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博士論文要旨

論文題目:資本主義の政治的形態―マルクスの唯物論的国家論―
著者:隅田 聡一郎 (SUMIDA, Soichiro)
博士号取得年月日:2018年11月30日

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序論  
第一章 「国家導出論争」再考—未完の国家批判
  第一節 マルクス主義国家論の系譜
  第二節 「国家導出論争」の背景
  第三節 国家独占資本主義論・後期資本主義論批判
  第四節 「国家導出論争」の意義と問題点
第二章 近代国家とブルジョワ社会—階級論なき国家批判
  第一節 公私の二元主義
  第二節 初期マルクスの国家批判
  第三節 「政治的形態」概念の形成
  第四節 小括
第三章 ポリティカル・エコノミー批判における「政治的形態」規定
  第一節 形態分析による「史的唯物論」の再構成
  第二節 政治的形態の端緒規定—権威・専制・支配
  第三節 「物象の人格化」と法形態
  第四節 法形態と資本主義的生産関係
  第五節 小括
第四章 資本主義国家の経済的基礎—「国家介入」の可能性と限界
  第一節 「国家財政」批判
  第二節 無産国家と「一般的生産条件」論
  第三節 資本の蓄積過程と国家の制度的介入
  第四節 小括
第五章 近代国家の歴史的起源—資本主義国家への移行
  第一節 ポリティカル・エコノミー批判における形態分析と歴史的考察
  第二節 「アンシャン・レジーム」における近代国家の形成
  第三節 「ブルジョワ国家」の可能性と限界
  第四節 小括
第六章 階級闘争と国家形態—「社会国家」の可能性と限界
  第一節 階級闘争の形態分析
  第二節 脱商品化としての社会国家
  第三節 国家形態とアソシエーション
  第四節 小括
第七章 資本主義世界システムの政治的形態
  第一節 政治的マルクス主義の国際関係論批判
  第二節 資本主義的地政学の起源
  第三節 世界市場と諸国家システム
  第四節 小括
補論 国家形態とファシズム-「国家導出論争」におけるファシズム論
  第一節 資本主義とファシズム
  第二節 階級国家論によるファシズム論
  第三節 非ブルジョワ国家としてのファシズム
  第四節 小括
結論
本研究の目的は、1970年代の旧西ドイツで展開された「国家導出論争」を再検討し、マルクスの唯物論的国家論を再構築することである。
これまでのマルクス主義政治理論は、ポリティカル・エコノミー批判としての国家批判というマルクスの問題構成を十分に理解することなく「階級国家論」を展開してきた。そのなかで例外的に、西ドイツで展開された「導出論争」は、エンゲルス以降に体系化された「階級国家論」を批判し、むしろマルクスのポリティカル・エコノミー批判に依拠することで、『資本論』の経済的カテゴリーから政治的カテゴリーを導出しようと試みた。この稀有なアプローチは、20年代の旧ソ連で活躍したパシュカーニスの法理論に由来している。本研究が、70年代の欧米で展開されたマルクス主義国家論争のなかでむしろ傍流にあった「導出論争」を取り上げるのは、その諸成果がマルクス自身のポリティカル・エコノミー批判に肉薄しているからである。また、「導出論争」は、その専門的な研究スタイルのためにスコラ的と論難されてきたが、70年代西ドイツの政治的および経済的危機(「ネオ・ファシズム」の台頭、「社会的市場経済」の動揺、世界通貨危機など)を考慮するならば、国家批判を展開するうえで多岐に渡る豊富な題材を提供していたといえる。例えば、近代的法システムの機能、国家による市場や再生産過程にたいする介入、資本主義に先行する近代国家の起源、階級闘争や階級的力関係、議会制民主主義の限界、主権国家システムといったテーマである。とりわけ、政治システムや政治体制、国家の諸制度などの分析に終始する近代政治学(マルクス主義政治理論を含む)の批判は、論者たちに共通する問題意識であった。したがって本研究は、ポリティカル・エコノミー批判を重視する「導出論争」を再検討することで、マルクス自身が主題化するに至らなかった国家介入の形態および機能を考察している。
 第一章では、エンゲルスをはじめとするマルクス主義者が体系化した国家論から、70年代以降の「マルクス・ルネサンス」のなかで発展した国家論争までの系譜をたどっている。本章では特に「導出論争」の政治的背景やその批判対象である国家独占資本主義論・後期資本主義論について詳細に検討し、マルクス主義国家論の先行研究において看過されてきた「導出論争」の意義と問題点を明らかにした。
 第二章では、ポリティカル・エコノミー研究を開始する前後の初期マルクスの国家論を検討している。ただし本章では、パシュカーニスや「導出論争」が着目した著作のテクスト解釈に課題を限定し、特に『ドイツ・イデオロギー』における「政治的形態」、すなわち「ブルジョワ社会を総括する国家」形態という概念に焦点をあてた。そして、初期マルクスの公私の近代二元主義批判において、すでに「政治と経済の分離および結合」の様式が把握され、政治主義や社会国家幻想にたいする批判が見いだされることを確認した。こうしたアプローチは、初期マルクス研究としては極めて問題をはらんでいるが、狭義の経済学批判にとどまらない国家批判の構想全体を明らかにするためのものである。マルクス自身は政治的国家や市場社会とは区別された、市民社会や世帯(家族)の領域を主題的に考察しなかったが、初期マルクスの公私の二元主義を「資本主義の政治的形態」規定と結びつけることで、市民社会や「サブシステンス経済」を包括するポリティカル・エコノミー批判を再構築していく必要性を明らかにした。
