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博士論文要旨

論文題目:情報サービス産業における労働過程の編成とマネジメントに関する実証研究―労働者の労働過程への「関わり」と自律性に着目して―
著者:三家本 里実 (MIKAMOTO, Satomi)
博士号取得年月日:2018年6月30日

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序章
 本稿の目的は、ハリー・ブレイヴァマンの労働過程論にもとづき、情報サービス産業における労働過程の編成と、そこでの労働者の労働過程への「関わり」を実証的に明らかにすることにある。
ブレイヴァマンが指摘するように、資本主義社会における労働過程は、それ以前の社会の労働過程からその性格を大きく変質させられており、このことは労働それ自体の変質をも意味している。こうした特徴を理論的に把握したうえで、現実の労働過程に目を向けることで、長時間労働の発生やパワー・ハラスメントの横行などに象徴されるように、なぜ今日ほど労働者が弱い立場に置かれているのかを説明し、抵抗の契機を探ることができるのではないかと考える。

第Ⅰ部
 第Ⅰ部は理論編として、ブレイヴァマンの労働過程分析を参照しながら、資本主義的生産における労働過程の特質を分析する。彼の労働過程論は、テイラーの科学的管理に重要な位置付けを与え、労働過程がどのように資本家によって統制されていくのかを明瞭に描き出したのだが、これにたいする批判も多い。本稿では、そのなかでもアンドリュー・フリードマンの「責任ある自律Responsible Autonomy」に着目し、ブレイヴァマンの理論との相違点を探った(第1章)。
そのブレイヴァマン自身の分析において、労働過程に対する眼差しは、カール・マルクスから大きな影響を受けたものである。したがって、マルクスの「資本のもとへの労働の形態的包摂」、ならびに「資本のもとへの労働の実質的包摂」の概念を正確に把握しながら、ブレイヴァマンが「マネジメント」をどのように位置づけたのか示した(第2章)。マネジメントとは、端的には、労働者から生産に関する知識や技能を剥奪するための手段である。
 そして、ブレイヴァマンによるテイラーの科学的管理分析のうち、第三原理である「課業task」概念に着目し、その本質的意義について、第一原理、第二原理との関係において再考した(第3章)。この課業概念は、労働過程中になすべきことをあらかじめ計画することを意味しており、第二原理までで分離された労働過程における構想と実行を再統一し、生産を成り立たせるにあたって適用される。この第一原理から第三原理を通じてマネジメントの機能を正確に捉えていくと、フリードマンのResponsible Autonomyの位置付けが明確化される。本稿では、労働者が業務遂行にあたって発揮する自律性を、労働者にとっての「自律性」と資本家にとっての《自律性》の2つに区別するのだが、フリードマンのいう自律性は、まさに後者を指している。それは、あくまでマネジメントの一環として付与された《自律性》であって、労働者が自身の知識にもとづき「自律的」に労働過程における決定を下している状態ではいない。こうした2つの自律性という視点を通して、第Ⅱ部において、現実の労働過程にたいする労働者の関わりを分析することが可能となる。

