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博士論文要旨

論文題目:論文要旨論文題目:開発事業をめぐる女性のジェンダーニーズの捉え方―バングラデシュのマイクロファイナンス事業の分析に基づく再考―
著者:本間 まり子 (HOMMA, Mariko)
博士号取得年月日:2019年3月18日

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【目次】
1.はじめに
2.問題の所在:バングラデシュのマイクロファイナンス事業のジェンダー課題
(1)バングラデシュの社会経済状況とジェンダー課題
(2)貧困女性を対象にしたマイクロファイナンス事業におけるジェンダー課題
3.本研究の目的と構成
4.ジェンダー平等推進政策における女性のジェンダーニーズの位置づけ
(1)開発を通じたジェンダー平等推進のための政策アプローチの推移
(2)女性のエンパワーメントを通じたジェンダーニーズの充足

<第1部> 先行研究レビューと理論的枠組み
第1章 先行研究レビューと本研究の位置づけ
第1節 先行研究における女性のジェンダーニーズの捉え方に関する議論
1.マイクロファイナンス事業をめぐる女性のジェンダーニーズの捉え方
2.エンパワーメント視点からの分析に関する議論
第2節 女性のジェンダーニーズを世帯内交渉から捉える試み
1.女性たちのジェンダーニーズを世帯内交渉から捉える可能性に関する議論
2.本研究の位置づけ
第2章 研究方法
第1節 分析枠組み
1.仮説の設定
2.2段階の分析
第2節 本研究の対象事例の概況
1.対象地域(バングラデシュパブナ県バブナショドレ郡)の概況と選定理由
2.国際NGO「Y」のマイクロファイナンス事業の概況
3.事例対象の選定理由
第3節 フィールド調査の概要
1.フィールド調査の対象者の選定方法
2.フィールド調査の方法
3.フィールド調査の制約と限界

<第2部> バングラデシュ女性のマイクロファイナンス事業をめぐる生活実践
第3章 女性たちの置かれた状況
第1節 女性たちの所属するグループに基づく属性の特徴
1.各属性の特徴
2.女性たちの個人の状況
3.女性たちの世帯の状況
第2節 女性たちの経済活動の特徴
1.女性たちの経済活動への従事状況
2.女性たちの経済活動に対するジェンダー規範やジェンダー関係の影響
第4章 女性たちのマイクロファイナンス事業の利用状況
第1節 女性たちのマイクロファイナンス機関(MFI)への所属状況
1.女性たちの国際NGO「Y」への所属
2. 女性たちの国際NGO「Y」以外のMFIへの所属
第2節 女性たちによる国際NGO「Y」のマイクロファイナンス事業の利用方法
1.女性たちによる融資金の用途と返済金のねん出者
2.融資金の用途の組み合わせパターンと利用方法
第5章 女性たちの解釈に基づくマイクロファイナンス事業に関する世帯内交渉
第1節 女性たちの解釈に基づく交渉内容と戦術の分析
1.融資金を男性のビジネスに投資している事例の分析
2.融資金を男性のビジネスに投資していない事例の分析
3.分析結果のまとめ
第2節 女性たちによる世帯内交渉と戦術に関する分析
1.世帯内交渉における交渉内容と戦術の特徴の分析
2.世帯内交渉が行われる状況や用いられる戦術の傾向に関する分析

<第3部> マイクロファイナンス事業をめぐる女性の戦略的ジェンダーニーズ
第6章 戦略的ジェンダーニーズの内容とアプローチに関する考察
第1節 明らかになった戦略的ジェンダーニーズはどのようなものか
1.仮説1の検証
2.仮説2の検証
第2節 女性たちの世帯内交渉から戦略的ジェンダーニーズを捉える意義
1.固有の文脈に即した形でジェンダーニーズを捉える
2.ジェンダーニーズが充足されるプロセスを捉える
3.ジェンダーニーズの充足とマイクロファイナンス事業の関連
終章
1. 結論:どのような研究の成果が得られたのか
2. 本研究の貢献と残された研究課題
(1)学術的な貢献
(2)実務的な貢献(政策的意義)
(3)残された研究課題