 本研究の中心に位置する第三章では、マルクスのポリティカル・エコノミー批判体系における国家批判を「資本主義の政治的形態」論として再構成した。マルクスのポリティカル・エコノミー批判は、狭義の経済社会を対象とするのではなく、国家を含む資本主義社会システムを総体として分析するものである。マルクスは『資本論』第一巻商品章において、古典派経済学が価値という形態のうちに隠された内容(労働)を発見したにもかかわらず、なぜこの内容が価値という形態を帯びるのかを問うことできなかったと述べている。このポリティカル・エコノミー批判としての「形態分析」は、「資本主義の政治的形態」規定を把握するうえで決定的に重要である。この形態分析によれば、商品、貨幣、資本といった経済的カテゴリーのみならず、法、法律、国家といった政治的カテゴリーも同様に、社会関係の資本主義的形態を表現したものにほかならない。したがって、政治的形態規定の分析は、暴力的支配という内容がなぜいかにして「ブルジョワ社会を総括する」形態をとるのかを解明しなければならないのである。しかし、こうした形態分析アプローチはマルクス主義国家論の系譜において全く理解されず、「政治的形態」規定の分析は根本的に放棄されてきた。それに対してパシュカーニスは、オーソドックスな階級国家論を批判し、国家の内容(階級暴力)ではなく、国家の形態(ブルジョワ社会の総括)を主題化したのである。本章では、こうしたパシュカーニスの問題構成を、マルクスの『資本論』関連草稿を精読することで以下のように発展させている。資本主義社会では、社会的分業および直接的生産過程において人格的な支配・従属関係が解体し、経済的構造において全面的な商品生産関係が成立している。それゆえ、社会構造の政治的形態すなわち国家形態は、経済的構造における分裂した私的利害に対応して「社会から分離した独自の機構を形作る」。こうして、資本主義社会の国家形態は、支配階級によって「私的に」組織されるのではなく、物象化した生産関係から生成した支配・従属関係を外的に補完する「公的」権力として現象する。確かに国家権力は、内容的には階級支配を貫徹させる強制力として理解することができるが、資本主義社会システムにおいて、支配階級によって直接的に行使されるのではなく、形態的には「物象の人格化」という所有関係を総括するよう定められている。さらに、「資本主義の政治的形態」論の主題は、資本主義社会システムにおいて生産関係と支配・従属関係が絡みあう独自の形態、すなわち「法形態」に媒介された独自の支配・従属関係を把握することにあった。しかし、従来のマルクス主義法学は、法形態と法観念(イデオロギー)を区別できないため、商品生産関係から生じる「物象の人格化」が必然的に帯びる法の独自な形態を看過してきた。資本主義社会システムにおける「法形態」は、資本と賃労働の搾取関係を単に隠蔽するイデオロギーではなく、直接的生産過程の内外において諸個人を法主体すなわち私的所有者へと強制する効果をもつのである。こうして資本主義国家は、単なる階級権力ではなく、諸個人を法主体へと強制する法形態を外的に補完する構造的強制力であると結論づけられる。
 第四章では、前章に引き続いて『資本論』と関連草稿の解釈をもとに、無産国家という「資本主義の政治的形態」規定を導出し、国家介入の経済的条件をポリティカル・エコノミー批判の延長線上で解明した。形態分析によれば、ケインズ主義の財政政策との対照において、開発主義政策は「資本の一般的生産条件」を供給する長期的な制度的介入として定義される。他方で国家独占資本主義論は、国家介入(経済活動と社会政策)を独占資本の機能として導出するにとどまったため、国家の制度的介入が本質的には経済的形態規定と素材的条件との矛盾を媒介するにすぎないことが理解されず、国家の政策が資本の機能を果たしうるという社会国家幻想に陥ってしまった。本章では、こうした機能主義的あるいは制度主義的国家把握を回避するために、「導出論争」の形態分析を「形態−素材分析」へと発展させている。
 第五章では、「導出論争」において当時から課題とされた国家の歴史的発展を主題とする。その際、「導出論争」においては看過された、マルクス自身のポリティカル・エコノミー批判の方法にもとづいて、特に「国家の歴史社会学」を批判的に検討する。「導出論争」後のマルクス主義国家論が明らかにしたように、資本主義国家の政治的形態は西ヨーロッパで歴史的に形成された近代国家とは概念上区別される。ポリティカル・エコノミー批判の観点から重要なのは、こうした近代国家の歴史的考察が国家の形態分析を補足するという点であった。確かに近代国家は資本主義的生産様式に先行するとはいえ、資本主義的生産様式の確立と発展にともなって、国家機能が経済的形態規定に制約された資本主義国家へと転化せざるをえない。このように近代国家と区別された資本主義国家の形態規定性を把握することで、資本主義国家に過大な機能や能力を付与する国家中心主義を克服しようと試みた。
