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博士論文要旨

論文題目:自然再生はいかにして可能か―自然倫理学における自然性の概念を手掛かりに―
著者:魏 偉 (WEI, Wei)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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 第一章 自然再生と自然性――問題提起
第一節 「自然再生」と保全生態学
第二節 自然の評価基準――倫理学のアプローチ
第三節 本論文の構成
 第二章 自然の自然性に関する五つの議論
第一節 法則性としての自然性
第二節 存在論的秩序性としての自然性
第三節 有機体の諸特性としての自然性
第四節 歴史性としての自然性
第五節 自発性としての自然性
第六節 要約と結論
 第三章 東アジア伝統的な自然理解と自然再生の方法論――natureの翻訳を手掛かりに
第一節 東アジアにおけるnatureの翻訳
第二節 中国における「自然」――日本との相違点を中心に
第三節 「おのずから」の作為観と「型」――自然の自然性に基づく実践的方法論
第四節 要約と結論
 第四章 東日本大震災後の自然再生――「椿の森づくり」を事例に
第一節 防潮堤の論理――生命·財産を守るための公共事業
第二節 宮脇昭と「森の長城」の植林活動
第三節 前浜地域の「椿の森づくり」
第四節 結論にかえて――「椿の森づくり」の評価
 第五章 結論――自然性に基づく自然再生に向けて

<学位請求論文 要旨>
 自然再生という実践的な場面において、自然の自然性はどのような意味として理解でき、またそのような自然性の理解はどのように自然再生の準拠となるのか。本研究では、まず第二章でさまざまな自然の自然性を扱う議論から、五つの自然性の理解を抽出して検討した。しかし、第二章で検討した「自然性」(naturalness)は、主に西洋的なnature(自然)概念に基づく自然性の理解である。したがって、第三章では日本や中国などの漢字圏にとって、このようなnatureに基づく理解は、二文字漢語である「自然」とどの程度重なるのか、あるいは異なるのか、という問題提起から出発し、分析を行った。第三章の分析を通して、「型」の実践的方法論が、実際に自然再生を行う際の評価を行った。第二章と第三章の議論を踏まえる形で、第四章では「椿の森づくり」という実例を通して分析を加えた。
 第一章では、まず問題背景を明確し、本研究の問題意識を提示する。まず第一節では、自然再生は保全生態学で扱われる問題から出発し、この問題は倫理学の知見が必要であることを論じた。第二節では自然倫理学の学説史を簡潔に整理し、自然倫理学の観点から「自然再生」という実践的な場面において、自然性の意味および実践的な役割の考察という研究目標を提示した。第三節では論文全体の構成を示した。
 第二章では自然再生に関わる自然性の五つの論点、すなわち「法則性」「存在論的秩序性」「有機体の特性としての合目的性と複雑性」「歴史性」「自発性」の五つを、論点別で検討した。結論からいうと、自然再生の実践的場面においては、とりわけ「歴史性」「自発性」が意義を有する。実践的な場面において、<自然性>の概念は、その自然の「歴史性」および「自発性」として理解され、そのような意味における自然の自然性を踏まえた上で自然再生は行われるべきである。
 ⑴法則性としての自然性について、われわれは「物理学の法則」と「生態学の法則」を区別して論じた。まず、ミルの議論においてすでに指摘したように、物理学の法則という意味で「自然に従え」という命令は、無意味である。なぜなら、われわれは物理学の法則から逸脱することはできず、物理学の自然法則という意味で「自然に従え」という命令がなくても、「自然に従わざるを得ない」からである。次に、コモナーの議論を代表に、生態学における「自然法則」に従って自然の法則性の実践的な意味を検討した。しかし、コモナーの四つの生態学の法則を検討した結果、この四つの法則はさらに「厳密な意味での法則」と「もののあるべき姿に関する誰かの見解や感情や命令」との二種類に分けられることが判明した。厳密な意味における生態学の法則は、確かに自然の法則性に属し、人間が自然と関わる際の実践に役立つ知識である。しかし、物理学の法則と同様に、厳密な意味における生態学の法則に関しても、(自分が依存している生態系と心中したくない限り)従わざるを得ない法則である。それ以外のいわゆる「生態学の法則」は、真の法則ではなく、レトリックとしての意義を有するが、法則性の議論に帰属しない。このように、法則性としての自然の自然性は、倫理的な概念として機能しえない。
