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博士論文要旨

論文題目:労働争議に関する中国工会の立場と役割:改革開放期の外資企業を中心に
著者:高 玲娜 (GAO, Ling Na)
博士号取得年月日:2000年7月27日

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(一)本論文の課題

 中国は1978年から改革開放方針を打ち出し、92年に社会主義計画経済体制を社会主義市場経済体制に転換することを明言し、今日まで既に20年余りの改革開放の道を辿ってきた。改革開放政策は中国経済に著しい発展をもたらしたが、一方、経済の市場化と外資系企業の急増に伴い、労働関係の社会摩擦が増大し、外資系企業の労働争議(本論文で用いる労働争議とは争議行為だけではなく、個人労働者と使用者の間に発生した紛争をも含む広義の労働紛争である)の多発がクローズ・アップされてきた。

 労働争議が多発する状況に対応し、中国政府は労働争議処理制度を復活させ、整備し、労働争議処理における中国工会(中国労働組合と訳される)の立場と役割を規定した。即ち、労働者個人、或は複数の労働者と使用者側との紛争が発生した場合、企業内工会は労使双方の間に立ち、調停の役割を担当し、地方工会組織は労働管理行政部門及び企業管理行政部門と共同して争議を仲裁する役割を担うということである。

 また、労働争議の防止策の一環として、労働者を代表して経営側と協議し、集団労働契約(労働協約)を締結し、経営側の法律・労働契約の執行状況を監督するという工会の役割が法律で定められた。

 関係法律や制度が整備されてきたにもかかわらず、労働争議が依然として多発し、特に外資系企業の労働争議の多発が注目されると同時に、外資系企業での工会の役割が問題視されるようになった。外資系企業では工会組織率が低く、既存の工会も機能しないので、工会は労働争議の多発を防ぐ役割が果せないのである。

 中華全国総工会は、外資系企業での工会の機能不全の原因が党幹部、政府官僚、経営管理者、労働者、及び法律などの要素にあると指摘した。一方、労働部(日本の労働省にあたる)関係の研究者は、建国以後の工会は労働者を代表する機能を既に喪失したと指摘した。

 95年に中華全国総工会は、従来の計画経済体制の下での古い工会の体質を変革しなければ、市場経済体制における工会の役割は果たせないと自己改革の必要性を提起した。工会の自己改革の動きが見えてきたが、その抜本的改革措置は取られていなかった。工会の労働者代表機能不全の問題は依然として存在している。中国工会の在り方が問われているのである。

 本論文は中国工会の労働者代表機能不全の要因を解明しようとし、主に改革開放期に多発する労働争議に関する中国工会の立場と役割を考察・論述したものである。本論文は外資系企業に焦点を当て、広義の労使関係の視点から労働争議を多発させた主な原因を探り、労働争議に関して法定上と実際上の工会の立場と役割を考察し、工会の労働者代表機能不全の要因を中国工会の歴史と社会制度との関連性を踏まえて論証した。そして、本論文は「上部構造」と「生産関係」の理論的視点に立ちながら、今後の研究課題の展望として市場経済に適応する工会の抜本的改革案及びその実行可能性を試論として提示した。

(二)論文の構成

 本論文は七章から構成されている。

 第一章  改革開放期の労働争議の多発状況
  第1節  労働争議の多発状況の概観
  第2節  労働争議内容とそのプロセス
  まとめ
 第二章  外資系企業の労働争議の多発原因
  第1節  労働争議の多発原因の整理
  第2節  労働争議を多発させた主な直接原因
  第3節  労働争議を多発させた主な環境原因
  第4節  労働争議を多発させた主な間接原因
  まとめ
 第三章  労働争議への対応と工会の立場・役割
  第1節  労働争議処理制度と工会の立場・役割
  第2節  労働争議処理制度の実施概況
  第3節  労働争議の防止策と工会の立場・役割
  まとめ
 第四章  外資系企業工会の組織と機能状況
  第1節  外資系企業の工会組織率
  第2節  近年における工会組織率上昇の原因
  第3節  工会の労働者代表機能不全の状況
  まとめ
 第五章  工会の労働者代表機能不全の要因と背景
  第1節  工会の労働者代表機能不全の要因
  第2節  社会体制に規定された工会の性質
  第3節  市場経済に適応していない工会の体質
  まとめ
 第六章  工会の自己改革の論議・動き・限界
  第1節  工会の自己改革をめぐる論議
  第2節  工会の自己改革の動き
  第3節  工会の自己改革の限界とその原因
  まとめ
 第七章  社会主義市場経済に適応する工会の改革案
  第1節  「主人」から「国民」への意識変革
  第2節  工会の権利と法的保障の強化
  第3節  「上部構造」から「生産関係」への属性変換
  まとめ
 総括

