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博士論文要旨

論文題目:ズールー・ナショナリズムと人種隔離政策―創られた「伝統」の変容・浸透・放棄の過程―
著者:上林 朋広 (KAMBAYASHI, Tomohiro)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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章立て
 序章
 第1章 模倣すべき過去・失敗としての未来:ナタール植民地におけるモーリス・S・エヴァンズの「原住民」政策論から連邦レベルの人種隔離政策へ
 第2章 南アフリカにおけるアメリカ南部黒人教育の受容:折衝の場としてのアフリカ人教育
 第3章 キリー・キャンベルの収集活動から見る歴史意識の変容:南アフリカにおけるアーカイブズ構築の一事例
 第4章 創られた「伝統」の浸透:ズールー語教科書の出版と歴史意識
 第5章「部族的」歴史を書く:アフリカ人学生の歴史エッセイと白人審査官
 第6章 部族と普遍の間:Z.K.マシューズの人類学・原住民法研究から見る市民権要求の論理
 終章

1. 問題の背景、研究視角、主張
 本論文は、20世紀前半の南アフリカ、特にナタール州(現クワズールー・ナタール州)における歴史をめぐる議論を検討することで、統治体制と結びついた「伝統」への歴史意識の変化が、アフリカ人エリートが人種隔離政策に対峙する際の政治姿勢の転換をもたらしたと主張する。
 ナタール州のアフリカ人統治政策は、1910年の南アフリカ連邦成立以後、連邦全体での人種隔離政策のモデルとなり、また植民地期アフリカを考察する場合でも、特に伝統的権威を利用した統治として、間接統治の先駆けとして論じられてきた。ナタール州を間接統治のモデルと考える研究は、19世紀ナタール植民地におけるアフリカ人統治の基礎を造ったとされる人物セオフィラス・シェップストンの政策に注目し、シェップストンの政策が首長を中心とした伝統的権威を利用する統治としてアパルトヘイト体制を含めた後世の統治政策に影響を与えたと論じてきた。
 本論文の第一の目的は、シェップストンの政策の影響に関しての批判的検討である。本論文はまず、19世紀半ばのナタール植民地においてアフリカ人統治のあり方が規定され、それが20世紀においても継続されたとする先行研究に対して、シェップストンの政策が人種隔離政策の文脈で考察されるようになったのは、20世紀に入ってからであったと指摘する。その上で、シェップストンの実像を提示するガイの伝記的研究を参照しつつ、20世紀初頭のアフリカ人首長の反乱を契機としてナタール植民地におけるアフリカ人統治政策の見直しが生じ、その中で産業化の進展により侵食されつつあるアフリカ人の「伝統」を保持するための理想的な政策としてシェップストンの政策が再提示されるに至ったと主張した。さらに本論文は、この過去の政策の捉え直しを含む議論が、間大西洋的な空間の広がりを持っていたことを明らかにする。すなわちアメリカ南部が南アフリカと同様に「黒人問題」を抱えつつも、産業化が進んだ未来像として捉えられ、その未来像から照射される形で南アフリカのあるべき統治政策が根拠付けられたのである。
 次に本論文は、創られた「伝統」の伝播と検討の過程について論じた。20世紀初頭からのアフリカ人統治政策の形成を論じることから分かるのは、統治のために創造された伝統は、一度創られた後継続して利用されるという一回性のものではなく、むしろ検討され組み替えられるプロセスの下にあるということである。「伝統」の創造に関する議論は、創造の主体として白人入植者・行政官、及び伝統的アフリカ人エリートを想定してきた。しかし、これまでの議論においては、創造に関わった人々を超えて創られた伝統の正当性がいかにして、認められていったのか(あるいは拒絶されたのか)が等閑視されている。そこで、本論文は、「伝統」の浸透が図られた場としてアフリカ人教育に着目する。具体的には、1910年代半ばからの、「よりアフリカ人の生活に適合した教育」を目指したアフリカ人教育改革を分析することで、創られた伝統が検討に付され、利用または反発されるプロセス、及びその議論の広がりの範囲を明らかにする。
