博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:韓国政府樹立後の反共活動と国民保導連盟
著者:崔 仁鐵 (CHOI, Inchul)
博士号取得年月日:2020年3月19日

→審査要旨へ

 序章
第一節 問題意識と研究テーマ
第二節 先行研究の整理
(1)反共活動研究
(2)国家保安法研究
(3)国民保導連盟研究
第三節 本稿の意義及び独創性
第四節 各章の構成
第五節 史料

 第一章 国家保安法制定以降の反共活動の実態
はじめに
第一節 国家保安法第2次改正前の「求刑標準」と「左翼の解釈」
第二節 大韓反共総連盟
第三節 地方行政組織による反共活動 -左翼、不純公務員の取り締まり-
おわりに

 第二章 国民保導連盟結成の社会的背景と展開過程
はじめに
第一節 国民保導連盟の歴史的起源
第二節 国民保導連盟結成の社会的背景及び性格
第三節 国民保導連盟結成の展開過程
第四節 加入対象
おわりに

 第三章 国民保導連盟の転向政策と宣伝活動
はじめに
第一節 転向者募集と包摂
第二節 保連員を対象とした活動
第三節 文化活動を利用した反共宣伝
おわりに

 第四章 国民保導連盟地方組織の幹部構成について― 慶南・釜山保連の事例を中心に―
はじめに
第一節 慶南保連の設立及び構成員
第二節 釜山保連の結成及び構成員
おわりに

 第五章 南労党の国民保導連盟及び反共活動への対応
はじめに
第一節 南労党の武装対応
(1)武装闘争の展開
(2)武装闘争に対する韓国の対応
第二節 南労党の国民保導連盟への対応
おわりに
 
 第六章 国民保導連盟事件の展開
はじめに
第一節 予備検束
第二節 分類基準
第三節 集団殺害
おわりに

 終章
はじめに
第一節 各章のまとめ
第二節 韓国における反共主義
(1)韓国政府樹立後における保連の意味
(2)地域保連の分析から見た意味
(3)国保法と1948年から1950年までの韓国における反共主義
(4)韓国における反共主義はどのように捉えるべきなのか
第三節 今後の研究課題と民間人虐殺問題の展望

