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博士論文要旨

論文題目:冷戦期東アジア情勢の変動と戦後日本の出入国管理-境界管理のはざま-
著者:李 英美 (RI, Yongmi)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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 本論文は、第二次世界大戦後の冷戦と脱植民地化という国際環境のもとで形成された戦後日本の出入国管理政策が、とりわけ地域社会においてどのようなかたちで執行され、国民・国籍・人の移動をめぐる「境界」を立ち上げてきたのかを考察するものである。
 第二次世界大戦の終結、日本の敗戦と帝国の解体は、領土の再編に伴う膨大な人の移動をもたらし、日本の「戦後」社会に生きる旧植民地出身者などの東アジア地域に出自を持つ人々の法的・社会的地位にも根本的な変容をもたらし、居住・生活領域に様々な亀裂を生みだした。日本は連合国軍による統制のもとで、復員、引揚げ、残留、送還などの膨大な人流に対処するという「戦後」に出現した出入国管理の課題に直面した。
 国家が人の移動を管理することは、単に物理的な人の移動を律することに留まらず、日本の場合においても大日本帝国による植民地支配のなかで、人の移動の管理とは、宗主国と植民地に住む人びとの「帝国臣民」としての地位とその義務の所在を明らかにし、身分関係を識別する植民地政策の重要な一角を占めた。帝国解体に伴う国境、領土、法域の変容と冷戦がもたらした東アジア地域の新たな国際環境、ポツダム宣言受諾後の日本にとって、宗主国と植民地の離断にともなう旧植民地出身者の法的地位の再定位は、出入国管理の出発点となった。それは植民地併合以降「帝国臣民」の名のもとに「日本人」として統治してきた朝鮮半島および台湾出身者を「日本人」から除外し、新たに「外国人」として管理・隔離することの開始にほかならなかった。
 ただし旧宗主国と旧植民地のあいだの人びとの多重的な結びつきは、敗戦と帝国解体によって即時解消されるわけではなく、日本国内の旧植民地出身者を「外国人」として区分管理する政策は、必然として旧植民地に居住していた日本出身者の受け入れ、すなわち引揚げ・帰還してくる者たちを「日本人」として取り込もうとするときの問題と表裏一体であった。戦後日本の出入国管理はこの意味において、複雑な様相を呈すことになるのである。このような状況のなかで、出入国管理を通じて人びとの帰属・国籍を再配置する試み、実践はどのような変遷をたどっていったのか。本論文では、冷戦と脱植民地化という国際環境のもとで、植民地/日本帝国時代の経験がもたらした分断と管理の問題が、戦後日本において「日本人」と「外国人」の境界を再定位する動きのなかにどのように立ち現れたのかという問いを焦点として、植民地以後・戦後日本の出入国管理政策を考察するものである。
 本論文では、従来の議論において、出入国管理政策の展開を抑圧(支配)と抵抗の二項対立として捉えることで、人びとの帰属やカテゴリーを固定的で自明のものとしてみなしてきた傾向に対して、1950年代初頭の国籍変動期における人々の国籍や帰属には、帝国・植民地主義の痕跡と共に、常に不安定さや曖昧さが内在していた点に注目した。国籍変動に伴う境界の曖昧さが制度の断面から立ち現れる「境界」管理の現場にこそ、旧植民地出身者を包摂・排除する論理が鮮明にあらわれるであろうという研究上の意義を踏まえ、本論文では、戦後日本の出入国管理のプロセスを、法制度の亀裂や矛盾が浮かび上がる「他者」との境界が生成する実務の現場から照射することを試みた。そして戦後日本の出入国管理において、国民・国籍・人の移動をめぐる「境界」が生成する様相を、現場の視点から捉えることに課題を据えた。
