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博士論文要旨

論文題目:近代天皇制国家における「偉人」顕彰の歴史的意味の研究―金原明善の「偉人」化と天皇制イデオロギーの関連をめぐって―
著者:伴野 文亮 (TOMONO, Fumiaki)
博士号取得年月日:2019年6月30日

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1.本論考の構成(章立て)
第一部 金原明善の思想と行動
第一章「金原明善の天竜川治水構想と地域社会
―近世・近代移行期「名望家」の営みをめぐって―」
はじめに                   
一 治河協力社の設立と金原の治水構想       
二 治河協力社の経営実態           
三 金原の治水事業と天竜川沿岸地域      
むすびにかえて                
第二章「金原明善の林業思想とその実践」
はじめに                   
一 金原による瀬尻の造林           
二 金原の林業観               
三 天城山御料林での造林、そして学校建設   
むすびにかえて                
第三章「金原明善の天皇意識とその形成要因」
はじめに                   
一 明治初期から一〇年代における金原の天皇意識
二 明治二〇~三〇年代における金原の天皇意識 
三 金原の天皇意識形成をうながすもの     
むすびにかえて  

第二部 金原明善の「偉人」化とその展開             第四章「金原明善の『偉人』化と近代日本社会
―顕彰の背景とその受容―」
はじめに                   
一 金原明善像の展開             
二 「金原明善」の受容            
むすびにかえて               
第五章「農本主義イデオロギーと「偉人」金原明善
―山崎延吉による金原顕彰の歴史的意味の検討―」
はじめに                  
一 『農村自治の研究』の刊行         
二 山崎による「偉人」金原明善の顕彰    
むすびにかえて                
第六章「近代天皇制国家における鈴木信一の歴史的位置
―専修学校出身の実業家の思想と行動に着目して――」
はじめに                  
一 鈴木信一の人物像            
二 専修学校と鈴木の林業思想        
三 戦時下における鈴木の金原明善顕彰    
むすびにかえて               
第七章「越境する「偉人」金原明善
―植民地支配における「偉人」の位置づけをめぐって―」
はじめに                  
一 「天龍川の恩人 金原明善」の基礎的研究 
二 「天龍川の恩人」における金原明善    
三 『此の人を見よ 金原明善実録』の刊行とその時代
四 山田司海の朝鮮人観と帝国意識      
むすびにかえて               
終章
一 本論考の成果              
二 今後の課題               

2.本論考の現代的意義
 本論考は、近代日本における国家体制=近代天皇制の支配イデオロギーについて、遠江国長上郡安間村(現在の静岡県浜松市)出身の実業家金原明善が「偉人」として顕彰された事実を手がかりとして、近代天皇制国家におけるイデオロギーと「偉人」顕彰との関係性について明らかにするものである。
 本論考において、近代天皇制を歴史学的に検討する理由として、以下2点の事柄がある。
 1点目は、東日本大震災以後の日本における明仁天皇人気の高まりである。被災地を美智子皇后と巡り、被災者に寄り添う姿を示した明仁天皇の象徴天皇としてのパフォーマンスは、天皇に対する国民の好意的な感情を高めた。天皇制の存続を至上命題としながら、象徴天皇とはいかなる存在であるべきかを常に考え振る舞ってきた明仁天皇による「公的行為」が国民に支持されるという現象は、戦前天皇制と本質的に連続する面を多く持つ象徴天皇制、すなわち日本における君主制の存在を社会的に認めることを意味する。ここで改めて、国民にとって天皇の存在の意味について考える必要があるといえる。
 2点目は、現代日本における「戦前回帰」というべき現象の進行である。島薗進は、2012年に第二次安倍晋三内閣が発足して以降、天皇を万世一系の聖なる存在と捉えて「国体」の中心に掲げ、国家の威信を高めると同時に権威主義的な体制づくりが同内閣によって強化されていると指摘し、現代日本における宗教ナショナリズムの台頭、すなわち戦前日本にみられた天皇崇敬と神聖国家観の復活に警鐘を鳴らしている。この指摘に鑑みれば、かつて天皇をして「現人神」といわしめるまでに権威化し、多くの国民に戦禍をもたらした天皇崇拝による国民統合のあり方が、戦後70余年の時を経て再出現しようとしている状況にあるといえる。
 以上の天皇をめぐる今日的状況を踏まえて、筆者は、改めて近代日本における天皇制の歴史的位置を検討し、現代にも影響を及ぼす近代日本特有の権力支配の構造を明らかにすべきと考え、本論考を執筆した。