(三)論文内容の概要

 本論文は中国工会の労働者代表機能不全の要因を解明するため、主に労働争議に関する中国工会の立場と役割にメスを入れながら、まず改革開放期の労働争議の発生状況の把握から始めた。従って、第一章では労働争議処理情況に関する統計資料の分析に基づき、文献のサーベイと実地調査の結果も加え、主に外資系企業での労働争議の頻発状況を概観し、賃金・福利・保険、労働時間、不当解雇、人権侵害を巡る労働争議内容とそのプロセスを呈示した。

 労働争議内容と争議処理結果から、改革開放時期に外資系企業で労働争議を多発させた労使間での主な直接原因が使用者側による法定上の労働者権益の侵害にあるという指摘が従来より通説になっている。筆者は一歩進んで第二章において、広義の労使関係の概念とそれを取り巻く外部環境との構図を用いて、労働争議を多発させた原因を直接・間接・環境原因に分類し、政府の労使関係への介入策と外資誘致策に潜む原因を指摘した。

 政府の労使関係への介入策においては、従来のマルクス主義の生産関係論に基づき、アンバランスな労使間の権利を規定したことが労働争議を多発させる主な間接原因となった。政府は資本主義的性格を持つ外資系企業を導入することによって、資本主義生産関係における投資者と経営者の絶対的な意思決定権を認めなければならないという考えに基づき、労働者側の権利を弱く規定した。そして、一部の地方政府は外資誘致のため、労働者の人件費を低く押さえる政策をも取ったのである。

 また、政府の外資誘致策においては、外資系企業の選別と許可の基準があったにも拘らず、老朽設備、汚染企業、経営理念のない企業の導入という運用問題が存在し、外資優遇税制が悪用されることへの予防措置が欠如していた。これらの問題は外資系企業での労働争議を多発させる環境原因になった。汚染企業や経営理念のない企業などは、そうした環境条件の下で、経営側が一方的に強い意思決定権を行使して、投資者の利益のみを追求し、法定上の最低基準の労働者権益までをも侵害し、社会に弊害をもたらしたのである。

 94年に政府はハイテク産業の誘致と単純労働集約型企業の制限という方針に沿って外資の選別基準と税金優遇制度を改定し、ある程度外資系企業での労働争議の抑制に効果を上げた。しかし、経営理念を持たない企業の導入を物理的に阻止することは不可能であった。

 続いて第三章では、整備された労働争議処理制度と労働争議の防止策に関する工会の立場と役割を論述し、その処理制度と予防策の実施状況及びそこにおける工会機能の実態を考察した。

 92年以後、資本主義か社会主義か、換言すれば私有制企業か公有制企業かを問わずに、政府はすべての工会を労使の間に置き、労働争議の調停と仲裁の役割を担当させた。しかし、労働争議処理機構の整備と運営に当たっては、調停員、仲裁員の人数と経験の不足、処理基準の不明確、処理の不公正、多発する労働争議の処理に巨額なコストがかかるなど、処理の限界もあった。地方工会組織は準政府機関として、各級の地方労働仲裁委員会に参与したが、外資系企業では工会の組織率が低く、その工会は労働争議調停の役割を十分に果していなかった。

 一方、労働争議の防止策においては、使用者による労働者権益の侵害の深刻化に対応して、政府は労働契約の締結における工会の労働者代表としての立場を強調し、さらに労働者代表としての工会幹部に取締役員会会議への列席権を与え、平時の生産管理においても工会の経営管理側に対する発言権と監督権を強化した。しかし、工会は完全に労働者の組織として存在しているのではなく、政府の労使関係を調整する機構ともなっている。また、すべての企業工会には企業側に協力し生産性を高めるため労働者を組織・教育する役割も課せられている。しかし、外資企業での工会組織率が極めて低いので、このような工会の役割も果せないのが実情であった。

