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博士論文要旨

論文題目:W・H・ベヴァリッジの社会保障論の原点:1909年失業論の研究を通して
著者:永嶋 信二郎 (NAGASHIMA, Shinjiro)
博士号取得年月日:2000年11月27日

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 (1) はじめに

 ベヴァリッジ報告はイギリス社会保障の最初のモデルを提供した。そのW・H・ベヴァリッジ(Beveridge, William Henry) の社会保障論の構造を明らかにするために本論文ではベヴァリッジの1909年の失業論を研究する。そして本研究では先行研究では明らかにされていないベヴァリッジの1909年失業論の全体的な構造と政策体系を明らかにして、イギリス社会保障の展開の上に位置づけることを通じて、その意味を明らかにする。

 ベヴァリッジ失業論の研究のための具体的課題はベヴァリッジ失業論の理論構造を解明する課題とベヴァリッジ失業論をイギリス社会政策史上に位置づける課題である。そのためにまずベヴァリッジ失業論の思想的背景を明らかにするために、ベヴァリッジを19世紀末から20世紀初頭のイギリス経済・社会思想の中に位置づける。次にベヴァリッジと当時のイギリス失業問題との関連を明らかにする。そしてベヴァリッジと当時のイギリス社会保障との関わりを明らかにする。

 本論文は以下のような構成になっている。

 序章 問題設定
  第1節 問題意識
  第2節 課題と方法
 第1章 ベヴァリッジとイギリス経済・社会思想
  第1節 イギリス経済・社会思想における失業認識
  第2節 1900年代におけるベヴァリッジの社会政策像
  第3節 ベヴァリッジとトインビーホール
  第4節 ベヴァリッジ失業論の理論的影響
 第2章 ベヴァリッジとイギリス失業問題
  第1節 「大不況期」のイギリス経済における失業問題の概要
  第2節 失業調査とベヴァリッジの失業論
 第3章 ベヴァリッジ1909年失業論の理論構造
  第1節 ベヴァリッジ失業論における失業発生の理論構造
   1.ベヴァリッジの失業に対する基本的認識
   2.労働の予備による失業
   3.産業活動の変動による失業
   4.労働能力の損失・低下による失業
   5.ベヴァリッジの妥当性
  第2節 ベヴァリッジの失業対策論
   1.ベヴァリッジの失業労働者法の検討
   2.職業紹介所による「労働市場の組織化」
   3.失業保険による稼得の平均化
   4.救貧法改革
   5.ベヴァリッジの失業対策の体系
   6.ベヴァリッジの失業対策論の妥当性
 第4章 ベヴァリッジとイギリス社会保障
  第1節 19世紀末から20世紀初頭におけるイギリス失業対策
   1.チェンバレン通達
   2.「雇用の不足による困窮に関する特別委員会」
   3.失業労働者法
  第2節 失業行政とベヴァリッジ失業論の展開
   1.中央失業者機関とベヴァリッジ失業論
   2.救貧法王立委員会とベヴァリッジの失業論
  第3節 ベヴァリッジと職業紹介法の制定
   1.失業対策の形成の要因
   2.職業紹介法の作成
   3.職業紹介法の実施
  第4節 ベヴァリッジと失業保険法の制定
   1.失業保険法の作成
   2.失業保険法の実施
 終章 結語
  第1節 『ベヴァリッジ報告』の原点
   1.ベヴァリッジ失業論の理論的意義
   2.ベヴァリッジ失業論のベヴァリッジの社会保障論との関係
  第2節 ベヴァリッジ社会保障論の現代的意義
   1.ベヴァリッジ報告との関係
   2.戦後のイギリス社会保障の展開との関係

