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博士論文要旨

論文題目:『判断力批判』における「醜さの美学」―美しさの裏面にある醜さ―
著者:高木 駿 (TAKAGI, Shun)
博士号取得年月日:2019年3月18日

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1. 論文題目
『判断力批判』における「醜さの美学」
美しさの裏面にある醜さ

2. 目次
序論
第1部 美しさに関する趣味判断の解明
第1章 美しさに関する趣味判断
はじめに
第1節 趣味判断の「無概念性」
第2節 「無概念性」と両立可能な概念使用
第3節 趣味判断の構造
おわりに
第2章 美に関する快の感情
はじめに
第1節 快の感情の「無関心性」
第2節 美に関する快の感情の生成
第3節 想定される問題への応答
おわりに
第3章 誤った趣味判断
はじめに
第1節 道徳的観点からの解釈
第2節 認識論的観点からの解釈
第3節 情感的観点からの解釈
おわりに

第2部 醜さに関する趣味判断の解明
第4章 醜さに関する趣味判断の先行研究
はじめに
第1節 醜さに関する趣味判断の説明方法
第2節 シアーによる問題提起とそれに対する応答
第3節 ガイヤーによる問題提起
第4節 トムソンによる問題提起
おわりに
第5章 醜さに関する趣味判断
はじめに
第1節 認識諸能力の「不調和」
第2節 醜さに関する不快の感情の生成
第3節 既存の問題の克服
おわりに
第6章 醜さと道徳
はじめに
第1節 反省的判断力と「自然の合目的性」
第2節 美しさと道徳
第3節 醜さと道徳
おわりに