【論文要旨】
 本研究は、バングラデシュのマイクロファイナンス事業を事例として、女性たちがジェンダーによる制約を乗り越えるためにおこなった世帯内交渉を明らかにし、そこから戦略的ジェンダーニーズを捉えることを目的とした。女性たちの交渉内容からどのような特徴をもった戦略的ジェンダーニーズを読み取ることができ、それがどのように女性たちの置かれている状況を反映しているのかを考察し、開発事業における女性のジェンダーニーズを女性たちの置かれている固有の文脈に即した形で捉えるアプローチとして提示することを試みた。
 本研究は、3部構成とした。序章で本研究が対象とする問題の所在と研究の目的を明示した後、第1部(第1章と第2章)で研究の背景と方法を、第2部(第3章、第4章、第5章)で事例分析を、第3部(第6章と終章)で考察と結論を述べた。
 バングラデシュには、女性が外出することや外部との接点を持つことに制約を与えるジェンダー規範があり、女性は社会経済活動に制約を受け、男性より不利な状況にある。そこで、小規模ビジネスのための資金を準備出来ない女性を対象として、対象者を貧困女性に絞り込んだ集団連帯制の融資制度が広く展開されていた。しかしこうしたマイクロファイナンス事業を通じて女性が受け取る融資金の多くは、女性自らによってビジネスに投資されるのではなく世帯内の男性に渡されており、事業が女性たちのジェンダー課題の解決にいかに繋がっているのかを明らかにする必要がある。
 本研究は、女性が持つジェンダー課題への利害関心や利害関心が充足されるための手段、すなわち女性のジェンダーニーズに着目し、マイクロファイナンス事業をめぐり女性が持つジェンダーニーズを明らかにすることを目指した。ジェンダーニーズは、家事や育児といった性別役割分業のモデルが規定する役割や位置から発生するニーズ(実際的ジェンダーニーズ)と、ジェンダーが女性たちに強いている従属的な立場を改善するためのニーズ(戦略的ジェンダーニーズ)という二つの側面を持ち、両方のジェンダーニーズの充足を通じて女性たちのジェンダー平等が推進される。
 第1章では、先行研究をレビューし、本研究の立ち位置を示した。これまで先行研究は、エンパワーメント分析を通じて、融資金を世帯内の男性に渡している女性にとってのマイクロファイナンス事業をめぐるジェンダーニーズとは何かという問いの答えを求めてきた。しかし、①エンパワーメントの様相を対象地域の固有の文脈に即して捉える、②エンパワーメントのプロセスを捉える、③エンパワーメントとマイクロファイナンス事業の因果関係を示すという課題に直面している。これらの課題を乗り越えるために、本研究は、マイクロファイナンス事業をめぐって女性たちが日常生活の中でおこなう世帯内交渉から彼女たちのジェンダーニーズを捉えるアプローチを用いることとした。
 第2章では、分析方法を示した。本研究では、「女性たちは、マイクロファイナンス事業の利用を通じて自身が直面しているジェンダー規範やジェンダー関係に基づく制約を乗り越えるための世帯内交渉をおこなってきているが、それは融資金の受け渡し行為に際した口頭のコミュニケーションとしておこなわれているわけではない(仮説1)」、「融資金を直接用いない場合でも、融資金を交渉の切り札として用いることにより、女性の収入へのアクセスが促進されている(仮説2)」という仮説を立て、事例分析を通じて仮説の検証をおこない研究課題の解決を目指した。
 仮説の検証は、バングラデシュ国パブナ県で国際NGO「Y」が実施する、マイクロファイナンス事業の事例分析を通じておこなった。事例調査では、「Y」の利用者女性137名と男性親族(23名)、「Y」のスタッフ等のキーインフォーマントを対象にした聞き取り調査をおこなった。事例分析は、2段階とした。フィールド調査を通じて女性たちのマイクロファイナンス事業の利用状況とそれに対する彼女ら自身の解釈を聞き取り、世帯内交渉の内容を再構成した。その結果から、ジェンダー規範やジェンダー関係による制約を乗り越える交渉内容と、制約を乗り越えるために交渉の際の用いられた戦術を抽出し、それらを戦略的ジェンダーニーズとして読み替えをした。