 (2) 論文の概要

 第1章ではベヴァリッジとイギリス経済・社会思想との関係について検討している。まず当時のイギリス経済・社会思想における失業認識に関して検討すると、まず19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済学では失業は経済学の対象としては捉えなかった。次にチャールズ・ブース(Booth, Charles) 、ベアトリス・ポッター(Potter, Beatrice) 、ヒュバート・リュウェリン=スミス(Llewellyn Smith, Hubert)等による社会調査を用いた経験主義的研究による失業認識では港湾労働者の調査から臨時労働の存在を把握し、そして失業と経済変動との関連、中でも景気変動が最も重要な失業要因であることを把握することができたが、失業を経済・社会構造との関連で理論的に把握することができなかった。

 次に1900年代のベヴァリッジの社会政策像を考察する。ベヴァリッジは漸進的で官僚的な社会主義像を構想し、官僚や専門家の支配を通じて個人の利益を国民に従属させることを主張し、そのために経済の効率化を目的とした生産の公的管理を唱え、他方で社会的に失敗した者や不適合者には厳格な措置をとった。ベヴァリッジの社会政策は貧困と労働が基本的な概念であった。ベヴァリッジは貧困を個人の統制外のことと位置づけて、貧困の解消を最優先課題と考えた。そして貧困の解消のためには国家介入が必要であると考えた。しかし不平等の解消が貯蓄や労働への誘因を阻害してはならないとした。他方でベヴァリッジは労働の重要性を主張して、労働は社会的義務であると主張した。ベヴァリッジの社会政策像は貧困の解消と効率の確保によって社会を組織化する政策であった。

 ベヴァリッジは1903年に最初のセツルメント運動の拠点であるトインビーホール(Toynbee Hall)に入所して、失業問題に直面した。ベヴァリッジとトインビーホールの関係を考察すると、まずトインビーホール自体が貧困の現実をイギリス政治・行政に送り込んで社会政策の発展に大きく貢献した機関であったことが挙げられる。トインビーホールに入って、貧困に接触した若者達が後に政治的に影響力のある地位に就くことを通して、社会政策による貧困の状態の改善をもたらすという役割を果たしたという点が挙げられる。その館長であるサミュエル・バーネット(Barnett, Reverend Samuel) は失業を経済的な浪費と捉え、失業者を雇用不適格者から区別して、前者には寛大な措置を、後者には刑罰を行うことを主張し、社会改良のための国家介入と貧困への個人的要因という見方を有した。以上のトインビーホールの社会的役割、バーネットの失業論がベヴァリッジの役割を規定した。

 最後にベヴァリッジ失業論に対する理論的影響を考察する。まずブースの社会調査が挙げられる。そこからベヴァリッジは失業の把握のための類型としての臨時労働の認識と職業紹介所による非臨時化という失業対策の原理を獲得した。次にパーシー・オールデン(Alden, Percy)の失業対策論が挙げられる。オールデンの著作からベヴァリッジは失業対策の具体的方策として雇い主と従業員との接触による雇用を確保する役割を果たす機関としての職業紹介所と国家規模の失業保険という考えを学んだ。

 第2章ではベヴァリッジとイギリス失業問題との関係を検討している。まず「大不況期」から20世紀初頭にかけてのイギリス失業問題の状況を考察する。イギリスの経済成長率は安定していたが、国際経済の環境に置くと、新興国のそれよりも低下した。イギリス経済の衰退の原因としては産業構造の転換の遅れを指摘することができる。以上の経済環境の中でのイギリスの失業の特徴としては失業率がかなり変動的であり、他の時期と比べて高い率を示していた点が挙げられる。また失業の中には港湾労働等における景気変動に応じて不定期に採用される不完全就労者の存在があり、それがこの時期に増加した。