結論
参考文献

3. 論文要旨
 本論文の目的は、I・カント『判断力批判』(1790)のうちに、美しさだけでなく、醜さをも説明する趣味の道具立てがあると考え、趣味論の観点から「醜さの美学」を構築することであった。これをもって、本論文は、醜さを崇高との関係において理解してきたこれまでの先行研究とは異なり、美しさの反対概念としての醜さを、カント美学のうちに位置づけたのである。
 本論文は、その目的を遂行するにあたり、対象の美しさを言明する趣味判断との比較から、美しさの反対概念である醜さを言明する趣味判断の解明を進めた。本論文は、美しさに関する趣味判断の解明を遂行する第1部(第1〜3章)と、醜さに関する趣味判断の解明を遂行する第2部(第4〜6章)から構成され、それぞれの章では、以下のことが明らかとなった。
 第1章では、「このバラは美しい」という、具体的な対象の美しさを言明する趣味判断を例として取りあげ、その判断にまつわる問題、すなわち、判断に前提される悟性概念の使用と趣味判断の「無概念性」とが矛盾してしまうという問題の考察を通じて、美に関する趣味判断の構造を分析した。それによると、趣味判断は、「或るものは美しい」という、無関心な快の感情を規定根拠とする「評価的部分」(情感的判定)を本質とするものの、「これはPである」という「記述的部分」(対象を同定する論理的な認識判断)を伴うことができる。つまり、具体的な対象に対して実際に運用される趣味判断は、「このPは美しい」という形式を持つ判断に他ならない。ただし、そこでのPは、悟性概念に規定される論理的な認識判断の対象、つまり自然でしかありえない。というのも、目的の概念に規定される実践的な認識判断の対象は、その概念の使用に伴って、実践的感情、つまり関心を惹起させるため、趣味判断の規定根拠である無関心な快が生じる余地を否定してしまうからである。したがって、美しさに関する趣味判断が問題とする対象は、自然に限定されるのである。
 第2章では、これまでの先行研究における論争(P・ガイヤーとH・ギンスボルクとの論争)を調停する新たな仕方で、美に関する趣味判断の規定根拠、つまり無関心な快の感情が生じる仕方を明らかにした。無関心な快は、構想力と悟性との「自由な戯れ」ないし「調和」という心的状態から生みだされる。本論文は、戯れを、「認識一般」の成立のために合目的的に活動する諸能力の連関として解釈した。これにより、戯れは、認識的意図に向けて主観の状態を維持しつづけながら、意図の遂行に従事するゆえに、カントの快一般の規定に従って、快の感情を生じさせることになる。このように欲求能力ではなく認識諸能力からなる連関によって導かれた快の感情は、欲求能力に関わらない以上、実践的感情、つまり関心ではなく、それゆえに、無関心な快、つまり美に関する快の感情でありえるのである。また、あらゆる人に、つまり普遍的に伝達されうる「認識一般」のための連関である「自由な戯れ」、つまり「調和」は、その認識とともに普遍伝達可能であり、それによって生みだされる無関心な快も、それと同様の普遍性を獲得する。これにより、快に基づく趣味判断は、普遍伝達可能なものたりえ、それでもって万人に対する自身への賛同を要求するのである。
 第3章では、「〔美しさに関する〕誤った趣味判断」、あるいは、そうした趣味判断が誤るという事態を明らかにすることで、誤った趣味判断が表象するものが、醜さではないことを確認した。趣味判断の正誤については、道徳的観点、認識論的観点、情感的観点からの解釈が考えられ、それぞれにおいて、正誤は、善悪、真偽、感情の取り違えに依存すると見られた。本論文は、前者二つの観点を、それらが持つ問題のゆえに排除し、情感的観点から、趣味判断の正誤を検討した。それによると、美に関する趣味判断が誤るのは、主観が、趣味判断の規定根拠として、無関心な快の感情ではなく、他の種類の快の感情を選択してしまう場合に他ならない。趣味判断として下されたにもかかわらず、その判断が実は趣味判断ではないという点に、誤りが見出されるのである。したがって、誤った趣味判断は、対象の醜さを言明する判断ではない。認識判断や道徳的判断の正誤には、真偽と善悪という反対概念が反映されるのに対して、趣味判断の正誤には、美醜という反対概念は反映されないのである。
 第4章では、醜さに関する趣味判断を問題とした先行研究(とくに、A・シアー、C・ヴェンツェル、H・ハドソン、S・マクコーネル、ガイヤー、G・トムソンなど)を網羅的に概観することにより、従うべき要点および解決すべき課題とを確認し、以下の章で醜さに関する趣味判断を説明するための準備を整えた。その成果を踏まえると、醜さに関する趣味判断を説明するためには、認識諸能力の「調和」から生じる快に基づいた美しさに関する趣味判断との類比を通じて、諸能力の「不調和」から生じる不快を規定根拠とした判断を、醜さに関する趣味判断として説明するのがよい。しかし、この方法を用いるには、次の主要課題を遂行する必要があった。すなわち、第一に、認識諸能力の「不調和」を、「認識一般」のための合目的的な連関の一種として解釈することで、「不調和」に、「調和」と同様の普遍伝達可能性を確保すること、第二に、その「不調和」のうちに不快の感情を生みだす根拠があることを詳らかにすることで、快の感情と同様に普遍伝達可能な不快の感情を説明することである。つづく第5章では、これらの課題を遂行可能とする解釈を展開した。