 本論文では、出入管理における「境界」の位相を、法的なレベルでの「日本人」と「外国人」との間の分割線としての境界、出入国管理上の地位と収容・送還・釈放などの管理技術との間で生まれる規律や秩序、価値をめぐる境界、そして社会的規範や差別構造に関わる社会の周縁的存在に位置付られる「他者」を生み出す境界の三つの位相から検討を試みた。このような「境界」の位相に応じて、より具体的な事象として、第一に、外国人登録事務の末端を担う市町村役場の役割に焦点をあて、「日本人」と「外国人」を分かつ法的な境界が、実務的につくられる過程に着目した。第二に、「仮放免」や「在留特別許可」などの出入国管理に伴う具体的な管理技術に焦点をあて、旧植民地出身者らが「外国人」として包摂されながらも、他方では「密航者」や「不法入国者」としての烙印を押された人々が、収容・送還・釈放をめぐり序列化する過程に着目した。第三には、出入国管理が創り出す空間・場所を取り囲む地域社会における人々の意識に焦点をあて、「密航者」や不法な人々に対する「まなざし」が生成する過程に着目した。
 以上を踏まえて、各章で論じたことは、まず序章において、問題意識と研究課題、先行研究及び本論文の意義、分析視角と研究方法、そして構成及び史料を提示した。第一章では、1950年代初期の外国人登録行政の実務現場において地方行政が果たした役割に着目して、「日本人」と「外国人」とを分かつ境界が立ち上がる様相を検討した。外国人登録を遂行するにあたり、まずもって末端の吏員らが直面したのは、誰を外国人登録実務上の「外国人」とみなすのかを正確に判断することの困難さであった。第二次大戦後において、日本の旧植民地出身者に対する国籍処理は、1947年の外国人登録令を経て、1952年の対日講和条約を理由に、法務府民事局長通達によって一方的な「日本国籍」のはく奪措置が決定されたことで生じたが、この過程に生まれた矛盾は、そのまま出入国管理行政の現場に投げ込まれていた。そのため、人々の帰属にはそもそも矛盾や曖昧さが内包されており、これを出発点として、1950年代初期の外国人登録業務は始まったのである。このような背景から、実務の現場からみた外国人登録制度とは、登録吏員が自ら出向いて「外国人」を「発見」して、写真を撮り、書類を作成(ときに代筆)することで達成する側面があった。この過程に、実務者らは外国人登録協議会などを組織して、周辺地域が一丸となって業務を遂行する体制を整えていった。また、外国人登録業務の実務要領が幾度となく変更され、統一的な管理体制が構築されていなかった1950年代初期には、現場で下される判断が、ときに中央行政の意図とは合致しないことも多々生じており、必ずしも上意下達式に業務が遂行されていたわけではなかった。むしろ、各現場の下からの疑義照会を経て、法務省が回答をする過程に、新たに統一的な指針が確立する側面があった。こうした実務者らの業務に対する熱意・姿勢は、法務省表彰をつうじて描かれる「模範的」な外国人登録事務従事者像により、さらに強化された。このような過程を経て、1950年代初期の「日本人」と「外国人」の境界は実務上においてつくられていったのである。
 第二章では、「密航者」や「不法入国者」と名指されて入国者収容所に収容された被収容者に対する「釈放」が、出入国管理業務上の「仮放免」や「在留特別許可」の運用といかに結びついていたのかを、釈放活動や更生保護活動の担い手を事例に検討した。講和条約により、外国人登録令(法)のみならず、新たに出入国管理令が適用されることとなった旧植民地出身者らは、引き続き制約された在留上の地位のまま不安定な生活を余儀なくされた。このような脆弱な地位を付与する在留管理制度のもとでは、人々は容易に「密航者・密入国者」や手続き違反者として、「正常/正規」な人の移動・居住者の枠から逸脱する存在になりえた。入国者収容所を中心とする収容・送還・釈放など一連の人流管理の統治技術は、こうした制度の枠組みから逸脱した人々に対してさらなる序列化をもたらした。