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博士論文要旨

論文題目:空の区別 ―中観派哲学と区別のシステム理論―
著者:西 菜穂子 (NISHI,Nahoko)
博士号取得年月日:2018年10月10日

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 この世界に生きる自己への問いについての、生物学者、社会学者、西洋哲学者、東洋哲学者の記述を、区別および仏教の「空」の思想を通して考察する。生物学者フランシスコ・ヴァレーラが『身体化された心』(1991)においてエヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュとともに提起した西洋科学・思想と仏教哲学との融合の視点を起点とし、ルーマンの社会システム理論、ナーガールジュナの哲学、ヴェーダーンタ哲学、否定神学を参照し、それらの根底にある思想の連関を論じる。
 
 『身体化された心』で提唱された、日常的な意識体験と認知科学の融合をナーガールジュナの仏教哲学の視点から試みるという学際的なアプローチは、認知科学分野に同書の身体化論が与えた多大な影響に比して、哲学・思想的な浸透度は低かった。本書の身体化認知論の科学的実践研究は近年盛んに行われているが、本来ヴァレーラらの意図の核心であったはずの中観派の仏教思想の哲学的な理解の意味は、認知科学分野ではほとんど看過されてきた。認知科学のみならず、西洋思想においても仏教哲学をはじめとした東洋思想のかかる理解・浸透には未だ道程が必要である。
 この状況を一つの端緒・可能性と捉え、本論ではヴァレーラらの試みを仏教・東洋思想から、社会科学も含めた広義の精神科学や哲学全般の根底の問いに敷衍させることを目する。
ヴァレーラらの目的の理解を妨げた大きな要因の一つは、仏教哲学のみならず東洋思想を理論として受容する土壌の未成熟にあったと考えられる。本論では東洋の第一人者の研究・解釈と西洋哲学者の洞察の比較参照によってナーガールジュナの哲学理解の一つの場を提示する。まずカール・ヤスパースによるナーガールジュナ解釈を通して、東西哲学者の角度の相違と共通性の確認の素地とする。その上で、中村元による大乗仏教思想の歴史的背景、および空・縁起・中道の理論を考察する。さらに、中村の比較思想研究から、仏教と古代ギリシア思想との交流について論じるとともに、ヴェーダーンタ思想の哲学者シャンカラによるブラフマンとアートマンの概念を参照し、仏教思想が古代インド哲学を思想の源として形而上学的な本質を共有していることをあらためて確認する。それによって、東西の視点の差異から中観派哲学の帰謬法の手法と目的の普遍性を浮き彫りにする。
 他方、社会科学分野の視点として、ヴァレーラがマトゥラーナとともに提唱するに至った生物システムのオートポイエーシス理論を社会学に導入し、独自の社会システム理論を構築したニクラス・ルーマンの理論を「区別と観察の理論」という観点から一貫して読解する。ルーマンが超領域的な研究分野であるシステム理論を社会の中で社会について論じる作動そのものとしての理論的営為とし、そこに見出したものを、その科学システム理論、宗教システム理論の記述から解釈する。これらの解釈から、マトゥラーナ/ ヴァレーラの概念援用という事実理解のみに留まらず、それ以前よりルーマンがその社会システム理論を成立させるに至った哲学的な背景および道程と、上述のヴァレーラらの行き着いた探求の意図が一つの到達点に至ることが明示される。
 また、後期の理論、特に宗教理論にはヴァレーラらの「中道」の視点の提案が少なからぬ影響を与えていたと推察し、まずルーマンの社会システム理論の区別と観察の視座の抽象的な普遍性を論じることで、中観派哲学や東洋思想との脈略を探り当ててゆく。さらに後期の宗教論を参照し、「空」や仏教思想に関する記述から示唆を得て、ナーガールジュナの思想との連関を考察する。そして、ルーマンが本質的な影響を受けたいくつかの思想家の中からニコラウス・クザーヌスの否定神学に焦点を当て、ナーガールジュナの哲学・仏教思想およびヴェーダーンタ思想の不二一元論との類似点を論じる。それによって、ルーマンの思想において「区別」概念の根幹をなすものについて、その宗教システムについての記述の次元から理解することができる。
 論述の流れとして第一章での認知科学の議論から、社会についてのシステム理論としてつなげる形で第二章にルーマン理論の考察を置くという構成をとる。つづく第三章で論じられるナーガールジュナの空の哲学およびヴェーダーンタ思想が、第一・二章で生物学、社会学的に論じられた素地の合流するところとして理解される。第三章以降はまた、西洋思想と東洋思想の区別の融合地点とも見なされる。
最終的にシステム理論、中観派哲学、古代インド哲学、キリスト教否定神学の記述・理論・視座の差異と類似、そしてその再統一が見出され、これら諸思惟を可能とするものによって、自己への問い、現代の世界を生きることに対するひとつのあり方が示される。それは多種異質とされる角度の視点による諸記述が形成する、異ならざるもののひとつの形であることが理解される。
 本論の考察は、以下の一貫した視座によって論じられる。幅広い学問領域に影響を与えた現代生物システム理論の背景に貫かれるものは、本来、より広範な哲学・思想的普遍性を持つような視点に求めることができる。それは一見狭義の宗教思想とされ、認知科学や現代社会理論とは概して無縁とされるものであるかもしれない。だが、様々な思想的営為は連なり合い一つの脈絡を形成している。現代認知科学も、社会システム理論もまた、あらゆる歴史的な思惟の足跡の成果であり、その礎の上に描かれている。それは個別の多様な概念の発展の歴史を湛えてなおその全てを包含する抽象的な概念でありながら、思惟を極め尽くし止揚した後に把捉されるものとされる。それを仏教思想の「空」の概念で表すことが可能である。