3.先行研究の成果と課題の設定
 戦後日本における近代天皇制研究、とりわけ近代天皇制イデオロギーと精神構造の解明を目指した研究は、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」にはじまる。丸山による超国家主義や軍国主義についての研究は、近代天皇制を支え、日本を破滅的戦争に向かわせた国民の精神構造とはいかなるものだったのかを明らかにすべくなされたものであった。丸山にみられる明治以降の「国民」の精神構造を解明せんとする取り組みは、石田雄や神島二郎、藤田省三といったいわゆる「丸山学派」の諸研究において進展が図られていく。そして、これらの研究によって、近代日本がファシズムへと回収されていく思想史的な過程が明らかとなった。
 丸山たちの研究は、マルクス主義歴史理論にもとづく講座派の天皇制研究と一線を画しながら、歴史の法則や理論ではなく人間の思想に着目した具体的な実証研究を通して、近代天皇制の形成から日本ファシズムの展開へと至る思想的背景を鮮やかに描き出した。しかし一方で、そこで検討の素材として取り上げられたのは、福沢諭吉や元田永孚といったいわゆる「頂点的思想家」たち、あるいは政治権力の中枢にいた政治家や官僚たちの思惟であった。つまり、近代天皇制の支配構造については明らかにされつつも、被支配者層にいた民衆がどの様な論理のもとに天皇制支配を受容し、包摂されたのかという点については、明らかにされなかった。
 そうしたなか、民衆史の視点から天皇権威の問題について切り込んだのは安丸良夫であった。安丸は、勤勉や倹約、孝行といった通俗道徳による民衆自身の主体的営為が、支配イデオロギーとしての天皇制イデオロギーを支えたことを明らかにした。また安丸は、講座派や丸山らの天皇制研究を批判しながら、18世紀末から19世紀末までの間における民衆(村落上層民)の天皇意識と天皇権威の変容について考察した。また広田照幸は、安丸の通俗道徳論をベースとしながら「天皇の軍隊」に自ら身を投じた陸軍将校たちの意識を分析し、彼らの天皇に「忠誠」を誓い軍隊に所属するモチベーションの根底に立身出世意識が働いていたことを明らかにした。
 広田の研究成果は、近代天皇制下の「国民」が近代天皇制を受容した心性を鋭くえぐり出したものとして評価できる。だが一方で、分析対象はあくまで陸軍将校という職業軍人に限られており、様々なかたちで近代天皇制の抑圧と暴力に苛まれた民衆ではない。今後は、安丸の通俗道徳論を下敷きとしながら、民衆と近代天皇制イデオロギーとを結ぶ「媒介項」について検討を深める必要がある。
 民衆と近代天皇制イデオロギーとの「媒介項」という点では、天皇制のイデオロギー装置について検討した岩井忠熊や高木博志の研究が挙げられる。岩井は、近代天皇制国家を、他の国民国家とは異なる独特な性質を持った支配体制だったとみて、新嘗祭や「三種の神器」といった皇室祭祀・儀礼に関する事例を手がかりとしつつ、近代天皇制イデオロギーによる国家の支配構造を明らかにした。また高木は、近代天皇制国家における史蹟や名勝、さらに芸術や文学といった文化的要素が「国民」統合に果たした役割について研究し、文化史的な視点から近代天皇制イデオロギーの支配構造を明らかにした。だが、そこで対象とされているのは、近代以降に創造された国体イデオロギーや文化財などであり、民衆の意識に即した分析はなされていない。よって改めて、民衆の意識と近代天皇制イデオロギーとを結びつける「媒介項」の解明が必要といえる。
 以上の観点から、本論考では、近代日本社会のなかで様々なメディアを通して「偉人」として顕彰された金原明善に着目し、彼が「偉人」として顕彰されたことの歴史的な意味について検討した。なお、歴史学における「偉人」顕彰の問題について扱った研究では、羽賀祥二と見城悌治による一連の研究があげられる。両者とも、近代日本社会における人物顕彰がはらむイデオロギー性を鋭く指摘した成果として評価できる。ひるがえって、近代日本社会において「偉人」として顕彰された金原について、彼の「偉人」化の問題を研究した成果は、管見では存在しない。金原の「偉人」化が、二宮尊徳が顕彰されはじめる頃と同時期に起こったものであること、および見城の、近代日本における人物顕彰とその背景にある政治的社会的状況とが密接に関わるという指摘を踏まえれば、金原が「偉人」として顕彰された背景・要因について歴史学的に検討する必要がある。
 以上の観点から、本論考では、近代日本社会において「偉人」として顕彰された金原が、具体的に何を考え行動したのか、その主体性を考察し、そのうえで金原が「偉人」として顕彰された背景とその歴史的な意味を明らかにした。
 