 ナタール州の教育改革はアフリカ人の「伝統的な生活」を保持するために、労働規範の重視と母語の教授を主張していた。そこで本論文は、まずアメリカ南部黒人教育(特にアラバマ州の黒人学校タスキーギ学院)をモデルとして職業訓練に重点を置いたカリキュラムの導入をめぐる議論を検討する。タスキーギ学院を中心とした職業訓練を重視するアメリカ南部黒人教育理念の受容に向けた活動が南アフリカにおいて、白人とアフリカ人のそれぞれが異なる意図を持ちながらも「人種間協調」というスローガンのもとに関わりあう場になっていたことを、アフリカ人教育に関わった人々の言説・活動を検討することで指摘する。ナタール州において教育改革を推し進めた教育学者・政治家であるロラムにとって、アフリカ人教育は、白人とアフリカ人の分離を保証するものであり、アフリカ人はヨーロッパ化せずに「部族」の伝統を守るべきであるという方針がとられた。しかし、白人統治者が人種隔離政策の遂行を目的として設計した教育改革をも、アフリカ人学生・教員は主体的に利用しようとする。人種隔離が進み、アフリカ人の権利が制限される中での権利獲得を目指す運動に携わったミッション・スクールで教育を受けたアフリカ人教員たちは、黒人のみで運営されるタスキーギ学院の運営方針がアフリカ人の経済的な自立性と機会の拡大という未来の目標へのモデルとなると考えたのである。
 次に、教育改革においてもう一つの柱であったアフリカ人の母語、特にズールー語教育と語学教育を通したズールー文化の学習を対象に、教科書及びアフリカ人学生が書いた歴史エッセイを分析することで、人種隔離政策下におけるアフリカ人の民族意識の浸透の過程を明らかにする。ズールー語・歴史教育は、アフリカ人社会は首長が統治する各部族に分けられるという「部族主義」を学校教育という場において教え込む役割を担った。しかし、本論文は、アフリカ人知識人や学生たちにとって、アフリカ人の歴史に関して議論を行い、自民族の過去を描くことが、支配体制のイデオロギーに追従するだけではなく、対抗的なナショナリズムの基盤となっていた側面があることを指摘する。
 最後に本論文は、アフリカ人教育者・政治家であったZ.K. マシューズの政治思想の変遷をたどることで、人種協調の試みの放棄がいかに生じ、暴力的革命が肯定されるに至ったかを明らかにした。先述のロラムの庇護のもとで教育を受けたマシューズの「原住民法」の調査研究、及び人種隔離政策批判の分析から、本論文は、統治体制と結びついた伝統を批判的に見直すことが、より平等な社会として南アフリカの未来の理想像を描くことにつながったと主張する。
 以上、全体を通して本論文は、ズールー・ナショナリズムの創出と浸透の過程を、アフリカ人統治政策の形成過程という州・連邦レベルのつながりというマクロな視点から、教育現場における「伝統」の教授というミクロなレベルまで様々な側面から描き出す。この「伝統」の形成・浸透過程の分析に基づいて、歴史意識の変化が20世紀前半南アフリカにおける人種間協調の盛衰と暴力の是認という政治姿勢の転換を促進したと主張する。
 それでは、このような本論文の全体としての主張は、先に述べた植民地主義自体の可塑性と歴史的展開に注意を払うべきだという本論文の問題設定にどのように貢献するのだろうか。東アフリカにおけるイギリス植民地支配を事例として、歴史学者のスピアは「伝統」を用いた統治における制限性を重視し、アフリカ人は植民地化以前・以後を通じて常に「伝統」について議論し、政治的に利用してきたと論じた。この見解を踏まえるならば、アパルトヘイト後にマンデラやディズモンド・トゥトゥが和解の精神として、またアフリカ人の人道主義の表れとしてのウブントゥを説くことや、伝統的権威が土地の「返還」を要求することは、過去から続く「伝統」をめぐる政治の現代版として捉えることができるだろう。そして現代まで続く「伝統」の政治を検討するためには、植民地主義のもとで創造された「伝統」を、一枚岩的なものとしてその本質を仮定するのではなく、流動的かつ交渉の余地のある議論の場として捉え直す必要がある。本論文は、「伝統」がいかに人種隔離政策の実施とその政策に基づいた体制への抵抗において用いられたのかを検討することで、南アフリカにおける過去の利用のメカニズムの一端を明らかにした。

2. 各章の概要
 本博士論文は、6章からなり、ナタール州及び連邦全体でのアフリカ人の「伝統」を用いた人種隔離統治の形成と、その統治にアフリカ人エリートが組み込まれていく過程、及び抵抗運動においてその協力関係が放棄されるに至るまでの過程を描く。第1章と第6章はナタール州と連邦レベルでの議論をつなぐ形で、人種隔離政策におけるシェップストン・システムの利用と、アフリカ人エリートの一部が彼らを統治体制に組み入れようとする政府の試みを拒否したことを説明する。この二つの章は本博士論文の大枠を設定する。それに対して、間に挟まる第2章から5章は、白人入植者とアフリカ人を法的・空間的に分離し、統治する体制においていかにしてアフリカ人の「伝統」が規範的なものとして教えられ浸透していったのかを跡付けた。
