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博士論文要旨

論文題目:近世都市下層社会の形成と雇傭労働の展開
著者:市川 寛明 (ICHIKAWA, Hiroaki)
博士号取得年月日:2000年7月31日

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1 論文構成

 序章 本稿の課題と視角
  第1節 研究史の整理と課題の設定
  第2節 研究視角

 第1編 武家奉公人の出替化と都市下層社会の形成
 第1章 武家奉公人における「譜代制」の変質過程
  第1節 研究史の整理と課題の設定
  第2節 近世前期における家中奉公人の譜代的性格
  第3節 「出替奉公人の論理」の展開
  第4節 章括
 第2章 寛文期における武家奉公人確保政策の展開
  第1節 方法としての政策 ~経済的確保政策の意義~
  第2節 固定的給米公定政策の登場
  第3節 固定的給米公定政策の破綻
  第4節 変動的給米公定政策の登場
 第3章 近世前期における下層社会の流動性について
  第1節 近世前期における「下層社会的生存条件」
  第2節 サイクル型と放浪型
  第3節 流動の広域性
  第4節 移動の媒介
  第5節 『日用』の生業形態
  第6節 章括と展望
 第4章 都市下層社会の形成と家族の成立
  第1節 寛文期における都市下層社会
  第2節 都市下層社会における小家族の成立

 第2編 人宿経営の生成と展開
 第5章 米屋久右衛門家の歴史
  第1節 創業期の経営形態と出入関係
  第2節 2代目久右衛門
  第3節 家訓にみる経営理念
  第4節 章括
 第6章 米屋の家業構成
  第1節 「諸家公諸御用帳歳々記」
  第2節 長期的推移
  第3節 「家別請負」
  第4節 非「家別請負」
  第5節 幕末維新期における家業構成
  第6節 章括
 第7章 参覲交替の分析
  第1節 安政6年桑名藩の江戸参府
  第2節 参府行列の過程
  第3節 客観的に積算された収入
  第4節 利益構造
  第5節 章括
 第8章 門番の分析 -江戸城本丸大手門番の事例から-
  第1節 江戸城本丸大手門の勤役
  第2節 勤役形態
  第3節 収支構造
  第4節 高率収益のシステム
  第5節 章括

 終章 「近世都市下層社会の形成と雇傭労働の展開」結論
  第1節 総括
  第2節 搾取はなぜおきるのか

 2 各章 要旨

1)序章 《要旨》

第1節 研究史の整理と課題の設定

 第1項 本稿のテーマ

 本稿における問題関心は、一貫して近世の都市下層社会にあるが、取り組むべき課題群には、時期的にも、また問題設定のあり方についても、以下の2つの核が存在する。

 第1の核は、吉田伸之氏によって定式化された都市下層社会の主要な構成要素の二類型、すなわち「日用」層と裏店層、の形成過程を、17世紀後半に展開した武家における譜代奉公人の出替化という変化との関連で解明することである。第2の核は、18世紀以降の都市下層社会において人宿のもとにおかれた寄子=奉公人の一部において、その労働が著しい搾取労働として実現していた事実に着目し、かかる搾取労働がどのような社会関係のもとで実現していたのか、そのメカニズムを、当事者を構成する三者、すなわち、武家と奉公人、人宿と寄子、武家と人宿、の関係性とその変容プロセスのなかから究明しようとするものである。

 第2項 80年代以前の雇傭労働史研究と武家奉公人研究

 江戸における武家奉公人に関する研究史は、1980年代を境に大きく転換したと概ね捉えることができる。すなわち武家奉公人研究は、1980年代以前においては雇傭労働史研究の一環として位置づけられたが1) 、1980年代以降においては都市下層社会論の一環として議論されることが多くなり、研究視角の転換が行なわれたとが指摘できる。そこで武家奉公人に関する研究史を、1980年の以前と以後にわけて整理してゆきたい。

 (1)「譜代制から出替制へ」

 1980年以前における武家奉公人に関する最も重要な研究成果は、南和男氏の『江戸の社会構造』(塙書房、1969年)にまとめられた「武家奉公人の変質」2) 、「武家奉公人と人宿」3) 、「武家奉公人の実態」、「武家奉公人の欠落」という一連の研究成果である。「旧幕府引継書」や随筆類を駆使し、武家奉公人と人宿に関する様々な実態を明らかにした南氏の研究成果は、いまもなお実証的な価値を失っていない。

 南説の核心は、出替化を遂げた武家奉公人における極小化された雇傭期間=日雇形態と、その結果としての「賃銀労働者」化、という2点をもって、「享保期」における出替制への移行を近代的雇傭の萌芽として位置づけようとした点にあった。

 南和男氏の研究が発表された1960年代は、雇傭労働史研究に対する関心は高く、盛に論争も行なわれていたが、それらは賃労働の生成を視野にいれたために、その研究対象は、農村における雇傭労働に限定されていた。そのため雇傭労働史研究全体のなかにおける南説に対する関心は低く、森下徹氏の指摘するように「封建的雇傭のもとにあるなどとして特殊扱いされることが多かった」4) 。武家奉公人を素材とした雇傭労働史研究に対する特殊扱いが、南氏の研究成果に対する無関心に帰結するだけであればまだしも、当時の雇傭労働史研究は、賃労働の歴史的形成過程だけを課題とするあまり、不生産的労働を本質とする武家奉公人に対する固有の分析視角を持ちえなかった5) 。日本近世の雇傭労働史研究においてこの点が自覚化されたのは、次節で述べるように、吉田伸之氏が、その理論的根拠としていた岡田与好氏の研究視角の導入まで待たなければならなかった。

 第3項 都市下層社会論としての武家奉公人研究

 (1) 岡田与好氏の指摘-「日用」層概念の理論的支柱-

 岡田与好氏(『増補版 イギリス初期労働立法の歴史的展開』御茶の水書房、1961年)は、イギリス初期労働立法論においては、「資本とではなく、収入と交換される労働も、これまでの諸研究においては通常、「賃労働」と呼ばれ(中略)その結果、封建社会における雇傭動労の発展は、特に、貨幣「賃金」での雇傭労働の発展は直ちに資本・賃労働関係の発展と同一視され」る理論的な欠陥を有していたことを的確に指摘していたが、そのような理論的欠陥は1980年代以前の日本近世雇傭労働史研究にもそのままあてはまる。

 正徳・享保期の江戸においてみられた出替奉公人に近代的な賃労働の萌芽を見いだした南氏の研究が、農村における奉公人を素材とした雇傭労働史研究の主流からは全く省みられることはなかった背景には、日本近世史研究に携わる多くの研究者も、賃労働に対する同様の錯誤からら免れえなかったことを示していると思われる。

 最も著しい場合には、その日限りという極短い期間に、貨幣を支払形態として雇傭される自由な労働者は、農村において小商品生産に携わる奉公人であれば、近代の賃労働の萌芽として位置づけられてきた。南氏は、都市の武家奉公人に対しても、それが全く同様の形態を持つが故に、農村奉公人同様に近代の萌芽を見いだそうとしたにすぎない。外見的には極めて類似する、これらの奉公人において決定的に異なるのは、労働過程における価値の増殖過程の有無、すなわち剰余価値の生産の有無である。農村における奉公人が資本と交換される労働力の担い手であるのに対して、武家奉公人のそれは、貨幣と交換される労働力であった。売却を目的とした小商品の生産的労働にのみ注目し、不生産的労働をとりあげなかったのは史的唯物論における問題構成に規定された結果であり、労働価値説を核とするマルクス主義歴史学にとって宿命的であったと考える。労働力が商品化した社会において、販売された労働力とその対価=賃銀とが市場における価値法則どおり交換されながらも、結果的に資本家側に剰余価値=資本が形成されるメカニズムを解明したのは、経済学および歴史学理論史におけるマルクスの輝かしき功績のひとつであったが、労働価値説を核とするマルクスの理論における価値増殖過程は、売却目的で生産される商品=交換価値の製造過程であり、使用価値しか生産しない不生産的労働が問題とされることはなかった。

 ここで南氏が、不生産的労働の担い手にすぎない武家奉公人の労働力を、その表面的な形態によって近代的賃労働の萌芽として理解する錯誤に陥った理由は明らかであろう。他方農村の奉公人分析を進めていた雇傭労働史研究の側も南氏の錯誤を理論的に批判することを怠ったのであり、それは敢えて行わなかったのではなく、両者の範疇的な差異に無自覚であったために、明確な批判をすることができなかったとみるべきと考える。

 日本近世史研究における雇傭労働史研究においては、出替化や日雇化を遂げた武家奉公人の貨幣による賃金形態という表象にまどわされて、近代的プロレタリアートとの範疇的な差異を正しく認識できなかったが故に、農村における奉公人の雇傭とは別個の日雇労働力として、これを正しく位置づける視角に欠けていたのである。