第Ⅱ部
 第Ⅱ部は実証編として、情報サービス企業を対象に、そこでのマネジメントの表れと労働者の労働過程への関わりについて明らかにする。まず、第Ⅱ部における分析の前提として、第Ⅰ部を通して生まれた新たな問いを示し、関連する先行研究の精査と、分析対象の提示および仮説の設定を行った(第4章)。ここでの新たな問いとは、労働者が労働過程における技術的な知を自ら管理する、現実的なモメントがどこにあるのかという視点から、労働者がどのような技能を習得しており、それが労働過程への関わりにどういった影響を与えるのかというものである。
こうした問いに応えるために、本稿では、①長時間労働の蔓延など、労働環境の劣悪さが目立ち、②製造業と通ずる側面がある一方で、自律性の高い労働者の存在がその象徴とされ、③物体として存在しない商品を生産するという業務特性を持つ情報サービス産業が対象として適切であると判断した。これを踏まえ、本稿における仮説は、以下の3点である。(1)情報サービス産業では、労働過程において分離された構想と実行を再統一する際に、課業を媒介させることが相対的に困難なのではないか。(2)そのため、《自律性》の付与というマネジメントの手法が、必然的に求められているのではないか。(3)このマネジメント、およびそこでの技能形成を通じて、(a)労働者が「自律性」を獲得することにつながるか、もしくは(b)労働者が知を取り戻すことには結びつかないという、どちらかの現象が見られるのではないか。
 この仮説を検証するにあたって、まず情報サービス企業の経営者へのインタビュー調査を行い、どのように労働過程を統制し、教育訓練を通じて労働者に技能を付与しているのかを分析した(第5章)。調査対象とした下請にあたる中小企業のマネジメントは、扱う製品やサービスの性質、また取引先企業からどのように仕事を受注しているのかに規定されている。どのような作業が必要であるか、またそれを遂行するために労働者にはどのような技能が求められるのかといったことが、あらかじめ取引先企業によって決められている場合(【分割】)、それに応じて管理者から労働者への指示の出し方は、詳細な指示を与えるようなものとなる。一方、新たな製品の開発や、受注生産においても比較的広い範囲を請け負う場合には、上記の事項が必ずしも取引先企業によって定められていない(【一括】)。ここでの指示の出し方は、求める成果物や納期のみを伝えて、あとは労働者の裁量に委ねるというものとなる。
このように仕事の受注の仕方と労働者への指示の出し方とは結びついているのだが、本稿の調査では、何をすべきかすでに決定されている【分割】の世界において、労働者に「+α」の働きを求める、つまり《自律性》の発揮を求めるマネジメントも確認された。こうして、たんに命令に従って業務を遂行する次元から、自ら進んで管理者の要求に応じるように労働者主体を作り替えようとしていることが示された。
 次に、こうしたマネジメント下にある労働者は、実際の業務遂行にあたって、労働過程にどのように関与しているのか、インタビュー調査を通じて分析を行った(第6章)。そのなかで、労働者は細分化された業務の一部を担当するため、仕事の受注から納品までの「全体像の把握不可能性」が高く、また「決定権の非所有」という状態に置かれていることが明らかとなった。後者は、仕事の進め方や順序、チーム内での調整に関する決定権は有しているものの、人員の増減や全体スケジュールの変更といった費用の発生する事項については権限を持たないことを意味している。したがって、労働者は実際の生産に従事しているにもかかわらず、労働過程にたいして主体的・能動的に関与してはいない。加えて、生産の都合に労働者の方が適用するよう、労働のあり方が変質している事例が確認された。
その一方で、指揮命令のあり方は、大枠を提示して、その枠内で労働者自身に考えさせるようなものとなっていた。これは、先に示したように、「決定権の非所有」状態に置かれていながら、仕事の進め方やどんなコードを書くかといった点については、労働者が決定していることを意味している。つまり、労働者は実質的な決定権を有していないにもかかわらず、自身に決定権があるかのような状態に置かれているのである。このことはたんに「見せかけられている」という次元にとどまらず、マネジメントが労働者の主体性や自発性といった要素に働きかけることによって、資本にとっての《自律性》を発揮するような、実際の行為を引き出している点が重要である。
そして、経営者インタビュー・労働者インタビューを通じて明らかとなった、情報サービス産業におけるマネジメントの特徴と、そのもとでの労働者の業務遂行から、労働者の労働過程への関わりがどのように制限されているのか分析を行った(第7章)。まず、個々の労働者には、限られた範囲内でしか生産に関する決定権にアクセスすることが認められておらず、加えて、自身の携わる開発業務の全体像を把握することができない。こうした事態をもって、労働者にとって労働過程は、「資本のもの」、あるいは「他人のもの」として存立し、それに主体的、能動的に関わることのできないものとなっていた。しかしながら、そうは言っても、生産に実際に従事しているのは労働者である。つまり、現象としては、労働者は「自分のもの」として、労働をとり行っているのである。こうして、資本主義的に編成された労働過程においては、労働者は生産手段や労働過程そのものにたいして、「資本のもの」として関わると同時に、「自分のもの」としても関わっている。
そして、こうした両者の絡みあいに、《自律性》を付与するというマネジメントが加わることによって、労働過程が「資本のもの」の次元において、労働者が「自分のもの」として労働過程に関与しているかのような状態が作り出されていると考えられる。このことは、「資本のもの」としての関わりが強化されていることを意味しており、そのように労働者が労働過程に関わり続けることによって、それを「資本のもの」とする関係が再生産されているのである。
ここで、労働者の労働過程への関わりを、実質的な意味において「自分のもの」へと引き寄せる方途を探るために、労働者が管理者からの指揮命令を受動的に受け入れるのではなく、抵抗している事例を取り上げ、その条件について分析した。本稿の調査においては、過大な業務命令を受けた際、業務量から見積もって必要な期間を与えるよう交渉するものと、提示された期間内に要求の水準を抑え込むものとが確認された。とくに後者の場合、限られた領域であるという制約はあるものの、労働者の側に生産に関する知が帰属していることがその背景にある。つまり、技能形成を通じて、労働者が労働過程における技術的な要素を獲得しているほど、抵抗、ないし交渉の次元が上昇するのである。ただし、ここでの抵抗は、結局は管理者からの命令に従う可能性が示されている点で、労働過程が「資本のもの」であることを覆すような、根本的なものではないことも、同時に明らかとなった。したがって、労働者が《自律性》を発揮することが、自ずと「自律性」を獲得することへと結びつくわけではないのである。