とりわけ1950年代の日韓会談中断期において、大村収容所から韓国への収容者の送還が現実に困難な状況に陥ったとき、日本政府は、仮放免・在留特別許可を運用して、自らが認定した保護団体を介して、被収容者に対する国内釈放を実施した。政府が業務を一任したのは、旧在朝日本人などの引揚者が牽引した「日韓」親和団体である日韓親和会や日韓文化協会、植民地期に朝鮮人に対する保護事業を展開した人的資源を活かして戦後に設立した善隣厚生会といった戦後日韓関係の構築において政治的摩擦を引き起こさないとみなされた団体であった。収容者の釈放は、このようなネットワーク網が釈放者の身元の「安全」を保証することで、釈放に「治安上」の問題がないことを示すことで達成された。保護事業は、釈放後の就労や生活基盤の確立、在留特別許可の更新手続きなど生活の隅々にまで及び、釈放者の監視役としても機能した。こうした一連の釈放プロセスの構造を踏まえると、1950年代における「釈放」とは、単なる身柄の釈放ではなく、出入国管理上の在留管理制度と密接に結びついた、非正規な移動者に対する統治手段の一つであった。そして、その運用を支えたのは、朝鮮半島を中心とする東アジア国際情勢に大きく規定された政治の原理であった。
 第三章では、国家による「密航者」管理体制の拠点となった入国者収容所を抱えた地域社会のなかで、「密航/密航者」がどのように眼差されていたのかを、児童作文、教育映画を素材に検討した。大村収容所が位置した長崎県大村では、1950年代初期より、生活作文・戦後綴り方教育を背景に、教育の現場において「密航/密航者」が児童作文の題材として登場した。これは当時、日本人漁船員の拿捕をめぐる漁業問題で争点化していた「李ライン」問題を背景としており、一家の大黒柱を失った留守家族の経済苦や、危険な韓国漁船の姿が描かれた。こうした児童作文には、教員による指導の影響が多分に反映されていた。日本教職員組合を筆頭に、戦後民主主義・平和主義的な教育理念を体現して奔走した教職員らの熱意・姿勢は、教室の内に留まらず、教室の外へと広がりを持った。1950年代半ばより、日教組を中心に、各地域の教育実践を素材とした児童教育映画を自主制作する機運が高まった。その一つとして、大村収容所を舞台に、収容所の子どもと近隣の小学生の「交流」を描いた『日本の子どもたち』(1960)は誕生した。本映画は、収容所の近隣の小学生が実際に収容所を「慰問」した出来事を児童が綴った作文が原作となっている。本作文と映画には、「密航」が否応なく内在する「不法」というイメージや、「収容者」に対する線引きをはじめ、冷戦下の日本と朝鮮半島のあいだに横たわる亀裂や緊張関係のなかで「密航者」という存在が、社会の周縁に位置付けられる過程及びその回路が反映されてた。こうした「まなざし」は、実際の体験が、作文をつうじて新たな「体験」となり、そして映像をとおして可視化される過程にさらに強固なものへと変貌した。終章では、本章の課題と概要を振り返り、今後の展望を提示した。

 章構成
 序章
第一節 問題意識及び研究課題
第二節 先行研究及び本論文の意義
第三節 分析視角及び研究方法、構成、史料

 第一章 「境界」をつくる:1950年代初期の外国人登録事務
第一節 植民地以後の人の移動と「境界」のゆらぎ
第二節 外国人登録事務の現場
第三節 外国人登録事務従事者の「資質」の向上

 第二章 「収容」と「釈放」のはざまで
第一節 正規と非正規のはざまで
第二節 大村収容所の釈放事業と保護団体の選定
第三節 1950年代における日韓会談中断期の移動問題

 第三章 1950年代における大村収容所の表象
第一節 戦後長崎と大村収容所
第二節 大村収容所「慰問」の記録
第三節 境界線への視線:教室の体験から映画『日本の子どもたち』へ

 終章
第一節 本論文の課題と各章の概要
第二節 本論文の位置付け
第三節 課題と展望

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