 (2) 吉田伸之の都市下層社会論の登場

 1990年代も最終局面にさしかかっている現在からみても、1980年代半ばは、近世都市史研究にとっても大きな転換期であったように思われる。吉田伸之氏がその後の都市史研究の方向性を規定づける画期的な報告「近世都市下層社会の存立構造」行ったのは1984年度の歴史学研究会大会においてであり、その後佐々木潤之介氏との論争のなかで、先に紹介した岡田氏の指摘を援用しながら、出替の武家奉公人と都市社会に広汎にみられた日用者とを、労働力の等質性を根拠として、同一範疇として一括する「日用」層概念を確立したのは、1985年11月の『歴史学研究』誌上であった6)。吉田氏は、この一連の研究のなかで「日用」層と裏店層とを中核とする都市下層社会論を展開していった。

 その後の吉田伸之氏の研究は、身分制研究の塚田孝氏との相互批判のなかから、巨大都市の社会構造を分析するうえで不可欠の視座を次々と提起していったが、それらの議論の中核に位置付くのは、1998年の吉田氏の著書『近世都市社会の身分構造』に示されるように、「日用」層論に基礎を置く身分制論であった。吉田氏は、「役の体系」論を中核とする身分制論を前提に、「日用」層を近世社会の身分的編成原理である「役の体系にとって不可欠の存在」として位置づけることによって、「日用」層を「身分と身分制をほりくずす」(塚田孝氏『身分制社会と市民社会』1992年)「即時的変革主体」と性格づけることによって、身分制社会の解体から市民社会の形成を展望しうる理論構成を獲得するに至っている。ここでは、資本制社会の形成過程を分解論などを軸に据えて追及してきた従来の近世史研究のパラダイム転換をよみとることができる。吉田氏が行ってきた一連の研究は、このような大きな枠組みをともなっているために多くの研究者を魅了し、都市史研究の隆盛を現出していった。森下徹氏7) や松本良太氏などは、吉田氏の提起した枠組のなかで、武家奉公人を素材とした魅力ある研究を次々と展開していった。

 しかし吉田氏が切り開いた研究の新局面に対して一定の疑問がないわけではない。「日用」層を、身分制社会を掘り崩す「媒体」として位置づける身分制社会解体の論理では、身分制社会の解体については一定度の説明がつくが、市民社会形成の回路が、そこには埋め込まれていないように思われる8) 。

 それにもまして、南氏の学説は、賃労働概念に対する不正確な理解に基づくことによって、出替奉公人を賃労働の萌芽として位置付けるという決定的な誤謬を構造的な抱え込むことになったが、それにもかかわらず武家・奉公人関係、あるいは人宿・寄子関係論の質とその変化を重視する関係論的な視座は、寄子の搾取のメカニズムを人宿、寄子(奉公人)、武家との3者の関係とその変容の過程から考えようとする本稿の課題意識からすれば、不可欠の重要な研究成果と位置付けられる。1980年代以降に展開した都市下層社会論の理論的成果をうけて研究に着手した筆者にとって、実証的な成果であると同時に理論的には訂正されるべき点を含みながら、かつ関係論という重要な方法的成果をもった南氏の学説は、本稿の直接的な原点となる重要な研究成果であり、座標軸でもあった。しかし筆者が学んだ都市下層社会論は、その後身分制論という研究史の地平を開拓してはゆくものの、南氏の学説からは遠ざかっていった。その結果、吉田氏をはじめ、その理論的影響下に研究成果をあげていった森下氏、松本氏には、南氏の学説、なかんずく関係論に関する評価が存在しない9) 。そのため寄子の搾取労働がどのようなメカニズムのもと発生するのか、を関係論の立場から究明しようとする本稿の問題意識と身分制論との接点を見出すことができずにいる。そのため本稿では身分制論(「役の体系」論)の一環として武家奉公人論及び都市下層社会論を展開するものではなく、その延長線上に位置付く一連の武家奉公人研究とは研究の方向性を異にする。

第2節 課題の設定

 第1項 第1編における課題

 (1) 出替化と「日用」層・裏店層の形成

 吉田伸之氏は、都市下層社会の構成要素として裏店層と「日用」層の2類型を概念化している。吉田氏の指摘に学べば、裏店層と「日用」層との形態上の差異は、「日用」層の本質が寄留人として単身で存在するのに対して、裏店層は、店借・地借の主体であり、多くの場合小家族を形成している点である。吉田氏は、裏店層と「日用」層を類型論として論じているが、未だその2つの類型がどのように形成されてくるのか、については述べていない。そこで本稿では、裏店層と「日用」層の形成過程の解明を課題のひとつとする。

 (2)「日用」層の形成過程について

 「一季・半季の出替奉公人」と「単純肉体労働販売者である日用」とが「日用」層として一括しうるのは、両者の労働力が使用価値を生産する用役給付労働である点に求められる。一方で用役給付労働とは、「前ブルジョワ的段階において、奴隷制ないしは、農奴制の関係が止揚されている状態」における、二重の意味で「自由」な労働力であった10) 。これに対して武家における譜代奉公人は『政談』の指摘にあるように奴婢であり、「日用」層概念が成立するためには、武家の譜代奉公人が出替化を遂げるなかでその労働力の奴隷的な性格を払拭し、「自由」な労働力となることが前提となる。

 このように考えると、「日用」層の形成過程は、その一方の構成要素である武家奉公人の出替化の過程であるといえる11) 。しかし南和男氏が提起した正徳・享保期を画期とする「譜代制から出替制へ」という学説を参照するかぎり、「日用」層概念が成立する画期は、正徳・享保期とならざるを得ない。これに対して脇田修氏や高木昭作氏の研究成果などに依拠しながら、近世社会は初期から出替制段階であると評価する風潮もあり、一方で吉田氏は、都市下層社会の形成を17世紀後半とみるなど著しい見解の齟齬が指摘できるのである。そこで「日用」層の形成を解明するためにも、南氏が提起した「譜代制から出替制」への移行の画期を再検討する必要があり、これを本稿の課題のひとつとする。

 (3) 裏店層の形成

 「日用」層との対比における裏店層の特徴は、家族の有無があげられる。従がって裏店層の形成過程は、都市下層社会における家族の成立論として描かれる必要がある。しかしイエや家族に関する研究は、農村や貴族・武家、もしくは巨大商家に限定されており、都市下層社会における家族研究は未開拓の分野である。

 第2項 第2編における課題

 (1) 対象の限定 -搾取される寄子-

 江戸における武家奉公人をめぐって様々に発生した社会問題は、何らかのかたちで出替化を遂げた武家奉公人(人宿からみた寄子)の欠落が絡む。その意味では欠落は江戸の都市社会にける武家奉公人問題の核心であったといえる。

 さてこの欠落問題に対して寄子がどのようなかたちでかかわったのか、という観点からみるれば、自らの利益のために欠落を繰り返す加害者と部屋頭層によって搾取される被害者の側面という両面が存在したのである。寄子の搾取対象としての側面に注目して、改めて関係史料と研究史をふりかえるとき、寄子に対する中間搾取が、多くの場合、松本良太氏が指摘する「部屋的構造」12) のなかで起きていることに気付く。例えば典型的な搾取の事例は、部屋頭のもとで「無給金」で働いた「部屋子」に対するものである。無給金で部屋頭に使役される部屋子は、給金の取得を目的として欠落を繰り返す寄子とは対極的な存在の形態であった。この部屋子は、なぜ無給金で使役されたのであろうか。またなぜすぐにも欠落しないのであろうか。残念ながらこれらの疑問に答えうる蓄積を持ってはいない。しかし藩邸などに代表される多数の寄子が部屋的な構造のもとに置かれた場合、そこには末端の寄子に対する搾取労働が実現していたという事実は間違いなく存在した。そこで本稿では分析の対象を次のように限定する。本稿では、寄子に対する典型的な搾取が展開した多数の直属奉公人が規模の大きな人宿によって一手請され、部屋的な構造をなしているような場合を取り上げ、そこでの搾取がどのような社会関係の許で実現しているのか、を問題とする。しかし部屋的構造下におけ寄子の搾取を問題とする時、従来は大きな史料的な限界が存在した。部屋頭を擁する大規模な人宿はいうまでもなく、人宿に関する一切の経営分析が史料的限界によって存在しなかった点にある。本稿では幸にも、六組飛脚屋仲間と人宿を兼帯する米屋久右衛門家文書を分析の俎上に乗せることができたので、部屋的構造を有する大規模人宿の経営の貴重な事例として、その実態を明らかにすることをあわせて課題とする。

 (2) 寄子に対する搾取がなぜ問題となるのか

 大規模な人宿の下におかれた寄子が、部屋頭から著しく搾取される実態については、60年代における南氏の研究において明らかにされてきた既知の事実に属するが、南氏その搾取を当然視するがあまり、かかる搾取がなぜ起きるのか、という課題設定をすることがなかった。その後展開した吉田氏の理論的貢献によって、寄子の搾取労働は、改めて理論的に分析する視座を得たと筆者は考えるが、その後の研究史は寄子に対する搾取労働のメカニズムの解明という方向には進まなかった。本稿第2編では、従来問題としてされなかった寄子に対する搾取労働を次のような観点から問題として取り上げる。

 出替奉公人に近代の賃労働の萌芽を見出した南氏は、資本制下の搾取された賃労働者のイメージを寄子に投影したため寄子に対する搾取労働を当然視し、搾取が発生するメカニズムを解明しようとする課題意識をもつことができなかった。人宿=寄親による寄子に対する搾取について、南氏は「右のように請人である人宿とその寄子である武家奉公人との関係は、親方子方的関係はみられず、まったく形式化していたのである」という指摘にあらわれているように、搾取の事実に対して寄親寄子関係の形骸化という評価を下すのみで、それを問題視しえなかったのである。