 ⑵存在論的秩序性としての自然性を検討した。まず、現代の自然倫理学の文脈において、存在論的秩序について積極的に論じたヨナスの議論を取り上げた。ヨナスの『責任という原理』の議論を分析した結果、その主張を正当化するために、ヨナスが『生命の哲学』において展開した自然哲学による基礎づけが必要であり、そのような自然哲学の基礎づけは、最終的に創造者である「神」の存在を要請する。このような神学的な基礎づけは、特定の宗教を信仰する人にしか妥当せず、一般に広く受け入れられることは難しい。したがって、次にヨナスの問題意識を継承しながら神学的な存在論ではない基礎づけを試みたジープの議論を分析した。ジープによって提示された「自然の階梯」は、それぞれの「位階」が固定されずに境界線が修正可能である点において評価できる。また、その正当化が複雑性などによって行われたこと、したがって近代的な自然科学の議論と調和性をもつという点においても評価できる。しかし、そのようなジープの議論に従えば、「自然の階梯」のような全体的な存在論的秩序が必ずしも要請されるとは限らない。自然再生という実践的な場面において、存在論的秩序性としての自然性の理解は、有益な観点を提示する役割を有するかもしれないが、総じてそのような理解は十分に正当化され得ず、不必要である。
 ⑶有機体の諸特性としての自然性は、具体的に合目的性・複雑性・多様性としての自然性などがある。有機体に対する関心は有機体があたかも「デザイン」されたかのように合目的的な構造をもつところから出発するため、まず「デザイン論」の代表であるペイリーの議論を検討した。しかし、進化論による解釈の登場により、ペイリーが主張したように有機体の諸特性としての自然性が神のような設計者を要請する解釈に代わる選択肢ができた。そこでペイリーの問題意識を共有しながら進化論的な解釈によってデザインの問題を取り上げたドーキンスを考察した。結論として、進化論的解釈によって、有機体の特性としての自然性の理解は、進化という歴史的な過程の結果として理解できた。その歴史性を度外視し、有機体の特性である複雑性・合目的性としての自然性を理念に自然再生を行うこと、すなわち人為的に複雑性や合目的性を創造することは、むしろ倫理的に疑わしいことである。
 ⑷歴史性としての自然性を検討し、自然倫理学における「偽物の自然」の是非の論争において取り上げられた。結論としては、歴史性としての自然性は尊重されるべきである。自然再生において、その地域の自然の歴史性を加味し、歴史的な連続性を取り込んだ形で行うべきである。
 ⑸自発性としての自然性を考察した。自発的に生成するという考え方は、ピュシスに遡る自然に対する基本的な理解である。マイヤー=アービッヒの議論を検討することによって、このような理解に従えば、自然を管理するということではない自然との関わり方、ないしは技術のあり方の可能性が生まれることが明らかとなった。また、日本における<手入れ>の考え方は、自然の自発性を重んじる自然との実践的な関わり方であることを確認した。しかし、自然再生の場面において、自然の自発性のみに頼る形は不十分である。そこで自然再生の概念的内容を再検討し、日本的に「自然再生」の考え方を定式化した。自発性としての自然性を重視し自然再生を行う場合においても、人間による作為(人為)を排除しないような方法論について検討すべきである。
 自然再生に関わる自然性の論点を批判的に整理することによって、本研究は自然再生に新しい定義を与えた。歴史性および自発性の意味における「自然性」を反映する形で、破壊あるいは喪失された自然を再び育成し、人間と自然との関係性を歴史的な連続性を保ちながら、しかし必ずしも元の形通りではなく新たに自然の自発性のもとで育むという過程こそ、自然再生である。
 第三章は、日本や中国などの漢字圏にとって、西洋的なnature(自然)概念に基づく自然性の理解は、二文字漢語である「自然」とどの程度重なり、また異なるのか、という問題提起から出発した。
