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博士論文要旨

論文題目:受肉と交わり―チャールズ・テイラーの宗教論―
著者:坪光 生雄 (TSUBOKO, Ikuo)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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目次
序  チャールズ・テイラーと宗教
第一部 宗教史
第一章 世俗化の物語――減算説を超えて
第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス
第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ
第二部 認識、政治、言語
第四章 認識論と宗教史――多元的で頑強な実在論
第五章 世俗主義の再定義――普遍性と翻訳をめぐる対話
第六章 共鳴の詩学――「象り」の言語理論へ
第三部 世俗の時代の宗教学
第七章 会話の方法――アイロニーを超えて
第八章 「ポスト世俗」の諸相
結びにかえて

 要約
 本研究の目的は、現代のカナダ・ケベックを代表する哲学者チャールズ・テイラー(一九三一〜)の宗教論を宗教学的な関心から読み解き、その洞察と意義とを明確化することにある。その長いキャリアを通じて、テイラーの思想は歴史、政治理論、倫理学、分析哲学など、多数の話題領域に接する多面的なものとなっているが、一九九〇年代以降、ことに宗教に関わるテーマが前面に押し出されるようになった。この時期に、テイラーの思想は「宗教的転回」を迎えたと指摘する先行研究もある。本研究はこの見立てに従い、テイラーの思想における宗教的主題の位置づけとその重要性を明らかにする。そのために詳細な検討を要するのは、言われるところの「宗教的転回」以後のテイラーの仕事、すなわち『自我の源泉』(一九八九)より後に発表された諸著作である。なかでも、エディンバラ大学でのギフォード講義を基にした二〇〇七年の『世俗の時代』は、量にして八〇〇頁を超す大著であり、その内容に関しても、他の著作と比べてひときわ包括的で意義深いものである。「テイラーの宗教論」の中核をなすテクストとして、私たちはまずこの大著の読解に取り組み、次いでテイラーの他の仕事において提起された哲学的な諸論点との接続をも試みながら、対象に関する理解を充実させていく。
 本研究は、大きく三つの部分からなる。第一部では、『世俗の時代』本文の内在的読解を行い、そこで展開された宗教史の全容を把握することを目指す。第一章では、『世俗の時代』のまえがきにある言葉――「私は近代西洋の『世俗化』と通常呼ばれるものについて、一つの物語を語ろうとしている」――に導かれつつ、その「物語」を、宗教社会学において分厚い議論蓄積のある、いわゆる「世俗化論」との関連で読み解いていく。テイラーは『世俗の時代』において、今日の主流な「世俗化論」に対抗し、またそれに取って代わるべき新しい「物語」を語った。私たちはこれの主だったあらすじを一通り掴んだ上で、そこから「世俗化」をめぐる今日の議論状況にどのような示唆と視座の転換がもたらされるかを検討する。本章における議論は、おおむね『世俗の時代』の第一部から第四部までの記述に対応している。
 続く第二章では、そのような新しい「世俗化」の物語を語ったテイラーの規範的な意図が問題にされる。ここでの読み解きは、『世俗の時代』の第五部のうち、最終章を除く部分を対象としている。私たちはテイラー自身について、彼のいわば「一階の」確信を基礎づけるキリスト教信仰と、それに対して「メタ」な上階の部分をなす、リベラルで多元主義的な彼の政治的主張との区別に注目し、あくまで対象範囲のテクストに依拠しつつ、それらの込み入った関係を明確化する。ここでの結論は、『世俗の時代』の議論が全体として奉仕するものが、この区別された二つのうちの後者であったというものである。テイラーは自身において宗教的な思想家ではあるが、しかしその信仰は、このメタな政治的反省性との緊張においてようやく現実的なものとして生きられるにすぎない。