 では吉田氏が達成した理論的貢献によって、従来当然視されてきた寄子に対する搾取は、どのような意味において問題とされなければならないのであろうか。

 (3)「奴隷包摂社会論」の提起

 筆者が人宿のもとに置かれた寄子の搾取労働について関心を持つ契機となったのは、1995年度の歴史学研究会大会における「奴隷包摂社会論」であった(『歴史学研究』664号、1994年)。「奴隷包摂社会論」は、生産関係論的な発想から奴隷の存在を解放し、古代から近代までの長いスパンで奴隷の存在を見出そうとするものであった。

 寄子の搾取労働に関する疑問を漠然と抱いていた筆者にとって奴隷包摂社会論は、搾取労働を研究する方法について再考する機会を与えてくれた。筆者にとって奴隷包摂社会論の視座は、生産関係論の呪縛から奴隷制研究を解き放し、生産的労働に携わる奴隷(生産奴隷)だけでなく家内労働に従事する奴隷(家事奴隷)の存在にも注目する役割を果たした。特に本稿との関連でいえば、過酷な奴隷労働が実現していた社会を「古代ローマおよびアメリカ大陸の特定の時期・地域に極小化」して理解し、これに比して、法的地位は「人」ではなく所有の対象である「モノ」であるという奴隷の本質的な定義どおりの存在形態である家事奴隷に対しては必ずしも搾取が実現していないという点であった。奴隷といえば搾取の対象としてミゼラブルな姿だけを思い浮かべる貧困な奴隷イメージしか持ち合わせない筆者にとって、奴隷は奴隷であるから搾取されるのだ、という奴隷に対する搾取を当然視する結果、搾取の原理に関する追及の目を持つことができなかった。搾取された生産奴隷と搾取されなかった家事奴隷の運命を分けたものは何であったのか、奴隷包摂社会論は、人間の人間に対する搾取がどのようなメカニズムで起きるのか、搾取労働とは何かという疑問を、筆者にとって古くて新しい問題とする契機となった。

 (4) マルクスの指摘

 奴隷は、奴隷であるが故に搾取されるのではないとすれば、同じ奴隷に対する搾取労働の有無を左右する原因は何であったのか。このような疑問を設定して研究史をふりかえってみると、マルクスが『資本論』のなかで述べている次の指摘は実に新鮮でかつ興味深い。

 とはいえ、ある経済的社会構成体のなかで生産物の交換価値ではなく使用価値の方が重きをなしている場合には、剰余労働は諸欲望の狭いにせよ広いにせよとにかく或る範囲によって制限されており、剰余労働に対する無制限な欲望は生産そのものの性格からは生じないことは明かである。それだから、古代でも、交換価値をその独立の貨幣姿態で獲得しようとする場合、すなわち金銀の生産では、恐ろしいまでに過度労働が現るのである。そこでは致死労働の強制が過度労働の公認の形態なのである。それは、シチリアのディオドロスを読んだだけでもわかる。といってもこれは古代世界では例外である。ところがその生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行なわれている諸民族が、資本主義的生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事にまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残虐の上に、過度労働の文明化された残虐がつぎ木されるのである。それだから、アメリカ合衆国の南部諸州の黒人労働も、生産が主として直接的自家需要のためのものだったあいだは、適度な家長制的な性格を保存していたのである。ところが、綿花の輸出が南部諸州の死活問題になってきたのにつれて、黒人に過度労働をさせること、所によっては黒人の生命を七年間の労働で消費していまうことが、計算の上に立って計算する方式の要因になったのである。もはや、いくらかの量の有用な生産物を黒人から引き出すことが肝要なのではなかった。いまや肝要なのは剰余価値そのものの生産だった。夫役についても、例えばドナウ諸侯国でのそれについても、同じことである。13)

 ここで注目したいのは以下の点である。第1に「剰余労働に対する無制限な欲望は生産そのものの性格からは生じ」るものではなく、搾取労働は、その労働によって生み出された生産物が交換価値をもつか否かによって決まること。アメリカの黒人奴隷の事例でさえ、搾取労働が実現するのは、彼らが黒人奴隷であったからではなく、彼らの労働が、自家需要のための労働=使用価値を生産する労働から、世界市場における商品を生産するための労働=交換価値を生産する労働へと変化したためであった。第2に、労働に対する搾取を引き起こす契機としての役割を市場が果たすこと。使用価値の生産に重きを置いている社会(典型的には自給自足の農村社会)においては、剰余労働に対する欲望は一定度に制限されているが、この社会が市場に包摂され、労働の生産物が、市場にいて価値を持ちはじめると、その労働はもはや使用価値を生産するのではなく交換価値を生産する剰余労働となり、労働への搾取が行なわれる。

 ここでのマルクスの主張に学べば、奴隷は奴隷であるが故に搾取されるのではない。奴隷が使用価値の生産に従事する限り「適度な家長制的な性格を保存」し、搾取労働が展開することはない。しかしこのような「家長制」が世界市場に包摂されることによって、奴隷の労働が綿花という交換価値を生み出すようになると、家長の剰余価値に対する欲望が無制限に発露されるようになり、搾取労働が実現するという。すなわち搾取された労働と搾取されなかった労働を分かったのは、その労働が交換価値を生産するのか否か、という点に存在したのである。

 (5) 寄子はなぜ搾取されたのか

 以上を前提として、日本近世史に目を転じよう。吉田伸之氏は、寄子の労働力の性格に関連して次のような重要な指摘を行なっている。

 自由な労働力が、労働力の販売を実現する場合、そこでの交換は、使用価値相互の交換にすぎず、これを賃労働との対比で、用役給付(労働)と規定できること。これから、前近代におけるプロレタリア的要素とは、本源的には、かかる用役給付の内容をもつ、自由な労働力販売の形成・存在という点に見出すことが可能であり、必要であろう14) 。

 吉田氏による理論的な達成は、二重の意味で「自由な」労働力である「芽ばえたばかりのプロレタリア的要素」=「日用」層の主要な構成要素であるところの寄子の労働力が、その質からみれば、使用価値を生産する用役給付労働であることを明解に指摘した点であった。

 しかし寄子の労働力が吉田氏の指摘するように使用価値を生産する用役給付労働であっとするならば、寄子の労働はなぜ搾取されたのであろうか。

 ここおいて漸く従来当然視されてきた寄子の搾取は、新たな疑問として捉えることができるようになったのである。

 第2編では、人宿-寄子関係、武士-人宿関係、武士-奉公人(寄子)関係という3者の相互関係のなかから、寄子が搾取されるメカニズムを解明しようとするものである。しかしそのように課題を設定した場合、最も史料的に困難であったのは、武家―人宿関係の分析であった。それは人宿の経営史料の現存が確認されなかったという史料的限界に起因している。しかし今回は、特殊な人宿である米屋久右衛門家文書を分析する機会を得たので、第2編における課題として特殊な人宿である米屋久右衛門家の経営実態について明らかにすることをあげておきたい。しかし米屋久右衛門家文書によって人宿-武家関係を具体的に分析することに成功したが、米屋文書の史料的限界によって、人宿―寄子関係を分析することができなかった。

第3節 研究視角

 本稿は、都市下層社会の展開を、武家奉公人をめぐる社会関係の変遷との関わりにおいて跡付け、そのなかで寄子に対する人宿の搾取メカニズムを解明しようとするものである。そこで必要な分析視角は、先に参照したマルクスの指摘のとおり、市場論と関係論であると考える。

 第1項 市場論

 戦後の日本近世史研究における雇傭労働史研究のながれをふりかえる時、痛感せざるをえないのは、その研究対象が生産的労働の場面における雇傭労働にのみに集中したという事実である。もちろんこれは当時の社会的要請に基づいて研究であたが故に、問題関心が集中し、その結果雇雇傭労働に関する研究史は飛躍的な進展をみた。しかしその反動で生産的労働ではない場面における雇傭労働を歴史的にどのように位置づけるのか、という問題関心に希薄であった。

 生産的労働に従事する雇傭労働を対象とする雇傭労働史研究においては、生産力、生産関係、生産過程など、総じて生産論的な研究視角が重視された。これに対して、本稿が分析対象とする武家奉公人のように不生産的労働に属する雇傭労働を対象とした研究において重視されるべきは、生産論に対して市場論であると考える。とくに雇傭関係や労働過程の変容プロセスなど、総じて変化の側面を捉えるための研究視角として市場論は不可欠な分析視角となりうると考える。

 流通史研究で重要な研究業績を残された渡辺信夫氏は、佐々木潤之介「幕藩体制下の農業構造と村方地主」(古島敏雄編『日本地主制史研究』岩波書店)に対するコメントとして「しかし労働力を雇傭主体のもつ土地関係によって規定することは正しいであろうか」と批判し、「労働力の市場関係の中から、雇傭労働の展開過程=運動法則を検討すべき」15) ことを提起していたが、この提起がその後の雇傭労働史研究に生かされることはなかった。

