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博士論文要旨

論文題目:高齢者雇用政策における労働市場のメカニズムに関する研究
著者:鄭 景文 (CHENG CHINGWEN)
博士号取得年月日:2020年3月11日

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本稿の問い
 日本は、1970年に高齢化率7.1%で高齢化社会、1995年に高齢化率14.5%で高齢社会になった。高齢者は急増し、年金受給者は増え続けるのに、保険料を支払う人たちは減るのだから、年金財政の維持は難しくなる。こうした状況を考えると、年金の支給開始年齢の引き上げによる賃金と年金の空白期間を埋めるため、高齢者の雇用延長といった措置は避けられない。

 高齢者の雇用機会はさまざまな政策によって拡大されていたが、90年代までの中心は定年延長であった。特に、定年延長が年金の改正とある程度歩調を合わせて進めていたことに特徴がある。したがって、高齢者雇用政策は、年金財政の問題とも密接に関連している。定年延長を始めとする継続雇用が課題となり、高齢者従業員の企業外への排出をできるだけ遅らせる政策行動が採られている。

 しかしながら、日本には、大企業と中小企業との二重構造的労働市場というものがある。これは大企業において労働力をもっぱら新卒労働市場から調達し、企業内訓練と年功賃金によって従業員の定着をすすめる。また、大企業から中小企業への移動は多くみられるが、逆方向への移動はきわめて少ないことである。

 一方、企業間労働移動は大企業との比較でみると、中小企業では活発に行われている。中小企業は新卒労働市場だけでなく、ほかの企業からの転職者の採用も熟練労働力獲得のルートとしてきわめて重要である。人手不足に対処するために、企業内で高齢労働力を積極的に活用している。また、企業内の雇用延長だけでなく、小規模企業ほど高齢者を中途採用している。若年労働者不足に悩む中小企業では、大企業から排出する高齢の従業員の大きな受け皿として重要な役割を果たしてきた。
 
 そして、2006年4月に、65歳までの雇用確保措置(継続雇用制度の導入や定年年齢の引き上げ、定年制度の廃止など)を企業に義務づける「改正高年齢者雇用安定法」(以下「改正法」と略す)が施行された。「改正法」を実施する以前は、二重構造的労働市場が存在しているうえで、大企業を定年退職した高齢従業員の大部分は中小企業へ移動して従事せざるをえない。中小企業では高齢者が労働力不足の穴埋めとして雇用されているケースが多い。「改正法」が実施された後には、大企業の高齢労働者の労働移動の状況を理解することは、高齢者雇用問題にとって極めて重要なことと思われる。これは、中小企業の人手不足を悪化させる可能性があるからである。

 また、バブル崩壊後の長期経済低迷のなかで、若年失業率の急上昇に伴い、若年の雇用問題にも注目が集まるようになってきた。若年者の失業は、就業意識の変化に主な要因があるのではない。主に、企業の労働需要の軟化のために新卒採用が抑制され、若年者の雇用機会が大幅に減少したことが、若年者の失業情勢悪化の主要な要因と見られる。「改正法」が実施された後には、大企業において高年齢者の継続雇用を促す動きがみられたが、人員削減や若年層雇用抑制の動きの影響も受けていると考えられる。高齢者の雇用政策が対象となる高齢者の雇用に与える影響だけでなく、企業の労働需要構造を通じて若年層にも影響を与える。雇用情勢が厳しさを増しつつある状況の中で、高齢者に対する日本の高齢者雇用政策には、どの程度まで若年の雇用機会を変えることになるかという慎重な検討が必要であろう。