4.本論考の要約
 序章では、近代天皇制の研究史を整理したうえで、本論考の位置を明らかにした。
 第一部「金原明善の思想と行動」は、三本の論文からなる。
 第1章「金原明善の天竜川治水構想と地域社会」では、金原が近世後期から熱心に取り組み、特に明治以降は治河協力社という結社を設立して一層力を注いだ天竜川治水について概観した。具体的には、金原が1874年(明治七)に設立した天竜川治水のための結社である治河協力社の経営実態を検討し、金原が近世的な枠組みを超えて中央政府と結んだ新たな治水の取り組み方を採用したことの地域史的な意味を明らかにした。
 第2章「金原明善の林業思想とその実践」では、金原が天竜川治水ののち取り組み始め、金原を「偉人」として顕彰する言説のなかで度々引き合いに出された林業を事例として、金原の林業への取り組みを歴史的に位置づけた。具体的には、金原が行った瀬尻・天城山両御料林における造林事業や他県での植林指導といった林業に関する取り組みを分析し、その歴史的な意味を明らかにした。
 第3章「金原明善の天皇意識とその形成要因」では、天竜川の治水や林業への取り組みをはじめとする金原の活動が、如何なる意識のもとに展開されたのか、その思想的なバックボーンを検討した。具体的には、金原の天皇に対する意識と「国民」としての意識に着目し、この二つの意識が彼の実業家としての営みにどの様に関わっていたのかを分析した。
 これら3本の論考を踏まえて、のちに「偉人」として顕彰される対象となる金原明善の思想と行動について明らかにした。
 第二部「金原明善の「偉人」化とその展開」は4本の論考からなる。
 第4章「金原明善の『偉人』化と近代日本社会」では、金原を「偉人」として扱う書物に着目し、明治中期からアジア・太平洋戦争期までのタイムスパンのなかで金原が「偉人」としてどの様に称揚・顕彰されていたのか、その見取り図を示した。そこでは金原が、立身出世主義や修養主義、戦時体制の強化に伴う「滅私奉公」の奨励など、異なる時代背景のなかで様々な文脈のもと「偉人」として顕彰されていたことを明らかにした。
 第5章「農本主義イデオロギーと「偉人」金原明善」では金原と親交を持ちつつ安城農林学校校長として青年たちの指導にあたっていた農本主義者山崎延吉を分析の対象に据え、彼の農本主義思想と金原を顕彰する営みとの関係性を明らかにした。分析の結果、山崎が金原を「偉人」として顕彰した背景に、山崎が抱く「農村自治」の理想像があり、その思想は地主・小作関係を理論的に擁護するという限界を有するものであったことを指摘した。
 第6章「近代天皇制国家における鈴木信一の歴史的位置」では金原に師事し、金原亡き後も生涯浜松における林業に関わり続けた鈴木信一の思想と金原顕彰の営みとの関わりを明らかにした。具体的には、鈴木が専修学校(現専修大学)の理財科に学んで林業経済に関する思想を形成したこと、および戦時体制下の日本社会において、林業による「報国」の必要性を主張しながら金原の顕彰を、書物とラジオという二種類のメディアから行っていたことを明らかにした。
 第5章および第6章の検討によって、金原を「偉人」として顕彰した担い手の意識や思想を考察し、金原が「偉人」として顕彰された背景に諸主体の個別具体的な意識が存在していた点があきらかとなった。
第7章「越境する「偉人」金原明善」では、「偉人」金原明善を素材とした新聞の連載小説が『京城日報』に掲載されていた事実を手がかりとして、植民地主義と「偉人」顕彰との関係性について考察した。そこでは、ひとりのジャーナリストに注目し、その人物がもっていた帝国意識をもあぶり出しながら、内地で書物を介し流通していた「偉人」が植民地朝鮮においても流通させられたことの歴史的意味を明らかにした。
終章では、本論考の成果と課題について論じた。
 
