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博士論文要旨

論文題目:戦後日本の地域文化運動と人びとの意識―国民的歴史学運動の再検討―
著者:高田 雅士 (TAKADA, Masashi)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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1 章構成
 序章 問題の所在と本稿の視角
 第1章 地方における国民的歴史学運動の展開
―民主主義科学者協会地方支部の動向から―
 第2章 地方における国民的歴史学運動指導者の実践
―民主主義科学者協会奈良支部の奥田修三を対象として―
 第3章 地域青年層の戦後意識と国民的歴史学運動
―城南郷土史研究会を対象として―
 第4章 地域における歴史叙述
―1953年の南山城水害・台風13号災害をめぐって―
 第5章 国民的歴史学運動から歴史教育へ
―加藤文三の運動経験と教育実践を対象として―
 第6章 国民的歴史学運動のゆくえ
―地域における運動の継承と発展―
 終 章 総括と展望

2 内容要約
 本論文は、地域における国民的歴史学運動の具体像に即して、戦後の日本、なかでも1950年代前半を中心とした地域文化運動の展開過程、およびそこに参加した人びとの意識について明らかにすることを課題とした。近年、職場や地域でのサークル運動、あるいは生活記録運動などを対象とした文化運動研究が活況を呈している。なかでも1950年代前半をめぐる一連の研究は、1945年8月を始点とする戦後認識の見直しも意図しており、注目される。
 従来、1950年代前半は、占領以後/安保以前、あるいは朝鮮戦争による特需景気と高度成長によって語られ、独自の歴史的な位置づけがされてこなかった。特に文化運動の多くは日本共産党の「50年問題」の影響もあって、その多くが「封印」されてきたといえる。しかし、戦後のひとつの画期である1955年前後の職場や学校、地域でつくられたサークルという小集団の活動に目を向けることで、この時代に人びとの変革のエネルギーが充満していたことに光が当てられつつある。
 それでは、従来なぜ1950年代前半は、独自の意味で対象化されてこなかったのか。そこには、歴史学自身が当時置かれていた事情が大きく影響している。それが国民的歴史学運動である。国民的歴史学運動とは、敗戦直後に石母田正が、民衆自身の手で「村の歴史・工場の歴史」を主体的に書いていくことを呼びかけたことによってはじまった。石母田による呼びかけは、1950年代に入り、民主主義科学者協会(以下、民科)歴史部会や歴史学研究会が積極的に取り上げたことで、歴史学界を中心に大きな盛り上がりをみせることになる。それまでの歴史が国家や偉人を中心に描いてきたことを反省し、民衆、特に女性に焦点を当てた歴史叙述のあり方を模索するとともに、誰が歴史を書く主体であるのかをも問い直す運動であった。しかし、この運動は、日本共産党の政治方針・文化政策の影響も受けていたため、共産党が1955年に開催した第六回全国協議会において、それまでの極左冒険主義を否定したことをきっかけに、この運動も「挫折」し、「傷痕として封印」され、「過去の悪夢として忘却され」たと一般的に理解されている。
 だが、実際のところ国民的歴史学運動は、時代の転換点のなかで繰り返し想起されてきたという過去を有している。むしろ、運動が想起されるなかで、その記憶が変容しつつ、形成されてきたともいえるだろう。運動の記憶が「封印」・「忘却」されてきたという理解は、そうしたなかで次第にかたちづくられてきたものでもある。とりわけ歴史学のあり方そのものが厳しく問われるようになった1990年代以降はこの運動に対しての関心が特に高まってきている。それは、この運動が、歴史を学ぶことにはどのような意味があるのか、そして歴史を叙述する「私」とはいったい何者であり、誰に向かって何のために歴史を語るのかといった、歴史とは何かを考える上での普遍的な問いを追求していた運動であったからだろう。歴史に向き合う上での立場性が以前にも増して厳しく問われるようになった現在、国民的歴史学運動の目指した理念は、よりアクチュアルな問題として私たちの前に存在している。
