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博士論文要旨

論文題目:暴動の文化史―18世紀ロンドンの論争、風刺、ジャーナリズムから―
著者:萩田 翔太郎 (HAGITA, Shotaro)
博士号取得年月日:2020年3月19日

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 論文構成(章立て)
序論
第1章 「サシェヴェレル暴動」―1710年の礼拝所取りこわしと党派論争―
第2章 「キャリコ裂き」―1719~20年の織布工の暴動と戦争報道―
第3章 「娼館の打破」―1749年の水兵の暴動と戦後社会―
第4章 「雇われた暴徒」―1768年の選挙干渉と急進主義―
結論
参考文献一覧
※ 参考図像は各章該当箇所に番外頁として挿入

 論文要旨
 本論文の目的は、暴動に注目し、それについて説明するという社会史研究の問題関心の歴史的背景を、初期の社会史が注目した18世紀ロンドンにおける類似の実践の中に探すことである。18世紀のロンドンでは、暴動は当時の社会のさまざまな問題を指摘するために、しばしば言及されるものだった。党派ごとに分断した社会関係や国内産業を圧迫する輸入品消費の拡大など、社会問題の原因または結果として、あるいは問題の性質を端的に示す指標として、暴動は報告され、議論された。そのことによって、実際に事件を目撃しなかった多くの人々(や現代の私たち)に伝えられた。本論文は、こうした報告や議論を分析することで、18世紀当時の人々がどのように事件を特定し、描写し、意味づけしたのか、その方法を理解しようとする。
 しかし、そもそもなぜ暴動なのか、そしてなぜ過去の方法を分析する必要があるのか、さらにそれで何が新しく言えるようになるのか。本論文はこの3点について次のように回答する。
 まず、暴動は社会史において、特に民衆の「声なき声」を聞き取ろうとする試みの中で注目されてきた。暴動に参加した人々の言おうとしていることを歴史叙述に反映させようとしたのだ。本論文はこうした試みに改めて積極的価値を認めたいのである。ただし、従来の研究を擁護することによってではなく、それと類似した実践を過去に再発見することによって。というのも、暴動に注目し、それに関与した人々の視点を活かしながら社会の抱える問題を論じようとする実践は、全く同一とは言えないまでも、暴動の社会史研究が対象とした18世紀にも存在していたからだ。その形式は、たとえば時事的パンフレットの論述であったり、新聞の論説や読者投稿であったり、雑誌に載った風刺的な版画であったり、さまざまであった。どれにも共通していたのは、暴動を通して普段は見えにくい問題の端緒を掴もうとする意識、逆に言えば、社会問題の一端が暴動に顕在化しているはずだという考え方である。こうした意識を発見することで、暴動について語ることを歴史的な現象として捉え直すことができるのである。
 このために、本論文は研究の焦点を暴動の事件それ自体からその説明の方法に焦点をずらす。事件の概要を把握するために歴史家が依拠してきた史料を、歴史研究のための材料としてではなく、歴史研究と同程度の水準にある知的活動の産物として扱い、それが暴動に意味を与える仕方を分析する。したがって、本論文の主な分析対象は、これまでの社会史研究でくり返し引用あるいは言及されてきた、決して目新しくはない史料となる。多くの場合、それは新聞のニュースである。それらについて、事件の概要ではなく説明の仕方に注意して、読解を試みる。なぜその事件なのか、それをどのような事件として描いているのか、そのうえで何を言おうとしているのか。こうしたことを問いながら、暴動が説明の中で果たしている役割を把握する。その結果、社会史研究が描いてきたものとは少し異なる暴動の姿が浮かび上がり、それによって18世紀の暴動の18世紀における意味を理解することになるのだ。そうして本論文は、民衆史あるいは労働運動史として展開した暴動の研究を、民衆あるいは労働者という存在を媒介として社会を批判的に考察する多様な文化的実践の一部に含め直すことを目指す。