 本稿においても不生産的労働に対する研究視角は、市場論の視角なしにはありえないと考える。寄子の労働力は、その労働力に対して市場価値が生まれるか否かによって決定的にその性質を異にすると考えるからである。したがって本稿では、寄子の払底状況について重大な関心をよせ、寛文期の岡山藩における家中奉公人確保政策について言及する。

 第2項 関係論

 武家奉公人に関する基礎的研究業績を残した南和男氏の研究業績のうち、実証部分はその後の研究のなかで高く評価されたが、その歴史的評価は継承されることがなかった。筆者も南氏の学説のうち「譜代制から出替制へ」という変化に関する歴史的評価についてはこれを全面的に批判する立場にたつ。しかし南氏の方法論については、これに学び、批判的に継承すべき点があると考える。それは武家と奉公人との関係性の変化に注目する関係論的視座である。南氏の武家と奉公人の関係変化をとらえた「譜代制から出替制へ」という学説に対しては、同じ武家奉公人を素材としつつも、都市下層社会論から身分制社会論へと展開していった近年の研究史の動向との間に接点がない16) 。その理由は、役論を根底に置く身分制社会論の視座とのスタンスの違いなど、その理由は幾つかあげられるが、筆者は高木昭作氏の一季居に関する研究による影響が大きかったと考える。高木昭作氏は、「いわゆる『身分法令』と『一季居』禁令」17)において、一季居禁令=年季奉公人禁止という従来の解釈を批判して次のように結論している。すなわち一季居とは「要するに日限が過ぎても主取りをしないで江戸に滞留しており、かつ家持などの請人のいない身許不慥かな階層」のことであると結論し、また「まず確認すべきは幕府は当初から一年季の奉公人を否定していなかった」と指摘している。高木氏の研究は、江戸時代初期において一年季の武家奉公人が社会不安の原因となるほど存在していたことを主張するものであり、そこでの立場は、直接言及しないものの、近世社会の成立と出替制への移行は同時期であるとも読める。

 これらの研究成果を参照すれば、「譜代制から出替制へ」という図式は、南氏の主張する正徳・享保期ではなく、近世成立期、あるいは戦国期まで遡る可能性を示唆する。近年の研究成果が南氏の「譜代制から出替制へ」という学説にコメントしないのは、かかる研究成果の存在に起因しているものと考える。

 これに対して本稿では、出替制を奉公人の流動性の観点からのみ評価するのではなく、あくまで主従間の関係性の観点から評価しなければならないという立場にたつ。譜代奉公人から出替奉公人への移行の本質的な変化は、人的関係の物的関係への変化としてとらえなければならない。筆者は、関係性への留意なく、外面的な流動性にのみ注目すると、出替制への変化を見誤る恐れがあると考える。なぜならば奉公人の流動性に着目することによっては、出替制への移行を考えることは困難に直面せざるをえないと考えるからである。流動性ではなく、あくまで関係性の質に着目しなければならないと考える理由は、流動性に着目する限り、忠誠を尽くすに相応しい主人を求めて移動する渡り奉公人と戦場を稼ぎの場としてとらえ食扶持や戦利品を求めて渡りあるく奉公人との区別が出来ないからである。

 2)第1章 武家奉公人における「譜代制」の変質過程 《要旨》

 本章では武士と家中奉公人との関係性に注目し、従来指摘されることがなかった、その関係変化の過程を跡付けることによって、17世紀前半が、譜代制から出替制への漸次的な移行期であることを明らかにすることを目的とした。

 まず、近世初期の地方知行制段階における武家奉公人が、百姓に対する徴発によって充足され、地方知行制が消滅していく段階において出替制へと移行していったとする学説史上の見解(徴発から出替制へ)に対して、戦国期の譜代制段階ですら、家中奉公人が百姓からの徴発によって確保されたのではなかったことを根拠に、家中奉公人の変化の方向性が「徴発から出替制へ」ではなく「譜代制から出替制へ」であったことをあらためて主張した。

 第2に出替的形態をとる奉公人の存在をもって近世初期を出替制として理解する見解に対して、出替奉公人の本質的な性格規定は、主従間における物的な関係性にあることを主張し、次のような反証をあげた。1)近世初期の若党やの存在形態を検討し、それが出替制段階における若党よりも、むしろ戦国期における若党と近似的であったこと、2)近世初期の段階において、出替的な形態をとりつつ、主従間の関係性は人的な性格をもっている家中奉公人が存在したこと。したがって近世初期の段階は、譜代制から出替制にいたる過渡的な段階として設定されなければならない。

 主従関係の物化の過程においては、奉公人は、より高い給米を求めて出替を繰り返すようになり、主人に対する無償・無私の忠誠をもって奉公することが美徳とされた封建道徳が形骸化し、奉公人は自らの労働を最低限必要な範囲に限定しようとする傾向があらわれた。具体的には「鑓持は鑓しか持たない」とする自己主張としてあらわれ、本稿ではそれを「出替奉公人の論理」と呼んだ。「出替奉公人の論理」が横行する寛文期は、出替制段階への移行を示すものとして位置付けられる。

 3)第2章 寛文期のおける武家奉公人確保政策の展開 《要旨》

 本章は、寛文期の岡山藩で実現していた家中奉公人の払底とそれへの対応策として全藩規模で展開した家中奉公人確保政策の実態を明らかにし、そのような全藩的な家中奉公人確保政策が展開せざるをえなくなった寛文期を「譜代制から出替制へ」の画期として位置づけようとした。

 寛文期に展開した家中奉公人の確保政策は、家中奉公人の払底によって騰貴した奉公人給米を抑制するため、標準的な給金を藩が固定しようとする政策となって現われた。それは給米の高騰を防ぐことによって家中の武士が奉公人を確保しやすくするものであった。

 しかしかかる政策によって固定的された給米は、様々な要因によって変動する現実の給米相場との乖離が発生し、場合によっては公定給米が相場よりも高くなってしまう場合も発生していた。このような欠点を補正するため、藩が一律に決定する年貢賦課率と給米とを連動させることによって、変動的給米公定政策を行なった。

 このように寛文期の岡山藩では、家中奉公人の払底が本格化しその給米が高騰すると、奉公人の確保をめぐって困難をかかえる家臣団を救済するために、家中奉公人確保政策を展開した。その政策の注目すべきは、経済外的な強制によって確保しようとするものではなく、給米のコントロールによって家中奉公人を確保しようとする経済政策であったという点にあり、それは武士と家中奉公人との関係が物化しつつあったことを示していた。本稿ではかかる家中奉公人確保政策の存在をもって、出替制段階への移行の画期として位置けた。その結果「普代制から出替制へ」の移行の画期を正徳・享保期とする南和男氏の学説を批判し、その画期が寛文期にもとめられることを主張した。

 4) 第3章 近世前期における下層社会の流動性について 《要旨》

 本章では、17世紀後半の下層社会において、藩領域を越えて移動する流動性の高い下層社民の存在が確認された(=『日用』)。『日用』は、武士や百姓のイエ、村落・町共同体から疎外され、一切の生産手段の所有からも疎外された存在であったが、(武家)奉公・小商・日用を組合わせることによって不安定ながら生命を維持することが可能であった。

 しかし『日用』の経営は、常に不安定であった。その原因は、かれらの生業、(武家)奉公・小商・日用の未成熟さにもとめられる。かれらにとって生命を維持するための最も有力な生業は、武家奉公であった。しかし請人の確保が困難であったこと、人宿が未成熟であったこと、によって奉公に有付く機会は個々の才覚と偶然によって大きく規定されていた。奉公に次ぐ生業は、多くの場合小商と日用の組合わせとして存在し、それぞれが単独で成立するほどの成熟がみられず、相互を補完的に組合わせることによってようやく生業として成立した。

 近世初期の段階で出替的な形態をとる奉公人が存在しえたことは、「下層社会的生存条件」が形成されていたからである。しかし「下層社会的生存条件」が一層の成熟を遂げると、次第に武家奉公よりも小商・日用の方に経済的安定度が発生し、武家奉公から小商・日用への移動がおこる。寛文期に検出された家中奉公人の「日用」化はこのような原理によって発生した。かかる経済的成熟によって、「日用」化による恒常的な家中奉公人の払底、主従間の関係性の物化が同時に実現する。家中奉公人の払底をうけて生業として人宿が成立し、その一方で『日用』も借屋に定着し小商、日用を家業としておこなう層が成立しはじめる。このよにして「日用」層と裏店層が成立する。

 5) 第4章 都市下層社会の形成と家族の成立  《要旨》

 本章では、家中奉公人の払底原因と、都市下層社会の成立とが内的関連をもって展開していたことを明らかにした。

 寛文期の岡山では、借屋数の増加によって都市下層社会が形成されはじめていた。その一方で、農村に出自をもち、武家奉公人・小商・日用稼ぎなどを組み合わせながら広域的に流動する下層民が存在しうるようになっていた。出替化しつつあった家中奉公人は、それらの流動的な下層民を奉公人の供給源としていった。しかしその一方で出替化しつつあった家中奉公人男女の間に、相互の自由な合意にもとづく婚姻=「相対」婚が広く浸透し始めると、奉公人は次第に家中奉公から離脱しはじめ、家中奉公人の払底を引き起こしていった。