 そこで、本論文では、地域における国民的歴史学運動の具体的なありように目を向けることで従来の運動評価の再検討を試み、それをとおして近年急速に研究が進展している文化運動研究のさらなるアップデートを試みた。地域に着目するのは、従来の国民的歴史学運動の語りやイメージが、中央(=東京)の歴史研究者ないし歴史教育者に限定されつつ形成されてきたという側面を脱却するためである。地域に生きる人びとが歴史意識を形成するうえで、国民的歴史学運動の経験はどのような意味を持ったのか。そうしたこれまでほとんど関心が払われてこなかった点を明らかにすることで、国民的歴史学運動の有した意義をあらためて地域や人びとの側からとらえ返すことを課題とした。
 しかしながら、地域における国民的歴史学運動に関する史料は、まとまったかたちで公的な史料所蔵機関などに収められていない。そのため、筆者は、運動当事者たちからの聞き取りを重ねることで、そうした史料的限界を突破することを第一の課題とし、これまで調査を進めてきた。また、運動当事者からの聞き取りを進めるなかで、被調査者との関係性を構築し、個人所蔵の史料の発掘も進めた。具体的には、それぞれの集団が発行した機関誌類や個人の日記、書簡などである。なかでも特筆されるのは、奈良で国民的歴史学運動を指導した奥田修三の自宅に残されている「戦後初期奈良民主主義文化運動史資料」(以下、「奈良文化運動史資料」)と奥田本人の書き残した日記である。前者は、地域における民主主義文化運動やそのなかでの国民的歴史学運動の具体的な展開過程を跡付けることを可能にし、後者は、そうした運動を指導した人物の具体的な動きや思想を明らかにすることができる史料といえる。
 以上のような調査によって発掘された史料や当事者からの聞き取り記録を活用することによって、文化運動研究および国民的歴史学運動研究の課題を克服することを目指した。
 第1章では、「奈良文化運動史資料」を中心的に活用することで、地方における国民的歴史学運動の展開過程を概観した。「奈良文化運動史資料」には、奥田の個人史料や奈良における民主主義文化運動関係の史料のみならず、各民科地方支部や地域サークルの機関誌類も大量に所蔵されており、こうした史料を活用することによって、民科本部-民科地方支部-地域の関係性について明らかにした。従来の民科に関する研究は、本部や東京を拠点とした各部会の動向が検討の中心とされており、各地方支部のあり方についてはほとんど等閑に付されてきたといえる。しかしながら、ここでの検討によって、それぞれの地方支部では、担い手の関心にあわせて運動が展開されていたこと、あるいは民科本部の思惑が地方支部、あるいは地方支部と接点をもった地域の人びとにストレートに反映されていたわけではなかったことを明らかにした。
 第2章では、民科奈良支部で国民的歴史学運動を指導した奥田修三を取り上げ、これまでの研究で対象とされてきた東京・京都とは異なる地域で展開された運動の具体像を明らかにした。敗戦後の民主主義文化運動の蓄積から国民的歴史学運動へと至った民科奈良支部では、奥田をリーダーとしながら、奈良学芸大学の学生らがその運動を支え、活発な取り組みを進めた。しかし、民科奈良支部による運動は、地域の人びとの意識や生活実態をうまく汲み取ることができず、国民的歴史学運動の理念が地域に根づくことはなかった。研究者や学生自身の問題意識が直接的に反映された運動方針は、地域の人びとから必ずしも受け入れられるものではなかったのである。その背景には、奥田の当時置かれていた状況や、「時代的切迫感」があった。研究者や学生の構想した地域社会のあり方と、地域に生きる人びとの実感にもとづく生活者感覚との間には隔たりがあり、その差が埋まらないことには、運動が地域に根づくことも困難であった。
 第3章では、京都府南山城地域に存在する城南郷土史研究会を取り上げ、歴史研究者ではない人びとの視点から国民的歴史学運動のあり方を検討した。従来の国民的歴史学運動像における地域は、研究者や学生によって工作される対象としてのみ描かれてきた。しかし、城南郷土史研究会結成の背景には、「逆コース」的社会状況に抵抗しようとする地域青年層の運動が展開されていたのであり、国民的歴史学運動の理念を主体的に受け入れることができる基盤が存在していた。その際重要なのは、城南郷土史研究会のメンバーたちが、具体的な史料にもとづきながら山城国一揆の共同研究などを進めていった点である。人びとへの啓蒙を意識するあまり、史料に即した歴史叙述がなおざりにされたといわれる国民的歴史学運動ではあるが、城南郷土史研究会のような運動のあり方も存在したのである。