史料・参考文献
 本稿の目的は、1948年8月15日の大韓民国(以下、「韓国」と略す)政府樹立から朝鮮戦争に至るまでの時期を対象として、反共活動の実態を解明することである。具体的には、1948年12月に制定された国家保安法(以下、「国保法」と略す)及び1949年4月に設立された国民保導連盟(以下、「保連」と略す)の活動に関わる反共活動を検討するものである。
 韓国では、植民地からの解放後まもなく、米軍政による左翼弾圧が左右の対立を激化させた。1946年3月、朝鮮半島の臨時政府樹立を支援し、分断された南と北の諸問題を解決するために米・ソ共同委員会が構成された。しかし、これが決裂することによって、南北分断は一層固定化されることになる。また1948年4月の済州4・3事件や同年10月の麗水・順天事件(以下、「麗順事件」と略す)は、李承晩政権に大きな衝撃を与え、左翼勢力の除去を目的とする国保法を制定するきっかけとなった。国保法の制定を契機として、韓国における反共活動は翌年の1949年以降、本格化していく。 さらに、国保法により大量に生み出された「左翼犯」を転向させ、保護・指導するという趣旨の下、国民の思想統制という目的で1949年4月20日に保連が結成される。しかし、保連に加入した保連盟員(以下、「保連員」と略す)は朝鮮戦争の勃発直後から召集・拘禁されたうえで、1950年6月末から9月にかけて軍隊・警察によって全国各地で大量虐殺された。これを国民保導連盟事件(以下、「保連事件」と略す)という。
 1948年以降の韓国の反共主義の特徴は、共産主義だけでなく、共産主義と関連があるという疑いだけで多くの学問·思想が合理的論議の対象から排除されたということである。さらに、国保法は共産主義の思想を持っているというだけで、逮捕·拘禁を可能とする役割を果たした。これらの反共主義によって、解放後において米軍政統治の影響で行われた左翼弾圧とは異なり、共産主義思想が韓国で犯罪化され、「悪」あるいは「不純な思想」として厳しく取り締まられたのである。韓国における反共主義は、左翼に対して肯定的な内容やイメージを持たず、否定そのものを目的とした。日常的な反共主義によって形成された共産主義に対する否定的認識と社会的抑圧体制のような環境があったからこそ、済州4・3事件や麗順事件、保連事件が引き起こされることになったのであろう。
 以上の問題意識を受け、本稿では1948年12月の国保法制定から朝鮮戦争に至るまでの反共活動及びその実態をより詳細に解明する。そのための一つの視角として、李承晩政権期の左翼犯または共産主義者を善導・転向させるために作られた保連を中心に、その活動に関わる反共活動を検討する。
 第一章では韓国政府樹立後から朝鮮戦争後までの反共活動について考察した。具体的には、左翼抹殺の法的制度として制定された国保法の運用と大韓反共総連盟(以下、「総連盟」と略す)の性格と諸活動、そして地方における反共活動の動きを検討した。検察は国保法を運用するうえで「首魁」「幹部」などと定義づけて処罰の対象を具体化させると同時に、これによる「求刑標準」も作った。「求刑標準」は国保法が定めた最低量刑を上回る厳しいものだった。
 総連盟は秘密警察の役割を担い、左翼に対する情報収集や、工作を中心とする攻勢を行なった。政府はこの総連盟の活動を積極的に支援した。具体的な支援の形は明らかではないが、「反共運動展開要領」から、ある程度その活動の性格を推測できる。同要領によると総連盟は通常の右翼団体とは異なり、公開的組織を構成しないことを前提に、警察を管轄する内務部と軍隊を管轄する国防部と協議の上で組織されたという。少なくとも総連盟は、軍隊の特徴である武力使用と警察の役割である治安を担当する活動を、非公開で担っていたと推察される。
 一方、軍隊の内部や公務員に対する反共活動も進められていた。まず、軍隊内の大規模越北事件以降、軍内部でも不穏思想所持者などを探し出す努力がなされた。また、左翼系が公務員を利用して韓国政府内部の情報を収集していると韓国政府は判断し、公務員に対する取り締まりも強く進められた。そして、その取り締まりの対象や判断の基準は、非常に恣意的なものであった。左翼活動の経歴がある教師の場合、学校長名義で作成された「公務員思想転換証明書」を当該地域の警察署長に提出しなければならなかったのである。
 第二章では、思想転向団体である保連の結成背景と運営及び地方保連の加入時期・加入規定を検討した。また、保連の歴史的起源と、その運営に深く関与した上層部の解放前後の経歴についても検討した。