 しかし、第一部の最後となる第三章では一転して、もっぱらテイラーの「一階の」信仰の方に関心を向ける。第二章では扱うことのできなかった『世俗の時代』最終章「回心(conversions)」は、まさしくテイラー自身の一人称的な信仰告白にも似た性格をもつテクストである。事実、本研究が「宗教学」的な関心から出発したのは、とりわけこの最終章の議論をそれ自体重要なものとして読み込むためであった。テイラーは、本論文の第二章で明らかにされたような政治的配慮を前提としつつも、なお信仰に基づく彼自身の理由、神学的と言って差し支えないようなその希望をここで率直に明確化している。そのとき彼は、じつに『カトリック・モダニティ?』(一九九九)以来に、自らのカトリック信仰の立場から何ごとかを語った。ある思想が政治的に適切か不適切かという問いは、もちろんいつでも問われてよいものである。しかし、そのような問いに行き届いた回答を与えるためにも、まずはその思想に含まれているもののうち、見たところ政治的なものに対して異質であるような諸要素の解明を怠るべきではないだろう。本研究はこれを、一方における彼の政治的主張との安易に解消することのできない緊張において、しかし同時に、あるいはそれ以上に、いわば今日における宗教思想の形式化と提示に関する興味深いありようの一例として検分する。幾人かの「回心者」の生について論じられた『世俗の時代』最終章の読解から見えてくるのは、テイラー自身がこの「世俗の時代」から「宗教的な過去の未来」に向かってなお投げかける、キリスト教的な希望の宛先である。「受肉」と「交わり」という二つの観念を中心に特徴づけられたテイラーの信仰は、彼の歴史哲学的記述のうちに、それ自体受肉している。
 第一部で『世俗の時代』について一通りの読解を終えたのち、第二部においては、同書からいくつかの論点を派生させ、テイラーの思想を構成する多様な側面をいっそう発展的な仕方で相互に結びつけることを試みる。この第二部はいわば、第一部を通じて提示された本研究の二つの主題、すなわち「受肉」と「交わり」を、他のいくつかの文脈に置き入れ、その多様な変奏を試みた展開部として位置づけることができる。ここで扱われるのは、主としてテイラーが『世俗の時代』の刊行後、二〇一九年現在までに発表したいくつかの著作である。「宗教的転回以後」という括りでテイラーの思想に接近する本研究は、これらの著作群に対しても相応の関心を払うものである。それらの新しい著作のなかで集中的に論じられたのは、大まかに言って、認識、政治、言語という三つの主題に関わることがらであった。
 第二部のはじめにくる第四章では、二〇一五年に刊行されたヒューバート・ドレイファスとの共著『実在論を立て直す』において展開されたテイラーの認識論批判と実在論の主張を、『世俗の時代』の宗教史との関連で読み解く。後者におけるテイラーの歴史的説明は、彼の「受肉」の信仰とも呼応して、近代を特徴づける「脱魔術化的還元」の動向に一部対抗しつつ、人間の生にとって身体性がもつ重要性を強調するものであった。他方、これと平行関係にあるのは、近代の認識論における心身二元論、あるいはそのような「内と外」の区別を克服し、もって身体的従事の感覚に立ち返ろうとする『実在論を立て直す』での議論である。これらはまったく別の独立した議論というよりも、互いに協力して一つの主題を明確化するものであったと言える。私たちはこの主題の解明を通じて、「受肉」と「交わり」の観念を中心にテイラー思想を特徴づけた私たちの第三章の議論について、そのさらなる傍証を得ることにもなる。
 第五章では、論集『公共圏における宗教の力』に収録された「世俗主義」をめぐるテイラーの論考、およびそれに基づいてユルゲン・ハーバーマスやジュディス・バトラーらとのあいだで彼がおこなった対論の様子を検討する。ここでのテイラーの世俗主義論の政治的主張を理解するにあたっては、その背景をなす『世俗の時代』のテクストへの参照を欠かすことができない。「翻訳」の観念をめぐって露呈したハーバーマスやバトラーとの差異を理解するうえでも、『世俗の時代』の読解から明らかになっていること、とりわけ彼自身の信仰に関わることがらはきわめて大きな重要性をもつ。これらの他の論者との対論のなかから明確化されてくるのは、テイラーの多元主義的な政治思想であると同時に、それを根拠付ける彼自身の信仰に根ざした理由でもある。
