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博士論文要旨

論文題目:行政による生活困難支援の限界 ―現場レベルにおける支援をめぐる規範と意思決定の社会学的分析―
著者:山邊 聖士 (YAMABE, Masashi)
博士号取得年月日:2021年3月19日

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序章 行政と「支援」をめぐる課題
1 問題の所在
2 政策実施における自律性
3 「裁量」概念の限界
4 「支援」の困難をめぐる規範と意思決定の社会学的研究
5 本研究の構成

第1章 課題と方法
1 はじめに
2 第一線組織・職員に関する先行研究
3 本研究の課題――規範・意思決定・支援の困難
4 本研究の方法――フィールドワークの有効性
5 本研究の意義
6 小括

第2章 X市におけるフィールドワーク
1 はじめに
2 X市の概要とその位置づけ
3 フィールドワークの経緯とデータ収集方法
4 単一事例研究における知見の「一般性」
5 小括

第3章 第一線組織の活動における規範
1 問題設定
2 当事者にとっての困難への対応
3 組織の持続性
4 第三者による評判
5 結語

第4章 規範を考慮した意思決定の傾向
1 問題設定
2 サービスの対象者にすることで関わる
3 出来事を名目にして関わる
4 職員の身の安全を優先する
5 誰が関わるかを押し付けあう
6 予期される批判の回避を優先する
7 苦情をもとに「ケース」化する
8 結語

第5章 意思決定の傾向から生じる支援の困難と対処
1 問題設定
2 関われないという判断
3 当事者にとっての困難への対応の後景化
4 決定の保留
5 当事者にとって「最良」の選択肢の制限
6 当事者との関係構築の困難
7 結語

終章 本研究の結論とインプリケーション
1 本研究の要約と結論
2 インプリケーションと残された課題

参考文献

1 問題意識
 本研究は,政令指定都市X市を事例として,行政の現場において人びとの生活上の必要に対応する組織や職員の活動を分析する試みである。この試みをつうじて,本研究では,現在の日本における行政が,なぜ支援の役割を果たすことが困難となるのかを明らかにすることを目的としている。
 現在の日本における行政は,人びとの生活上の必要に対応する役割を期待されている。そこで期待されている役割とは,法令によって公式化された現金やサービスの給付にくわえて,必ずしも法令にもとづかないさまざまな活動――家庭訪問や窓口での相談,それにとどまらないクライアントとの日々のやりとり――をつうじて,人びとの必要に応えていくことである。このような法令にもとづかずに実施される人びとの必要に対応するための活動を,本研究では支援と呼んでいる。
 このような期待があるにもかかわらず,行政が上述したような支援の役割を十分に果たしえていない状況にあることはたびたび指摘されてきた。なぜ,行政による支援の遂行は困難に陥るのだろうか。この問いは,人びとの生活上の必要にいかにして対応するかに関心を寄せてきた社会政策・社会福祉の研究にとって重要な問いである。と同時に,生活を営むうえで行政との関わりが必要な人びとや,行政の作動に携わる職員たちにとっての実践的課題でもある。

2 課題と方法
 このような問いの解明に迫るために,本研究では,関連する先行研究の到達点と限界を踏まえて,行政の現場において支援の役割を期待される組織や職員の活動における規範,そうした規範を考慮した意思決定のあり方,さらにはそこから生じる支援の限界を明らかにすることを課題とした。このような課題に取り組むために,本研究では,X市という地方自治体を事例に,参与観察を中心としたフィールドワークを行い,現場レベルにおける組織や職員の活動を詳細に記述することを試みた。