 家中奉公を離脱した奉公人は、同居小家族として岡山の借屋層を形成していった。寛文期における岡山の借屋数の増加は、かから実態によってもたらされていった。これらの層は、小さいながら家族をともない、小商・日用を生業とした(=裏店層)。 これ対して岡山藩は、家中奉公人払底の要因となっていた裏店層への転化を規制するため、「相対」婚を媒人の介在を強制することによって規制しようとした。

 6) 第5章 米屋久右衛門家の歴史 《要旨》

 本章は、米屋久右衛門家を事例にして、従来明らかにされてこなかった人宿の成立・発展の過程を武家―人宿関係の変容プロセスとの関連で解明することを課題とした。

 初代米屋久右衛門は、丹後田辺藩領向当原村の在地土豪の系譜を引く名主田中家の傍系庶子に出自をもっていた。初代久右衛門は、妻のもつ藩主との縁によって藩主牧野英成の「御伽」を勤めたことから藩主との個人的な情誼関係を構築した。やがて初代久右衛門は藩主の命によって江戸に召し出され、江戸藩邸出入りの米商人として米屋を創業した。

 米商人として始まった米屋を、特殊な人宿として確立したのは、2代目久右衛門の業績であった。2代目久右衛門は、参覲交代の道中において必要となる必要動労の請負(六組飛脚屋仲間)と江戸における大名勤役で必要となる雇傭労働の請負(人宿)とを兼帯し米屋の家業を確立した。

 2代目久右衛門は、米屋の業態を確立したばかりでなく、丹後田辺藩牧野家を皮切りに、福島藩板倉家、吉田藩松平家、白河藩松平家、大多喜藩松平家などその後幕末まで続く、米屋の経営にとって不可欠の主要出入り先との関係を構築していった。

 2代目久右衛門の出入り先を開拓する手法には、1)養子関係を利用したもの、2)入札によるもの、3)入札を機に信任をえた後、出入り関係まで発展したもの、などがみられた。2代目久右衛門は、その人的な魅力をもって各藩主との直接的な情誼関係を結び、それを梃子に出入り先を拡大していった。

 2代目久右衛門の活躍によって米屋に家業が確立すると川瀬石町に屋敷を購入し、家名・家産・家業をもつ非人格的な経営体であるところのイエとして米屋を確立した。米屋におけるイエの確立を最も顕著に示したのは、2代目久右衛門による家訓の制定であった。家訓において縷々その重要性が強調されていたのは、藩主との直接的な情誼関係ではなく、家臣団に対する進物の重要性であった。藩主との直接的な交友の際に必須の教養・学問の必要性を否定し、営利行為として家業を肯定し、家臣団に対する進物の重要性を説く家訓は、藩主との直接的情誼関係を梃子に出入り先を拡大してきた2代目久右衛門の手法を否定するものであった。

 米屋がイエとして家業を確立すると、米屋と大名家の関係は、当主と藩主との個人的な情誼関係からイエとイエの商売上の関係へと変質していった。藩主個人との直接的な情誼関係の存在によって一定度抑制されたと思われる営利への欲求が、かかる関係変化と家業への精勤の名のもとに肯定されるようになっていった。

 7) 第6章 米屋の家業構成 《要旨》

 本章では、確立された米屋の家業の全体構成を明らかにすることを目的とした。

 幕末維新期における米屋の家業は、(1)奉公人差配、(2)賄、(3)借屋経営、(4)醤油販売、からなっていた。このうち最も大きな収益をあげる業務の中核は、(1)の奉公人差配であった。奉公人差配とは、大名が必要とする寄子を確保し、請け負い業務の現場における寄子の管理であった。(2)は賄であり、これは調理から配膳まで含む食事の用意であった。(1)(2)は、すべて大名からの請け負いであり、実際には(1)、(2)を単独で請け負う場合と(1)(2)を組み合わせて請け負う場合があった。と(2)の具体的な内容は、米屋の経営帳簿リストである「諸家公諸御用帳歳々記」から分析した結果、次のようであった。

 A 「家別請負」(全件数の90%)
 a)行列系(六組飛脚屋仲間としての側面)
 1)「参覲」=参覲交代の必要労働の請け負い。全件数の42%を占める家業の中核。
 2)「遠国」=遠国奉行として赴任・帰任する際の必要労働の請け負い。
 3)「日光」=日光代参などのために江戸と日光を往復する際の必要労働の請け負い。
 b)門番・御固系(人宿としての側面)
 1)「門番」=本丸大手門の門番などの必要労働。賄・「火番」を伴なう。
 2)「上野・芝」=将軍が寛永寺・増上寺へ御成する際に動員される大名の必要労働の請け負い。賄を伴なう場合が多い。
 3)「火番」=大名加役としての火番の必要労働の請け負い。
  c)その他 弁当・辻番・飛脚
 B 非「家別請負」(全件数の10%)
   a)「伝奏」=毎年3月に下向する勅使饗応役の必要労働の請け負い。
   b)「朝鮮人来朝」=朝鮮通信使の道中における必要労働の請け負い。

 米屋の家業は、基本的に大名家からの請け負いであった。米屋の主要な出入り先は、1)丹後田辺藩牧野家、2)桑名藩松平家(久松)、3)吉田藩松平家(大河内)、4)丹波亀山藩松平家(形原)、5)福島藩板倉家、6)沼津藩水野家、7)大多喜藩松平家(大河内)、8)飯山藩本多家、であり、これらの家からの請け負いが全体件数のの84%を占めていた。

 米屋が1年間に請け負う業務の件数は、文化年間で6~7件であったが、文政~嘉永年間は10件程度、安政以降も増加傾向で推移した。なかでも安政元年の23件は記録中最高の請け負い件数であった。また文久期以降参覲交代制の改変にともなって妻子の帰国によって「参覲」の日数や人数が増加し、とくに諸大名が江戸を離れる明治元年は17件に達した。

 「家別請負」の中核であった参覲交代の請け負いには、参府と帰城を両方請け負う往復型と帰城だけを請け負う帰城型があった。参覲交代を帰城型で請け負うのは、丹後田辺藩と丹波亀山藩のみで残りの桑名藩・吉田藩・福島藩・沼津藩・大多喜藩・飯山藩は往復型であった。参府のみを請け負う藩は存在しない。参覲交代の請け負いは、幕府によって諸大名の参覲時期が決められていたため、米屋の請け負い時期は毎年2月~6月に集中した。しかもある年は出入り先諸家の参府年が重なるっており、年によっては江戸から一斉に各国許へ帰城していく年もあった。米屋が必要とする寄子の数は、年によっても、また月によっても大きな偏差が存在した可能性が高い。

 8)第7章 参覲交代の分析 《要旨》

 本章では、桑名藩安政6年参府を事例として、米屋の家業の中核である参覲交代における経営の実態を明らかにすることを目的とした。

 米屋は桑名藩の参覲交代のうち参府・帰城の両方を請け負っていたが、注目すべきは、参府行列の場合、桑名の商人米屋覚左衛門(川瀬家)と共同でこれを請負にあたった点である。両米屋は、収益を折半する対等な共同事業者であった。米屋覚左衛門が米屋と同じ屋号を共有することから、何らかの強い縁故があったものと推測されるが、米屋覚左衛門の由緒については知り得ない。江戸の米屋(田中家)が国許に対等な共同事業者を置いたのは、桑名藩の参府・帰城両方の請け負いを獲得していたためであったと推測されるが、他の藩の事例については未確認であり、今後の課題である。

 桑名藩の参府行列の場合、江戸から下った米屋久右衛門は、地元桑名で必要な労働力の確保にあたった。その場合、地元に詳しい米屋覚左衛門が主導的な役割を果たした。米屋は桑名藩の参府行列において必要となる労働力の確保、道中における差配を請け負ったが、それに対する代金(御用代)の確定方法は、請状において事前に決められた人件費単価に、事後確定する使用人数・合計日数などといった数量を乗じて客観的に算出された(単価契約)。単価はすべて人件費単価として設定され、その基本単位は、1人・1日、あるいは1人・1里であった。計算は小数点3桁までの精度をもち、すべて銀(匁)で計算された。

 米屋の収益は、桑名藩から支払われる御用代と米屋の実際の支払いである下払の差額に求めることができた。両米屋は、安政6年の桑名藩参府交代の請負、わずか12日間で177両宛もの利益を得ていた。米屋の収益の源泉は、契約人件費単価と下払人件費単価の差、契約人数と下払人数の差に求めることができた。

 米屋の実務・下払は、手代、小差、宿差、引請によって担われ、これらに棒頭、部屋頭などを加えた中間層が形成され、米屋全体として分節的な構造をもっていた。

 9)第8章 門番の分析 《要旨》

 本章では、江戸における人宿の側面を代表する江戸城門番における米屋の経営実態を解明することを目的とした。

 米屋は安政4年7月1日から12月23日までのほぼ半年間にわたって、江戸城本丸大手門の勤番を桑名藩から請け負った。半年間の勤役によって米屋は1306両余の御用代を受け取り、800両余の下払を行い、最終的には合計554両余の利益を獲得していた。これは利益率42.4%に達した。米屋は莫大な純粋利益が出ることを十分予想しえたが、それにもかかわらず物価騰貴を理由に御賄代の追加支給を願い出て結果48両の追加支給を得ていたことなどからもわかるように営利の取得が目的化されていた。