 次に失業調査とベヴァリッジの失業論との関係について考察する。ベヴァリッジは社会問題の一つとして失業を捉え、トインビーホールでのロンドンでの港湾での失業調査を通じて援助を行った失業者が失業状態のままでいることや慈善の詐取を通じて、一定の方針のない慈善を臨時雇用と同様の悪と見なして、政府活動の必要性を確信した。そして失業の問題は景気後退期における失業労働者の効率を維持するという問題にあると考えた。またベヴァリッジは慈善組織協会(Charity Organization Society)によるロンドンの港湾での臨時雇用の調査によって失業を産業組織の問題と見なし、特定産業の衰退と技術革新による失業である余剰としての失業、需要の季節的・循環的変動による一時的失業、雇い主と労働者の間の接触の欠如による臨時労働市場の慢性的「不完全就労」に失業を分類した。そしてベヴァリッジは「不完全就労」の廃止を失業対策の最優先課題として、職業紹介所による臨時労働の組織化による非臨時化と救貧法による矯正を主張した。

 第3章ではベヴァリッジ1909年失業論の理論構造を検討している。まずベヴァリッジの失業に対する基本的認識を検討する。ベヴァリッジは失業を社会問題の基礎であると位置づけて、労働市場における調整の不完全性による需給の不一致の問題と見なした。

 ベヴァリッジの失業の類型の第一は労働の予備による失業である。それは分立した労働市場における労働者の他の市場に対する無知、使用者の恣意的な採用によって景気変動による労働需要の変動に対応する労働の予備が増大することによる失業である。

 第二には産業活動の変動による失業である。それには季節的変動による失業と景気変動による失業がある。

 第三には需要される労働能力の変化と適応力の不足という経済的要因と意志や判断の歪み、非効率な労働力、そして一時的な過ちと放縦による個人的要因による労働能力の低下・損失による失業である。

 ベヴァリッジは既存の失業対策である失業労働者法に対して、それが雇用の不正規性に対する認識を欠如していたために、政策対象としていた景気変動によって例外的に失業した正規労働者が一時的に利用するという政策の目的を達成することができず、不正規労働者が慢性的に利用するようになったと批判した。

 ベヴァリッジの失業対策の第一のものは職業紹介所である。その機能は第一には、労働市場の組織化による労働市場の不完全性の除去である。第二には臨時労働者の除去による非臨時化である。

 第二の方策は失業保険であり、景気変動による失業から生ずる窮乏を保険によって防止するものである。

 第三の方策は救貧法であり、その抑止原理を緩和することによって救貧法への流入を促進するとともに、救貧法の役割として扶養だけではなく、教育と規律を遂行することもその役割とした。

 ベヴァリッジの対策は横断的労働市場の形成によって労働移動と労働の効率化を促進する対策であると同時に正規労働者に対しては普遍的な生活保障を行い、雇用不適格者に対しては改正された救貧法で対処する政策体系であった。

 第4章ではベヴァリッジとイギリス社会保障を検討している。まず19世紀末から20世紀初頭におけるイギリス失業対策について検討する。1886年にジョセフ・チェンバレン(Chamberlain, Joseph)が地方自治体に対して失業者救済のために不況期に公共事業の供給を命ずる通達を出して以来、1880年代後半から救貧法から独立した失業対策が制定されたが、その内容は政策対象とした正規労働者に適合しないものであり、労働力を堕落させる効果をもたらした。

 ベヴァリッジは1905年に失業労働者法の行政に参加して、救済事業の一時的な性格への批判を確立して、職業紹介所による臨時労働者の除去による効率化を対策として提示した。

 救貧法王立委員会(Royal Commission on the Poor Laws and Relief of Distress)では、ベヴァリッジは循環的失業と正規労働者の失業の認識、職業紹介所と失業保険の関連性、失業対策の行政制度の認識を示した。

 1900年代後半からイギリスでは失業対策の形成要因が形成された。まず自由党政府がこの時期から失業対策の実現に動きだしたことが挙げられる。労働党との選挙協力と失業問題の増大によって自由党政府が失業対策に取り組むようになった。次に商務大臣チャーチル(Churchill, Winston) が失業問題を社会問題の中心と位置づけた点が挙げられる。そして商務省が社会政策・社会保障において中心的役割を果たせたことが挙げられる。

