博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:江戸幕府の役職就任と文書管理
著者:吉川 紗里矢 (KIKKAWA, Sariya)
博士号取得年月日:2018年7月31日

→審査要旨へ

1. 本論文の構成
序章 研究史の整理と本論の課題
第一部 近世中後期奏者番・寺社奉行における役職文書と寛政改革
第一章 近世中後期における奏者番の役職文書と師弟関係 ―九冊物と新役手留を中心に―
 第一節 近世中期における晴儀の継承と師弟関係
 第二節 近世中期における奏者番の記録作成と先例集
 第三節 近世中後期における奏者番の師弟関係と手留
第二章 近世中後期における寺社奉行の制度改革と文書管理 ―寛政改革期を中心に―
 第一節 近世中期寺社奉行就任における文書引継と役人間交際
 第二節 寛政改革期における寺社奉行の制度改革
第三章 近世後期における寺社奉行吟味物調役の成立と昇進
 第一節 寛政改革期における寺社奉行吟味物調役の成立過程
 第二節 近世後期における「調役」の昇進過程とその手続
補論  松平定信における「勤例集」の編纂と大名間交流
 第一節 「勤例集」の概要
第二節 「勤例集」の諸本と大名家の伝来
第三節 松平定信における儀礼記録の貸借と同席大名との交流
第二部 近世後期大名役の役職就任と文書管理
第四章 天保期老中における文書管理と幕府人事 ―『御覚之控』を中心として―
 第一節 近世中後期における『御覚之控』の内容と諸本
 第二節 天保期老中における新人と『御覚之控』
 第三節 天保期水野家における『御覚之控』の収集と編纂
 第四節 『御覚之控』における人事決定過程
第五章 天保期老中における手留の伝達と文書管理 ―水野家・真田家を事例に―
 第一節 水野家における老中手留の伝授と管理
 第二節 真田家における老中手留の収集と管理
第六章 慶応期幕府奏者番における師弟関係と手留管理
 第一節 慶応期における奏者番の就任状況と師弟関係
 第二節 伝達の「目録」と管理の『目録』からみた新役
 第三節 『目録』・箪笥・朱筆メモ・帯封の相互関係
終章 

2、先行研究の成果と課題

 本論文は、近世中後期における江戸幕府の役人が、いかに役人となり、どのように文書を管理したのかという問題を、大名家文書から解明しようとするものである。
前者の問題は、主に職制史の分野で検討された。1970年代に美和信夫氏が、『柳営補任』や『德川実紀』といった編纂物を用いて、役職者を数量的に分析し、昇進コースを解明した。その後、馬場憲一氏や近松鴻二氏も用いたように、美和氏が提起した研究手法は定着していった。その一方で、朝尾直弘氏が、幕政史で多く利用された上記の編纂物を史料批判した。これにより、政治史や職制史では、「江戸幕府日記」を始めとする一次史料に基づく研究が進んだ。80年代には、水林彪氏や山本博文氏、藤井讓治氏が、幕府や藩の「官僚制」(家産官僚制)を論じた。ここで、山本氏は、昇進コースの存在を根拠として、江戸幕府にも、前近代社会において高度な「合理的」性格を備えていたと評価した。また、藤井氏も幕藩官僚制を論じた。そこでは、昇進コースを提示することで、幕藩官僚制下の昇進制は、階層的な制約をもちつつも、断絶することなく、構造的に取り組まれていたと主張していた。このように、職制史と幕府官僚制論、双方の分野においても、幕府役人の昇進コースは、重要な要素として取りあげられていたといえる。近年でも、山本英貴氏が一次史料に基づく大目付の数量的分析を行っていた。そのため、「昇進」に関する研究手法は、現在においても継承されているといえよう。
ところで、藤井氏は幕藩官僚制論のなかで、将軍や藩主が究極的に任免権を握っていたという見解を示していた。近年では、こうした「任命」に関して、幕府儀礼と文書処理という二つの方向性から研究が進められた。まず、幕府儀礼面から、深井雅海氏が役職任命式の研究を行い、将軍による任命式と老中による任命式との二形式を提示した。また、今日では、任命式での将軍の言葉を収録した「御意之振」にも分析を広げている。つぎに、文書処理の面から、福留真紀氏や山本英貴氏による離任と就任の手続に関する研究がある。これらの研究は、上役が下役の任免に深く関与していたことを示している。
 後者は、史料学で取り扱われた問題である。70年代には、大名家文書を素材とした古文書学的な研究が行われるようになった。その代表例として、松平秀治氏の老中日記研究がある。松平氏は、現存する老中日記の悉皆調査を行い、役職日記に基づく研究を新たに打ち立てた。80年代以降の近世史料学は、それまでの古文書学的研究を深化させるとともに、アーカイブズ学的研究へと進展していった。笠谷和比古氏は、大名家文書を、藩侯の文書と藩庁の文書に大別した。また、大石学氏は享保改革期の文書政策を文書管理の視点から捉え直した。さらに、大友一雄氏は奏者番・寺社奉行・老中を素材として、文書の管理と伝達に着目し、画期的な成果をあげた。すなわち、①近世後期の幕府役人は、膨大な文書を作成・管理したことで、滞りなく役職運営を可能にしたこと、②役職就任日から、新人は師弟関係や当番を介して、文書を伝授したこと、③それらの文書は、享保改革期以降に整備されたこと、④これらの幕府役人は、単に藩主のみの活動だけでなく、藩臣の力によって支えられたこと、を明らかにした。大友氏の研究は、本格的に検討されてこなかった役職者の家に伝わる文書を用いて、その文書の引継と管理の有り様を解明したものだといえる。最近では、高橋実氏や戸森麻衣子氏によって、寛政改革期における江戸幕府の文書政策を論じている。
以上のように、職制史と幕府官僚制の研究では、「昇進」に重点が絞られたため、研究者にとって、役職就任とは就任日を指し、就任した時点である以上の意味をもたなかった。いいかえれば、「いかにして彼はこの役職になったのか」という、人事決定過程の問題を看過していた。近年、「任命」に関する研究が、この問題を断片的に解明している。しかし、役職任命式と文書処理との関係性を追究することで、総合的に役職就任を明らかにする必要性がある。一方、役職者の家に伝わる文書を史料とした研究では、いつごろ文書伝達のしくみが行われ始めたのか、同一の文書をそれぞれの役人が伝達していたのか、というような問題を、近世を通じて考察していく必要があろう。