 論文構成(内容概説)
 本論文は序論と結論および事例研究4章で構成される。事例研究では、各章で1つずつ、全部で4つの事例を扱う。選んだのはどれも先行研究で説明が難しいとされてきたものである。それらについて、先行研究がくり返し用いてきた同時代の史料を対象に、18世紀当時の説明がどのようにその難しさに対処していたかを分析する。
 序章では、問題提起と先行研究の整理を行い、「暴動」と「暴徒」という用語を解説し、史料としての新聞と風刺の関係性を論じた。
 先行研究整理では、暴動の研究史を大きく社会史研究と表象研究の2つに大別して紹介し、両者の接点が不明確な領域として18世紀前半の暴動を位置づけた。特に、暴動の研究が、19世紀末にギュスターヴ・ル=ボンらが提唱した「群衆」の問題への批判的応答として進展してきたことを指摘し、これに対し、18世紀当時の人々が暴動に関心を示す背景となった問題意識を掴み、18世紀の実践を研究史に接続するために、「暴動」という対象を改めて設定することの研究史的意義を強調した。それは、18世紀に一般的だった民衆蔑視を、方法として積極的に捉え直すことにつながるからであった。
 続いて、18世紀当時の「暴動」の意味を慣習法、1715年の騒擾法、OED、18世紀の辞書、文芸雑誌などを史料に確認し、その対象のあいまいさと多様さを描いた。特に、「暴動(riot)」が集団暴力という意味の他に「奢侈」の意味でも使われていたことから、言葉の意味だけで対象を特定することが困難であることを指摘した。このため、「暴動」とは何であるかを予め定義するのではなく、歴史家が暴動と呼んできたものを慣習として受け入れて、同じ事例について18世紀当時の説明を参照・比較し、両者の重なりとずれを把握するという研究手法を採用することを提案した。
 そして、18世紀当時の「説明」として、特にニュース報道と風刺に重きを置くことの利点を説明した。ニュース報道は、時間的に事件から直近の活字情報であり、パンフレットや版画の元になることが多かったため、事件の説明が「現実」として流布していく過程を追うのに適している。また、風刺はニュースの偏りを自覚して読むために18世紀の人々がしばしば採用した情報処理技術でもあった。このため、各章の分析では暴動のニュース報道を起点として関連する風刺と結び付けながら読み、暴動の「説明」をその背景のメディア環境を踏まえながら再構築することを目指すことにした。
 最後に、各事例研究に向かう準備として、「暴徒(mob)」という語彙の背景と機能を説明した。18世紀の暴動の説明に頻出するこの名称は、1670年代にジェームズ2世の王位継承に反対した「ウィッグ派」の街頭宣伝に動員された大衆を指す言葉として使われ始め、その後、特に暴力的な民衆の政治参加を指す言葉として一般化したものだった。暴動は暴徒が起こすもの、という一般的な理解のために、暴動の説明には有象無象の暴徒を代表させたモブ・キャラクターが登場し、彼らを介して腹話術的に事件の意味が語られたのだ。したがって、本論文は、この手法の1つの前提に党派論争があったことを指摘し、それが徐々に論争から離れ、急進主義の方法にまで受け継がれていくことを、4つの事例を通して示した。
 第1章では、1710年の礼拝所取り壊し暴動がウィッグ派とトーリー派による党派論争の中で果たした役割を分析した。礼拝所暴動とは1715年の騒擾法に特記された暴動であり、それは1690年代から続いていた宗教寛容と王位継承をめぐる論争の1つの争点であった。本章は、まず先行研究が参照してきた史料が論争的出版物であることを指摘し、そこに記録された事件の姿がどのような目的で準備されたものかを掘り下げて検討した。党派性に依った事件報道を歪曲報道として否定するのではなく、それぞれの陣営が求めた事件像を描くための方法の痕跡を留めたものとして積極的に利用することで、暴動について説明するという行為が一定の継続性と内実を備えた実践として定着する上で党派論争の果たした役割が大きかったことを認識することにつながった。その延長に歴史研究が存在するわけだが、18世紀の実践の特殊性は礼拝所暴動を党派論争の常態化と大衆の無差別な動員による社会秩序の混乱の例として描いていたことだった。論争の中で暴動に言及する際に、まさにその論争が生んだ無秩序の証拠として暴動を説明するという傾向は、この後も続いていくことになる。
