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博士論文要旨

論文題目:義和団の起源とその運動:中国ナショナリズムの誕生
著者:佐藤 公彦 (SATO, Kimihiko)
博士号取得年月日:2000年12月13日

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 序章において、近代中国における反キリスト教闘争の歴史的展開のなかで、義和団運動がどのような位置を占めるのか、その固有の相とは何かが検討され、義和団運動(事件)は、民衆の列強に対する民族主義運動と清朝国家主義の抵抗という二側面とその結合相をみるべきであり、義和拳(団)の起源は、民間宗教(白蓮教)と結びついた拳教的武術に求められるべきである、との基本的見解が主張される。本論は以下各章で展開されるが、予備的にまず、基底にあるキリスト教と中国宗教文化との非和解的構造・性格が、モンテスキューの中国論、マックス・ヴェーバーの中国論、ジャック・ジュルネの研究、の検討を通じて明らかにされる。中国の天・宇宙・道徳・礼儀・法・政治的秩序は、全一的な精神的社会政治体系をなしており、キリスト教の宇宙観・宗教観とは対立的な独自の普遍性を主張するものであり、双方が普遍性を主張する限り、非和解性を帯びざるを得ないものだった。しかし、その対立は、宗教原理上のものというよりも、社会的政治的なものだった。

 十九世紀になって、条約規定に保護されてキリスト教が再び中国で布教されるようになると、仇教事件が頻発した。それは清国の対外危機の亢進度合いと比例的に発生したが、発生原因は、社会秩序・利益をめぐる民教紛争が中心をなした。この仇教闘争の集中的表現が義和団であるが、その呪術的運動スタイルは研究者を当惑させ続けてきた。しかしそれは世界的に共通するNativistic Movement 土着文化の回復運動として理解しうる。また十六世紀フランスの宗教暴動とも共通の性格を持っているが、すぐれて「ナショナリズム」運動であった。「千年王国」論で義和団を捉えるのは誤っている。この中国民衆ナショナリズムの歴史的形成の「場」を示しているのである。

 第一章では、この運動の呪術的性格の源泉をどう理解するかをめぐって百年来論争されてきた「義和拳の起源」問題を俎上に載せる。起源が白蓮教か団練かという論争は、事件当時からのものであり、未決着かに見えるが、エシェリックは、白蓮教とは無関係の民間文化起源説を主張して私の白蓮教起源説を批判した。しかし、かれの起源説は方法的にも、実証的にも成立し難い。清代の山東省に持続的に存在していた「義和拳」の歴史的存在態容を档案史料で辿ってみると、「義和拳」の存在は八卦教の歴史的展開と相即していることが判明する。その最初の出現は乾隆三十年代初めの王倫清水教の活動において現れ、そこでは「白蓮教を伝い受けて義合拳と改名し」といわれるように、白蓮教と同義的に使われていた。八卦教(白蓮教)と結合した拳棒武術=義合拳・神拳の姿は、乾隆四十、四十二、四十三、四十八、五十一年の事件においても見出される。つまり、乾隆二、三十年代に八卦教の拳棒武術を教えながら宗教を広めていく活動の中で、その拳棒活動の一名称として「義気を和合する拳」=義合拳が登場してきたのである。そして、嘉慶年間の八卦教と結びついた「義合拳」等の拳棒を見てみると、そこに清末の義和拳と極めて類似した呪術的宗教的性格が見られる。天理教叛乱時の徳州地区の「義合(和)拳」は、老天門教=八卦教離卦の武門の弟子によって教習されていたものであり、山東西南部の「義和拳」も同じ離卦の系列にあったことが判明する。これらの乾隆嘉慶年間の「義和拳」をめぐるエシェリックの私説批判の議論は、誤った史料読解によるものであり、成立しない。道光・咸豊・同治期の山東西部にも八卦教と関連した「神拳」等の拳棒活動を見ることが出来る。一九九六年の欸県徐家堤口の離卦教「徐家」の調査でも、白蓮教と結びついた拳棒「六式拳」、八卦教系列で伝承された師承句が生きていた。このように、八卦教は、真空家郷・無生老母信仰とともに、精気神錬成の内丹法を強調し、外功として拳棒武術を位置づけていた。こうして拳棒と宗教は結合され、とりわけ代表的武卦=離卦と結びついた「拳教」が「義和拳」の原初的姿だった。この八卦教「武場」の拳棒武術活動は大衆性をもち、郷村社会に深く浸透し広まった。かかる背景をもって初期義和団中心に位置することになる大刀会、あるいは梅花拳会が生まれることになった。労乃宣の白蓮教起源説は不十分だったが、直観的正しさを有していた。エシェリック説は成立し難い。