3 各章の概要
 序章では,上述したような本研究の問題意識について述べると同時に,本研究の研究対象について定義した。本研究では,公行政においてクライアントと直接に相互作用することを中核的な業務とし,本研究でいう支援の役割を主に期待される組織や職員のことを第一線組織および第一線職員と定義し,研究の対象に設定した。
 第1章では,本研究の問いに関連する先行研究をレビューしたうえで,本研究の課題と方法を提示した。第一線組織や職員の活動に関する研究は,従来,社会福祉学や行政学の領域で発展してきた。本研究では,これらの諸研究を,第一線組織や職員の構造的制約を強調する研究と,第一線組織や職員の自律性を強調する研究とに分けて検討した。
 前者の研究群は,第一線組織や職員が運用する法律や,中央省庁が発行する通知や通達が,第一線組織や職員の活動におよぼす影響に着目してきた。しかし,これらの研究が対象としてきた個々の政策については,それを実施する組織や職員が一定の自律性を有していることが指摘されている。さらに,本研究の主題である支援は,必ずしも法令などによって定められていない活動であり,法律や通知・通達による影響は相対的に小さくなると考えられる。したがって本研究では,第一線組織や職員の自律性に重きをおいた検討が必要であると主張した。
 他方で,第一線組織や職員の自律性を強調する研究群においては,裁量という概念を用いて,所定の規則や手続きの運用,あるいは政策の結果を測定する指標に影響をおよぼす組織や職員の自律性について明らかにしてきた。しかし,本研究でいうところの支援の活動には,所定の規則や手続きがない場合が少なくなく,その結果を測定可能な指標で評価することはきわめて困難であると考えられる。このような点を踏まえると,従来用いられてきた裁量という概念では,支援という活動における第一線組織や職員の自律性を十分に捉えることができないことを述べた。
 こうした限界を乗り越える近年の業績として,B. Zackaの研究をとりあげた。Zackaの研究は,「道徳性向」という概念を導入して従来の裁量概念を拡張し,第一線職員の意思決定における安定的特徴を解明している。さらに,政策実施における規範との対応関係を見ることで,第一線組織の問題ある性向を把握する新たな視座を提供している。これらの知見は,本研究にとって非常に示唆的である一方で,いくつかの難点があることも指摘した。分析レベルが個人に設定されており,組織の自律性がうまく捉えられない点や,政策実施における規範という概念の抽象度が高く,政策領域ごとに異なる規範について十分認識できていない点,さらには規範という概念が一種の公準のごとく設定されており,政策が実施される個々の状況で立ち現れる規範を捉え損ねかねない点など,本研究の主題である支援の活動を検討するにあたっていくつかの難点があることを指摘した。
 以上のような先行研究の検討にもとづき,本研究では,次の3つの課題を設定した。

課題1:行政の現場において支援の役割を果たすことが期待される組織や職員の活動において,どのような規範が考慮されているのか。
課題2:規範を考慮しながら,組織や職員はどのように意思決定しているのか。
課題3:組織や職員の意思決定のあり方は,支援の遂行をいかに困難にするのか。