 本丸大手門番における米屋の収益の根源は、御用代(桑名藩からの支払代金)と下払(米屋の支払)との差額に求められる。そしてこの御用代が、予め人件費単価を設定し、後に実態にあわせて人数を乗じて算出される単価契約方式であること、下払が分節的な構造をもっていたことなど、江戸城門番における収益構造は、参覲交代の分析に際して明らかにした構造と全く同様の構造をもっていた。

 門番に必要となる奉公人の種類は、1)下座見、2)足軽、3)中間、であった。なかでも重要な役割を果たしたのは、大名の登城を毎に下座触を発して奉公人全体を統括する役割を担った下座見であった。御抱下座見のなかには、町宅をする独立性の高い者が存在した。下座見頭取の長谷川・込山は、他の下座見に対する給金の支払を一手に引きうた。足軽に対する支払は、田村幸次郎・鳥山惣兵衛が一括して受け取った。中間に対する支払及び賄に対する支払は米屋五郎兵衛が一括して受け取った。末端の下座見・足軽・中間は、かれらを通して給金を受け取ったが、その額は知りえなかった。中間は米屋五郎兵衛の下にあった部屋頭初五郎によって差配されていた。足軽部屋頭、下座見部屋頭の史料表現は出てこないが、下座見・足軽も部屋的構造をなしていたと推測される。

 下座見頭取長谷川・込山、足軽小頭鳥山惣兵衛の3人は米屋の同族であった。米屋の下払は、この3人に米屋五郎兵衛、その忰が米屋の手代となる田村幸次郎、の2人を加えた5人に対して、下払総額62.5%が支払われた。特に御賄と中間を差配した米屋五郎兵衛に対する支払が圧倒的に多かった。

 米屋が高率の収益を実現していた理由は、第1に、単価を銀建で積算し、これを御定相場で金に換算したうえで、桑名藩に請求し、受け取った金を実勢相場によって銭などに換算して支払ったため、為替差益が発生したためである。第2は、単価と数量の両面にわたって御用代の方が多く、下払に少ない項目が存在したためである。

 米屋の利益は、桑名藩が支払う御用代と米屋が支払う下払に大きな差額が存在したためであったが、桑名藩に対する請求が人件費単価*数量によって客観的に数量化されたのに対して、下払には、単価*数量の数式によって数量化されたものはあまりみられならい。

 桑名藩は、米屋が差配した奉公人の労働に対して主観的な満足感にもとづいて対価を支払う傾向があったために御用代が高くなった。米屋は寄子の労働に対する支払を褒美として恩恵的に下賜する傾向があったため下払額が低くなる傾向があった。かかる原理によって御用代と下払に差額が発生し、結果米屋の高率収益の第3原因となった。

 10)終章 結 論《要旨》

第1節 搾取はなぜおきのか

 第1項 隠蔽される搾取

 「搾取されているからといって、かならずしもつねに、搾取の意識をもつとはかぎらないということです」18) 。これは学生時代に衝撃をうけた名著『日本の近代化と民衆思想』の扉に、安丸良夫氏が引用したサルトルの言葉である。本稿を書き終えてまず最初に頭に浮かんだフレーズである。

 人宿のもとにあった寄子の労働力は何故搾取されたのか。それは搾取されている意識をもっていなかったからではなかったか。換言すれば、自らの具体的な労働が抽象的な商品となることを認識できなかったからではなかったか。労働力が最も高価な商品となって、労働力の価値を時間単位で意識するのに慣れてしまった現代人であっても、なお感覚的には労働力が商品であることを忘れてしまうことにさして違和感はない。労働力とは不思議な商品であり、むしろこれを商品であるとする方がよっぽど不自然ではないのか。戦後の近世史研究を主導してきた佐々木潤之介氏も「わが国において、労働の価値がそのものとして理解され」るにいたるには「19世紀までまたなくてはならなかった」19) と指摘をしている。

 しかし正確にいえば、現代に生きるわれわれにとって、労働力を商品と容易に認識しうるものとしえないものとがある。労働力が商品として容易に認識できる典型的な場面は、製造業における現場、工場労働の場合である。これは、労働力によってできあがる生産物は、交換価値をもつ商品となり、それを売ることによって剰余価値が生まれるのであるから、まさに資本に対して生産的労働として認識しやすい。これに対して労働力を商品として明確に認識しえない典型的な場面は、家事労働の場合である。クリーニング屋に勤める女性が、職場でシャツにアイロンをかければ、その労働によってできあがったシワのないシャツには対価が支払われ、労働力は商品となりうる。しかしまさにその女性が、家庭にもどってアイロン台にむかえば、そこでの労働は商品ではない。その労働は、きれいなシャツを着る満足感によって消費され、シャツには再びシワが戻る。全くの同一人物が工場でアイロンをかけるのと家庭内でアイロンをかけるのとでは労働力の性質に大きな違いが発生するのである。われわれはマルクスの指摘により土地と労働力の商品化を近代のメルクマールとして考えてきた。しかしそれは生産的労働を対象とした研究には妥当するが、不生産的労働には妥当しない。おなじアイロンかけの労働も、ある時は生産的労働になり、またある時は不生産的労働になる。しかし高度に発達した資本制社会においても家事労働は商品化しえない労働であった。製造業において始まった労働力の商品化の波は、資本制化のなかで次第に不生産的労働をサービス業における生産的労働へと再編成していった。しかし家内の労働はサーヴィス労働として商品化することはなかったのである。

 マルクスの理論が資本制への移行における不生産的労働をほとんど視野にいれてこなかったと鋭く指摘したのは、フェミニズムの研究者たちであった。上野千鶴子氏は、「マルクス主義フェミニズムの最大の理論的貢献は、「家事労働」という概念の発見である」と指摘している20) 。資本主義の荒波に耐えて、ここまで家事労働を商品化しえなかった原因としてフェミニストたちが指摘するのは「愛」の存在である。夫婦間の愛情は、人間存在にとって最も本質的であり、人的関係の典型であったがゆえに、この関係によって結ばれた家族のなかにおける労働は、市場化に対して最後まで抵抗を続けている。しかし全ての労働を商品化し、すべての人間関係を物化しようとする資本主義の暴力的といえるまでに凄まじい影響力は、家事労働をも商品化しようとしている。資本万能の時代となった現代が抱える危機的な状況をみながら、筆者が描く江戸時代の寄子の状況は、現代の家事労働とパラレルである。

 そこであらためて問わなければならない。江戸時代の寄子はなぜ搾取されたのか。

第2項 商品化する労働力

 (1) 労働力の商品化の2類型

 戦後の近世史研究における雇傭労働研究は、「封建遺制」の克服という課題設定の固有性ゆえに、農村における雇傭労働=生産的労働を中心に研究が進化してきた。

 しかしその一方で不生産的労働を分析する理論を持たなかった。武家奉公人の労働力が用役給付労働であることを指摘した吉田伸之氏の研究成果が公表されるまでは。

 吉田氏は寄子をその一部として含む「日用」層の労働が搾取労働であることを次のように指摘した。

 近世中後期にいたると、部分的に賃労働の萌芽があらわれた。これは第一に、都市の「日用」層が内在的に形成したものである。すなわち、a.人宿や日用頭などの請負商人資本における、「日用」層労働力の商品化と搾取の過程や、b.一部都市における初期マニファクチュア的経営のもとにおいてである。また、第二に、農村地域の商品生産の展開や小ブルジョワ的経営の形成の下においてである21) 。

 吉田氏は、人宿の下にあった寄子の労働力の「商品化と搾取の過程」に賃労働の萌芽を見出している。ここでいう「商品化」とはいかなる意味が込められているのであろうか。「商品化と搾取」はいかなる関係にあるのであろうか。

 吉田氏の指摘に学べば、「自由な労働力が、労働力の販売を実現する場合」において、寄子が自らの労働力と貨幣とを交換した場合、その交換は「相互に使用価値として交換するだけ」であり、その労働力と貨幣は「交換の後で、双方で不生産的に消費される」という22) 。武家に奉公する寄子の具体的労働は、例えば本丸大手門番にそくしていえば、掃除中間であれば、掃除、下座見ならば下座触の発声、などの肉体労働である。寄子の労働は、行為としてあらわれた瞬間に消えていき、それによって何ら新しい価値や商品を生み出さない。桑名藩にとっては、一定の満足感(使用価値)と一定の貨幣とを交換したのであり、寄子の労働は不生産的に消費されたのである。

 このように使用価値として不生産的に消費される労働力と貨幣との交換を労働力の商品化と定義すれば23) 、前近代社会のあらゆる場面において労働力は商品化する可能性が存在する。しかしこの場合の労働力の商品化は、資本制下においてあらわれる労働力の商品化と等質ではない。資本制下の労働力は賃労働として商品化しており、そこでの労働は、なによりも剰余価値を生産する商品であった。