 付論では、上記の王倫清水教が主題的に考察される。八卦教離卦の一支である清水教は、乾隆三十七年の劉省過事件の後勢力を拡大したが、官の弾圧を機に叛乱した。それは宗教を教習する文弟子・拳棒教習をする武弟子という形でを両者を結合させていた特色を持ち、また、その民衆叛乱の世界は、超自然的力と汚穢との観念的二元対立の相を垣間見せた、それらはいずれも後年の義和拳の運動の前史的位置にあるものだった。

 第二章で、日清戦争後の山東省西南部における大刀会の闘争が考察される。日清戦争期の社会秩序の崩壊によって西南部で土匪活動が激化すると、それに対抗する自衛団体・大刀会が結成され勢力を拡大した。「刀槍不入」の金鐘罩武術の教習を紐帯とする大刀会は前章で述べた八卦教の武場組織であった。それと時を同じくして、山東南部教区のドイツカトリック神言会はドイツ帝国の保護下で急速に教勢を拡大していた。大刀会とカトリック両勢力は在地社会の民事紛争を機に衝突した。九六年の「曹・躙山教案」である。大刀会は官権力によって鎮圧されたが、在地社会でのキリスト教布教をめぐる紛糾は解決されなかったから、やがて、大刀会員を中心とする人々によるドイツ人宣教師二名が殺害される「鉅野事件」が発生する。ドイツ帝国はこれを機に、「三国干渉」以来国際政治的に押し込められていたアジア進出を一気に解決すべく、膠州湾の軍事占領を敢行し、総理衙門との間で「膠墺租借条約」を締結した。ドイツの膠州湾占領は山東社会に二つの傾向を生んだ。一方で、強力な外国勢力に順応しようとする人々を生み、カトリック勢力は一層勢力を拡大した。その一方で、民衆の抵抗的動きを呼び起こした。後者の動きを代表するものが、大刀会であり、直隷山東交界地区の梅花拳の「順清滅洋」闘争である。四川省大足県の余棟臣蜂起も「順清滅洋」を掲げて決起したが、それは、清国臣民たる自己を自覚しつつ、外国勢力を排撃し、皇帝に象徴される「国権」を回復しようとする闘争だった。

 第三章では、直隷東南代牧区(フランスイエズス会担当)と山東北部代牧区が接した冠県十八村の梨園屯村の民教紛争=梨園屯教案と、そこでの梅花拳=義和拳の闘争が論じられる。梨園屯村では、教民の発生とともに村民共有地の玉皇廟地が分配され、教会にされたが、その分配をめぐって二十数年にわたって紛争が続いた。その紛争・裁判を詳細に追って見ると、紛争の根底には、華北農村に暮らす農民の法意識・在地慣行に基づくモラルエコノミーと言ってよい正義感覚と、ヨーロッパ的な近代的法意識による所有観念との対立がある事が明らかになる。そして、この司法的紛争は、キリスト教保護権を持ったフランスの外交圧力によって圧殺され、教民側の勝利に帰着した。法的解決の道を封じられた村民側は私的暴力による解決を求めて抵抗したが、これも官権力によって鎮圧された。過激分子十八魁は村外の「梅花拳」と結んで、組織的に対抗した。趙三多を首領とするこの梅花拳も、民間宗教(白蓮教)と密接に繋がった「拳教」であった。梅花拳は、義和拳と名称を変え、ドイツの膠州湾占領に怒りを強めた輿論を背景に、廟の奪回と再建を目指して反教会闘争に立ち上がった。折りから、ドイツ軍の内地侵入の噂が広がり、山東当局が実力で廟を壊して西洋式教会にするとの動きを示したため、九八年二-四月の「義和拳」の激発が起きた。その後、九月になって、駐留官軍の動きに危機を感じた義和拳側が決起し、「順清滅洋」の旗を掲げて教会教民に対する攻撃に出た。これが義和拳蜂起である。蜂起は官軍によって鎮圧されたが、趙三多らは直隷に逃走した。義和拳闘争の社会経済的背景を強調する里井氏の「半原蓄・半プロ論」や「綿布の外部市場喪失」論をいうエシェリック説は成立し難い。