 ベヴァリッジは1908年に商務省に採用された。商務省の職業紹介案は職業紹介所による労働市場の組織化というベヴァリッジの理論を基にしたものであった。法案の検討過程では、法案が基本的には修正されずに職業紹介法となった。

 ベヴァリッジは行政面でも中心的役割を果たした。

 失業保険法案は当初はリュウェリン=スミスが中心となって形成され、景気変動による失業から生ずる窮乏への対策として失業保険を位置づけたが、リュウェリン=スミスが自分の提案を批判し、ベヴァリッジがそれを擁護したことから、失業保険案の形成の中心がベヴァリッジになった。またベヴァリッジはチャーチルの反対を押さえて失業保険に対する除外規定を法案の中に設けた。失業保険法案は基本的に修正されずに失業保険法(国民保険法第2部)となった。

 (3) 得られた知見と今後の課題

 まず以上の研究から『ベヴァリッジ報告』の原点としてのベヴァリッジ失業論の意義を述べる。まずイギリス失業問題、イギリス失業対策の展開の中でベヴァリッジ失業論を考察すると、ベヴァリッジの失業論は失業の原因を労働市場における調整の不完全性にあるとすることで、経済理論上で失業を把握し、そして労働の予備と分断的労働市場の認識から臨時労働者を把握した。政策的にはベヴァリッジ失業論は職業紹介所による労働市場の組織化による非臨時化という観点から、臨時労働者を失業対策の政策対象に入れた。

 次にベヴァリッジ失業論をベヴァリッジの社会保障論との関わりから考察する。ベヴァリッジの失業対策は国民を労働能力で分類し、意志と効率的な労働能力を満たした労働者に対してサービスと保険によって一定の生活水準を普遍的に保障し、いずれかが欠けている者に対しては救貧法の救済基準を緩和することによって、救貧法への流入を促進し、その上で救貧法によって扶養と教育・訓練が成されるという政策体系であった。

 次にベヴァリッジ社会保障論の現代的意義を検討する。まず1909年失業論と1942年のベヴァリッジ報告との関係について考察する。ベヴァリッジの1909年失業論では効率の維持が問題とされていた。その点についてベヴァリッジ報告との関係を考察すると、ベヴァリッジ報告では社会保障が財政的に機能するために児童手当、保健サービス、雇用の維持という前提とされる政策が設置されたり、年金の支給開始年齢が計画よりも遅く設定された。またベヴァリッジの社会保障は生活の安定を揺るがす諸要因に対応する政策体系であった。

 次に戦後のイギリス社会保障の展開との関係について考察する。戦後のイギリス社会保障の展開ではベヴァリッジ報告で示された効率の確保と財政問題という視点を無視したという点が問題であった。また社会保障を巡る問題に対して戦後のイギリス政府は制度の積み上げによる対応を行い、社会保障を政策体系として構築しなかった。経済理論・経済政策の歴史において、当初の考えはアダム・スミス(Smith, Adam)の考えであった。そして貧困に対しては救貧法で対処した。しかし不況の発生、貧困の拡大、独占の発生によって、ジョン・メイナード・ケインズ(Keynes, John Meynard) のマクロ経済政策並び競争維持政策そして所得再分配政策が行われるようになり、国家が様々なことをやるようになった。それによって国家の経済政策が大きくなった。そして税金が高くなった。国家が介入・統制を行うようになった。それによって経済活動の主体の活力が削がれた。そこで小さな政府への回帰としてマーガレット・サッチャー(Thatcher, Margaret) やロナルド・レーガン(Reagan, Ronald) が登場して、社会保障の切り崩しが行われた。社会保障の改革や福祉国家の再編という状況でベヴァリッジ報告の現在の意義は政策体系として社会保障を構築する視点と財政や効率性を考慮する視点を提示している点にある。そのベヴァリッジの社会保障論の原点であることを示したという点で1909年失業論の意義がある。

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