終章
 本章では、第4章で示した仮説を検証し、情報サービス産業における労働過程と労働者の関係について、最終的な見解を示した。まず、仮説(1)については、これが当てはまる業務と、当てはまらない業務に分かれた。それは、発注元企業との取引関係に大きく規定されており、本稿では、前者を【一括】、後者を【分割】として区別した。仮説(1)が当てはまる前者については、事前にどのような作業がどれほど必要となるのか、計測し、計画することが難しいという業務特性に起因している。ここから、実際のマネジメントは、最終的に求める成果物や期限といった大枠を提示して、そのなかで労働者自身に考えさせる余地を与えるようなものとなって現れている(Responsible Autonomy)。これが仮説(2)である。一方、仮説(1)が当てはまらない場合のマネジメントは、詳細な指示を労働者に与えるようなものとなっていた(Direct Control)。
そして、《自律性》が付与されるようなマネジメントが採用されている場合、労働者の労働過程への関わりはどのようなものとなっているのだろうか。それは、「自分のもの」と「資本のもの」としての関わりから、「資本のもの」へのそれに強く引き寄せられていることが示された。つまり、《自律性》を発揮することを通じて、労働者は労働過程にたいする「自律性」を取り戻すことにはならないということが明らかとなったのである。仮説(3)でいえば、(b)が該当する。
しかしながら、こうした結果をもってしても、資本の側が労働過程を完全に掌握するには至っていないことが、労働者による抵抗の事例から示されていると考えられる。さらにいえば、《自律性》を付与し、労働者主体を作り替えようとしている点から、それほど強力に介入しなければ、労働過程を「資本のもの」として成り立たせ、それを維持することは難しいことがわかる。ここから、労働者による生産の全体像に関する知を獲得しようとする取り組みを通じて、真に自らの決定によって労働過程を統制する道が開かれるだろう。
 以上のような本稿の分析が、既存の労働過程論に貢献できる点を挙げるとするならば、それは、ブレイヴァマンの労働過程論を再考し、「自律性」と《自律性》の2つの概念を示したことで、労働者の労働過程への関わりにたいする視点を獲得した点にあるのではないだろうか。ただし、資本主義的生産における特質を浮き彫りにするために、労働過程そのものに焦点化したため、労働者の行為をめぐるさまざまなアクターの動きや制度の機能についても考慮することが、今後の課題となるだろう。また、本稿では、労働者が「自律性」を獲得しうるような前提条件を示したが、そのためにはどのようなキャリア展開が求められているのかも同時に示す必要があると考えられる。

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