3、本論文の課題設定と方法

 本論文では、笠谷氏の分類を参考にして、幕府役職に関わる文書に、役所文書と役職文書の二類型があると想定した。このうち役所文書は、江戸城や奉行所といった場で、役人による共同の管理をしていた文書である。その対極には役職文書がある。これは、役人が作成し、自身の家で管理をしていた文書であり、前述の大友氏が対象とした史料が、この役職文書である。本論文でも、大名家文書に存在する役職文書を中心にして、奏者番・寺社奉行・老中を事例に検討する。奏者番と寺社奉行の役職は、老中への昇進過程の役職であり、すべて江戸で勤務する大名役である点で共通している。具体的に検討したのは、浜松水野家、松代真田家、福山阿部家、篠山青山家、龍野脇坂家、土浦土屋家、高遠内藤家、館林秋元家、田原三宅家、六浦米倉家、長岡牧野家、白河松平家が作成し保管した役職文書である。また、役職大名を支えた藩臣の記録としては、土浦土屋家家臣の安藤家、上田松平家家臣の加藤家も検討した。本論文はこうした史料群を素材として、①寛政改革期の文書政策に対する寺社奉行・奏者番の対応を明らかにし、②幕府役職の昇進決定過程と役職任命式の実行という職制史上重要な人事の根幹に当たる部分を考察した。