 第四章は、膠州湾に近い山東東南部で発生した「沂州教案」を考察する。ドイツ軍による占領後、人々の敵意が高まる中、日照県で起きたシュテンツ神父暴行事件をきっかけに、数県にわたって数十の騒擾が起きた。その背景には、北京中央での戊戌クーデタがあった。大衆は、クーデタを、「北京が外国人を逐い出した」と受け取り、それまで抑圧してきた憎悪を一気に爆発させた。「西太后の密旨」がある以上、恐れることはないとして、自分たちの周囲にいた外国人・教民に対する排斥行動に出た。騒擾に危機感を募らせたドイツカトリックは、膠州駐留軍を内地に入れることを要請し、光緒二十五年二月、総督は二部隊を派遣した。アメリカ長老会も、中国人がキリスト教徒になったからと言って迫害されるのを放置すべきでないとして、外国軍の導入を求めた。ドイツ軍の一隊は日照県城を占領し、一隊は蘭山県の村落を焼いた。新任巡撫毓賢は山東への赴任の途中、この事件の渦中を通って済南に着いた。事件解決の交渉でドイツ側(公使・総督・アンツェル主教)から加えられた圧力に彼は強く反発した。山東当局は態度を硬化させ、反外国的姿勢を強めた。その分だけ大衆の反外国的動きを、「民心用う可し」として容認した。これが九九年秋の西北部での神拳=義和拳の闘争を準備することになった。西南部でも紅拳=大刀会による新たな緊張が生じたが、毓賢は鎮圧策をとらなかった。彼は保守的な満州人官僚として、政変後に北京において台頭した満洲族種族主義勢力と繋がる人脈にいたのである。

 第五章では、西北部の神拳=義和拳の形成の問題が、理論的・実証的に論じられる。エシェリックは、神拳を大刀会と異なったものと捉えているが、史料的に見れば、神拳は大刀会と考えるべきであり、大刀会金鐘罩武術(原神拳)の大衆化と累層的結晶化の結果として成立したものであることが主張される。そしてこの論理が夾雑物を挟みながら展開した運動の歴史過程を詳細に辿る。長清県西部で起きた「大刀会」の練拳活動は「神拳」と呼ばれるようになり、多くの小練拳グループが生まれた。そして教会教民に対する攻撃を始めた。朱紅灯はその神拳のリーダーの一人になった。そして彼は、ドイツ軍が内地に侵入し危機感が強まっていた九九年春に神拳グループに迎えられて、黄河洪水でダメージを受けていた槿平県に入った。これを機に、槿平県南郷、東北郷を中心に練拳風潮が拡大し、やがて、全県的規模に拡大した。この動きは、高唐・恩県に北上し、平原県では「義和拳」と呼ばれるようになった。平原県での民教対立を背景に、恩県のアメリカンボード途荘教会、槓子李荘教民への攻撃がおこなわれ、鎮圧に赴いた県兵と戦闘になり、省から派遣されてきた軍隊との戦闘=「平原事件」が起きた。ところが、巡撫毓賢は拳民活動を容認する姿勢をとっていたから、事件を拡大した官員を処分した。これが拳民の猖獗を生んだ。張荘教会焼き打ち事件は米仏公使館からの外交圧力を生んだ。山東当局はようやく鎮圧に動き、朱紅灯・心誠らを捕らえたが、事態は西北部の混乱に拡大した。米公使コンガーは総理衙門に圧力をかけ、毓賢を更迭し、袁世凱を巡撫代理に就任させた。この巡撫交替期に周辺部に拡大した神拳闘争の過程でブルックス殺害事件が起きた。こうした事態展開を背景に途荘教会のA.スミスは義和団団練起源説を唱えたのだが、それは、教会保護のためにアメリカ国家の 外交介入を呼び込むための言説であった。つづいて、冠県梨園屯で闘争が再燃した。第三章から続くこの復讐劇を分析すると、農村社会の暴力、中国民衆運動における暴力の問題性が浮かび上がる。