目次

序論
第一章 『身体化された心』の問題提起
第一節 身体化論提唱の背景
一 本書の動機
二 認知主義批判
三 本書の仏教理解の問題点
四 科学(学問)と日常の自己
第二節 身体化論と仏教思想からの示唆
一 心の科学と自己
二 自己の根拠 無根拠性
(一)自己の根拠
(二)色の認知 行為からの産出
(三)無根拠性
三 エナクティヴ・アプローチと自我のない状態
第二章 ルーマンの理論
第一節 区別・観察
一 システムと環境
(一)差異理論としてのシステム理論
(二)区別・観察
(三)二項コード
(四)オートポイエーシス
(五)社会 意味 言語
二 自己
(一)「個人」の同一性と観察者
(二)意識と心
三 世界
(一)世界の観察とパラドックスのコミュニケーション
(二)時間
(三)世界と沈黙すること 
四 科学システム
(一)科学システムという観察形式
(二)基礎付け可能性
第二節 神の区別
一 宗教システム 
(一)ルーマンのアプローチ
(二)宗教システムにおける意味
(三)宗教のコミュニケーション
二 超越と内在
(一)超越と内在を扱うこと
(二) 宗教システムのコード 超越 / 内在
三 仏教哲学への関心
(一)ルーマンの神概念
(二)ルーマンの仏教観とキリスト教的コスモロジー
(三)ブラフマンについての言及
第三章 ナーガールジュナの哲学
第一節 ヤスパース「ナーガールジュナ」
一 西洋における中観派哲学の受容
二 帰謬法の西洋哲学からの解説
三 思惟と非思惟
四 空性
五 東洋と西洋の自己
第二節 中村元『龍樹』
一 中観派の概略
(一)歴史的背景と文献
(二)論敵・説一切有部の思想
(三)帰謬法
二 空
(一)「空」の受容
(二)中道
(三)縁起
(四)空見
(五)空と救済
三 我 アートマン
(一)行為主体
(二)アートマン
  (三)アナートマン
四 空と涅槃
(一)我と涅槃
(二)二諦と絶対的な智
五 比較思想的考察
第三節 ナーガールジュナ論の総括
一 有と無の対立とその観察者
二 空・縁起・中道 そして時間
三 現象世界
第四節 インド哲学とナーガールジュナ
一 インド思想とギリシア思想
二 ヴェーダーンタ思想 ブラフマン
(一) シャンカラの不二一元論
(二) 時間という無明と世界の展開
(三)至高のブラフマンと区別の統一 
三 アートマンとブラフマン
 (一) 個人存在とアートマン
 (二) ヴェーダーンタと仏教のアートマン、そしてブラフマン
四 自我のない行為
第四章 西洋の内在と超越・東洋の空と涅槃
第一節 ニコラウス・クザーヌスとナーガールジュナ
一 否定神学の神
二 神の観照
第二節 ルーマン理論と仏教思想
一 ルーマンの仏教理解
二 「キリスト教の神」とルーマン
(一)神の対概念
(二)偶発性の定式
(三)キリスト教とルーマン
第三節 内在の営為と空
第四節 伴われてあること 菩薩とイエス
結論
文献