 本研究は,これらの課題に第3章から第5章にかけて取り組むことで,冒頭に示した問いの解明を目指した。そして,第一線組織や職員が活動する状況において立ち現れる規範や,意思決定の安定的な特徴を経験的研究によってつかまえるためには,参与観察を中心としたフィールドワークが有効であることを主張し,この方法を用いて上記の課題に取り組むことを述べた。さらに,本研究が,第一線組織や職員に関する研究を展開してきた社会福祉学や行政学,さらには社会政策や社会福祉の研究に対しても貢献をなしうることを主張した。
 第2章では,筆者が行ったフィールドワークの概要について述べた。本研究で事例としてとりあげたX市は,自治体としての理念や計画,また組織構造や活動内容といった外貌からして,本研究でいう支援に積極的に取り組む方針を掲げている。このような特徴をもつX市において支援が困難となる状況が生じてくるとすれば,その条件を解明することで,他の事例においても広く見られると推測される支援を困難にする条件を浮き彫りにできると考えられる。このような考えのもと,本研究では,X市の第一線組織において,観察調査やインタビュー調査,文書資料の収集といった調査を実施した。
 ここまでの検討を踏まえて,以降の3つの章では,X市におけるフィールドワークで収集したデータをもとに,第一線組織や職員の活動における規範,意思決定の傾向,そして支援の困難についてそれぞれ検討した。
 第3章では,X市において支援の役割を期待される第一線組織や職員の活動で考慮されている規範として,当事者にとっての困難への対応,組織の持続性,第三者による評判の3つがあることを指摘した。
 当事者にとっての困難への対応とは,当事者の状態を示す指標となるような特定の要素(病名,経済状況など)よりも,当事者にとっての困難そのものを認識して対応することや,そうした意味での困難を抱える当事者が誰であるかを特定すること,さらにはそうした当事者の意向や意思にもとづいた対応を重んじることを指す。これは,X市行政における理念や計画のほか,運用できる法律がないなかで活動せざるをえないという第一線組織の特徴によって,考慮されるべき規範となっていることを示した。組織の持続性とは,職員の負担や,それが業務の継続性におよぼす影響を重視する規範であり,X市の第一線組織において日常的に考慮されていた。その背景には,突発的なアクシデントによって業務が継続困難となるリスクに日常的に晒されているという第一線組織の業務環境と,そうしたリスクに注意を促す組織の仕組みがあることを論じた。第三者による評判とは,当事者以外の地域住民や,行政機構内部の他部署,あるいは外部の関係機関による行動や反応を重視するというものである。このようなアクターによる評判を考慮することが必要となる背景として,地域住民を「協働するパートナー」とみなし,地域住民と行政との信頼関係の構築を目指すという建前があることを文書資料にもとづき明らかにした。
 第4章では,X市の第一線組織や職員の意思決定の傾向について検討した。ここでは,前章で示した3つの規範と結びついた意思決定の傾向として,以下の6つを指摘した。
 第一に,サービスの対象者にすることで関わるという意思決定は,当事者にとっての困難への対応を主として考慮したものである。そこでは,法令にもとづくサービスが当事者に対して提供されるが,これはたんに法令に従うことを意味するのではなく,第一線組織や職員が認識した当事者の困難に現在または未来の時点で対応するための手段として,法令にもとづくサービスを利用することを意味している。第二に,出来事を名目にして当事者に関わるという意思決定では,同じく当事者にとっての困難への対応が主に考慮される一方,ここでは法令にもとづくサービスではなく,当事者の生活上に生じる特定の出来事,とくに行政がそれに関与することが正当性をもつような出来事が,当事者に関わる名目として利用される。第三に,組織の持続性を考慮した意思決定として,職員の身の安全を優先するというものがある。これは,クライアントの行動によって職員に過度な負担がかかったり,業務の継続性が損なわれたりする場合に,クライアントを当事者とみなしてその困難に対応することではなく,職員の安全の確保を指向する意思決定である。一方で,第四に,誰が関わるかを押し付けあうという意思決定では,組織の持続性と同時に,当事者にとっての困難への対応も考慮されている。そこでは,組織の資源制約と職員の負担が考慮されることで,当事者の困難への対応を誰が担うのかが組織間・職員間で争われるということが生じる。第五に,予期される批判の回避を優先するという意思決定では,当事者にとっての困難への対応と同時に,第三者による評判も考慮しながら,組織や職員に向けられることが予期される批判を回避した対応をしようとする。第六に,苦情をもとに「ケース」化するという意思決定は,地域住民らからの苦情が一定の数として積み重なった場合に,本人の意向がないにもかかわらず,行政が本人に関わろうとするというものである。