 したがって、本稿では二つの問いを念頭に分析を進める。

 第一は、2006年「改正法」の導入の後に、二重構造的労働市場の中で労働市場にどのような影響を及ぼしたか。特に中小企業の人手不足を悪化するかどうかである。
 
 第二は、高年齢雇用が進む中で、若年雇用が少なくなっているかどうかである。

 本稿の位置づけ

 若い失業者やフリーターの急増が見られ、日本社会における重要な課題として認識されるようになった。いったい、日本における高齢者雇用政策は、若年の雇用機会の変動とどのように関連しあっているのかについては、膨大な研究の蓄積がある。高齢者の雇用延長が企業の若年者雇用の抑制につながるといった「置き換え効果」が多くの実証研究によって確認されている。一方、国際データを比較して高齢者の雇用延長と若年雇用との間にトレードオフ関係がないとの意見もある。ただし、既存研究では、中高年者(50代~)と若年者との関係に焦点が当たることが多かったこともあって、高齢者(60~64歳)に焦点を当てた研究は少ない。また、「改正法」が施行された2006年4月以後の調査に基づく実証研究がほとんどない。

 そして、高年齢者雇用政策がもたらす高齢労働者層の企業規模間移動に焦点を当てた先行研究は見当たらず、「改正法」実施後の労働市場構造の現状と変化を研究・分析すること、とくに継続雇用制度は、大企業と中小企業の二重構造労働市場にどのような影響を与えるのか明らかにされていないことから、検討が必要であろう。

 つまり、本稿のオリジナティーは以下である。

 先行研究では、中高年者(50代~)と若年者との関係に焦点が当たることが多かったが、高齢者(60~64歳)と若年者との関係に焦点を当てた研究は少ない。特に、「改正法」が施行された2006年4月以後の調査に基づく実証研究は見当たらない。また、高齢労働者層の企業規模間移動に焦点を当てた先行研究もない。日本の高齢者雇用政策が若年者の雇用機会に大きな影響を及ぼすか否か?どのような影響を及ぼすか?といった論争化した研究テーマのさらなる検討のために不可欠の論点であるにもかかわらず研究が少ない。したがって、既存研究の不十分であるから、本稿では、2006年4月に実施された「改正法」に焦点を当てて、その政策が労働市場に与えた影響について分析を行なう。分析においては、次の二点に重点を置きたい。

 第一は、二重構造的労働市場が存在していることから、「改正法」を実施する前には、大企業を定年退職した高齢従業員の大部分は中小企業へ移動して、労働力不足の穴埋めとして雇用されているケースが多い。「改正法」の実施は、高齢者の労働市場にどのような影響を及ぼしたか、とくに65歳までの継続雇用制度が、大企業における高齢者移動に与えた影響などについて検討した。

 第二に、政策的に増大させた高年齢者雇用によって若年層の雇用機会が減少することは雇用政策として望ましくない。高齢者の雇用政策がターゲットとなる高齢層に与えた影響だけでなく、企業の労働需要構造に与える効果を通じて他の年齢層の労働者にどのような影響を与えるかという点である。たとえば、「改正法」の実施後に、若年の雇用機会の変動とどのように関連しあっているのかを分析する。そして、高齢者雇用の推進が若年者の採用を抑制するか、という問題を取り上げる。

 本稿の目的は、これまで十分になされていなかった企業規模別の高齢雇用者労働移動の特徴を検討する中で、若年労働者層雇用機会減少させていか明らにすることにある。

 本稿の章立て
 第一章:

 本稿では、 2006年「改正法」が施行されることにより、労働市場にどのような影響があるかを分析する。そして、高齢者の雇用政策は、年金財の問題とも密接に関連している。したがって、 第一章では 、まず第一節で年金制度の創設と改正について触れおくことにする。そして、高齢者雇用政策の展開を概観し、政府の採った高齢者雇用政策の基本戦略を明らかにする。

 政府は1973年に「第二次雇用対策基本計画」で、当時55歳が一般的だった定年年齢を60歳へ延長する政策を打ち出し、高齢者の雇用政策は定年延長が一つの柱となった。1980年代には、定年制度を定めている企業のうち、定年年齢は一般に55歳以下が半数以上を占めていたが、厚生年金の支給開始年齢60歳とのギャップが問題となり、1986年に「高齢者雇用安定法」が施行され、その中で60歳定年が事業主の努力義務となった。

