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博士論文要旨

論文題目:エジプトの言語ナショナリズムと国語認識 ―言語多変種併用と国民国家形成問題、日本の言文一致運動との比較において―
著者:サーレ・アーデル・アミン (Saleh Adel Amin Mahmoud)
博士号取得年月日:1997年10月8日

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問題意識

 21世紀を迎えようとしている我々エジプト人は、自らのアイデンティティを想定する明白な絆を未だ発見できずにいる。これは、アラブ世界における個人の「複合アイデンテイテイ」と、社会に見られる「文化の多元構造」の原因が、エジプトも含むアラビア語圏の各々の国が直面している危機的な言語状況にあるからである。危機的な言語状況とは、西洋思想に基づく「言語共同体」イデオロギーとイスラムイデオロギーとの間の「調和」の失敗の必然的な結果として生じた、アラビア語内の「二分法」、あるいは「言語内の多変種併用」現象である。この現象は、ある種の病として社会のあらゆる分野に表面化している。

 このような言語状況は、アラブ世界のみならず、普遍的な問題として捉えることができる。これは、その国の言語生活における複雑性と歴史の支配に由来するものであり、文化と文学のための共通の「言語変種」と、環境、地方、国の範囲に限定される地域に固有の変種、(若しくは、それ以上)との併存を余儀なくする言語社会の規範に支配された、現実的論理の反映である。

 イスラム教と結びついたアラビア語は、近代化以前において圧倒的な権威を持っていた。しかし、1882年以降、宗主国たるイギリスによって、英語が教育や官僚などの公用語として、エジプトに強制された。これによって、ナショナリズムが覚醒するにいたった。筆者によって提起される「言語ナショナリズム」とは、アラブの伝統を育んできたアラビア語を尊重すると同時に、エジプト人自らのアイデンティティを主張する固有の「言語」を見出そうとした。知識人は英語に対して、聖なる正則アラビア語をそのまま武器として抵抗しようとしたのではなく、多様な障害を越えてフスハーに大改革を起こし始めた。革新家たちは話しことばを基にする「民衆語」の実現化を訴え、作家たちは言文一致体の形態を伴った「民衆語」としてのアミーヤを見出した。彼らにとっての言語ナショナリズムとは、アミーヤを上昇させ、文学や文化を担う国語化することであった。すなわち、アラビア語において、言語改革が政治的動きと思想的展開により発生したのである。

 本論文は、19世紀末に始まるアラビア語内の「言語戦争」という形をとった、約1世紀(1880-1980年代)の本格的な議論を通じて、エジプトの「国語認識」を追究する。とりわけ、そのプロセスを追って、エジプト社会の言語活動を担っている「言語」とは、正則アラビア語たるフスハーなのか?、アミーヤなのか?、エジプト固有の民衆語なのか、それとも他の言語要素なのか?というこれらの問いに対する答えを見出し、現代エジプトの「国語認識」及びそれにみられる言語状況の「不安定性」の原因を、明らかにするのが、本論文の主な目標である。

 なお、本論文では副題名として「言語多変種併用と国民国家形成問題、日本の言文一致運動との対比において」と書いた。筆者は、エジプトの言語改革を考察した際、日本における言語改革のプロセスを意識して、大きく影響された。第三部のひとつの章として、エジプトと日本の「言文一致運動」の比較検討を行った。 アミーヤの推進運動は、日本の言文一致運動と同様「話ことばをそのまま写した書きことばの使用」を意味し、19世紀末まで全く同じコンセプトで認識されつづけた。同章では、エジプトのアミーヤの推進運動を、日本における言文一致運動に相当する言語革命と位置づける。前者の例から帰結した「中間言語(従来の文語としてのフスハーと素朴な俗語、アミーヤを折衷しつつ、両者を媒介しうる言語変種)」という概念を通して、日本の「言文一致体」を、新しいアプローチで分析し、従来の研究とは異なった見解を見出したい。

 国語認識とその「方向性」を決定する言語改革の成功がいかに政治と深く結びついているのかを、エジプトと日本の実例から明らかにする。日本の国語認識と、それによって実現された国民国家において機能する日本的な「言語スタンダード」の成功例は、エジプトの言語問題の分析にも有効なアプローチだと思われる。

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 エジプトの言語ナショナリズム史、及び国語認識という課題のプロセスは、内容的に3つの部門から捉えられる。(本論文の最初の頁につけた「時代区分による論文の構成図」及び「目次」を参照)