 第2章では、1719~20年のスピタルフィールズの織布工によるキャリコ裂き暴動の説明が週刊新聞において戦争報道と並べられることでどのような機能を発揮したかを考察した。研究史において、この事件は男性生産者による女性消費者への暴力として議論されてきた。しかし、本章は当時の報道の多くが暴動を戦争に喩えたり、男女の邂逅の場面ではなく暴徒の集団行動や治安部隊との衝突場面を主に描いたりしていたことに注目した。これらの報道の背景に第1章でも扱った党派争いの延長戦と、当時のヨーロッパにおける国際戦争を想定することで、暴動の説明が戦争への批判を含意していたことが浮かび上がってきた。ところが、ファッションとジェンダーの問題が事件をめぐる議論の中心的な位置を占めるようになるにつれて、戦争の主題はこれに重なることなく後退していった。そして、こうした戦争の喩えとジェンダー化のすれ違いが起こるのに平行して、暴動の説明も徐々に党派論争の次元から離れてゆくことになった。女性の被害に当時の社会のジェンダー構造を読み取る現代の消費文化史は、こうした流れの延長上に存在するため、本章はその潮流に失われていた戦争風刺の文脈を混ぜるという視座を提案した。
 第3章では、1749年の退役水兵による娼館暴動がオーストリア継承戦争後の愛国主義と社会改革をめぐる議論の中で果たした役割を分析した。研究史において、この事件は近世から慣習として受け継がれていた告解の三が日の祝祭的制裁の儀礼が、街頭犯罪の急増に対する広範な恐怖を背景に急速に権力者の理解を失い、そうして司法を濫用することへの抗議運動が拡大する端緒に位置づけられてきた。しかし、当時の報道によれば、水兵はまず客として娼館を訪れ、金銭的な被害に遭ったことへの報復として家屋の取り壊しを行ったとされる。本章は、この説明が女性の責任のみを糾弾する近世以来の「売春」をめぐる言説と深く関わっていることを指摘し、水兵の暴動を窃盗と性売買業に対する代執行として理解することのジェンダーを浮かび上がらせた。その上で、この言説を半ば自覚的に援用する形で書かれた当時の暴動説明が、加害者の水兵、被害に遭った娼婦や業者、水兵を支持した近隣住民や通りすがりの傍観者などの雑多な人々の欺瞞を風刺することを目的としていたことを論じた。そうした特徴は、暴動を説明するという実践が、党派論争を離れ、帝国主義戦争と都市の娯楽文化を背景に、社会風刺の方法として成立していたことを示唆している。だが、司法権力に対する抗議運動の高まりは、水兵と性売買業者の共犯関係とともに、そうした風刺的な局面を置き去りにしていった。最後の章では、こうした抗議運動が常態化してゆく中で、風刺的局面が再登場することを確認する。
 第4章では、1768年の選挙干渉暴動がウィルクス派の急進主義運動に果たした役割を考察した。この事件は研究史において長く、主体性のない「雇われた暴徒」による凶行としてごく簡単に触れられる程度の扱いに留まっていた。本章はまず、この「雇われた」という否定的な修飾語句が18世紀の政治対立の場面で極めて戦略的に使われていた背景を照らし出した。そして、1768年の暴動の説明を含め、「雇われた」集団がしばしば拳闘士に喩えられていたことに注目し、これを党派性を主な対象とする懸賞格闘の風刺の伝統と組み合わせることで、研究史における否定の仕方との微妙な違いを浮かび上がらせた。懸賞格闘の風刺は、政治対立の舞台を当時低俗な劇場とみなされていた闘技場に喩えることで、勝者も敗者も同じ土俵を踏み同じ所作で相手を攻撃しているに過ぎないことを指摘するものだ。この風刺を背景に選挙暴動の説明を読むことで、急進主義が支持者内部の団結を高めることで「人民」の代表者たろうとする一方で、指示しない者の正当性を攻撃するという側面があったことを確認した。相手の忠誠心に疑義を挟む「雇われた」という修飾語句は、この攻撃的・党派的局面を目立たなくするために有効な戦略であった。そして、この団結性と攻撃性の分断が労働者の抗議運動の系譜と「雇われた暴徒」とを区別して説明してきた先行研究に接続する局面であることを指摘し、それが18世紀由来の風刺的な視座にもよって別の形に展開しえることを示唆した。
 結論では、4つの事例を通して描いた暴動の説明方法の特徴を振り返りながら、暴動を説明するという実践が正当性「なし」と判断された人々との批判的な関わりを通して社会の矛盾を描き出す試みであったとまとめた。本研究は、18世紀後半から19世紀の労働者による抗議運動から始まった暴動研究を、「モブ」という語彙が使われ始めた18世紀前半の党派論争の時代から語り直したものであった。「民衆」の立場を代弁する、「人民」を代表する、あるいは「労働者」自らが語るという、おそらくは18世紀末の急進主義の潮流の中から出てくる現象とは異なり、「群衆」を恩恵的な原理として積極的に利用しようとする表象とも、危険な状態として避けようとする世紀末以来の群衆恐怖症とも異なり、「暴徒」に関わることとは暴動に正当性を与えるものではなく、逆に正当性が与えられないからこそ言及する価値がある存在・現象との関わりを通して論争や社会批判の契機とするものであった。暴動の文化史、すなわち暴動の説明方法の研究は、暴徒がいかにして他者化されるか、それによってどのような役割を与えられるのかという問いかけを通して、社会史研究を事件当時から続く長い系譜の中に位置づけて、その歴史的・文化的意義を再発見してゆく実践であると言うことができる。

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