 第1章では、人頭税への反対から生じた1906年のアフリカ人首長バンバタの反乱以後の「原住民」政策見直しの機運の中で領域的人種隔離論を展開したナタール議会議員エヴァンズに注目し、彼の「原住民」統治論を検討する。課税への反対を目的としたバンバタの反乱以後、植民者の自治政府の「原住民」政策の失敗が指摘され、改革の必要性が唱えられる。その際にモデルとされたのが、1893年の自治政府成立以前、特に初代原住民政策長官であったセオフィラス・シェップストンの政策であった。本章では、実際には白人入植者とアフリカ人との勢力均衡を目指して、即興的・場当たり的に形成された統治政策が、鉱業の発展に伴う産業化の波の中で、アフリカ人の「伝統的生活」を保持することを目指す政策のモデルとなっていく過程を、エヴァンズを中心とした「原住民」問題の専門家の著作から明らかにした。
 第2章は、南アフリカにおけるアメリカ南部黒人教育の受容を、白人側・黒人側に分けて論じた上で、タスキーギ学院を中心とした職業訓練を重視する教育理念の受容に向けた活動が南アフリカにおいては白人と黒人が、緊張感を持ちながらも関わりあう場になっていたことを明らかにする。すなわち、白人教育者にとってタスキーギ学院のモデルは、そのパターナリスッティックな意匠を損なうことなく、アフリカ人を従順な労働者として押し込めるための教育改革を推進するために役に立った一方で、アフリカ人教員・政治家にとっては白人支配体制から譲歩を引き出し、黒人の自立性と機会を拡大するための手段であったのだ。本論文全体のテーマに関連付けながら換言すれば、タスキーギ学院という同一のモデルを参照しながらも、アフリカ人の農業を中心とした牧歌的な過去と結びつく形での教育を捉えアフリカ人の「伝統」の保持を主張する白人教育者に対して、アフリカ人教員・政治家たちはアフリカ系アメリカ人を南アフリカのアフリカ人が進むべき未来像と捉え、タスキーギ学院を経済的な従属状態から脱するための手段と考えていたと言うことができるだろう。
 第3章では、南アフリカ・ナタール州ダーバンの郷土史家キリー・キャンベルに注目し、彼女の史料収集活動を詳述することで、彼女のアーカイブ形成の試みが、一方で入植者社会の発展と他方でアフリカ人の伝統保持を目的とする特定の歴史像を提示することにつながっていたことを明らかにした。 本章の目的は、書物や工芸品を収集し、整理するという行為を通して、キャンベルが、南アフリカの歴史を物語る秩序を構成し、入植者社会の発展を中心として自分自身を、そして南アフリカに住む人々を位置付ける、その様態を跡付けることである。
 第4章は、1930年代から50年代にかけてのナタール州のアフリカ人教育におけるズールー文学・歴史教育を分析することで、ズールー・ナショナリズムの内容とその広がりを明らかにする。具体的には、学校教育で使用されたズールー語の教科書とその教科書が使用された科目の試験問題など教科書の読み方を規定するような文書を史料として用いることで、本章は、主任原住民教育視学官であったダニエル・マック・マルコムを中心としたナタール州教育行政と保守的なズールー知識人の協力のもとで生み出されたズールー語の歴史叙述が、人種隔離政策と親和性を持つように、 ズールー・ナショナリズムを特定の形態へと導こうとする試みであったと主張した。
 第5章は、キリー・キャンベルが主催し、マルコムが審査官を務めたズールー部族歴史エッセイ・コンテストを対象とする。本章は、コンテストに応募されたズールー人学生の歴史エッセイを分析することで、「創られた伝統」としての「部族」がいかに学校教育という回路を通じて浸透していったかを論じる。本章は、ズールー人の学生や教師が書き送り、そしてマルコムが読むという一連のプロセスを植民地支配という制約を受けながら成立した白人行政官と教育を受けたアフリカ人との間の交渉の場としてみる。この見方によって明らかになるのは、部族を単位とする統治という創られた伝統の浸透の過程であり、その過程を自分たちに利するようと試みるアフリカ人の姿、そしてその試みに対する制約である。
 第6章では、アフリカ人人類学者Z. K. マシューズを対象として、彼の政治思想の変遷をたどることで、人種間の協調という幻想が崩れ、暴力を伴う解放運動が黒人運動家たちに肯定されていく過程を明らかにする。 本章は、マシューズが、人種隔離政策を支持した「原住民」問題の専門家と人類学への関心を共有しながらも、政治姿勢としては大きく異なる立場をとった理由を明らかにする。具体的にはマシューズの「原住民法」への批判と、彼の政治活動の背後にある理念を結びつけることで、マシューズが、全人種が平等の権利を持つ南アフリカを目指し、そしてそれゆえにこそ暴力を肯定するに至る過程を明らかにした。
 終章では、本論文が対象とした「伝統」の再検討という観点から、アパルトヘイト終焉後25年を経た現在の南アフリカ社会を素描した。

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