すための外部からの「威力」による攻撃から自らを護るためのものであり、「威力」に対しては徹底的に「威力」でもって応えるといった発想によるものであった。それは決して「慈悲」や仏教思想に象徴される内部世界における道徳的規範と矛盾するものではなかった。

 こうして、ビルマ史上最大の農民反乱は発生・展開していったが、政庁による徹底的武力鎮圧によって反徒団は箇々に解体されていった。農民の側からすれば「威力」による支配の復活であり、生活者としての農民は、再び「威力」と「慈悲」を兼ね備えた「良き支配者」が到来するまで、それに甘んじるしかなかった。しかし、再確立された植民地支配は、やはり「威力」のみによる支配であり、農民にとって政庁はあくまで不当な支配者にすぎなかった。

 その後、ビルマの民族主義運動は、GCBAやGCSSを中心とする運動から、ラングーン大学の学生が結成した「我らのビルマ協会」を中心とした運動へと展開する。民族主義運動の指導層は明らかに世代的変遷を遂げるが、「我らのビルマ協会」の運動は、農民を含む大衆に指示されることになる。この運動が、特に農民の支持を勝ち得た大きな要因は、その主張が、まさしく「我々(内)」と「彼ら(外)」の違いを強調した点にある。農民にとって内すなわち「我々の世界」は、安寧、平安、繁栄をもたらす世界であり、外すなわち「彼らの世界」は、社会不安、生活苦、精神的不安を意味する世界であった。この運動が、農民達の琴線にふれたとすれば、それは、現実世界の様々な問題の原因を、内と外といった捉え方で明確に構造化し、外に対しては徹底的に闘いをいどむといった「我らのビルマ協会」運動の基本的性格にあった。「我らのビルマ協会」の主張する社会主義思想といった近代思想も、農民達の論理からすれば、内の世界のすばらしさを表す言葉にすぎなかった。農民は、自らの論理に違和感無く結びつく部分において新たな思想に独自の意味を付与しながら吸収し、自らの内面的世界を一層豊かなものにするのである。

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