 第3章と第4章において、フィールド調査結果に基づき、調査対象女性たちの概況と「Y」の利用状況をまとめた。第3章では、調査対象となった女性たちの置かれている状況を、所属するグループの属性(地域や職場)、個人の状況(年齢、宗教、教育、婚姻状態)、世帯の状況(世帯主、収入源、収入額)により確認した。また女性たちが従事する経済活動への従事状況を確認し、対象女性137名中84名は何等かの収入源があることを明らかにした。しかし、73名(53%)は経済活動に従事することに対する制約(外出に対して、マーケットへのアクセスに対して、稼得に関して等)を受けていた。第4章では、女性たちの「Y」の事業の利用状況を確認した。対象女性137名中130名(95%)が融資を受けていた。そこで女性自身がおこなうビジネスへ投資していたのは33名(24%/137名)で、そのうち全額を女性自身が使用していたのは17名(12%/137名)のみだった。融資対象者のうち、90名(66%/137名)がビジネスに投資、76名(55%/137名)が世帯出費に投入していた。また融資金をビジネスに投資していた90名中73名(81%)は、少なくとも一度は、夫や息子等の世帯内の男性のビジネスに投資をしていた。
 第5章では、女性たちの解釈に基づき、ジェンダーによる制約を乗り越えるための世帯内交渉を再構成した。交渉の内容が明示的であったのは、調査対象者137名のうち87名(64%)であった。これらの交渉の中には、融資金の投資先や投資方法といった融資金の利用に直接に関する交渉と、融資金を切り札として他のジェンダー課題を乗り越えるための交渉がみられた。交渉内容から抽出された女性たちのジェンダーニーズは「経済活動の機会の確保」、「女性の自由になる資金の確保」、「女性名義の財産の所有」、「女性の将来の経済活動の機会の確保」、「男性からの庇護の確保」という5種類だった。女性たちが受けるジェンダー規範やジェンダー関係による制約の違いが、ジェンダーニーズの違いに反映されていた。既に経済活動に従事する女性が多い都市部では、経済活動を促進するというジェンダーニーズが多くみられた。農村部では規範による制約が強いため、手元に資金や財産を確保する手段を得る、将来収入を得るための準備をするといった、長期的な視野に立ったジェンダーニーズが持たれる傾向があった。経済活動に従事している女性の方が交渉の機会が多く、多様なジェンダーニーズを持つ傾向がみられた。
 第6章では、二つの仮説の検証を通じて明らかになったジェンダーニーズの特徴を考察した。さらに、先行研究レビューに基づき本研究が設定した課題との照合を通じて、本研究の意義を考察した。まず、仮説1の検証を通じて、女性たちのおこなう世帯内交渉の特徴が明らかになった。女性たちは、世帯内の関係性に社会経済的な安全を依存するというジェンダー規範の影響を受けていた。そのため、ジェンダーに基づく制約を乗り越える際に交渉によって対立的な状況や摩擦が生じることを避ける傾向がみられた。しかし、交渉を回避しているわけではなく、「明示的ではない交渉」、「敢えて何もしないかたちの交渉、もしくは相手から見えないところでおこなう交渉」、「長期的な視野に立った交渉」、「摩擦を避けるための交渉」といった、口頭でのコミュニケーション以外の交渉手段を用いる傾向がみられた。これらの交渉は、先行研究において世帯内交渉がおこなわれると想定されてきた融資金の受け渡しという機会とは異なるタイミングでおこなわれていた。本研究のアプローチを通じて、そうした交渉を分析対象にすることが出来た。またそれにより、急激な変化によって生じうる摩擦を避け、徐々に課題を解決していく傾向があることがわかった。本研究では、これらの世帯内交渉の内容を戦略的ジェンダーニーズと読み替え、仮説2を通じて女性たちによるジェンダーニーズの充足プロセスの検証を試みた。