まず、保連は共産主義者を転向させ、彼らを「保護・善導」するという趣旨で作られた左翼転向者団体だった。保連は植民地期朝鮮の転向団体である「大和塾」をモデルとして作られたとされる。また、保連の設立や運営に深く関わった人々は植民地の警察と検察の出身だった。この中には植民地警務局の保安課に勤め、植民地期の思想統制に関与した人物も含まれていた。
 国保法に違反した者の中で、転向可能性のある者を刑の宣告猶予とともに思想転向団体に加入させ、反共国民に育成しようという呉制道検事の提案に基づき、内務·法務·国防部など政府関係機関長との話し合いのうえで、保連が組織されたのである。結成当時、保連は対外的に左翼転向者に対する保導を結成目的として掲げていた。しかし事実上、保連は左翼転向者を保導するよりも、転向者が提出した「良心書」をもとに左翼勢力を殲滅するのに一次的な目的を置いていた。
 保連の地方支部について見ると、まず1949年11月中に道保連が結成された。さらに、1949年12月から翌年1月までに道傘下の市・郡の保連が結成された。保連結成初期の保連加入対象者の多くは、南朝鮮労働党(以下、「南労党」と略す)の党員と南労党傘下団体の構成員だった。しかし、地方支部が結成されてからは南労党員と南労党傘下団体だけでなく、加入対象の範囲が拡大された。地域によっては警察や右翼青年団の私的感情によって強制加入させられるケースなど、割り当て式の加入も行われた。
 保連員らには「国民保導連盟証」が発行された。保連員は国民保導連盟証を常時所持しなければならず、身分証の役割をした。また、居住地の移転や居住地から遠距離への移動は、管轄警察署の許可を受けなければならず、居住·移転の権利が制限された。
 第三章では、保連の活動について検討した。具体的には、保連員を動員した大衆的反共宣伝活動と芸術·文化活動による反共活動、さらに転向者を動員した座談会と講演会などを分析した。
 保連は各種の活動を通じて転向者を増やす努力をした。まず、保連は左翼活動経歴のある人々対象とし、「自首期間」及び「転向者包摂週間」を設けて、保連への転向を呼び掛けた。そして、転向した保連員を対象とした召集訓練を実施した。警察は保連に加入した者を教育など様々な理由を挙げて抜打ちで召集した。この召集に応じない保連員は監視の対象となった。
 また、保連では「講演会」・「座談会」・「大会」を通じて反共宣伝活動を行った。まず、講演会では、映画観覧、演劇公演などを行って時局状況を伝えるなど、反共宣伝がおこなわれた。主たる対象は保連員であるが、同時に一般大衆に対しても開かれる場合があった。座談会は、保連員が転向の経験などを語り合う形で行われた。座談会の主な内容は過去を後悔して反省するという内容で、宣伝材料として利用された。大会は各地方で反共糾弾大会や反共大会·雄弁大会などが行われ、その後は街頭行進をする形で行われた。
そして、保連中央では転向した文化人を中心とした文学、音楽、映画、 演劇、美術などの文化活動を通じた宣伝活動を展開した。代表的な例は、「第1回国民芸術祭展」である。これは、文化人の活動を通じて一般人の意識転換をねらったものである。また、地方では体育と音楽活動、そして地域によっては軍隊を訪問して慰問公演をする場合もあった。このような保連の宣伝活動は、日常的に反共主義の環境を構築することにより、一般大衆に反共思想を常識の一部として植え付けるものだった。
 第四章では、慶南・釜山保連幹部構成員の分析から、地方保連組織の具体像の究明を試みた。慶南保連は1949年11月20日結成された。慶南保連の名誉理事長や理事長といった組織のトップを警察官が占めていた。特に慶南保連の名誉理事長である崔喆龍は、解放前は独立運動に関わっていたが、解放後は警察官として活動した。そして、慶南保連の理事長である辛泳柱は植民地期と解放後に警察官として活動し、共産主義が危険だと認識していた人物である。
 また、慶南・釜山保連地方組織の幹事長以下幹部らは、植民地時代から独立運動や社会運動を行ってきた人物だった。そして、植民地からの解放後も地域社会で左翼活動を中心とする社会運動を行ってきた人物たちである。特に慶南保連の幹事長盧百容は慶南道人民委員会副委員長を歴任するなど、地域社会で影響力のある人物だった。さらに、慶南保連の名誉理事長崔喆龍と盧百容は植民地期に慶南地域でともに社会運動をした人物であったが、解放後は反対の道を歩むことになり、結局、保連事件の加害者と被害者の立場に置かれることになる。