4、本論文の概要
 
序章は、職制史研究と役職文書研究に関する研究史を整理したうえで、寛政改革期における文書政策と人事決定過程についての諸問題をあげた。
 第1章では、『九冊物』や『幕府日記』、手留といった奏者番の役職文書を事例に、近世中期から幕末期における役職文書の歴史的変遷を追究した。その結果、綱吉期と家斉期が画期となっていたことが明らかとなった。まず、「九冊物」と呼ばれる奏者番の編纂物を分析した。そこから、綱吉期では、奏者番から老中への昇進過程が定着するとともに、奏者番の記録作成と師弟関係が始まったことが判明した。ついで、36例にもわたる師弟間の手留伝達を分析した。その結果、家斉期から家茂期まで、師範が新役に手留を伝達するようになった。また、この新役手留を長期的に検討した結果、新役は彼の師範の手留を継承する傾向があった。そして、その継承法には、代々自身の手留を追加する系統と、内容や数量を制限して最新の手留に更新する系統が存在したことを指摘した。
 第2章では、近世中期から後期に至る長期的な視点から、寛政改革期における寺社奉行の文書政策を論じ、株筋文書の解明と変遷、松平定信の文書政策に対する寺社奉行の対応、役人間交際の問題を考察した。寛政改革期の文書政策は、経費の削減と格式の強化を目的とした倹約令の影響を受けて、料紙や交際の規制から始まった。定信の書付を契機に、寺社奉行内部でも文書に関する検討が行われ、株筋文書の追加にまで至ったことを指摘した。
 第3章は、寺社奉行配下の幕臣役職である寺社奉行吟味物調役(以下「調役」と略す)の成立と昇進を論じた。まず、定信は、老中就任時から寺社奉行と評定所留役との関係に不満をもち、評定所留役が寺社奉行の裁判における主導権を握っており、古様を害していると問題視していた。その後、定信は天明8年(1788)に寺社奉行手附を任命し、寛政3年(1791)には寺社奉行支配留役を再び命じた。これらは、定信が寺社奉行の求めに応じた結果であるけれども、定信自身は最後まで寺社奉行の自立を望んでいたことがわかった。ついで、「調役」久須美祐明(1771-1852)の昇進活動を事例に、人事決定過程を追究した。久須美は上申書を介し、「調役」→寺社奉行→老中からなるラインで嘆願していた。最終的には、寺社奉行脇坂安董(1767-1841)が若年寄林忠英(1765-1845)に交渉することで、西丸納戸頭に昇進できたことを明らかにした。
 補論では、老中就任以前の松平定信を事例に、殿席関係文書の編纂物『勤例集』を論じた。本論文で取り扱う役職大名の文書との比較のため、無役の殿席大名における文書作成を考察する必要性があったからである。近世中期には、殿席大名も江戸城内の儀礼情報を記録するようになった。それゆえ、定信が同席大名から、儀礼文書を収集して『勤例集』の編纂を可能にしたことを指摘した。
 第4章では、近世後期の老中が、いかに役職任命式や人事決定過程に関与していたのかについて、『御覚之控』を用いて検討した。まず、『御覚之控』は、主に「御覚書」という書付を収録した老中の役職文書である。「御覚書」は、①月番老中・若年寄が作成、②月番老中が御側御用取次を介して将軍に提出、③江戸城で役職任命式を開催といった行程で用いられた。つぎに、天保改革を推進した水野忠邦(1794-1851)も、同僚から『御覚之控』を収集しており、それをもとに『御覚分類』を編纂した。そして、『御覚之控』に収録された「伺書」から、大名役の人事に関しては老中の「伺書」で決定したことが明らかになった。さらに、「伺書」の受理後に「御覚書」が提出された。このことから、「伺書」は将軍に人事採用案を伺う書類であり、「御覚書」は正式な任命を通達し、儀式を用意させる書類であることを解明した。
 第5章は、天保期の水野忠邦や真田幸貫(1791-1852)を事例に、老中における手留の伝達と管理に関して論じた。奏者番の手留は近年注目されているが、老中にも手留があり、その文書管理史的意義を考察する必要がある。水野家・真田家はともに天保期に老中を輩出した家であり、いずれも老中手留を目録や簞笥、帙などで管理していた。また、老中就任日における老中手留の伝達に関しては、老中間とその家臣である案詞奉行間で行われたことを明らかにした。この2回の手留伝達は、奏者番手留にはみられず、老中手留の特徴といえる。
 第6章では、慶応期の奏者番秋元礼朝(1848-1883)が、就任から離任後までの期間において、どのように手留管理が行われたのかを歴史的に考察した。特に、役職就任直後の状況、師弟間の文書伝達、伝達の「手留目録」と管理の『手留目録』の分析、『目録』・箪笥・朱筆メモ・帯封の相互関係を明らかにした。
 終章では、本論文の内容を総括し、今後の課題と展望について述べた。


5、本論文の成果と課題

(1)本論文の成果
①寛政改革期における奏者番・寺社奉行の文書政策
 本論の検討により、寛政改革期の文書政策には、奏者番による手留伝達の開始と、寺社奉行における新たな株筋文書の追加があった。それらは、就任者に対する文書引継の徹底化という点で共通していた。こうした文書は、役職文書のように、個別の藩邸で管理された面もあった。だが、系統的に後任へ継承されていくという異なる性格をもつ。それゆえ、大名家文書にある役職文書のうち、新役手留や株筋文書を「引送文書」と名づけ、それ以外の文書を「職務文書」と呼ぶことにした。本論文の結論として、役所文書・引送文書・職務文書からなる大名役文書の三類型を提起した。寛政改革期は、蓄積された職務文書から重要文書を選定し、新たに引送文書として採用・拡充した時期であったといえる。

②人事決定過程と役職任命式
 本論文は、先行研究では不十分であった江戸幕府人事の解明を行い、老中の「伺書」や諸役人の上申書を通す決定過程と、月番老中の「御覚書」を介して役職任命式が行われる確定過程に分けることができる。それにより、近世後期の江戸幕府では、将軍抜擢型の人事よりも、老中や諸役人からのボトムアップ式の人事で遂行される場合が多かったと考えられる。特に、大坂定番や奏者番といった大名役の場合では、老中は「伺書」と「御覚書」双方の作成者であったため、人事の面からも重職であったといえよう。

(2)今後の課題
 まず、役職文書に関しては、本論で提示した歴史的変遷や三類型を更に検証しなければならない。そのためにも、寺社奉行や老中における役所文書の研究を深めつつ、他の幕府役職における役職文書の発掘と研究をする必要性を感じている。つぎに、寛政改革期における寺社奉行の動向については、文書政策とともに、役人間の交際を制限する「贈物改革」も進行していた。今後は、文政期以降の「贈物改革」にも分析を進めることによって、役職経費の問題から藩財政研究に貢献することも可能であろう。そして、人事決定過程についても、その他の役職や時代での事例を明らかにすることも、今後の課題である。最後に、こうした役職文書のシステムが、どれほど近代に継承されたのか、あるいは断絶されてきたのかという、重要な問題も残されている。江戸幕府からの直接的な影響ではなくとも、西国雄藩や代官所、村や町といった組織でも、文書は引き継がれていた。それゆえ、この問題に対しては、そうした視点からも検討すべきであろう。

このページの一番上へ