 第5章では,前章で明らかにした意思決定の傾向が,第一線組織や職員による当事者への関わりにどのように影響するのか,その帰結として支援にどのような限界が生じるのかという課題に取り組んだ。同時に,そのような限界に直面するなかで,X市の第一線組織や職員がいかなる対処を講じているのかも検討した。
 まず,サービスの対象者にして関わるという意思決定や,出来事を名目にして関わるという意思決定は,いずれも当事者にとっての困難への対応を指向しているものの,その手段としてはともに限界があることを示した。具体的には,利用できるサービスや,行政が正当に関与できる出来事が見出せないような事例について,X市の第一線組織や職員は,行政が当事者に関わることはできないという判断に至っていた。このような場合には,職員たちが「民活」と呼ぶもの,すなわち民間組織との連携が画策されていた。次に,職員の身の安全を優先するという意思決定が行われるような事例では,本人の「問題」に目が向けられ,当事者にとっての困難に対応することが指向されなくなることを示した。このような事例では,行政にできないことを本人に伝えることで,本人の支援に向かっていけるような状況の構築を試みるという対処が講じられていた。また,誰が関わるかを押し付けあうことの帰結として,当事者の困難に対応するための方法が合意されているにもかかわらず,誰がそれを担うのかの決定が保留される場合があることを示した。さらに,予期される批判の回避を優先する意思決定をとることで,当事者にとっての困難への対応を指向しつつも,当事者にとって「最良」と考えられる対応を選択できなくなる場合があることを明らかにした。このようなときに,X市の第一線組織や職員は,当事者の困難への対応として「最良」の選択肢ではないものの,当事者にとって望ましいと考えられる結果を呼び込むための代替策を模索していた。そして,苦情をもとに「ケース」化することが行われた事例では,職員による対応自体が行き詰まったり,本人との信頼関係を結ぶことが困難になったりする形で,組織や職員による対応が困難になることを指摘した。このような場合に,X市の第一線職員たちは,みずからが所属する組織の名前を伏せて本人を訪問したり,あるいは苦情を寄せてくる地域住民たちと良好な関係を構築したりして,当該事例への対応を進めようと試みていた。
 このように,X市の第一線組織や職員は,個々の事例に即した可能な範囲での対処を講じているものの,支援を遂行するにあたっては,ここに示したようなさまざまな形での限界に直面している。そして,このような限界は,第一線組織や職員の活動において考慮されるべき規範と,そうした規範と結びついた意思決定の傾向があることで生じているということを論じた。
終章では,各章における議論を要約したうえで,本研究の結論を示した。本研究では,支援の役割を期待される第一線組織や職員が,当事者にとっての困難への対応,組織の持続性,第三者による評判という3つの規範と,それと結びついた意思決定の6つの傾向を浮き彫りにした。くわえて,このような規範と意思決定の結びつきが,それぞれ異なる形で,第一線組織や職員による支援に限界をもたらしていることを示した。このように,行政の現場において一定の自律性をもつ組織や職員が,みずからの活動にとって必要不可欠な規範を考慮しながら形成し実践する意思決定のあり方が,彼らに期待されている支援の遂行を困難なものにしている。このような構図を本研究では明らかにしたと結論づけた。くわえて,X市という事例で得られたこれらの知見は,他の事例に対してもある程度有意味なものである可能性が高いことを論じた。
 本研究の学術的な意義は,第一に,支援の活動をめぐる規範と意思決定との結びつき,さらにはそうした結びつきがもたらす支援の困難をひとつのまとまりとして提示したことである。第二に,行政による支援が,どのような場面で,またどのような条件によって困難となるのかを詳らかにしたことで,行政による支援の限界の具体的な様相や,他のセクターの役割がとくに重要性を増すポイントを示したことである。同時に,本研究の知見は,支援をめぐる行政と民間組織との連携や,一定の限界があるなかで支援の役割を期待される第一線組織や職員の実践にも寄与するところがあると主張した。
 今後の課題として,今回提示した規範と意思決定の傾向が,第一線組織や職員の活動において見られる頻度や分布について,事例間比較や計量的な研究によって明らかにしていく必要がある。くわえて,既存研究で指摘されながらも今回の調査では見られなかった行政の諸特徴を,本研究で提示した規範と意思決定との関係のなかに位置づけていく試みも必要である。さらに,本研究で浮き彫りにした3つの規範の歴史的・制度的な基盤について明らかにしていくことも,今後検討すべき重要な課題であると指摘した。

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