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博士論文要旨

論文題目:焼跡世界と政治的なもの ―第二次世界大戦直後の日本列島諸都市を対象とする社会史的考察―
著者:黒岩 漠 (KUROIWA, Baku)
博士号取得年月日:2021年3月19日

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諸言
序章 戦後史の理念と焼跡世界
第一節 戦後の概念
第二節 歴史のためのいくつかの断章
第三節 焼跡世界
第一章 浮浪児
第二章 闇市
第三章 パンパン
第四章 第三国人
第五章 死者
第六章 敗残兵
第七章 カミネス
終章 焼跡世界と政治的なもの
 第一節 焼跡世界における〈政治的なもの〉
 第二節 〈政治的なもの〉のなかの焼跡世界
引用文献

 第二次世界大戦直後の日本列島には、戦争とその敗戦の結果、国家が一時的に没落し、社会構造が崩壊しているという特異な状況が発生した。本論文は、この日本列島諸都市に現れた焼跡の時代を舞台に、国家の没落という特有の状態に焦点を当て、またその最も際立った特徴を帯びた諸形象――浮浪児、パンパンと呼ばれた娼婦たち、闇市など――を取りあげる。そして、それらを概念的に把握することをとおして、焼跡世界の歴史的かつ理論的な認識を手に入れることを目的とする。特に、その関心を、カール・シュミットやハンナ・アーレントらの仕事以降、哲学や歴史学、政治学、人類学、社会学、文学研究などの各分野で関心を持たれてきた〈政治的なもの〉のあり方へと向けることで、あらゆる政治思想や政治理論の土台となってきた人間学的要素、その焼跡・闇市の世界における特有の形態を論じる。そうして、焼跡世界における〈政治的なもの〉というテーマのもとで考察されるのは、ホッブズ的な自然状態の歴史化、焼跡世界特有の〈剥き出しの生〉のあり方、あるいは自由主義的なものの特有の現出といった問題である。
 序章「戦後史の理念と焼跡世界」では、それぞれ異なる必要に基づく三つの考察が、それぞれの節に対応して試みられる。第一節「戦後の概念」では、「戦後」という概念そのものが考察の対象となる。終戦直後の焼跡世界は、いくつかの優れた例外を除いて、ほとんどの場合は長く続く「戦後」という時間の起点として描かれてきた。しかし、まさにそのような枠組みこそが焼跡世界にあった特有の趨勢を、その特有性のもとで取りあげることを困難にしてきたのである。したがって、この「戦後」という概念自体を別様なものへと切り替えることが、焼跡世界の考察の前段階として試みられる。具体的には、「戦後」を一定の期間を指す概念ではなく、個別なものの総体として認識するための概念操作が試みられる。第二節「歴史のためのいくつかの断章」では、このような歴史的考察を可能とするための方法が歴史論として考察される。現在の日本社会の歴史学界においてなお支配的な実証主義の思考方法と叙述方法では、既存の「戦後」という概念への批判は期待しがたく、また社会史的考察として十分なものにはならない。代わりに本節では、歴史家における理論のあり方や、具体と事例という二つの歴史形式などについて語られ、それをとおして個別の「戦後」を、特には焼跡世界を論じるための、歴史論としての用意がなされる。以上のように、ここまでの二節は、戦後史という概念が要求する戦後および歴史についての考察であって、焼跡世界そのものを直接に論じたものではない。それに対して第三節「焼跡世界」では、焼跡世界における〈政治的なもの〉の概念に関する考察がなされる。そこでは焼跡世界における〈政治的なもの〉が、特に藤田省三による焼跡世界をホッブズ的自然状態として考察したテクストを起点として考察される。特に、ここでホッブズ的自然状態の概念は、〈法の外〉における政治的契機、〈万人の万人に対する戦争状態〉というヴィジョン、〈人間は人間に対して狼〉であるという獣性表象といった局面をともなうものとして取りあげられ、またそこからカール・シュミットにおける例外状態と対比される没落状態の概念や焼跡世界に現出した特有の〈剥き出しの生〉という観点に補強されることで、ホッブズ的自然状態としての焼跡世界が理論的に考察される。さらにそうした自然状態は、実は近代国家の発達以降において、何らかの理由でその国家が没落した場合にこそ生じるものであることが指摘される。こうして、第二次世界大戦後の焼跡世界は、以上のような理論的かつ歴史的な考察によって、通常の国家のある状態とは異なる政治的契機を抽出可能な対象として提示されるのである。