5.本論考の成果と課題
 本論考では、「偉人」という存在に着目して、近代天皇制国家という時代の全体像を描くことを試みた。その結果、治水や林業への取り組みを通じて日本における近代国家建設に積極的に取り組んだ金原明善という個人が「偉人」として顕彰され、その過程において近代天皇制におけるイデオロギー支配を下支えする言説や営みがみられるという歴史像を提示することが出来た。金原は、明治中期から昭和戦前期にかけて、様々な主体の手によって、その時々の時代的社会的背景に裏打ちされながら、立身出世や修養、総力戦体制下における「臣民」の模範(「偉人」)として顕彰され、近代天皇制国家における支配イデオロギーとして機能していたのである。また、金原を題材にした伝記小説の叙述には、近代家族における家父長制的イデオロギーや「一君万民」のあるべき姿を読者に訴えるイデオロギーとして機能・展開したものもあった。総じて金原の「偉人」化は、様々な論調・形態のもと、近代天皇制国家における支配イデオロギーとして存在していたということができるのである。
 こうした「偉人」金原明善を、民衆はどの様に捉えていたのであろうか。『金原明善資料集』には、金原を題材にした書物を読んで「偉人」金原を敬慕する主体の数々を見て取ることができる。また、水野定治が一九五〇年に著した『岐阜県と金原明善翁』には、金原が岐阜県根尾谷で植林指導をしたことで同地において植林が盛んになったと述べる人々の証言が収められ、いずれも金原による植林指導によって同地で林業が盛んになったことを指摘し、金原の存在意義を強調している。
 また、満蒙開拓青少年義勇軍に参加したある男性は、幼い頃から「偉人」としての金原を敬慕し、自身が満蒙開拓青少年義勇軍に入隊する際には、偉人」金原への尊崇の念が動機にあったと述べていたことを明らかにした。その上で、金原の「偉人」顕彰が、直接的現実的な植民地暴力の具現化である満州移民の当事者の思想形成に関わっていた事実を明らかにし、金原の「偉人」化が帝国日本の一人の民衆をして植民地暴力の担い手としてしまうイデオロギーとして機能していたことを本論考では明らかにした。
 最後に、今後の課題として、より精緻な金原個人の思想形成過程の解明と、東アジア史の視点から金原の「偉人」顕彰を捉え返す研究の必要性を指摘した。
 以上。

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