 そこで寄子に対する搾取の歴史的な位置を明確にするため、次のような表記上の区別を設定する。剰余価値を生む労働力への転化を商品化と表記し、貨幣と交換された後に不生産的に消費されてしまう労働力への転化を「商品」化と表記することにしよう。従来の資本制研究においては、土地と労働力の商品化は資本主義固有の現象として位置づけられてきたが、その場合の労働力の商品化は寄子の労働力の「商品」化とは別範疇である。

第3項 寄子の労働をめぐる二重の関係

 (1) 桑名藩にとっての寄子の労働

 寄子の労働力が搾取されたシステムを考えるとき、鍵を握るのは、寄子の労働力が、米屋と桑名藩とでは全く別の性格をもってあらわれる点である。

 桑名藩は、寄子の労働力を不生産的に消費して終わる。桑名藩が寄子の労働によって幕府から命じられた参覲交代や門番など重要な勤役を勤めることができたが、その労働から最終的に得たものは主観的な満足だけであった。桑名藩が寄子の動労から得るのはその使用価値であった。

 しかし桑名藩は寄子の労働力を使用価値として消費するが、これに対して高額の対価を米屋に支払っている。現代の感覚からすれば奇異であり、その金銭感覚の無さは驚く他ない。

 桑名藩が米屋に対して、米屋が請求するままに巨額の対価を御用代として支払ったのは何故か。残念ながらこの疑問に対して完全な答えを与える史料の存在を知らない。したがってわれわれは、その事実を事実として受け止め、その事実に対して解釈を付すことから始める以外にない。かかる疑問に関して『世事見聞録』は貴重な手掛かりを与えてくれる。

史料 1

さて、諸手の御門番または両山始め所々の防役を勤むるとても、羅紗・猩々緋の頭巾・羽織を着、看板法被等の出立は見事なれども、徒士・足軽・小人等、多く雇人にて、町人等の請負ひを以て、あるいは馳付何程、役場まで至りて何程、手合何程、夜道何程などと賃銭の次第ありて、みな賃銭と弁当等のみ心を入れたるものどもにて、身を入れて役を勤むるものはなし。これらの事は有廟の御代、右等の雇人を遣ふまじき旨、御制度出て止みしと聞く。その法崩れて今また雇人に定まりし事なりぬ。たとひ屋敷の見体あしく、侍の風体見苦しくとも、実正の人馬を高並相応にもちて、非常の節は実義に働くやうにありたき事なり。これもと不勝手より起りしなり。不勝手は表向きを取り飾る奢侈より起りて、主従とも恥も義も忘れたるが故なり24) 。

 作者武陽隠士の厳しく批判するところは、大名が江戸城諸門や寛永寺・増上寺の火番を勤めるに、請け負い商人から調達する雇人を用いることについてである。門番を勤めるのに雇人を用いることが、どのような意味合いにおいて批判されているのか、それは雇人が勤める目的が「賃銭と弁当」の取得であったため「身を入れて役を勤むるもの」ものがないからである。

 しかし現実には多くの大名が、かかる弊害の多い雇人を敢えて使用していたことは本稿でも明らかにしたとおりである。その理由は何であったのか。大名が雇人を使ったのは、雇人の弊害と、譜代者の利点を比較して、雇人に弊害を選択した結果であると考えられる。大名が何よりも重視したことは、「表向きを取り飾る」ことであり、それは「羅紗・猩々緋の頭巾・羽織を着、看板法被等の出立は見事」な奉公人を、「高並」不相応に多数動員して門番をおこなうことであった。その結果生まれるのは「不勝手」という弊害であったが、それにもかかわらず、多くの大名は、「見事」に着飾った奉公人を「高並」に不相応の多人数で守衛したがったのである25) 。

 大名は「表向きを取り飾る」名誉のための出費は、たとえそれが奢侈であると非難されようとも、これを厭わなかったのである。

 桑名藩の大手門番において検討した交代行列の事例において明らかにしたように、桑名藩は交代行列に対して多額の支払いをおこなっているが、それは桑名藩にとって交代行列のもつ意味が、武家の名誉にとってかけがえのない意義を有するからであり、その感情は貨幣の量には換算できない性質をもっていた。

 労働者の再生産に必要なコストを念頭に支払いをするのではなく、その満足に対して支払いをしていたのである。このようなことは、社会的剰余が極めて稀にしか存在しない前近代社会においては往々にしてありえた。そしてこのような場合、往々にして支払い額と労働者の再生産に必要なコスト(人件費)との間には大きな差額が発生しうることは、次の史料からも説明しうる。

 これは、江戸町人の事例であるが、原理的には、今回の桑名藩の支払行動を説明しうるものと考える。

史料 2

宝永前迄は、諸色高直にて売りても、買人さのみぬかれたりとも思はず、用の弁ずるを祝ひ高直に買ながら、却て下直なると思へり(中略-享保以降は)我勝に掛直なし、少しにても元をこせば、買人を外へ遣らじと我勝に商売する故、諸色元直段おのづから素人もよく覚へて高直には不買、大方掛直なしのよふに成たり(括弧内筆者註)26)

 宝永期頃までの江戸の商売は、原価+利潤によって代金が決まるというコスト意識は希薄であり、必要性が満たされれば、その満足感に対してお金を支払うため「用の弁ずる」とさえ思えば「高直に買ながら、却て下直なると思へり」という状況であったという。町人の世界では享保期以降は、コスト感覚が発達し、「掛直なし」の商売が普及したのであるが、大名たちの世界には、かかるコスト感覚は発達しなかった。もしくはコスト感覚を発揮しないのが大名の名誉であったのかいずれかである。このようにして桑名藩はわれわれの感覚からすれば、不釣り合いの大金を米屋に対して支払っているが、その大金は米屋の差配する寄子の労働がもたらす満足感と均衡し、米屋(商人)と桑名藩(顧客)の間には等価物同士の交換が実現していたと考えなければならない。したがって桑名藩は、「商品」化した寄子の労働力と御用代とを交換し、使用価値として不生産的に消費したのである。

 以上から寄子の労働力が桑名藩にとっては使用価値の担い手であり、桑名藩はその使用価値への満足度に対して高額の対価を米屋に支払っていた。桑名藩が米屋に対して支払った御用代が、寄子の再生産のコストを大きく凌駕し、米屋に莫大な利潤をもたらした原因は以上のように説明されうる。

 (2)米屋にとっての寄子の労働力

 米屋は、桑名藩に対して提供した労働力の対価を貨幣形態で受け取るが、もしもその貨幣が、自家需要のために消費されてしまうのならば、米屋にとって寄子の労働力は「商品」としてあらわれる。しかし本稿で明らかにした事実によれば、米屋は御用代から下払を差し引いた後に莫大な利益を入手していた。寄子の労働力を御用代と交換した桑名藩は、それを不生産的に消費したが、その一方で、桑名藩が支払う御用代と寄子の労働力を交換した米屋は、その労働力を不生産的に消費しなかったのである。すなわち、その労働力と貨幣は「交換の後で、双方で不生産的に消費される」のではなく、桑名藩だけが不生産的に消費された。米屋はその交換から莫大な価値を取得している。すなわち米屋にとって寄子の労働力は、商品化していたことが明らかになる。こうして同じ寄子の肉体労働は、米屋にとっての価値と桑名藩にとっての価値とは等価で交換されながら、結果として両者がそこから取得する価値は異なっていた27)。この一見不可思議にもみえる現象は、すでにマルクス主義の先学によって原理的には解決済みであった。

 しかし等価物どうしが交換されるのだから、変化(資本に転化すべき貨幣の価値変化-筆者註)はその商品の交換価値ではなく、その使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。そのためには、交換価値の源泉であるという性質をその使用価値がもっているような一商品が必要である。このような商品は存在する。労働力がそれである28) 。

寄子の単純な肉体労働は、多くの場合、使用価値として不生産的に消費されるだけであるが、米屋にとって交換価値の源泉となりうる可能性を秘めた存在であった。寄子の労働力は、桑名藩に対しては使用価値として、米屋に対しては交換価値としてあらわれる。米屋はその間に存在する差益を取得していたのである。別の言い方をすれば、桑名藩にとって寄子の労働力は、「商品」化された労働力であったのに対して、米屋にとっては商品化された労働力であった。

 このことを可能にしたのは、やはり米屋と寄子の人的な関係性に原因を求める以外にない。米屋は桑名藩に対しては、商人として物的な関係を取り結び、その一方で単純化していえば、寄子とは寄親-寄子関係という人的な関係を取り結んでいたと考えられる。

 本稿では、米屋が寄子に対して支払うべき下払を確定する方法として、主観的に定量化する方法が多く用いられていたのと対照的に、桑名藩の支払うべき御用代が客観的に数量化される方法によって確定されていたことを明らかにした。一般に支払い金額を客観的に数量化する方法が物的な関係の存在を象徴することから考えて、主観的に定量化された項目の実態が、振舞や祝儀、酒代、骨折などの項目であった事実は、米屋と寄子の関係が人的な性格を強く帯びていたこのとを示すひとつの証左として理解されよう。米屋の寄子に対する下払は、多分に褒美や振舞など恩恵的に与えらたのである。米屋の下払が低額に抑え込まれ、結果米屋の莫大な中間搾取が実現した理由のひとつがここにあったのである。