 更に第四章では、外資系企業での低い工会組織率の原因を検討し、既存の工会も、新規に結成された工会も期待された役割を果たしていない実態を考察し、工会の労働者代表機能不全の問題を浮き彫りにした。

 中華全国総工会は外資系企業工会の組織率が低い原因を一部の経営者、一部の党幹部と政府官僚、一部の労働者側の問題から次のように指摘した。即ち、一部の外国人経営者は工会を労働組合として認識しその結成に強く抵抗し、一部の中国人経営者も経営に対する監督権と発言権を持つ工会の結成に反対し、一部の党幹部と政府官僚は投資環境(外国人経営者の意思)を配慮して工会の結成に冷淡な態度をとり、一部の農村出身の労働者は工会を組織して労働者権益を守る意識が薄かったということである。これに加えて、筆者は文献と実地調査の結果に基き、その工会組織率を低くさせた中華全国総工会自身の原因を以下のように指摘した。即ち、改革開放期の始めから90年代まで、外資系企業では中華全国総工会が工会の結成を促進する活動を本格的に行わなかったことである。また、地方工会が外資系企業での労働者の啓発ではなく、工会設立を経営者への説得に努力した点にも問題があった。さらに、労働者が自由に工会を組織する権利及びその他の工会権限に関する法律があっても、中華全国総工会はその法律の実行を保障する規定や措置に欠けている状態に直面しながら、それをすばやく改善しなかったという問題もあった。

 外資系企業では94年から中華全国総工会の半強制的促進措置、経営者の工会に対する認識と態度の変化、労働者の組織意識の強化などによって工会の組織率が上昇した。しかし、既存の工会も、新規に組織された工会も企業側への協力が期待され、企業側と対立して労働者権益を守ることが困難となっている。つまり、工会の労働者代表機能不全の問題は顕在化することになったのである。

 第五章では、工会の機能不全の原因を究明するため、改革開放期の外資系企業に限らず、建国後の工会の労働者代表機能の喪失という観点について、歴史を遡及してその原因を世界の労働運動の潮流と中国の政治、経済、社会体制に関連づけて論述し、現在の市場経済への適応性が欠如している中国工会の体質を解明した。

 95年に中華全国総工会は企業工会の労働者代表機能不全の原因が一部の企業経営者と政府官僚がその機能を抑制すること、違法責任追及が欠如していること、経営者が慣習として工会幹部を兼任していることなどにあると指摘した。それ以前の92年に労働部関係の研究者王愛文氏は建国後の中国工会は政治に頼って自身の居場所を正しく認識せず党と政府に近づきすぎて労働者大衆から離れてしまったので、労働者代表機能を既に喪失したと指摘した。しかし、工会の労働者代表機能不全の究極的原因について説得力のある論証は見い出せなかった。

 筆者はこの原因究明に取り組みながら、世界労働運動の二大潮流、そして、中国社会の政治・経済との関連から中華全国総工会の興亡盛衰の歴史を遡及し、中華全国総工会の属性を考察・論述した。特に、中華全国総工会の全体組織を二段構造に解剖して、その二段構造のそれぞれの属性を指摘した。上段構造である中華全国総工会及びその傘下の地方総工会機構は、赤色の労働組合インターナショナルに加入し、中国共産党組織の付属機関として、第3インターナショナルの指導を受けていた。そして、その中国共産党の付属機関としての属性は建国前も建国後も変わらない。上段構造の組織目的は資本主義制度を打倒し労働者階級の独裁を樹立し、社会主義社会を実現することであった。一方、建国以前その下段構造になる企業工会はそもそも労使関係における労働者団体であり、労働者の労働条件と社会地位の改善を目的としていた。この異なった属性をもつ二段構造を接着させたのがマルクス・レーニン主義であった。即ち、労働者階級が政権を握る時、その労働条件と社会地位を自由かつ徹底的に改善できるという理論である。