 第六章。山東西北の神拳の伝播を受けた直隷東南部(イエズス会担当直隷東南代牧区)の義和拳は、棗強・故城県・衡水県留仲鎮を中心とする王慶一の「五祖神拳」―これは嘉慶年間の五祖拳教=金鐘罩の系列下にあった―が、先駆けをなした。その活動と、景州宋門鎮での騒動が取り上げられるが、この地区の義和拳は「乾」字、「坎」字、「文的」、「武的」という組織分化を示していた。もう一つの集団は武邑・阜城県の晤修(武修)和尚を中心とする義和拳集団であるが、これらの義和拳は、武秀才などの郷村社会の有力者名望家たちを受け手として村村に広がっていった。その結果、義和拳は農村社会で正統的・公的な性格を強めた。そして一連の仇教事件を引き起こした。その彼らの意識は、中国社会の文化習俗に愛惜感情をもつ<中華>的意識だった。それを示すのが、現存中国国家の保衛を主張する『興清滅洋』の旗である。それは、宗教的コスモロジーを抱えた『神助滅洋』とともに打ち出された。王慶一・大貴和尚は山東西北の朱紅灯「神拳」の系列下におり、晤修(武修)和尚・大貴和尚は「八卦教」「離卦教」と供述している。「乾」字、「坎」字、「文的」、「武的」という表徴とともに、義和拳の八卦教起源が浮かび上がる。一連の事件は九九年冬、献県張家荘総堂への攻撃に集約されつつあったが、天津から派遣されてきた軍隊に阻止されて不発に終わり、光緒二十五年末までに沈静化した。しかし、景州朱家河教会をめぐる攻防は、翌年の、清国の宣戦を機にした清国軍と義和団による攻撃によって二千人余の死者を出した<大惨劇>を予感させるものだった。この景州朱家河教会事件とともに、義和団邪教起源説を主張し、義和団を弾圧した労乃宣治下の呉橋県の状況、寧津県、大名府、広平府の光緒二十五年の各状況が述べられる。