 したがって、寄子・人宿・武士は、次のような3項関係を形成していた。すなわち人宿-寄子関係(人的)、人宿-武士関係(物的)、武士-奉公人(寄子)関係(物的)である。南和男氏は、武士と寄子の関係の物化を指摘していたが、寄子に対する人宿の搾取を理由に、人宿-寄子関係における、寄親-寄子関係の形骸化を指摘していた。しかし本稿の結論からすれば、人宿と寄子の間に寄親寄子関係と呼びうる人的な関係が強固に存在したからこそ寄子に対する搾取が実現しえた、という点である。

 また多数の寄子を確保・差配することによって膨大な利益を獲得していた米屋にとって寄子の労働力は使用価値を生み出す「商品」ではなく、交換価値を生み出す商品であった。したがって米屋にとって寄子の労働力は商品化していたと結論することができる。そのことを実現したメカニズムは、人宿-寄子関係(人的)、人宿-武士関係(物的)、武士-奉公人(寄子)関係(物的)の3項関係の成立に秘密がについてはすでに述べたとおりである。前近代社会において不生産的労働が商品化しうるメカニズムの発見は、本稿における成果といえる。

 しかし江戸おいて寄子の労働力が商品化したのは、兵農分離制や参覲交代制などによる富の集中構造29) と都市下層社会における貧困とが同一空間に並存していた点に起因し、幕府の崩壊と共にその商品化の基礎は消滅してしまった。しかし明治になって、都市の下層民衆が今度は賃労働者として搾取されるようになると、資本家のもとに商品化した労働力を供給した独特のシステムは、ほとんど江戸期の人宿のそれと同じであった。人宿は時代を超えて生き延びたのである。このようなシステムは江戸期における経験がなければもう少し違った形になったのかもしれない。江戸時代の日本は、不生産的労働において搾取労働を実現するという世界史的にみても稀な経験をした。そこでの経験は直接的には近代へと連続していくことはなかった。しかしその早過ぎる搾取の経験が、明治期の賃労働者の受けた悲惨に何らかのかたちで刻印されていたとすれば、人宿のもとにあって搾取を受けた寄子たちの苦難の歴史にも、さらに光をあてなければならないと思う。記して今後の課題としたい。



1) もちろん都市下層社会論としての論及が全く存在しなかったわけではない。竹内誠「旧里帰農奨励と都市の雇傭労働」や「寛政?化政期江戸における諸階層の動向」(『江戸町人の研究』第1巻、吉川弘文館、1972年)なども存在する。特に後者においては、出替化した武家奉公人に近代的雇傭の萌芽を見出す南和男氏の評価に対して「『近代的雇傭』云々とまでいいきれるかどうか」と疑問を提起するとともに、「寛政期は奉公人の質的転換の重要な画期だったといえよう。寛文五年以来、存続してきた日傭座が、寛政九年に廃止された事実も、十八世紀後半の江戸下層社会の質的転換を前提にして、併せて考慮されるべきである」と指摘し、そこには武家奉公人の問題を都市下層社会との関係で捉える視角の端緒も見出せるが、なお指摘の域を出るものではなかった。

2) 『国学院雑誌』66巻4号、1965年4月、初出。

3) 『東京都航空工業高等学校研究紀要』第1号、1964年3月、初出。

4) 森下徹『日本近世雇傭労働史の研究』(東京大学出版会、1995年)5頁。

5) 明快な理論で知られる安良城盛昭氏も、「「日傭」が、都市に流出した場合、例えば、江戸における如く、「日傭座」に属し、「日傭頭」の統制のもとに「日傭札」の交付を受けて労働に従事し、それが、都市に流出せずに留る場合も、加賀藩における如く、やはり「日傭頭」の統制のもとに、「日傭札」の交付を受け、川除普請工事に従事しており、従ってそれは、農民のもとにおける商品生産の展開に基づいて発生し、幕藩体制社会解体課程を通じて形成され、農村内部の富裕な農民・手工業者に雇傭される徳川時代後期の「日傭」とは、史料的表現において同一であるにも拘らず、その歴史的性格を異にするものとして把握しなければならないのである。(『増訂第四版 幕藩体制社会の成立と構造』有斐閣、1986年)とあるように、別の論理の必要性を述べるにとどまっている点は象徴的である。

6) 「足軽以下の武家奉公人中の一季・半季のもの」と「単純労働力販売者である日用」は、その「労働力の質の点でみると」、「使用価値相互の交換にすぎない」用役給付労働として「基本的には何ら異なるところはな」く、「これらを一括して広義の『日用』層として」捉えることが可能であるとした(「日本近世のプロレタリア的要素について」『歴史学研究』548号、1985年11月)。吉田伸之氏の80年代以降発表された一連の研究業績は『近世都市社会の身分構造』(東京大学出版会、1998年)にまとめられたが、本稿では特に断りのないかぎり、こちらを参照した。

7)森下氏の研究は『日本近世雇傭労働史論』に結実している。

8)吉田氏は、市民社会の形成論としての研究視角として、1)「市民社会の本来の芽は、山先・山師・町人ら役持達のあくなき利潤追求活動の内に胚胎するものと考える」こと、2)「状態的存在を、もっぱら近世社会の下層部分のみに検出するのではなく」、「芽ばえたばかりのブルジョワ的要素」がもたらす状態化を検出しうる可能性」を指摘している。(「近世の都市」『歴史学研究の新しい波』山川出版社、1989年)しかしこの指摘に沿った研究は未だ着手されていない。

9) 『日本近世雇傭労働史の研究』(前掲)に結実している森下徹氏の研究や、武士身分を問題とした松本良太氏の最新の研究「近世後期の武士身分と都市社会」(『歴史学研究』716号、1998年10月)など。

10) 前掲「日本近世におけるプロレタリア的要素について」。

11) 近世初期の大規模普請に大量の日用が参加していたことを明らかにした脇田修「近世前期の都市経済」(『日本史研究』200号、1979年)や、近世初期における都市下層社会の存在を検出した高木昭作「所謂『身分法令』と『一季居』」(『日本近世史論叢』上巻、吉川弘文館、1984年)などの成果に依拠すれば、近世初期において既に出替制段階へ到達していたと見做しうるようにもみえるが、その存在の事実は確実であっても、そのことが則出替制段階であったと評価しうる根拠になるとは考えられない。重要な点は、出替制への以降を画期づけるメルクマールは何か、という点であろう。

12) 江戸藩邸などにおいて使役された足軽や中間などといった直属奉公人は、部屋単位で把握・統括されていたが、その部屋における部屋頭を頂点にした「奉公人世界」を「部屋的構造」と呼んでいる。

13) マルクス『資本論 1巻1』(大月書店版、306頁)「絶対的剰余価値の生産」。

14) 吉田伸之「日本近世におけるプロレタリア的要素のついて」『歴史学研究』548号、1985年。

15) 渡辺信夫「商業的農業における雇傭労働 ー羽州村山郡紅花精算地帯の実体的分析ー」(『封建社会解体期の雇用労働』、1961年)79頁。

16) 「譜代制から出替制へ」という学説に関する賛否含めた言及は、研究史を主導する吉田伸之氏をはじめ、松本良太氏、森下徹氏などには一切みあたらない。

17) 尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢』上、吉川弘文館、1984年。 18) J.P.サルトル『知識人の擁護』(佐藤朔他訳)。安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木書店、1974年)扉より。

19) 佐々木潤之介「東アジア世界と幕藩体制」(『講座日本歴史』近世1、東京大学出版会、1985年)33頁。

20) 上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店、1990年)31頁。マルクス主義フェミニズムはマルクスに学びながら「家事労働」概念の発見によりマルクスを超えていったといえようか。とにかく読みながら教えられる書であった。本書による導きがなければ本稿は現在の姿にならなかったであろう。

21) 吉田伸之「日本近世におけるプロレタリア的要素のついて」(『歴史学研究』548号、1985年)。

22) 吉田前掲論文より。

23) しかしこの段階における労働力と貨幣の交換を、労働力の商品化といえるか否かについてはその場面によって異なりうる。なぜならば「自由な労働力が、労働力の販売を実現する場合」という前提条件のうち、寄子の「自由」は、その寄子が置かれた現実的な経済条件の違いによって多様にありうるからである。

24) 『世事見聞録』(岩波文庫版)、57頁。

25) 同様のことは大名行列についてもいえる。大名行列の人数を抑制しようとする幕府法令はすでに元和3年の武家諸法度に登場し、その後以下のように同様の法令を繰り返し出している。

26) 「我衣」(『日本庶民生活史料集成』第15巻)18頁。

27) 等価物同士の交換によって剰余利益が発生する仕組みを解明したのはマルクスの理論的功績のひとつであるが、ここにはそれと全く同じ問題が出現している。

28) エンゲルス『「資本論」綱要』(大月書店、1953年)36頁。

29) 拙稿「大名藩邸と江戸の都市経済」(竹内誠編『近世都市江戸の構造』三省堂、1997年)では、津山藩を事例に、藩の総収入の43%が江戸へ送金されていたことを明らかにした。かかる事情は全ての藩に共通するものと考える。

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