 第5章では、醜さに関する不快の感情が生じる仕方を、美に関する快の感情が生じる仕方から類推し、明らかにしたうえで、その不快に基づいて、対象の醜さを言明する趣味判断を説明した。醜さに関する不快は、美に関する快が認識諸能力の「調和」から生じるのに対して、「不調和」によって生みだされる。本論文は、「認識一般」を目的に活動する構想力と悟性との比率に着目し、最適な比率にある連関を「調和」(「自由な戯れ」)、偏った比率にある連関を「不調和」として解釈した。「不調和」においては、構想力が自由すぎるがあまりに、自身の能力を適切に発揮することができず、その不適切さには不快の感情が感じられる。ただし、「不調和」も、広義には、「認識一般」を目的とした合目的的な連関に属すので、それによって生みだされる不快の感情には、美に関する快と同様の特徴が見出される。したがって、この不快に基づく判断は、美の快に基づく趣味判断のまさに対等な反対となり、対象の醜さを言明する趣味判断となるのである。もちろん、醜さに関する趣味判断は、美に関する趣味判断と同様の特徴を持つ。すなわち、前者の趣味判断も、無関心な感情に基づく判断であり、自然のみを対象として、自身への賛同をあらゆる人に要求するのである。要するに、趣味能力、つまり情感的判断力は、或る対象の表象に快の感情を接続することで、「この対象は美しい」という趣味判断を下すのとはまさに対照的な仕方で、対象の表象に不快の感情を接続することで、「この対象は醜い」という趣味判断を下すわけである。
 第6章では、「自然の合目的性」の概念を軸として、美に関する趣味判断と道徳との関係を踏まえ、醜さに関する趣味判断と道徳との関係を明らかにした。自然の醜さを言明する際にも、自然の美しさを言明する場合と同様に、趣味能力、つまり情感的判断力は、「自然の合目的性」を自身の原理として前提しなければならない。というのも、醜さに関する不快は、たしかに認識諸能力の「不調和」から生みだされるが、「不調和」は、広義には、合目的的な連関だからである。われわれが、自然の対象に対して合目的的な心的態度を持つためには、あたかも自然が心的態度とともに合目的的であるかのような事態、つまり「自然の合目的性」を前提しなければならないのである。ところで、「自然の合目的性」は、二つの意味で道徳に肯定的な影響を与える。すなわち、第一に、「自然の合目的性」は、自然と自由とを媒介する原理として、自然界における道徳を実現可能とする。これにより、自然本性に従った人間の行為は、道徳法則によって強制可能となる。第二に、「自然の合目的性」は、カントの自然倫理思想を利己的な人間中心主義から解放する。というのも、義務を生みだす意志は、道徳的関心によって規定されるが、「自然の合目的性」はそうした関心を引き、それゆえに、自然を問題とした義務を意志から直接に生じさせるからである。人間のためだけではなく自然のためにも、義務が形成されるわけである。したがって、「自然の合目的性」を前提する判断は、それら二つの特徴を引き継ぎ、道徳に肯定的な影響を及ぼす。よって、美に関する趣味判断のみならず、醜さに関する趣味判断も、道徳に肯定的な影響を与えるのである。趣味判断によって言明される醜さは、美しさと同様に、道徳に貢献する。
 以上の成果から、『判断力批判』において、対象の醜さを言明する趣味判断は、次のように説明されることになる。すなわち、醜さに関する趣味判断は、美に関する快の感情の反対概念である不快の感情に基づいて、自然について、美しさとは反対の表象、つまり醜さを言明する判断でありながらも、不快を生みだす心的状態、つまり「不調和」が、広義には、合目的的であるという点で、快を生みだす心的状態、つまり「調和」と一致するゆえに、その限りにおいて、対象の美しさを言明する趣味判断と同様の特徴を有する判断でもあるのである。「不調和」は、「調和」と同じく、「認識一般」の成立を目指した構想力と悟性との合目的的な連関であるが、そこでの構想力が異常なまでに自由に働き、構想力に偏った比率を形成してしまうために、「不調和」として理解された。それゆえ、「不調和」という心的状態を主観のうちに惹起させてしまう対象、すなわち、主観の構想力を異常なまでに自由にしてしまう対象(例えば、イギリス式庭園の雑然とした一画、どこまでが地続きなのか不明瞭なバロック様式の彫刻、未知の器官を有した深海魚などの、規則をまったく欠いた対象)こそが、カントの趣味論においては、醜いものと見なされるのである。以上のように、醜さに関する趣味判断が解明されたとともに、美しさの裏面にある醜さが明らかとなった。これをもって、カントの趣味論において「醜さの美学」を構築するという本論文の目的は、少なくとも理論的観点では果たされたのである。

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