 仮説2では、収入へのアクセスを女性たちの戦略的ジェンダーニーズの一つの例として、融資金を直接用いない女性たちが持つ戦略的ジェンダーニーズの特徴と、そのニーズを充足するプロセスを示した。調査時点で経済活動をおこなっていなかった女性は、将来経済活動に従事する機会を確保するための交渉をおこなう傾向がみられた。既にビジネスを始めていた女性たちは、融資金を直接ビジネスに用いるのではなく、融資金を交渉の切り札として用いることにより、経済活動の機会を確保していた。何等かの形で融資金を女性のビジネスに投資することをニーズとして認識し、交渉を通じて実現していた女性もいた。また経済活動への従事を実現した女性には、世帯内の男性との摩擦が生じないよう、融資金のうち自ら用いる金額を男性より少額にする、男性に内緒で受け取るといった戦術が用いられていた。女性たちのおこなう経済活動には、小規模で世帯収入の補完的な位置づけであり女性の仕事として考えられているような性別役割や既存の不平等なジェンダー関係を維持するような内容が選ばれる傾向がみられた。こうした形でジェンダーニーズが充足される背景には、女性が経済活動に従事することに対して制約を与えるジェンダー規範の存在がある。女性たちは規範の影響下にあったが、ただ甘受しているのではなく、それを乗り越えるための交渉を、仮説1の検証を通じて明らかにしたような摩擦を避けた形でおこなっていた。それにより、経済活動の機会を確保していた。女性たちの中には、性別役割に準じた形で始めたビジネスの規模や内容から、男性の経済活動として捉えられるような規模や対象を拡大した、融資金を用いたビジネスへと転換させていくプロセスを示したものもいた。
 本研究を通じて明らかになった戦略的ジェンダーニーズには、既存のジェンダー規範に基づく不平等な関係を改善するというよりも、むしろ再生産するような内容が含まれていた。しかし、仮説1と仮説2をめぐる分析と考察が示したように、女性たちは規範の影響により、世帯内の男性との良好な関係の維持するために摩擦を避ける傾向があるものの、交渉を放棄しているわけではなかった。摩擦を避けながら、徐々にジェンダーニーズを充足することを目指していた。
 戦略的ジェンダーニーズが段階的に充足されていくこと、さらには逆戻りしているようにも見えつつ充足されていくことは、エンパワーメント分析の研究によって示されてきている。本研究は、女性たちの解釈に依拠しながら世帯内交渉のプロセスに踏み込むことによって、女性たちが課題として認識するニーズの内容や改善したいと願う方向性を捉えるというアプローチを用いた。それにより、不平等なジェンダー関係の再生産に見える状況が、対象地域のマイクロファイナンス事業の利用者女性たちの置かれた状況においてはジェンダーニーズの充足のプロセスの途上にあることを示した。このように、本研究の用いたアプローチは、女性たちの置かれている固有の文脈に沿ったジェンダーニーズの内容とその充足のプロセスを捉ることを可能にした。
 以上の分析と考察を通じて本研究は、終章において、次のように結論を得た。戦略的ジェンダーニーズの充足とは、不平等なジェンダー関係等の構造的な変化であるが、本研究が用いたアプローチでは、その戦略的ジェンダーニーズが充足されるまでのプロセスにあるニーズを、戦略的ジェンダーニーズとして包括的に捉えている。それにより、戦略的ジェンダーニーズの充足のために女性が獲得する必要のある資源や能力を明らかにし、それらが獲得されるプロセスや獲得された状態を示すというエンパワーメント分析の課題を改善した。一方で、戦略的ジェンダーニーズの充足プロセスの途上であると捉えられた交渉内容が、女性たちが目指している方向に向かうのかどうかを確認し、開発事業を通じてその方向に向かうよう促進する方法を模索する余地が、依然として残されている。プロセスの同じ状態に留まるようであれば、それは不平等なジェンダー関係の再生産となる危険性があるためである。つまり本研究が用いたアプローチは、ジェンダー平等推進のために開発事業が果たすべき具体的な役割を示すものである。本研究が提案する女性たちがおこなう世帯内交渉からジェンダーニーズを捉えるアプローチの、他の文脈(他の国、他の分野、マイクロファイナンス事業の他のサービス等)への適用可能性を検討するとともに、開発事業一般が戦略的ジェンダーニーズの充足に向けてとるべき方策について、さらに探求していく作業が期待される。

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