各章概要

第一章 『身体化された心』の問題提起

『身体化された心』で展開された身体化論の核は、西洋的主客二元論の隘路の問題に対する、仏教哲学の中道の視点の導入の提案であるとの認識の下、当該問題の認知科学の視点からの指摘を本論のテーゼに関わる点において敷衍・考察する。
 第一節では、後述のルーマン理論の立脚点にも関わる、本書における認知主義批判の意味をサイバネティクスの学際的な試みの当初の意図から確認する。さらに科学(学問)と日常の自己の分離の解消に対する現象学的アプローチの功績を認めつつもその限界を認識し中道哲学に至った経緯を、自己自身を含めない反省への批判を通して考察する。同時に本書の仏教理解の問題点も指摘される。
さらに第二節で本書の身体化論の仏教思想への連携を、自己の根拠への問い、五蘊の認知科学的解釈、無根拠性と空、西洋的ニヒリズムとの相違、エナクティヴ・アプローチと無我などの観点において論じる。また、本書で理解される無根拠性概念と第三章で論じる自性概念との相違についても言及する。これらの考察から導出される、内的根拠の希求はすなわち外部規定と表裏一体であるという帰結は、第二章のルーマン理論の考察への架橋となる。

第二章 ルーマンの理論

 多様な視座・分野において論じることの可能なルーマンのシステム理論を、区別と観察の視点が世界をいかに分割するのかに焦点を当て論じる。
 第一節では全ては境界線を引くことによって始まるという観点から主要概念を解釈する。システムと環境、社会、意味、言語、自己、コミュニケーション、オートポイエーシスなどの起点は区別であり、時間により可能となる区別が産出する諸々の差異とパラドックスの様相、さらに差異は再統一を同時に規定するものであるという考察は第二節へつながる。また、かかる理論記述において、「科学システム」という観察様式についてのルーマンの定義をいかに理解するかが鍵となる。学問分野の区別の恣意性は本論のテーゼにも深く関わっている。『身体化された心』の無根拠性の議論によっても指摘された現代科学が土台とする基礎づけ可能性への批判、さらには偶発性についての神学的な意味への言及などによって、これについての本論の立場を明確にする。
 第二節においてはルーマンの宗教理論のアプローチを、超越と内在というコードおよび神概念を中心に、『社会の宗教』などの後期著作の記述を主に参照し考察する。ルーマン理論において宗教システムが意味の区別を問うある意味根源的なシステムであり、本論のテーゼにおいてきわめて重要であることを明らかにする。そして、仏教哲学への関心を表した後期著作の記述の考察によって、キリスト教の教義的神概念に基づく時間・世界観へのルーマンの疑義と、区別が埋め込まれている「空」というシステム理論の側からの仏教理解が、ヴァレーラらの認識と重なる。さらに差異の統一としての「神」概念が、第三章以降の古代インド思想の本質に連関することが示される。