 第七章では、二十五年末までの直隷南部の騒擾を受けて、新城県東南郷を震源地として二十六年初めから四方に拡大した直隷中部・北京南部の義和拳の運動の諸相が考察される。まず、新城県板家窩辺りから大清河沿いに東進した霸州、文安県、大城県の各地での鋪団状況が、この地区で貼られた掲帖の分析とともに言及される。次に、北方の固安県、良郷、房山、蘆溝橋近くの村村に広まった様相が、簔州双柳樹村の事例、東安県永豊村のかつての大師兄の証言を通じて明らかにされる。南方の任邱県は、交通の要衝だった 州鎮を中心に拡大した。二月に河間府知府が禁止に赴いたところ、拳民に殴打された事件が起き、その後、梁召鎮での騒擾が起きた。これは、景州から伝播と北方雄県からの伝播によるものだった。そして、正月頃から西方の定興、箋水、易州などに広がった。この動きのなかで所謂「箋水事件」が起きる。この拡大地区は、フランスラザリスト担当の直隷北部代牧区だったが、北京四天主堂を中心に古くから行われてきたキリスト教布教の歴史が在地においてどのように展開してきたのか、教区構造とともに保定府下に焦点を当てて、一八七〇年以後の具体的様相が概観される。事件の焦点になった箋水県高洛村での民教紛争の怨念と定興県倉巨村のそれが、山東・直隷南部からこの地域に伝播してきた義和拳練拳風潮の受容を生んだ。同じ頃、保定南部の清苑県東閭村教会付近で仇教の動きが起きた。その中心は謝荘の団長・張玉容だった。彼は教民との紛争経験を背景に義和団を組織した。その義和拳は第六章で考察した衡水県留仲鎮から武邑県・深州へ、そして鐃陽→安平→博野・蠡県→清苑県へと伝わってきたものだった。その痕跡を辿ってみると、ここでも八卦教的「徴候」を見ることができ、義和拳の民間宗教起源がなお確認しうる。ここ東閭村教会の攻防戦は三ヶ月に及んだが、結局、落ちなかった。北京が聯合軍によって占領されると、義和団員の多くがカトリックに転向し、後年、東閭はカトリックの中心地の一つになった。

 こうした展開を見てみると、在村有力者が義和拳を導入し、伝統的郷村社会秩序の再建を目指す運動性格、流行性、村の義和団化、の傾向が生じたことがわかる。農村地域の仇教意識は「黒風口」天津へ向けられ始めた。そうしたなかで、高洛村で多数の教民が殺害され、それを弾圧に赴いた清軍将校・楊福同が殺害された。衝撃を受けた当局は対応に苦慮した。義和拳は農村ゲリラのように拡散していった。掲帖が撒かれ、流言が飛び交った。それらは外国人絶滅を訴え、あるものは、教民と康有為・光緒帝を結びつけて非難していた。嵐は北京に接近してきたが、「箋水事件」後も清朝政府は明確な鎮圧政策を採らなかった。むしろ、出動した楊慕時軍の行動に制限を加えた。そのため、義和団の行動はエスカレートした。平原事件のときと同じく、事後処理を誤ったのである。義和団は、『奉旨練団』を掲げて簔州城を占領した。北京中央では、義和団は剿しきれないから、撫すべきだという意見が出てきた。朝廷は「五月初七日上諭」を発して、拳民活動に許容的な姿勢を見せ、大官を京南に派遣した。忠臣義和団を撫して有用な軍事力にすべきだと主張した剛毅は、楊軍を保定に引き上げさせ、随行官員が義和団の壇前で膝を屈した。こうして義和団は北京に入った。補論として、村が義和団化した相とともに、河間県での教会をめぐる攻防戦が論じられる。

 第八章。光緒二十五年の末のブルックス殺害事件の頃から北京駐在の列国公使は清廷の対義和団政策に疑心暗鬼になった。そして列国外交団として総理衙門に共同照会を出して禁圧を求めはじめた。しかし大阿哥決定をひかえた清廷の反応は鈍かった。それで禁圧上諭の『京報』掲載を巡って紛糾した。総署の対応に不満を見せた列国は大沽沖に各国軍艦を集めた。そしてこの軍事圧力の下で一定の譲歩を引き出した。しかし、その直後に「三月十八日上諭」が出て、拳民に許容的姿勢を示した。運動の潜勢的拡大が生まれた。四月中旬に事態は急転換し、京南の騒擾と連動して北京城内の動きが活発化した。北京主教ファヴィエの報告を受け、楊福同殺害に衝撃を受けた外交団は公使館護衛兵の入城を強く総署に要求した。五月初一日の総署返答は軟化を見せていたが、豊台駅焼き打ちが伝えられると、列国は北京に護衛兵を強引に入れた(五月初五日、第一次出兵)。その直後、「五月初七日上諭」が出たのである。