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 第1部門では、まず、言語ナショナリズムの前夜としての、1880年代に初まった「アミーヤの推進運動」(ヨーロッパ研究者の役割も含む)とりわけ、エジプト型の「言文一致運動」をとりあげる。

 19世紀後半まで続いたトルコ支配の3世紀の間、アラビア語は強く攻撃され、その結果一般の文化が遅れたと同時に、言語は弱体化を余儀なくされた。オスマン朝が行政や教育の公用語として課したトルコ語との戦いで、アラビア語は疲弊した。弱体化した正則アラビア語は、エジプトのアズハル大学、チュニジアのザイトウーナ大学、といった宗教教育機関に限って使用されていた。このような状態でアラビア語は、近代化の時を迎えようとしていた。

 英語とアラビア語の併存というバイリンガリズム社会から脱出しようとした19世紀末のエジプトの啓蒙家の一部は、英語化政策に反発してアミーヤを用いるか、フスハーを用いるかで迷い、教養人たちは2つのグループに分断されたのである。一種の「言語段階」の上位を占めるフスハーとその下位にたつアミーヤとの対立は、1950年代に指摘される以前、1880年代のエジプトにおいて初めて公的に大規模に論議されたのである。

 ところで、フスハーとアミーヤに分化したアラビア語内の言語戦争の議論を発生させる前提があった。それは、なによりも、1880年代に始まったアミーヤの推進運動に強く貢献したヨーロッパ人研究者と、それに続くエジプト型の「言文一致運動」であった。これによって、エジプトの「民衆語」が認識されることになった。これは、20世紀初期のエジプトの言語ナショナリズムを発生させたダイナマイトだったに違いない。ここでいう「民衆語」とは、アラビア語内の1つの言語変種として考えられる「エジプト口語」を意味するが、その形態は日本型の「言文一致運動」の理念とよく似ている。 活発な議論が生み出した「言文一致運動」によって、エジプト史上初の「言語ナショナリズム」が正当化され、かつ文学言語として活躍する「民衆語」の下準備が行われたのである。

 第二部門では、次に、「1919年革命」に伴う「エジプト化」イデオロギーを論拠に誕生した、アラビア語の「エジプト化(中間言語という思想)」と呼ぶべき言語革命の本質を解明する。

 ナショナリズムが最盛期を迎えたのは、第一次大戦後の「1919年革命」によって発生した「エジプト化」イデオロギーの時期であった。この運動は、エジプトの地理的国境線の内側にエジプト人の特徴的な性格及び生活様式というものを考え、そしてエジプトの未来への夢とその実現に向けた努力を主張した。そしてそれを背景に文学やすべての芸術を「エジプト化」するというスローガンが語られた。この思想は「言語」にも適用された。革新家らは、アラビア語を「エジプト化」する形でエジプト人固有の「国語」を考えたのであった。それ以前には、アラビア語世界では「国語」や「民族」や「国家語」などの世俗的な概念は、未だ誕生していなかったのである。エジプトの「民衆文学」という考えに固執する文学家や若手の評論家は、これを圧倒的に支持した。彼らは、「民衆文学」を形成する前提として、まず第一にアミーヤの「国語」化を成功させなければならなかったのである。そしてその方法として彼らは自らの著作に簡略化されたフスハーとアミーヤを混合させて使ったり、上昇させたアミーヤそのものを使ったりした。

 20世紀前半に発生した言語ナショナリズム・イデオロギーは、フスハーを死語にするにはいたらなかった。(これは注目すべき重要な論点の1つである)だからといって、アラビア語の「エジプト化」という形をまとった言語革命が失敗だったわけではない。エジプトの言語社会において、この革命は、言語的な革新をもたらした。最初はアミーヤを「民衆語」として正当化しようとし、次にアミーヤとフスハーを媒介する「言語型」を提起したのである。この新しい「言語型」とは、ムーサの文法分類に見られる西洋型の言語であり、最終的に成立するエジプトの「民衆文学」を担うエジプト固有の「言語」であった。

 では、「アラブ」という遊牧民と全く異なった民族要素という根拠に成り立った「エジプト化」イデオロギーは、どんな言語改革を起こしたのであろうか?