 ⑴第一節では漢字圏におけるnature概念の翻訳の歴史、およびそれが「自然」の語へと翻訳される経緯を考察した。まず、natureの翻訳語としての「自然」は、明治20年代の日本で使用され、のちに中国語においても採用された言葉であることを、先行研究を振り返りながら確認した。次に、natureが自然の語に訳される以前は、「万物」や「天地」や「造化」など漢字圏の伝統的な概念を用いて翻訳されたが、それらの翻訳語は淘汰され「自然」が定着することになった原因について検討した。nature概念の翻訳は、明治期の日本における西洋の概念枠組みおよび学問枠組みの全体的な受容の歴史という文脈のなかに位置づけ、その概念枠組みの受容史の一環として考察すべきである。われわれは考察の結果、<社会>から独立する近代科学の対象の領域を区別し確立する上では、既存のnatureの翻訳語ではいずれもそのニーズに対応することができないため、新たな訳語が必要であったこと、そしてそのようなニーズを応えるために、まず「天然物」ないしは「自然物」のような用例が生まれ、やがて「無天思想」などのさまざまな時代背景の影響を受け、最終的にnatureの翻訳語は「自然」という言葉へと定着したことを確認した。翻訳概念である「自然」が明治期の日本において形成される過程を素描したのが第1節であった。
 ⑵第二節では中国における「自然」の理解を日本と比較しながら概観した。第1節で確認したように、自然という言葉は日本で翻訳されたものである。しかし、この翻訳語は中国でも受容されるようになり、natureという概念は中国における伝統的な「自然」の考えと結びつけられるようになった。したがって、まず「自然」を中心思想の一つとして論じた老荘思想の「自然」理解を踏まえ、近代中国で翻訳語「自然」が受容される素地を検討した。老荘思想をはじめとする道家思想の「自然」は、生成的な意味をもち、また王充に代表する用例においては「非意志性」をもつ、という点が「自然」という翻訳の受容の素地となった。さらに、道家思想以外の中国における伝統的な自然理解をも概観したが、日本との相違点として、中国では「自然」は人間の道徳に結びつき、<道>や<理>などの観念と関連し「条理性」や「本来性」の意味をもつということが、中国の伝統的な「自然」理解の特徴である。したがって、結論として、中国の伝統思想では、natureにもっとも対応する概念は「自然」ではなく、「天」であることが判明した。「自然性(naturalness)」という概念は中国では、「天然性」ないしは「天性」として理解すべきである。
 ⑶natureを「自然」という漢語で理解する背景には、日本の伝統的な考え方の影響が大きい。その伝統的な考え方とは、「おのずから」としての「自然」である。したがって、われわれが注目する実践的な文脈に戻り、第3節では<おのずから>の思想に基づく作為観を考察した。このような<おのずから>の思想に基づく作為の捉え方によれば、作為は自然と対立しない。人間による作為は、確かに自然的な過程では生じ得ない結果をもたらすが、真の意味で「正しい」作為は自然的な過程を超えながらも自然に即するものであり、自然の一部である。このような作為が可能にするのは、いわゆる「型」の実践的方法論である。第3節の後半ではこのような「型」の議論を検討し、その習得方法である「守・破・離」の三段階を分析した。最後に、和辻の風土論における庭園の分析を踏まえ、「型」のような日本的な作為の理解による実践の実例を議論した。
 以上の考察を通して、第二章で得られた「自然性」の概念と共通性をもちながらも、さらに「おのずから性」という意味での強い自発性を備える日本流の「自然性」の理解が見えてきた。このような自然性の理解においては、物事は内在的な自発性によって動かされつつも、その内在的な自発性は同時に超越的な規定として働く。また、このような「おのずから性」によって導き出された作為論において、「型」の習得のような、自然の特性を純化させて身体的に捉えるという自然性の捉え方が現れる。第三章で検討した日本流の作為の理解は、自然復元を「自然再生」として理解された素地となったであろう。本章の議論に踏まえれば、自然の特性を取り込みつつも、人間によって自然を能動的・創造的に「再生」させる、という自然再生の可能性が開かれる。
 第四章は「椿の森づくり」という実際の事例を通して、改めて能動的に自然を創造的に「再生」する可能性を考察した。東日本大震災の津波により、被災地沿岸部の自然が撹乱され、人びとの生活は破壊された。震災の復興は生活の再建が中心であるが、撹乱された自然への対処、ならびに「津波」という形で人びとを脅かす自然への対策も重要なことである。この章では工学的方法であるコンクリート防潮堤による「自然排除」の対策(第一節)、「潜在自然植生」による(未来では)人の手入れがいらない防潮林の対策(第二節)、および歴史的・文化的な観点を取り入れた「椿の森」の自然再生の対策を紹介し、それぞれ評価と分析を行った。
 第五章は、論文全体の論点を統合し、結論を提示する。自然再生は、歴史性および自発性の意味における「自然性」を反映する、日本的な「おのずから」の発想に基づく「型」による自然性の捉え方の実践的事例である。

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