 これによって、企業における60歳定年は政府の強力な指導によって急速に進んでいた。1990年代までに60歳定年制の一般化という政府の目標どおり達成された。しかし、定年を60歳に延長するに伴って、定年前に高齢者を企業外に排出する早期退職制度を導入する企業、あるいは出向、役職定年制度や高年層の賃金減額を行う企業も少なくない。

 1990年代に入って年金支給開始年齢の65歳への引き上げが課題となるなかで60~65歳の雇用対策が重要な政策課題になった。1990年の高年齢者雇用安定法の改正によって、定年後の雇用継続を希望する者に対する65歳までの継続雇用が事業主の努力義務とされた。そして、急速に進展する高齢化社会の中で、公的年金財政の健全性を維持するために、1994年の年金制度改正によって、基礎年金の支給開始年齢が60歳から65歳へ段階的に引き上げられることになった。また、1994年段階では「努力義務」であったのに対し、2004年改正によって「義務規定」に改められたことで、強制力を伴うものとなった。

 1994年に「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」の一部を改正する法律によって、65歳までの継続雇用制度の導入、定年年齢の引き上げ、定年制度の廃止という三つの選択肢がある。継続雇用制度には、再雇用制度と勤務延長制度の2つの制度がある。再雇用制度とは、定年年齢に達した社員を一度退職させ、再び雇用する仕組みであり、勤務延長制度とは、社員が定年年齢を迎えても退職させずに、そのまま引き続き雇用し続ける仕組みである。大企業の場合は、ほとんど再雇用制度のみで、勤務延長制度を持つ企業はわずかである。これは、大企業の賃金制度は年功的であるため、賃金水準から大幅な賃金引き上げをしない再雇用制度を好むと考えられる。すなわち、定年延長のためには、年功賃金体系、退職金制、昇進、配置システムなどの手直しが必要不可欠な前提条件である。

 第二章:

 大企業高齢者の企業規模間移動では、こうした高齢者継続雇用政策が高齢者雇用移動に与える影響を詳しく分析する。本章で用いた「雇用動向調査」は、事業所に関する調査である。「雇用動向調査」の「入職者票」の調査項目は、労働移動過程に関する重要な情報も提供する。これにより、従業員の転職過程と、その従業員の就職先または離職元の企業の特性との関係を調べることも可能となる点で、貴重である。分析の結果により、「改正法」が実施された後には、大企業において高年齢者の継続雇用を促す動きがみられたが、高齢従業員転職の動きの影響も受けていると考えられる。このように「改正法」の実施によって転職入の量と質にはかなり変化がみられる。

 そして、大企業60~64歳層労働者から中小企業へ転職率と中小企業の人手不足との関係を見てみると 、転職率と従業員数判断BSI(「不足気味」-「過剰気味」社数構成比)にはマイナスの関係が観察される。すなわち、大企業高齢労働者から300人未満中 小企業への 転職率が低ければ、中小企業の人手不足感が強くなることがわかる。このような高齢労働者規模間移動の変化は、中小企業人手不足にも大き影響を及ぼさずにおかない。つまり、「改正法」を実施する後には、高齢者の継続雇用が大きく進展している中で、大企業60~64歳層労働者の下向移動が大幅に減少して、中小企業の人手不足感も強まっている。

 第三章:

 バブル崩壊後の長期経済低迷のなかで、若年失業率の急上昇に伴い、若年の雇用問題にも注目が集まるようになってきた。一方、2006年4月施行の「改正法」により、60~64歳の失業率が他世代に比べて大きく低下している。したがって 、高齢者雇用政策の改正につれて、若年の雇用機会の変動とどよう関連しあっているかを分析する必要がある。

 高齢者継続雇用と若年失業の因果関係では、 既存研究を概観した上で、「労働力調査」(総理府統計局)の基本集計データを用いて、「改正法」の施行前後における若年者の就業を観察し、高齢者雇用の拡大の状況を調べるとともに、若年者失業率の動向とその要因を探る。その中で、特に高齢者雇用政策がどの程度若年者失業に影響を与えたかを分析する。