「翻訳」をめぐる討議の考察によって、私たちはなお、テイラーの宗教論における言語の問題に向かうよう強く促されている。本論文第六章の議論はこれに集中的に取り組むものである。二〇一九年現在におけるテイラーの最新刊である『言語動物』は、その表題のとおり、著者が長年取り組んできた言語論に関する内容豊かな論考である。ここに顕著に表れているのは、『自我の源泉』以来テイラーが一貫して強調してきた詩的言語の重要性、「より繊細な言語」と呼ばれるものの今日的意義である。もっとも、こうしたテイラーの言語論ないし詩論は、『世俗の時代』のとりわけ最終章において展開されたのと同種のものでもあるだろう。多数の著作にまたがりながら、しかし同一の方角に向けて深められてきた詩と言語をめぐるテイラーの思索は、彼の宗教論とも大いに関わりをもつと同時に、彼の実存的信仰にとってもきわめて根本的なものである。テイラーにとり、今日の「世俗の時代」においてもなお私たちが超越性や普遍性に対して開かれることの可能性は、「より繊細な言語」が象る意味に、個として共鳴することの可能性にそのまま等しい。
以上の第二部までのところでテイラーのテクストに関する内在的な検討を一通り終えた私たちは、そこですでに得られたものを、第三部ではいっそう広い文脈に位置づけることを試みた。テイラーの宗教論は、「宗教」に関わる学問をとりまく今日的状況において、どのような意義やインパクトをもっていると言えるだろうか。それを「理解」したとして、そのとき、私たちはどのような地点に立っているのだろうか。こうした問いを立てることで通常企図される「評価」という課題を、私たちはしかし、テイラーの宗教論で言われたことの真理性や善悪に関わる本質主義的な判断、いわばそれに関する「強い評価」としては実行しえない。その代わり、私たちはこの「意義」や「インパクト」に関する問いを、次のような問いに変換して再提起するだろう。すなわち、テイラーの宗教論を形式的に特徴づける彼の「方法」は、宗教に関する学問的研究にとってどれほど発見的または使用的な価値をもつのか、といった問いとして。
 前章までの議論をなかば引き継ぎつつ、第七章ではテイラーの宗教論の「方法」に必然性を与えている彼の哲学的諸論点について検討を行い、彼の方法の基本的な性格を明らかにする。テイラーの宗教論に見られる歴史主義的な方法は、しばしばニーチェあるいはフーコー的な「系譜学」との近接性を指摘されるが、本章の議論ではこれについて、テイラーの歴史主義の真の意図が、価値や基準の歴史−相対主義的解体というよりは、その起源と成立過程の解明を通じた「肯定」の方にあることを確認する。また、ここではテイラーの解釈学的ないし言語論的アプローチが、彼の長年の論争相手であったリチャード・ローティの戦略とはまったく趣向を異にするものであることも、同時に明らかにするだろう。私たちの評価的な立場としては、こと宗教について学問的に研究するとした場合、そのような一種の「対処実践」においては、ローティ的な「ミニマリスト」であるよりも、テイラー的な「マキシマリスト」であるよう心がけたほうが益が多いことを主張したい。
 第八章において、本研究は最後に、「ポスト世俗」という標語の下に括られる近年の流行思想との関連で、テイラーの宗教論から汲み出すことのできる方法論的示唆を明確化する。私たちはこのあいまいな用語がもつ複合的な含意やその論争性を概観しつつ、最後にはテイラーの思想からどのような「ポスト世俗」の理解を得ることができるか、その展望を示そう。元来多義的なこの語について理解を深めるには、一つには本研究がこれまでにすでに明らかにしているテイラーの言語論的なアプローチが有効である。私たちは、問題の語を一元的に定義しえないという一事をもって、その語の使用が開示するかもしれないものをたんに意味なしとはしない。テイラーに従うなら、私たちはむしろそのような言葉の多義性、詩的な音感の豊かさに対して積極的に自己を開き、「言葉が語る」のを聞くという方針をとるべきなのである。私たちがテイラーに即して展望することのできる「ポスト世俗」の学問においては、こうした「より繊細な」言語感覚を携えて現実に従事することが必須の要件となるだろう。何であれ言葉の複雑な響きに対して心を固くする前に、自らの側で行っているかもしれないナイーヴな言葉遣いにこそ警戒を強めること。これが、テイラーの言う「世俗の時代」の宗教学にとって可能な一つの基準となるだろう。

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