 以下の各章では、序章で提示した焼跡世界における〈政治的なもの〉の枠組みのなかで、その典型として七つの形象が取りあげられる。この一つひとつの形象のなかで、焼跡世界における〈政治的なもの〉の内容が具体として検討されるのである。
第一章「浮浪児」では、焼跡世界における最も典型的な形象である浮浪児について考察される。家族からの、あるいは国家および法秩序からの〈保護〉が最も必要な存在であるとされる子どもたちが、その〈保護〉から投げ出されて生きるというところに、浮浪児という形象が現れる。しかしその結果、彼らがそこで独自の生存様式を自力で獲得していったこと、また人びとから〈獣〉と見なされ扱われるという受苦の先で、石川淳が小説「焼跡のイエス」で描いたような聖なるものとしてのイメージや、自らを積極的に〈獣〉として表象することで示される自発性と〈力量〉、そして既存の価値を否定し、新たな価値を生成する契機を手に入れていたことが明らかにされる。
 第二章「闇市」では、闇市について行われてきた先行研究の成果を踏まえつつ、特に闇市が公然たる不法性を示す群衆という要素によって構成されているということが指摘され、あわせて闇市における商品が一般的な製品としての性質とは真逆の雑多性を有していたことや、闇市における所有形態の不安定な性質、また闇市を仕切る的屋や愚連隊などの勢力の〈代替国家〉的な性質が論じられる。そうして人びとは、著しい生活物資の窮乏のなかで、たんに闇市を生活のために必要なものとして消極的に使用していただけではなく、むしろ国家への不信感のもとに、そこに積極的な意義を見出していたことが論じられる。公然たる不法性を示す闇市こそが、没落状態における中心的形象であったのである。
 第三章「パンパン」では、パンパンと呼ばれた街娼たちが有していた特異な〈明るさ〉に焦点が当てられる。この〈明るさ〉は、それらの女性たちの多くが受けた性被害・性暴力と両義的な関係を結んでいたと同時に、「自然児」や「野良犬」といった表象と結びついたものでもあった。またこの〈明るさ〉は、周囲から向けられる冷たいまなざしから自らの身を守るという機能を持っており、この〈明るさ〉とともに、彼女たちが自らの性的能力をたんに商品として売るというだけでなく、既存の道徳的価値を反転させ、家父長制的な社会へと対抗する武器を手に入れていたことが論じられる。
 第四章「第三国人」では、この「第三国人」という法的性格とともに社会的、差別的な性格を持った表現が、いかに旧植民地出身者たちを法秩序と〈法の外〉のあいだに宙吊りにするものであったかが論じられる。それとは裏腹に、「解放」後に新たな活動のあり方を模索した朝鮮半島出身者たちから、渋谷の一部地域に「中国租界」をつくろうとした台湾出身者たち、さらには沖縄出身者たちの活動までを視野に入れて、彼らによる闇商売、日本人的屋集団との抗争などにも着目しつつ、彼らが国家的ないしナショナルな単位とは異なる人びとの結びつきへといたる傾向を持っていたことを明らかにする。そうして焼跡世界における「第三国人」という蔑称は、そのカテゴリーの煩雑さを逆手に取るようにして、政治理論上に別の連帯のあり方を、すなわちナショナルなカテゴリーに捉われない、帝国の拡がりに対抗するような人びとの連なりの拡がりを想像することも可能性としては持っている名でもありえたことを指摘する。