 分析の結果により、「改正法」が実施するかによらず、若年層雇用率の変化と60~64層雇用率の変化との相関関係を調べてみると、両者の間には明らかなマイナスの関係を観察することができる。つまり、企業内の「置き換え効果」が存在するといえる。そして、「改正法」の実施によって、大企業のほうが若年層雇用と60歳代前半層雇用の置き換え効果を増大した。いいかえると、高齢者雇用の増加率が高いほど、若年層雇用増加率は低くなっている。とくに、大企業において、高齢者の雇用確保と若年層雇用のトレードオフ関係が強いといえる。一方、中小企業は、人手不足感が強まっているため、若年層雇用が敏感に変動するわけではない。

 本稿の結論

 急速に進展する高齢化社会のなかで、社会保障財政の収支悪化が深刻な問題となっている。政府は健康で働く意欲のある高齢者の就業率が高まれば、それだけ引退世代に比べた勤労世代の人口バランスが回復し、高齢化の負担は軽減されると考えられる。つまり、働く意思と能力をもつ高齢者をできるかぎり労働市場にとどめることが、高齢化社会への基本的な対応となる。

 このための具体策は、公的年金支給開始年齢の引上げスケジュールに合わせた継続雇用制度の段階的導入である。そして、2004年6月に高年齢者雇用安定法の改正が行われ、2006年度から、定年制の廃止か、年金支給年齢にあわせた定年の65歳への引き上げ、または希望する者全員の65歳までの継続雇用制度の導入が義務化された。

 日本の高齢者労働力率は世界でもきわめて高い水準にある。日本の高齢者の高い就業意欲に応じた就業機会としては、日本既婚女性の就業率が、欧米諸国と比べて低いので、高齢者の就業機会を生み出される。また、二重構造的労働市場が存在しているうえで、大企業を定年退職した高齢従業員の大部分は人手不足の中小企業に移動することと関連している。そして、本稿の分析によると、以下のような結論と政策的含意が得られた。

 本稿 の分析により得られた結論:

 本研究の分析により、2006年以降には、「改正法」施行の結果で大企業を定年退職した高齢従業員は中小企業へ移動するケースが大幅な減少となった。これに対して、大企業へ移動する高齢転職者が大幅に増加した。

 そのほか、高齢者の雇用延長は、若年者雇用を抑制する「置き換え効果」の可能性が確認できた。とくに、2006年以降では、大企業において、高齢者の雇用確保と若年者採用の置き換え関係が一段と高くなる可能性があることも明らかになった。つまり、規模の大きい企業ほど、若年者採用の抑制傾向が鮮明である。

 本稿の結論から得れた政策的含意 :

 高齢化社会になると、年金財政を維持するために高齢者の雇用延長を求めることは避けられない。しかし、高齢者雇用制度によって継続雇用が義務付けられたが、必ずしも高齢者を活用できていない。そして、大企業における高齢者の継続雇用が大きく進展している中で、中小企業の人手不足感が強まっている。また、大企業までも高齢者を抱えることになれば、若年雇用の減少にも影響する。つまり、「改正法」が実施された後には、高齢者の雇用政策が対象となる高齢者に与える影響だけでなく、企業の労働需要構造を通じて若年層にも影響を与える。もちろん、政策的に増大させた高年齢者雇用により、若年層の雇用機会が減少することは雇用政策として望ましくない。

 2006年4月に実施された「改正法」により、企業が高年齢者を65歳まで雇用する義務を負い、そして雇用情勢が厳しさを増しつつある状況の中で、労働市場に与える影響など、様々な問題があり、それらへの対応も重要な課題となるべきである。今後も低成長経済が続くとみられること、労働力供給が不足することは必ずしも言えない。今後さらに年金の受給開始年齢が70歳に引き上げられる可能性がある。定年と年金支給を切れ目なく接続させることは政策課題として合理的であるが、それ以上の高齢者雇用促進は若年者の雇用に注意しつつ慎重でなければならない。

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