 釜山地域の保連は、1949年12月12日から24日にかけて四つの地域に分けて作られた。まず、東萊保連は1949年12月12日、北釜山・南区・中影島の各保連は1949年12月24日に結成された。釜山地域の保連も慶南保連と同じく理事長は警察が担い、幹事長以下は左翼活動した人物であった。また、北釜山の常任理事朴在元と南区保連の常任理事兼財政部長郭斗金は、植民地朝鮮の高等警察部門で活動した人物であった。地域の著名な左翼運動家を保連に加入させ、社会主義や共産主義を排斥する運動に参加させたことは、残存左翼勢力に対する転向や保連の宣伝効果を高めるものだった。
 第五章では、南労党が保連にどのような対応をしたのかを検討した。具体的には、南労党の命令により保連に偽装転向した党員らがどのような活動をしたのかについて整理した。そして、主要幹部の検挙と逮捕、転向に伴う南労党の闘争方針の変化、及び1949年半ば以降の反共活動と関連付け、南労党の武装闘争について考察した。
 まず、保連の転向活動と南労党ソウル支部の主要幹部の逮捕により、南労党ソウル支部は致命的な打撃を受けた。しかし、南労党は保連に南労党員を偽装転向させ、内部情報を収集した。このようにして収集した内部情報は、左翼活動や武装闘争の参考にした。韓国内での左翼の武装闘争は、1949年6月に南労党と北朝鮮労働党(以下、「北労党」と略す)の統合で誕生した朝鮮労働党の議決と米軍の撤退・「国土完整」の闘争方針の展開と軌を一にしていた。
 1949年上半期には全羅南北道と慶尚南北道の山岳地帯で、地域単位の遊撃隊の闘争が散発的に持続した。しかし、1949年6月以降に武装闘争は爆発的に増えて1949年10月頃には警察署を襲撃するなど、その武装攻勢の度合が絶頂に達することになる。こうした左翼の武装闘争に対抗するために韓国軍は軍首脳が集まり、軍隊・警察が大々的に智異山地域の討伐作戦を実行することを決めた。韓国軍の討伐戦術の核心は、地域住民と武装隊とのつながりを断ち、孤立させることだった。集団部落内に武装隊と内通する者がいる場合は、部落全体に連帯責任を取らせるなど、人民遊撃隊及び地方共産軍と山間僻地の住民との接触を断絶させる作戦を展開した。また、武装集団に食べ物が提供されないように、住民の食糧を韓国軍駐留地に置くなど、食べ物の提供を根本的に遮断した。こうした住民強制疎開作戦によって、1950年3月の時点で武装隊は精神的・肉体的に非常に困難な状況に置かれた。この段階で、韓国における武装勢力としての機能を喪失したのである。
 1950年3月17日には、韓国の左派を実質的に指揮していた金三龍と李舟河が逮捕される。このことは南労党の完全な崩壊を意味するものだった。金三龍と李舟河の逮捕後、南労党から転向者を射殺せよという指令が出ることになる。また、1950年4月には「主要幹部の自首者は無条件処断」とか、「平党員は保導連盟に加入時は、情報源として利用後処断」といった指令が出されたことからもわかるように、金三龍と李舟河の逮捕後の指令は過激化した。そして、主要幹部の逮捕と保連の転向者大量発生によって、1950年4月に「情勢が変わるまで生命だけ維持しろ」という指示がなされるとともに、南労党は完全に崩壊したのである。
 第六章では、保連事件の経緯について検討した。保連事件は朝鮮戦争期における民間人虐殺の中で、単一事件としては最も多くの民間人が虐殺された事件である。朝鮮戦争が勃発すると、李承晩政権は保連員が人民軍に協力する可能性が高いと判断し、軍と警察を動員して保連員を虐殺した。全国各地域で保連員は予備検束された後、処刑対象や釈放対象に分類する段階を経て、集団虐殺が行われたのである。
 1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後、保連員に対する予備検束が行われた。予備検束命令は内務部治安局長が戦争勃発当日、無線電報で送った。通牒の主な内容は「全国要視察人全員を警察が拘禁すること」であった。また、治安局は6月29日「不純分子拘束の件」、6月30日「不純分子拘束処理の件」を各道警察局に通達した。「不純分子拘束処理の件」の内容は、保連員その他の不純分子を拘束し、指示があるまで釈放を禁じるという内容だった。このような通牒によって、各警察署では当該地域の保連員などに対する予備検束が行われることになる。
 予備検束の時期と方式は、地域ごとに異なっていた。ソウル地域の保連員は戦争勃発直後に予備検束された。忠清北道地域でも1950年6月末から検束が始まった。また、全羅北道地域の予備検束時期は少しずつ異なるが、概ね1950年7月上旬からであった。慶尚北道聞慶と尚州地域では7月13〜14日頃、朝鮮戦争中に臨時首都となった釜山地域では1950年7月から9月まで、広範囲にわたる左翼検挙作業が進められた。このように予備検束された保連員は、釈放と処刑の対象として審査・分類された。この審査・分類の基準は全国一律ではなかったが、基本的に甲·乙·丙あるいはA・B・Cに分類された。大部分の地域において、甲とAは処刑対象、乙とBは選別して処刑、丙とCは釈放対象とされた。予備検束された保連員の審査分類基準が明確に確認された済州島においても、分類の基準に恣意的な判断が可能な部分が多かった。また、済州地域は他の地域と違い、Dはもっとも重要な者、Cは重要な者、Bは軽い者、Aはあいまいな者として分類していた。