 第4章では、国民的歴史学運動の地域的展開のなかで生み出された「記録」に注目し、その歴史叙述のありようを検討した。具体的には、1953年に発生した南山城水害・台風13号災害をめぐって城南郷土史研究会が作成した報告書の分析である。この報告書は、会のメンバーが救援・復興活動に従事するなかで作成したものであったが、それは地域青年層が現実の事態に介入しながら歴史を書いていく試みであり、国民的歴史学運動のなかで生み出された水害「記録」でもあった。城南郷土史研究会は自らの問題関心や地域的課題にもとづきながら、研究を進めていくことを活動の中心に置いていたのであり、そうした活動の理念を有していたからこそ、山城国一揆の共同研究や南山城水害の調査・研究が地域住民に歓迎されることになった。また、地域における歴史叙述のありようをより掘り下げて分析するため、国民的歴史学運動の影響からは一定の距離を置いて作成された災害に関する「記録」も同時に取り上げ検討を加えた。
 第5章では、学生時代に国民的歴史学運動に参加し、その後は東京都江東区の中学校教員となった加藤文三を取り上げ、国民的歴史学運動体験者がその経験をどのように歴史教育へと継承していったのかに焦点を当てた。教員となって以降の加藤は、国民的歴史学運動での経験を活かし、「母の歴史」や「元八幡」という教育実践を展開した。しかし、学校教育への国家介入の強まりや、社会が高度成長へと突入していくことにともなう地域変容、あるいはそこに暮らす生徒たちの質の変化は、そうした加藤の教育実践を次第に困難にしていった。だが、1973年に、国民的歴史学運動に対する「挫折感」などなかったと回顧したように、一貫して運動での経験をどのように教育実践に活かしていくかを追求したという点において、歴史学界とは異なる歩みをたどったといえる。また、そうした加藤による問題提起を歴史学の側から受けとめた遠山茂樹の存在に注目することで、国民的歴史学運動の「挫折」以降の歴史学と歴史教育の関係についても検討をおこなった。
 第6章では、それまでの章で取り上げてきた人物や集団の「その後」の歩みを検討することで、国民的歴史学運動の経験がのちに地域でどのように継承されていったのかを明らかにした。具体的には、奥田修三と城南郷土史研究会の1970年代以降の活動への注目である。当該期の京都府南山城地域では、宅地開発が進むなかで文化財の大量破壊が進行した。そうした状況は、文化財保存運動の活況をもたらすことになり、その影響を受けるなかで城南郷土史研究会は活動を再開することとなった。会のメンバーは、地域に存在したいくつもの住民運動団体にそれぞれ関与し、1985年には山城国一揆500年に関するさまざまなイベントを開催することになる。そこには、かつて民科奈良支部で国民的歴史学運動を進めた奥田修三の姿もあった。
 以上の検討から、国民的歴史学運動の広がりが研究者や学生のみにとどまり限定的であったというこれまでの運動イメージは、一面的であったことを明らかにすることができた。国民的歴史学運動は、まさに地域における文化運動の広がりのなかで展開されていたのである。職場や地域に生きる人びと、あるいはそうした人びとと接点を有した知識人は、国民的歴史学運動を実践していくなかで、「私」自身の歴史を発見しただけでなく、「私」が、そして「私」たちが、これからの歴史を創っていくのだという意識を次第に獲得していった。そこに国民的歴史学運動の有した意義が存在したといえる。国民的歴史学運動という文化運動のなかで、人びとは「書く主体」として成長しただけでなく、自分たちの経験を「書く」ことをとおして歴史化させていったのであり、それが1950年代前半という時代の固有性といえるものであった。さらに、そうした経験は1950年代前半をもって潰えてしまうのではなく、かたちを変えながらも、その後の地域社会や人びとのなかで生き続けたのである。

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