 北京中央は「撫」への傾斜を強めた。この変化を察した外交団は大沽沖から第二次派遣隊(シーモア軍)を上陸させ、十四日朝に北京に向かわせた。この日、端郡王が総署大臣に任命され、中央は満洲人保守派が支配しはじめた。シーモア軍は線路を修復しつつ進軍したが、十八日に廊坊で義和団・清軍と衝突した。北京では外交的打開の道が探られていた。十六日頃から城内に数多くの義和団が入りはじめ、北京は騒乱の度を強めていた。教会攻撃が行われるようになった。十九日、大沽沖の列国海軍司令官会議はシーモア軍との連絡確保を名目に大沽砲台の暫時占領を決定した。この通知が問題を引き起こした。

 シーモア軍を廊坊で遮った義和団は京津間に広まってきて組織されたものだったが、この地区では、村落内既存組織が義和団=運動体に転化する傾向を示した―村の義和団化―。葛漁城の楊寿臣、斉家屯の倪贊清が例として挙げられる。これらの義和団は、武清県小韓村教会攻撃、聶士成軍との落垈での戦闘(五月初十日)、十八日のシーモア軍との戦闘を戦った。そして双樹村教会攻撃、大宝甸での戦闘を起こしたが、後者の戦闘は、宗教戦争的側面をあらわにし、王倫叛乱とよく似た相を示した。

 直隷各地の運動はやがて諸悪の根源と見なされた天津へとその焦点を絞りこんでいった。天津では、二十六年初頭から練拳の動きが見られはじめ、周囲の郷鎮に壇が設立されはじめた。年初からの日照りが反外国煽動をリアルなものにした。天津県はこれを取り締まろうとしたが、総督裕禄はあいまいな態度に終始した。京南の烽火を避けて天津へ避難してきた蘆漢鉄道のベルギー人技師たちを保護するために天津東南郷に出ていったロシアコサック兵と義和団との衝突(端午の節句)を機に活動は激化した。「五月初七日上諭」が出ると、裕禄は取り締まりに消極的になり、義和団の猖獗を生んだ。聶士成武衛前軍が投入されたが、落垈で義和団と衝突(五月初十日)、天津は周辺から流入した義和団数万によって混乱の只中におかれた。裕禄は、北京に従属するようにこれを「撫」した。城内の義和団は十八日に三教会を焼き打ちし、十九日に租界攻撃に出た。この激発は、旅順から天津に到着した露兵が北京行きの姿勢を見せていて、それが廊坊で立ち往生しているシーモア軍と合流するのを阻止するためだった。天津城内は義和団の制圧するところとなった。二十日に裕禄が北洋軍軍械所の武器を義和団に給与し、二十一日に大沽砲台占領が伝えられると、清軍は租界攻撃を開始した。この対列国戦争開始とともに義和団はそのなかで「公認」された。城郷壇口三百余、約四万人の義和団と清国軍とによって「天津戦争」が戦われることになる。天津義和団の運動は、前期、初期=各壇連合期、中間期=清軍・義和団共闘期、戦争期=外地義和団北上助戦期、に区分でき、それぞれ王志和、曹福田、張徳成を代表的リーダーとしたが、その運動は民衆ナショナリズムを最もよく示している。それは、叛乱でもなく、革命闘争でもなく、反外国の民族主義闘争だった。<神助滅洋>がその包括的思想であるが、それを以って、内側から切り崩されつつある郷村社会秩序・人倫秩序を、教会教民を排除することによって再建しようとした。<扶清滅洋>は、その限定的表現である。つまり、いま・ある中国国家「清」は、天の下における人倫的秩序の現実態として、批判される点はあるにせよ、なお、扶持さるべき国家として認知されていることを示している。これが「義和団掲帖」の基本線である。かかる運動は、「国権」回復を求めるものであったが、清国政府がなぜ「宣戦」を決断するようになったのかが解明される必要がある。宣戦は四度の御前会議を通うして決断されたものであるが、その会議のプロセス・内容を分析してみると、シーモア軍接近の緊張のなか、その対応に追われていた二十二日に、前日に裕禄から発せられた大沽砲台攻撃を告げる奏文が宮中に入ったことが、翌二十三日の「決戦」決定を生んだことがわかる。しかしその背後には、一八四〇年以来六十年の、あるいは一八六〇年以来四十年の外国から押し付けられた圧迫に対する清国支配者満洲族の憤怒の激発――満洲族国家主義の台頭があった。宣戦上諭は民族的自尊心を持った者が「虐げられた」時に発する憤怒に彩られていた。義和団は余棟臣蜂起と同じ位相にあった。