 第六章では、「導出論争」の発端となった「社会国家幻想」批判、すなわち「国家の社会政策」の可能性と限界について検討した。その際、本章まで考察対象から除外されていた階級闘争や階級的力関係を主題とし、ポリティカル・エコノミー批判としての国家批判を徹底させている。さらに、現代的に最もアクチュアルな主題である「脱商品化論」を批判的に検討し、長期にわたるアソシエーション社会への過渡期における政治的形態の意義を明らかにした。資本主義社会システムのもとで形成されてくる労働者階級のアソシエーションは、形態分析の観点から「社会国家」の可能性と限界を見定めたうえで、ブルジョワ社会を総括する国家形態それ自体に対抗するコミューン形態を自己組織していく必要がある。
 第七章では、「導出論争」の系譜に位置づけられる「政治的マルクス主義」の国際関係論批判を題材として、資本主義世界システムの政治的形態について考察する。本来のマルクスのポリティカル・エコノミー批判からすれば、「世界市場」を分析することなしに資本主義世界システム総体を分析することはできない。それゆえ、ここでの世界市場と諸国家システムに関する分析は国家批判の枠内における限定的な試みにとどまっている。形態分析アプローチによれば、世界市場において資本が全面的に運動する「資本の帝国」は、諸国家システムという制度によって媒介されている。本章では、諸国家システムという制度的媒介が、なぜいかにして「資本の帝国」の政治的機能を果たしうるのかという問題を提起した。
補論では、第五章以降で「導出論争」の問題点を克服したうえで、「導出論争」の隠れた主題であったファシズム論をポリティカル・エコノミー批判の観点から再検討し、ファシズム体制に代表される階級対立の特殊状況や政治的および経済的危機が、むしろポリティカル・エコノミー批判としての国家批判によって把握されなければならないことを示した。導出論者のファシズム研究が明らかにしたように、「ブルジョワ的公共性」を保証する法治国家に典型的な「政治と経済の分離」が、「政治の優位性」によって外観上どれほど破壊されたとしても、労働者階級のアソシエーションが「資本主義の政治的形態」を克服しない限り、資本主義社会システムは存続しうる。つまり、ファシズムは、資本主義社会システムの根幹にたいする改良主義闘争を暴力的に統制することによって、議会システムという制度的媒介なしにブルジョワ社会を総括的に再生産する政治体制として理解される。
 結論では、以上の考察をふまえて、「資本主義の政治的形態」論のアクチュアリティについて言及した。
 ポリティカル・エコノミー批判としての国家批判は、資本主義社会(世界)システムの理論的分析にとって不可欠なものである。確かにマルクスの形態分析アプローチは、『資本論』第一巻商品章で展開された経済的形態規定(および政治的形態規定)についての一定の見識なくしては理解しづらい。しかし、80年代以降に忘却されていた形態分析アプローチは、21世紀にはいって新自由主義がそのヘゲモニーを低下させ、「資本主義の長期停滞」が政策当局者たちの共通了解となるなかで、現代の資本主義分析においてますます重要になっている。だが、新自由主義的再編とグローバル化の拡大によって、「導出論争」時の70年代と比較して資本の権力が圧倒的に増大したにもかかわらず、マルクスのポリティカル・エコノミー批判、そしてその延長線上にある国家批判はますます軽視されるようになっている。本研究で見てきたように、「資本主義の政治的形態」としての国家は、任意の目的のために活用しうる道具ではなく、物象化した社会的関係における諸個人の能動的関わりによって必然的に再生産されるほかない。したがって、「導出論争」の形態分析を継承するのであれば、国家権力による社会変革ではなく、「国家の内部における、かつまた国家に対抗した」戦略の重要性を強調する必要があろう。つまり、労働過程や再生産過程において貨幣や資本に対抗する経済闘争と同様に、国家権力と直接対峙する政治闘争のみならず、日常的な社会生活において国家の諸制度にたいして関わることそれ自体が階級闘争のアリーナなのである。じじつ、現代ドイツの唯物論的国家論者たちは、ラディカルな改良主義という変革構想を打ち出している。その急進的かつ改良的な社会変革は、第六章で見たように、アソシエーション社会への長期にわたる過渡的過程を前提とするものであって、商品や貨幣、資本といった経済的形態規定のみならず、法や法律、国家といった政治的形態規定を漸次的に解消することを目的とする。この「ラディカルな改良主義」とは、それらの社会的形態規定を克服するために、経済的形態規定と素材的条件との矛盾を媒介する国家諸制度を改良する諸実践を意味している。ただし、この「ラディカルな改良主義」戦略において、国家や現存する諸制度をめぐる政治闘争の重要性は否定できないにもかかわらず、それだけでは社会的形態規定を克服することはできない。つまり、この変革戦略は、国家や現存する諸制度をめぐる政治闘争に終始することなく、「資本主義の政治的形態」から独立した政治的自己組織化を新たに創造していく必要性を示唆している。

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