 以上のように分類された保連員は警察や防諜隊、憲兵によって集団虐殺された。保連員に対する虐殺は地域別に異なる様相を呈していた。このことは、特に人民軍の占領時期と密接な関係がある。人民軍の南下が急速に進むことによって、李承晩政権は予備検束された保連員を一斉に虐殺することになる。虐殺は1950年6月末から9月まで全国にわたってほとんどの地域で発生した。また、虐殺の遂行は初期から軍や警察の合同作戦で行われており、虐殺に主導的権限を持っていたのは憲兵や防諜隊などの軍組織だった。
 以上、各章の内容を踏まえ、終章では結論を述べた。1948年の政府樹立後から1950年の朝鮮戦争までの時期は、韓国の反共主義の形成において極めて重要な時期である。済州4・3事件は、李承晩政権に共産主義者に対する警戒心を呼び起こさせることとなり、この事件と関連して発生した麗順事件は、韓国での反共主義を爆発させるきっかけとなった。また、李承晩政権は麗順事件を強力な反共体制構築の機会へと転換させるため、国保法を制定し、共産主義者を弾圧した。韓国における反共活動の軸であり、分断を法的に規定する国保法は、強力な処罰規定で共産主義思想を弾圧する重要な法的道具としての役割を果たした。
 また、国保法の制定によって大量の左翼犯が発生したことに対応して、左翼犯を転向させ、「保護・善導」していくことを目標として保連を結成した。しかし、保連は転向者を「保護・善導」する以上に、保連に加入した転向者の良心書を通じて、左翼団体に加入した経緯と仲間の行方を把握することに重きがおいていた。つまり、左翼に対する組織的な検挙と強制的な転向を含めた、積極的な転向政策を通じて残存左翼勢力を探し出す左翼弾圧団体だったのである。なお、保連は民衆統制の役割も担っていた。地方保連が結成されるにつれ、加入対象も広がっていった。割り当て式や私的感情による強制加入が行われ、左翼勢力に資金を提供した者や左翼陣営の人物をかくまった者も加入対象となった。そして、一般大衆を対象とする保連の宣伝活動を通じて、日常の中で全国民の反共化を図った。
 さらに、本稿では保連をめぐる植民地支配との連続性と、地域の左翼有力者を利用した反共活動に関する議論を深めることができた。慶南保連の幹事長盧百容、事務局長姜大洪のような人物は、植民地期に社会運動及び独立運動をした。また、釜山の各地域の保連の幹事長も植民地期に社会活動及び共産主義運動をした地域の有力者たちだった。また、実質的に保連の運営・統制に関わった者には植民地期の警察出身者が多く含まれており、これらの人々は保連事件に深く関わっていた。その中で辛泳柱慶南警察局査察課長は、朝鮮戦争後に国会議員を歴任するなど地域有力者として活動した。保連事件に深く関わった反共主義を基盤とする勢力が、反共主義を通じて地域社会における権力を一層固めることになったのである。
 それでは、南労党の立場から見た保連の意味はいかなるものだったのだろうか。当然、南労党の立場では左翼弾圧団体として認識していた。しかし、南労党の指令文から検討した保連への対応からわかるように、左翼側はそれなりの戦略を立て、保連の中で闘争活動を続けていた。南労党の立場からは、保連は自分の身分を隠して情報を入手するなど、南労党員の意思疎通の機能を持っていたという点も指摘しておきたい。反共だけが通用していた当時の韓国社会で、左翼の立場では保連が左翼の隠れ家の役割をしたのである。
 以上のように、韓国における反共主義は、強力な物理力による暴力的弾圧に依存して維持されてきた。結局、反共主義を基盤にした独裁支配体制の結果は、民主主義の破壊と民間人虐殺のような悲惨な結果を生んだ。また、韓国では共産主義やこれに関連する人々を国保法によって処罰したり、共産主義に対する否定的イメージを絶えず宣伝することによって、「アカ」の烙印を押される有形無形の対象に関する合理的な議論を不可能にした。これによって共産主義に対する否定的な認識は一層深まり、独裁体制も堅固になるという悪循環が起きたと言えよう。
 このように敵対的対決体制に基づいた偏狭な反共主義は、韓国で長年に渡って歪んだ社会的抑圧体制が維持・正当化されてきたことからもわかるように、韓国現代史を規定する核心的要素であることを示している。

このページの一番上へ