 第五章「死者」では、学徒兵として死んだ林尹夫の残した詩の言葉――「お気の毒だが 私はもう/あなた方とは縁なき者なのだ/我らとmitleben(ともに生きる)しうる者は 今年の夏まで/生きぬ者に限られるのだ」――に典型的に表れているように、二〇世紀の二つの世界戦争が露わになった、もはやかつてのように死者と共生することはできないという事態、しかもそのことが死者の側から突きつけられるという事態が考察される。こうなると、死者を死者として祀るいかなる顕彰も、何か白々しいものになるか、かつての失われた関係をあたかも持続しているものとして偽装することで何らかのイデオロギーへと奉仕するだけのものとなってしまう。本章では、第二次世界大戦の死者たちが残したテクストの読解とあわせて、焼跡世界における剥き出しとなった死者の扱いを坂口安吾などのテクストをとおして追うことで、上記の問題を論じる。さらにそこから、靖国神社の問題にまで論を広げつつ、二〇世紀以降の時代における死者の「死後の生」とその政治理論上の問題について示唆する。
 第六章「敗残兵」では、敗戦によって復員した兵士たちのなかでも、戦地から戻ると家も家族もすでになく、食べ物を求めてふらふらと闇市を歩けば、パンパンから「敗残兵!」と罵られる、そのような状況に置かれた者たちを敗残兵と呼び、考察の対象とする。彼らは、しばしば「野良犬」というかたちで表象されたわけであるが、そこでは、一方で虚脱や「未復員」という言葉との結びつきが表現されていると同時に、他方で、たとえば野間宏によって戦時中の「飼い主」であった天皇への反抗可能性が見出されるなど、彼らを動員し、汚辱に塗れた存在にした者への憎悪や怒りという局面も見出されていた。本章では、特に後者の局面を埴谷雄高による「殺せ、というやつを、殺せ」という言葉と接続することで考察する。
 第七章「カミネス」では、徳田球一や宮本顕治といった日本共産党の中心人物や共産主義運動指導者たちとは区別可能な、たとえば一九四六年のメーデーに参加して声をあげたような群衆の形象を取りあげる。彼らは、しばしば反対者からは「アカ」およびその悪影響によって出現した集団として説明され、日本共産党からは潜在的な――というのは、確固たる共産党支持者にするためにはさらなる「指導」が必要であるような――支持者のプールとして理解されたわけだが、そのどちらもが妥当ではない。このような群衆の形象を、元浮浪児によって書かれたある自伝のなかに登場する「カミネス」――「コミュニスト」の意――という言葉を用いて特定し、考察の対象とする。そうして、彼らを媒介とすることで、焼跡世界の社会運動においては必ずしも共産主義や社会主義的ではない勢力との結びつきがあったということ、だからこそ運動を広範に拡大することができたということを指摘し、また運動のために目的的に行使される暴力だけではなく、何らかの目的にとっての手段ではないような暴力、すなわち、「アプレ・ゲール」と呼ばれた退廃的な若者たちと結びつくような暴力もまた運動のなかに混入していたことを示唆する。
 そうして終章「焼跡世界と政治的なもの」では、ここまで考察してきた焼跡世界の〈政治的なもの〉が整理される。第一節「焼跡世界における〈政治的なもの〉」では、焼跡世界の獣性表象が、一方で行政措置において〈獣〉化された人びとを排除する動き――たとえばそれは、「狩り込み」と呼ばれた保護収容である――と連動していたこと、けれども他方で、〈獣〉としてのあり方に新たな価値の生成が託されるものであったことが論じられる。〈獣〉として表象された焼跡世界の典型的形象たちは、まさにホッブズのいう「契約」からあらかじめ排除される存在であり、実際に国家的秩序から抑圧の対象とされる存在であるのだが、そこには国家的秩序の論理とは異なる〈政治的なもの〉の可能性も同時に示されていたのである。たとえばそれは、国家権力によって〈保護〉=〈拘束〉されることの恐怖、およびそのような国家の〈保護〉の圏域の外に生きることの恐怖という、二重の恐怖の克服可能性であり、またそのようなものとして、実定法を自然権、自然法の立場から不断に更新するという前述の藤田の論じた可能性の具体的なあり方であった。第二節「〈政治的なもの〉のなかの焼跡世界」では、そうした焼跡世界の〈政治的なもの〉が自由主義、アナーキズム、ハンナ・アーレントにおける公的領域と自由の問題などと比較される。そうして、焼跡世界における〈政治的なもの〉の決定的な欠陥として持続性の欠如が指摘され、またそれが何らかの新たな秩序を打ち立てるものではない、既存の秩序への否定の力として持っている可能性が論じられる。

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