 革新家の見出した言語体系を探って、70年間にわたるエジプトの言語ナショナリズム・イデオロギーの裏付けられた政治的な目標を論じ、革新家の代表的な論述をめぐって提起された「言語モデル」を考察する。また、「民衆語」の役を果たす「中間言語」をどこまで成功させられたのか。これらは2つの領域において考察することができる。

 第一に、言語学的な領域、すなわち正則アラビア語の文法の簡略化、及びと正書法問題と、ラテン化運動(さらに、カイロ・アカデミーの役割)。

 第二に、文学的な領域、すなわち従来のアラブ文学の「公式文学」に加わったエジプトの「民衆文学」、とりわけ「近代文学」とは何か、定義づける。

 20世紀前半の言語の「エジプト化」イデオロギーは、民衆文学の実行手段として「中間言語=民衆語」を見出そうとしたが、1950年代には、「アラブ・ナショナリズム」イデオロギーを論拠に、国家の公用語の問題をめぐって、正則アラビア語が復活し、「二分割法」的な議論が重視されるという、言語への社会的・政治的な「ベクトル」が生じる。

 第3部門では、本論文の議論の大前提として、フスハーとそれに対立するアミーヤ、という「二分割法」をめぐる理論的な論議を行う。

 *「ダイグロシア」と名付けられた、この言語状況を普遍的な理論として1959年に発表されたファーガソンの「ダイグロシア」概念を中心に、従来の「ダイグロシア」論を考察し、「二分割法」的な理論方法の問題点を指摘する。
ファーガソンによるダイグロシアとは、
 「比較的安定した以下のような言語状況をさす。すなわち、その言語(標準あるいは地方的な標準を含むもの)の元々の諸方言に加えて、非常に異なった、規範化された(しばしば文法的により複雑な)超変種である。それはもっと早い時代あるいは他の言語共同体において、尊敬に値する書かれた文学の大きな体系の手段であり、たいてい公式の教育によって学習されるものであり、だいたい書かれる目的で、それから公式の話のために用いられるが、その『超変種』は、共同体のいかなる社会階層でも通常の日常会話には用いられない。」

 1960年代に、言語状況を記述する「ダイグロシア」論的なアプローチが、アラビア語の研究においてさらに発展させられ、1970・80年代における「スペクトロ・グロシア」論にいたり、現代アラビア語の現実が的確に分析される経緯を述べる。

 *本稿で紹介したように、バダウィの分析モデルによってエジプトにおける現代アラビア語は、アミーヤとフスハーという「ダイグロシア」的言語状態ではないことが証明された。現代アラビア語は、複数の言語レベルを持ち、たくさんの違った変項によって、ネイティブ・スピーカーたちがそれに沿ってシフトしていく連続体である、マルチ・グロシア、ポリ・グロシア的な実像を持つということが、論証された。そして、バダウィはこのような状況を「言語段階」と呼び、「個人の言語的進化」、「言語面での柔軟性」、「社会的な文明」という3つの考えを提起して、エジプトの現代アラビア語を5段階に分類した。

{1.遺産フスハー(何者にも影響されていない伝統的フスハー)、2.近代フスハー(特に近代文明に影響されたフスハー)、3.教養人のアミーヤ(フスハーと近代文明とに影響された)4.識字者のアミーヤ(現代文明に影響された)、5.非識字者のアミーヤ(フスハーにも近代文明にも何にも影響されない)}

 エジプトにおける言語活動に限って、実践的にこれらの定義上の「五段階」を分析した論拠は、次の通りである。これらの五つの言語レベルは閉じた境界の内側に互いに孤立して存在しているのではなく、互いに常に連結し各レベル間で相互作用しあう。

 *さらに、バカラー(M.H.Bakalla ・1984)もアラビア語の言語状況を、単なる「ダイグロシア」的な状況というよりも、一方は極端な純粋古典アラビア語、もう一方はアラビア語の口語の純粋タイプの間のスペクトロとして、あるいはより正確な言い方をすれば、‘continuum(連続体)’としてみた。彼は、「この両極の間に、(アラビア語の口語あるいは古典アラビア語のいずれかに相対的に近い)アラビア語のさまざまな変種がある。この連続体の中に‘criss-crossing’、社会的専門的な隠語あるいは下位方言も含まれている。」と論じた。

 「ダイグロシア」の理論を原理的に利用した、「言語段階」及び「スペクトロ・グロシア」などの分析は、我々にその時期の社会内部の諸問題に対するインパクトを与えた。しかし、これらの理論的な分析は、筆者が実践的にエジプトの近代文学を1つの言語セクターとして分析したことによって証明されるアラビア語内にみられる「多変種併用」に対する社会的なメカニズム、言語社会内の「階層の心理状態」及び社会のいかなる「力」、及び言語内の必然的な関係とそれに応じる言語、若しくは諸変種の「方向性」について納得のいく説をなしていない。