 結章では、聯合軍の北京占領後、一九〇一年に締結せられた最終「議定書」とそれに基づく地方賠償金が問題にされる。この問題を巡って民衆運動は「掃清滅洋」に大きく転回する。代表的事件が、趙三多が加わった景廷賓蜂起である。広宗県では、宣教師との間で地方賠償金額が決まり、それが賦課されると、各廠(地方行政単位)の反対が起きた。その中心が東召村の武挙人景廷賓だった。知県と景廷賓ら在地紳士たちとの対立が明らかになり、納入拒否が起きると、知県の要求で、軍官・知府らが出てきて調停した。一旦、これで収まるかに見えたが、知県は責任を押し付けた景廷賓が納入拒否を続けている、と署直隷総督袁世凱に派兵を要請、この軍事力を背景に徴収を強行した。賦課を「洋差」と見なして抵抗し、「民のために害を除く」運動は、各民団を連合した聯荘会による民変になった。これに対し、練軍は東召村を攻撃、多くの死傷者を出した。この練軍による逸脱的な殺戮は郷民の仇教・仇兵意識を高めた。聯合軍の北京占領後、近くの鉅鹿県に隠遁していた趙三多は「洋捐」賦課に反対する運動が、安平・深州などで起きてくると、鉅鹿県楼里村厦頭寺の老慈和尚らと連絡を取りはじめていた。景廷賓らは逃走後、趙三多らと結合し、三月に、『官逼民反』『掃清滅洋』を掲げて蜂起した。蜂起は広範な波及を生んだ。蜂起軍は件只村を拠点にしたが、袁世凱麾下武衛右軍の段祺瑞らが出動し、件只村を掃滅した。逃走した景廷賓は南部の臨璋県で捕らえられ、威県で処刑された。趙三多は再び鉅鹿県に戻っていたが、倪嗣冲軍に捕らえられ、かれも威県で処刑された。こうして彼の六年にわたる闘争は幕を閉じた。

 この「掃清滅洋」の動きは広宗県のみならず、安平県聯荘会の抗「洋捐」闘争、深州聯荘会の「掃清滅洋」抗捐、闘争、文安県の「滅洋平清」、雄県の「反清滅洋」、大名県の「掃清滅洋」などを引き継ぐものだった。つまり、義和団に加わった民衆が地方賠償金問題を機に媚外的になった清朝国家に背を向けはじめたことを端的に示している。この動きは四川、湖南、直隷、安徽、河南、山東など全国的に見られる。民衆ナショナリズム=人心は清朝から大きく離れたことを示している。かくして排満の鐘が鳴りはじめた。

 戊戌政変・義和団事件で台頭した満洲族種族主義的国家主義は、清末新政を通じて再び台頭し、それによる中央集権的絶対主義国家化を進めた。それが辛亥革命を引き起こすことになる。義和団事件・景廷賓蜂起は袁世凱勢力の台頭と旧政治勢力の弱体化、半植民地化の一層の深化という中国近代史の転換点を示している。そしてまた、義和団事件は中国キリスト教史上最大の事件であり、民国期の非キリスト教運動、中国革命、文化大革命と続く「義和団経験」の時につねに記憶から呼び起こされるものになった。

 付録において、七十年代の義和団研究の中心をなした小林一美氏の著作『義和団戦争と明治国家』の研究史的意義について論じられる。

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