第三章 ナーガールジュナの哲学

 本章ではまず第一・二節において、ナーガールジュナの空の哲学理解のために、西洋・東洋哲学者の解釈を対照させる。中村元による『中論』解説はもとより、ヤスパースによる理解も加えることで第一・二章のルーマンらの仏教思想へのアプローチの位置付けがより明確となる。両者の解釈の本質的な類似と視点の相違は、本論のテーゼに関わる「区別」の根幹をなす。
 第一節ではカール・ヤスパースによるナーガールジュナの哲学解釈について考察する。帰謬法と「空」の思想についての西洋哲学に基づいた読解、および東西の視座の比較について思惟と非思惟、東洋と西洋の自己という観点において論じる。
 第二節は主に中村元によるナーガールジュナ論の記述の論考となる。まず説一切有部との対比の本論に関わる思想的意義、中観派の方法論である帰謬法、そして中道、縁起と「空」の根本的な思想の記述について論じる。さらに『中論』における行為主体概念としてのアートマン、アナートマンの理解は、ヴァレーラらやルーマンの理論との親和性の確認において重要となる。そして、涅槃の理解、二諦の真理についての解釈、比較思想的考察は、西洋思想さらには第四節のヴェーダーンタ思想、そして第四章へと繋がってゆく。
 第三節では前節で明らかにされた縁起や相依性、非有非無の概念から、第四節のテーゼにも関連する時間や自我の問題そして現象世界の把捉について、第一章のヴァレーラらの身体化論、第二章のルーマンのパラドックスの統一の議論と関連づけて総括し、本論の論理的核のひとつとする。
 第四節ではナーガールジュナの哲学のヴェーダーンタ思想への影響、およびそれらと西洋思想との類似と相違を論じる。まず、中村の比較思想の著作を中心に仏教とギリシア思想の自己についての東西比較に言及する。さらにアートマン(自己)とブラフマンが究極的に区別の解消をみるヴェーダーンタ哲学の不二一元論を、無明の現れとしての時間と世界の多様性の展開をみとめる中村のシャンカラ解釈を中心に論じる。最終的にいずれも起源をインド哲学に置くギーターにおける自我のない行為と不二一元論、そしてナーガールジュナの空の哲学が等しく指し示しているのは、自性のものであることが理解される。

第四章 西洋の内在と超越・東洋の空と涅槃

 第一節においてルーマンが区別の理論の礎とするニコラウス・クザーヌスの否定神学とナーガールジュナの帰謬法の類似を指摘する。クザーヌスの観照作用の説明と、把捉されざる真理という指摘は、『中論』の思想と重なる。また、クザーヌスによる知識と叡智の区別は、仏教の二諦と対比されうる。そして仏教の慈悲と否定神学の帰結が収斂する。
 第二節では再びルーマンの宗教理論と仏教理解を第二章、第三章の議論を総括する形で論じる。キリスト教教義とルーマンが記述しようと試みた「神」の区別の相違を、対概念、偶発性の定式、創造という観点から俯瞰する。差異の統一としての「神」概念に再言及し、超越と内在の自己の分離の困難が、区別の相依性という理解によって解消されうるという示唆を得る。
 第三節においては内在の営為としての理論記述とはいかなることかをルーマンの社会理論記述の姿勢を通して考察する。本論の起点であるヴァレーラらの問題提起に対して、複雑な多様性のダイナミックな統一性という意味での理論記述という一つの在り方が示される。記述という区別と一切の区別の止揚という対比が「内在と超越」「空と涅槃」という東西の対比に重ね合わされる。
 最終的にこれまでの考察により、あらゆる区別の生ずる、もしくは擁する「空」という概念によって、洋の東西、自他、学問分野、そして超越と内在といった諸区別を、一つの連関として記述(区別)することが可能となる。非知という生産性の中にあって、内在(現象世界)において可能となる観察・理論記述という区別、その区別においても常に超越に伴われてあるということ、さらその認識を可能にする区別されたものに対する慈悲の必要性は、宗教教義のみならず、生物学的にも社会学的にも到達されうる帰結である。

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