 諸言語同士、及び単一言語内の諸変種が内外の要因によって特定の方向に向けられ、またその方向性が制限される。社会的な「力」によって、言語へ方向性( vector)が向けられるのである。この現象を‘Language Vector’(逆の方向という意味も含む)と呼ぶ。本論文においては、社会言語学の新たな概念として「言語ベクトル」を提起し、定義づける。

 筆者は、ダイグロシア理論を原理的に批判する立場から、これらの議論の代表的な論述を徹底的に検討し、エジプトの現代アラビア語の状況を捉える概念として「言語内の多元変種併用」という概念を提起する。とりわけ、実践的にエジプトにおけるアラビア語内の言語分析を行う。アラビア語内で明白に言語学的に定義しやす い違った3つの言語変種(アミーヤ・フスハー・中間言語)のうち、どの変種がスタンダードの役割を果たす資格があるのだろうか?国民国家の原理と矛盾する言語状況に見られる「不安定性」は、筆者の提起するところの「言語内の多元変種併用」に由来している。この現象の実体と、それに埋もれている問題を探り、言語社会の「不安定性」を実証する。

終わりに

 19世紀初期、エジプト人の啓蒙思想家は、近代化を担う新しい思想を表現する語彙を、古びた言語から引き出して、そのまま使い、近代教育、科学、文化活動などに使おうと試みた。つまり、啓蒙思想家にとっての「言語共同体」とは、7世紀の半ばのアラビア語の復活を意味した。ゆえに、エジプトは近代的な「軍事国家」としては成立したが、「言語スタンダード」イデオロギーになり立つ「国民国家」形成、という観点から見れば、日本の経験と比べると、失敗に終わったと断言できる。

 ここまで、戦後のエジプト・日本の、国語認識に依存する「中間言語(=民衆語)」の公認をめぐって、論じてきた。日本の場合は、戦後はどちらかと言えば話しことばに近い中間言語が公認された。日本はたんなる俗語を書きことばに使用したのではなく、中国語に由来する古びた漢文を完全とは言えないが見捨て、中間言語としての標準語を見出したことによって、「脱亞入欧」できたのである。言文一致運動の結果として変身した日本語は、「同化思想主義」に成り立っている今日の日本国民国家を成立させる大前提であった。この「言語スタンダード」が国語として認識されたことによって、日本人は1つの言語共同体に帰属していると意識することが可能になった。すなわち、中間言語の存在こそ、日本人のアイデンティティを維持した絆だったと思われる。これと対照的にエジプトにおいては、その「中間言語」は、結果的に公式に受け入れられなかった。現在のエジプトを初めとするアラブ世界は、日本のような公認された「標準語=言語スタンダード」の不在という現象に悩んでおり、アラブ世界における個人の持つ「複合アイデンティティ」と、社会に見られる「文化の多元構造」の原因は、そこにあると思われる。

 筆者は、エジプトの現代アラビア語を特徴づける「言語内の多元変種併用」が、国民国家の形成にとって危機的な現象であることを主張する。また、「言語内の多元変種併用」状況を、「東洋言語社会」を特徴づける普遍的な問題として取り扱うことを提起する。さらに、この危機の原因が西洋的な「言語共同体」イデオロギーと結びついていることを論じ、エジプトも含めた「非ヨーロッパ」世界における明白に定義されていない「言語共同体」概念と、国民国家形成の前提条件の見直しを、本論文の1つの主な課題として提起するのである。


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 本論文の最後に、エジプト人の言語生活における「言語内の多元変種併用」という現象の解決方法として、アミーヤ・フスハーを初め、どのような選択肢があるかを、いくつか列挙してみた。(本論文参照)

 しかしこの選択の決定は、国家のみにまかせるものではない。なによりも民衆の意志と希望を尊重して、自由な議論によって進められなければならないのである。いずれの選択肢にせよ、この問題の主役である民衆の意志を尊重し、民主的な投票によって、決定がなされるべきであろう。この投票は、本稿で述べた課題の次のステップとして一日も早く実行すべきである。このユニークな投票を民主的に行えば、エジプトの「国語」問題の解決決定と、本稿によって明確に定義された「言語内の多元変種併用」状況のある社会に発生した「文化多元構造」の問題解消に近づくことができるだろう。

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