 建国後、執政政党となった中国共産党の助手として、中華全国総工会は準政府機関の地位と待遇を受け、全国範囲での地方工会、産業工会、企業工会を統括し、引き続いて党及び政府の指令を下部組織に伝達し、労働者大衆にそれを実行させる役割を担当した。

 57年から確立された社会主義計画経済体制の下で、国家経営による労働条件に関する諸制度が平等という方針に従って画一的に規定され、企業レベルでの労使紛争を引き起こす基本的な要素が無くなった。企業工会の労使関係を調整し、労働者の権益を守る役割も消失した。筆者の結論を言えば、中国工会の労働者代表機能不全の究極的原因は中国工会の自らの居場所に関する認識の問題に留まらず、中国工会の属性・役割が中国社会の政治・経済体制に制約された点にある。

 さらに筆者は現在の工会組織の目的、構造、メンバー資格、財政収支などを市場経済社会における労働組合のそれらと比較して、その相違点を指摘した上で、従来の工会の性質を保持し、その慣習を続行している中華全国総工会は市場経済のメカニズムで運営している外資系企業で労働者組織として機能しえない点を指摘した。計画経済から経済市場への転換期に中華全国総工会の古い体質は組織自身の存続と発展さえ危うくしている。

 第六章では、提起された工会の自己改革の論議と実際の動きを考察した上で、その改革措置の限界を指摘し、準政府機関としての工会の性質が維持される原因を論述した。

 92年に労働部関係の研究者が市場経済に適応するため、古い工会の体質を改革する措置を提示した。95年から中華全国総工会は存続の危機を感じて自己改革に動き出した。中華全国総工会は工会幹部と行政及び企業幹部の兼任慣習を廃止したが、改革の論議にも改革の動きにも限界が存在し、工会の体質を抜本的に改革する措置は取られていない。従って、工会の労働者代表機能不全の問題は依然として残されている。

 中国共産党の助手として準政府機関になった工会の体質を抜本的に改革する鍵となるのが工会と党の関係の改革である。しかし、それが改革されていないために、企業内での工会幹部と経営幹部の兼任制度が廃止された後にも、一党専制の共産党組織を介して、工会幹部が経営幹部に制御され、労働者権益を擁護することができていない。また、準政府機関である上部工会は既得権(準政府機関としての地位と待遇)を放棄しそうにもなく、一方、党はその政権を維持し、政策や指令を実行させる補助機関として現在の中国工会との関係も維持する傾向にある。さらに、現存の国営企業では勿論のこと、他の企業においても国営企業時代の慣習が残っていること、政治改革の遅れなどが中華全国総工会の古い体質を温存させている。

 終章である第七章では、今後の研究課題の展望として、市場経済に適応し、完全に労働者の組織に転換するための工会の抜本的な改革案とその実行可能性を試論として提示した。

 建国後、労働者階級の政党であるという中国共産党が執政政党になったのに伴い、「労働者階級が政権を取った」、「労働者階級は国家の主人になった」、そして、「国営企業での労働者は企業の主人にもなった」、「社会主義社会に労働争議は存在しない」といった一連のイデオロギーが形成された。

 筆者は建国後の新生政権の構成メンバーや、57年頃国営企業でも激しいストが起こった史実に基づき、執政政党になった中国共産党は労働者階級だけの権益を代表することができないこと、上述したイデオロギーが現実性の欠如した政治理念であることを指摘した。

 従って、市場経済に適応するための工会の改革は、まず「主人の権利」を「国民の権益」に転換させる意識改革から出発し、国民権益としての合法的かつ合理的労働者権益を擁護し、労働者を代表する工会の権限を法制化し、労働者及び工会のスト権を確立すべきである。そして、工会の属性を「上部構造」から「生産関係」に移行させる改革措置として、工会を党から切り離し、労働者組織として、工会幹部の地位と待遇を労働者たちの選挙と会費で保障させなければならない。

 上述した改革措置の実行可能性は中国社会の経済・政治体制の改革状況に依存する。既存の市場経済及び今後拡大される市場経済に適応するため、既存の中国工会を完全に労働者組織に転換させなければ、労働者にとってその組織の存在価値はなくなるのである。

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